第28章 大陸出征再び
たった一つの書状を巡って、久々に開催されたブリタニア元老院は大いに紛糾した。
「この時期にアルトリウス総司令官を引き抜いて遠征に充てる余裕が我々にあるのか!」
「何が独立を承認した、だ!我等は見捨てられたのだぞ、おためごかしも程々にしろ!!」
「見返りが疲弊したアルモリカ属州の統治権とは聞いて呆れる、法外な要求をして向こうが断ればこちらも断ればよい!」
「派遣断固反対!ここは一気にサクソン人どもと決着をつけるべきである!」
「しかし、アルトリウス総司令官が打ち破ったとはいえ、直ぐにサクソンと決着を付けるのは不可能でしょう・・・」
「それを理由に派遣を断ればどうじゃな?」
「・・・しかしこの手紙は、派遣要請を無視すれば交易遮断を匂わせている、そうなれば我々は早晩立ち枯れてしまう。」
「兵を引き抜かれては防衛もままならん!交易云々よりも先にブリタニアがサクソンの手に落ちてしまうわ!」
「サクソンはアルトリウス総司令官とアルマリック卿に手酷く叩かれて、しばらくは手を出してこないだろう、逆に遠征するならば今の内ではないか?」
「遠征にかかる諸経費や補給はどうするのだ?現実問題として遠征は可能なのか?不可能であればそれを口実に断ると言う手もあるのでは?」
「・・・いかな理由をつけようとも、断ってしまえば交易が遮断されるのであれば、兵は出さざるを得まい、少数の兵でお茶を濁すと言う手は取れないか?」
「無理だろう・・・はっきりとアルモリカ属州の統治権を寄越す代わりにその防衛に見合う兵と指揮官をと記されている、小数では無理だ。」
「サクソンとのカタを付けてからではいかんのか?」
新都市の元老院議場ではブリタニアの有力者達によって、かつての本場ローマ元老院もかくやという侃々諤々、喧々囂々の議論が繰り返される。
総督席に座るアンブロシウスは、改めてブリタニアへ送られてきたガリア上級総督コンスタンティウスからの手紙を開いて目を通した。
『ブリタニア総督府 総督代行職 アンブロシウス・アウレリアヌス・カストゥス殿
親愛なるブリタニアの指導者に本状が届くのは無類の喜びである。
さて、諸兄らは西ローマ皇帝ホノリウス陛下より独立の承認を得ながらも、ローマの文化と習俗、法と秩序を守るべく軍を養い、勇敢にも襲い繰る蛮族との激しい戦いを繰り広げ、犠牲を厭わず破壊と無秩序に立ち向かっていると聞いた。
そこで勇敢な諸兄にガリアへ差し迫った危機を打開すべく助力を頼みたい。
アンブロシウス殿にはブリタニア総督並びにアルモリカ総督の地位を授け、両総督の地位継承については自由裁量に任せる事とする。
但し、アルモリカ属州に派遣されたブリタニアの諸官に対する指揮権は一義的にガリア上級総督に属するものとし、アルモリカ属州の平和は、農民反乱とアラン族、ゴート族によって脅かされている現状があることから、これを打破し、属州防衛と統治に安定をもたらす事が可能な能力を持った総督代行と司令官及び軍の派遣を願いたい。
西ローマ各地で活躍するブリタニア船の勇姿が今後も目に出来る事を期待する。
西ローマ帝国軍総司令官 ガリア上級総督 コンスタンティウス 』
書状を読み終えたアンブロシウスは深いため息を付く。
「ローマに気を使った結果がこんな形で跳ね返ってくるとは、政治は奥が深い・・・」
「・・・感心しておる場合か、元老院を召集してくれと言うから召集はしたが、どうするのじゃこの混乱の決着は?」
アンブロシウスの隣で議長席の椅子に座るカイウス・ロングスブリタニア元老院議長が、白い長杖を肩にもたれ掛けさせ、自分の両膝に両肘を付いただらしない格好で問いかけてきた。
混乱で蜂の巣をつついたようになっている議場内を心底呆れた様子で見回すカイウス議長にアンブロシウスはもう一度ため息を付いてから答える。
「とりあえずは、議論が出尽くすのを待つしかありません、それから具体的な数字を示しながら説明をしてゆきます。」
「・・・ふむ、そうか・・・まあ、もうしばらくすれば少しは落ち着くじゃろうが・・・」
カイウスがそうつぶやくと、元老院議員として議論に参加していたアルマリックが自席から立ち上がり、激論を交わし続ける議員達の合間を縫ってアンブロシウスの下までやって来た。
「総督代行、そろそろ収拾をつけては如何か?」
「そうですね・・・」
幾分か議論も下火にはなってきており、議員達の声量も落ちてきていたため、アンブロシウスは頃合と見てカイウスに目で合図を送る。
カイウスは重々しく頷くと、大理石の床をだらしなく持たれかけさせていた長杖で力いっぱい3回打った。
どんどんどん
議論に興じていた元老院議員達が、ざわめきとしわぶきを残しつつも一斉に議論をやめ、自席に就き始めるのを見て取り、アルマリックもアンブロシウスに目配せを残しながら自席へと戻った。
「聞け!議員諸君、アンブロシウス総督代行から話がある!」
カイウスが議長として場を収めるために左手を上げて注目を集め、アンブロシウスの話が始まる事を告げると、再び議場がざわめく。
どん
「静粛に!!」
カイウスが私語を始めた議員達を注意し、議場が静まるのを確認してからアンブロシウスはおもむろに席から立ち議場の中央へと進み出た。
「栄えあるブリタニアの元老院議員諸君、ブリタニアの将来を慮っての盛んな議論にまず敬意と称賛を送りたい、ありがとう。」
まず賛辞を送った、アンブロシウスは言葉を切り議場の反応が好ましいものである事を確かめてから、口を開く。
「この件については、はっきり言ってガリア上級総督の驕りと身勝手以外の何物でもない、我等ブリタニアは西ローマに見捨てられ、独力で法と秩序を蛮族の破壊から守り、維持してきた、我等は自由であり何者の命令にも従う必要は無い、独立を認められたのではない、独立してやっていく他の道が我々には無かったのだ、それをあたかも独立を認められたが故に発展したのだと言わんばかりの物言いには、断固として抗議する!」
アンブロシウスの力強い言葉に、議員たちは拍手で答えた。
「しかし、議員諸君!西ローマに逆らい、交易という我々の生命線を止められてしまうとブリタニアが立ち行かなくなるのも事実、また残念ながら、今のブリタニアに西ローマ帝国と連携してゆく他に生きる道は無いのも事実である、それゆえにアルモリカ派兵は受けざるを得ないだろう。」
今度は議員達が静かにざわついた。
議員達も、西ローマ帝国の要請が横暴であっても受けざるを得ないと言う事は理解していたのであるが、感情としては身勝手な要求を頭ごなしにして来たコンスタンティウスに腹を立てていた。
ガリアでの主導権と指揮系統をはっきりさせておこうと言う意図があるのは窺えたが、それにしてももう少し表現の仕方があるだろうというのが大半の議員達の気持ちである。
「具体的には誰をどの位の期間派遣するのだろうか?」
アルマリックが質問を投げかけると、アンブロシウスは直ぐに答えの言葉を発した。
「ブリタニアの台所事情と艦船の集結状況から鑑みるに、兵5000をアルトリウス総司令官に率いて貰おうと思っている、期間は・・・アルモリカが平定されるまでだ。」
議員達のどよめきが大きくなる。
「・・・アルトリウス総司令官でなくてはいかんのか?他の将官ではダメなのか?」
年かさの議員が心細そうに、すがるような表情でアンブロシウスに問う。
「5000という決して十分とはいえない兵力で確実に勝ちを治めるには、アルトリウス以外には考えられません、幸いこの間の合戦でサクソン側に少なくない損害を与えており、今の所新たな侵略の動きはありませんから、逆に今を逃せばガリア上級総督の意に沿う形での派遣は難しくなります。」
「・・・そうか・・・」
年かさの議員はアンブロシウスの言葉を聞いてそれだけ言うと、理解はしたが納得は出来ないという様な曖昧な表情で下を向いてしまった。
それを合図にしたかのように、ざわめきは収まり、ブリタニアの元老院議員たちはみな沈痛な面持ちで黙りこくってしまう。
誰もが西ローマ帝国の理不尽な要求に憤りを感じると共に、その要求を突っぱねるどころか、黙殺する事すら出来ない現実に打ちのめされてしまったのである。
誰も発言をためらうような議場の雰囲気の中、自席に戻っていたアルマリックが静かに立ち上がり、周囲の元老院議員を見回すと、おもむろに口を開いた。
「・・・元老院議員諸君、何もそう悲観する事はあるまい、あのアルトリウス将軍が率いる軍が負ける事はあり得ない、きっとアルモリカを平定して無事帰還するだろう、将軍の戦巧者ぶりは私が一番よく知っている、何せついこの間救われたばかりなのだからな。」
アルマリックは、自分の言葉に俯いていた議員の内、十数名が顔を上げた事を確かめると、更に言葉を継ぐ。
「蛮族や諸勢力と戦に及ぶ事十数回、未だアルトリウス将軍が率いた軍が敗走を喫したとの知らせは、私は寡聞にして知らない、誰かその事実を見知り聞いているのであれば、お聞かせ願いたいのだが・・・」
3分の2以上の議員が顔を上げ、周囲の様子を窺ったり、隣の議員同士が小声での会話を始めたのを見て取ったアルマリックはアンブロシウスに目礼を送ると、立ち上がった時と同様に静かに自席へと就いた。
アンブロシウスはアルマリックに目礼を返すと、にやりと人を喰った笑みを浮かべ、ざわめきを取り戻し始めた議場に向かって声を励まして語りかけた。
「元老院議員諸君!アルトリウス将軍の戦功次第によっては鼻持ちならないガリア上級総督の地位を脅かし、早急に帰国を命ぜられるかもしれないぞ。」
アンブロシウスの言葉に、どっと議場が沸く。
それまで不安そうに小声で話し、周囲を覗ったりしていた議員ばかりで無く、下を向いたままの議員たちまでもが苦笑を漏らした。
どんどん
すかさずカイウスが長杖を鳴らし、決を採るべく声を張り上げた。
「それでは、本件議題のアルモリカ遠征について採決することとする!」
カイウス議長の宣告に再び議場が静まる。
「アルモリカ遠征に賛成の者は拍手を!反対の者は席から立ち上がられよ!いざ!!」
議場が静まりきるのを待ってから、カイウス議長が採決方法について説明し、決を採ると、3分の2の議員が拍手を始め、残りの議員が席から立ち上がる。
どんどんどん!
3度、力強く大理石の床を長杖で打った後、採決が終了した事を宣告したカイウス議長は、その結果を発表するべく議場を眺め回した。
全員が一旦席に就いた事を認め、カイウス議長は厳かな声で結果を発表し始める。
「それでは採決の通り、アルモリカ遠征についてはこれを承認する事とし、細部や具体的な遠征計画については、アンブロシウス総督代行とアルトリウス総司令官及びその幕僚達に委任する事とする!」
元老院議員達がその結果に対し、異議のない事を示す拍手する中、アンブロシウスは議場の中央に立ったまま右手を上げて挨拶すると、拍手に押されないよう声を張った。
「ブリタニアの元老院議員ともあろう者達が悲観は止めよう!笑顔で勇士達を送り出そうではないか!」
議場の拍手はその言葉で一層弾みが付き、いつまでも鳴り響いていた。
穏やかになり始めた初秋の陽光の中、見渡す限りの麦畑の中を一団の騎兵達が緩やかに進む。
かつては傷みが激しくわざわざ避けて通らなければならないほどだったローマ街道は民の手によって綺麗に舗装し直され、ヒベルニア海賊の侵入や蛮族の襲来によって破壊された灌漑設備は修復されて荒れ放題だった農地が蘇っていた。
そこには美しい文明の手による風景が広がっている。
騎兵の先頭を進むアルトリウスは、黄色く色付き始めた麦畑を遠望し、手入れをしている多くの農民達を見つけて顔をほころばせた。
そこには彼が命がけで守ってきたブリタニアの文化と人々がある。
騎兵達もアルトリウスに釣られて顔を向け、麦畑の手入れに精を出す農民達を見つけると笑顔を見せた。
「もう間もなく収穫でしょう、今年は豊作のようですね。」
「ああ、気候が穏やかだった所為か、麦だけじゃなくて葡萄の実り具合も良いそうだ、来年はブリタニア産のワインが輸出できるかもしれないな。」
副官のクイントゥスの呼びかけに、アルトリウスは馬上から首を後ろに向け、白い歯を見せて答える。
「何事も無い巡察がこんなに楽しいものだとは知らなかったよ。」
顔を農民達の方に戻しながらアルトリウスがそう言葉を継ぐ。
「総司令官、居館が見えて参りました、奥方様がお出迎えのようですよ?」
兵の一人がそう言いながら指差す方向に目を向けると、麦の海に浮かぶアルトリウスの居館が見え、その門柱付近にお腹の大きくなったアウレリアが自分の手を額にかざしてこちらを見ている様子がアルトリウスの視界に入ってきた。
「ああ、本当だ・・・やっと戻って来れたんだな・・・」
アルトリウスが右手を上げると、それに反応したアウレリアが大きく手を振った。
ホルサ率いるサクソン軍をブリタニア中部平原で討ち破ったアルトリウスは、ブリタニア北東部へ進出しようとしていたサクソン人を元の南東部へ押し戻し、幾つかの砦を築いてから、一旦修築したマンクニウムの砦へと戻り、マヨリアヌスとガルスの重兵器隊と合流した。
マヨリアヌスは、他と同様にボルティゲルンの領土を分割し、ボーティマーに領土の一部継承を認めて知事へ任命した上で、各地の豪族を取り立て、更にはブリタニア中部平原でのアルトリウスの大勝を知って恭順してきたコリタニア卿を服属させている。
そしてアルトリウスは軍を新都市へと引き上げ、そこで軍を解散させた。
軍の中核となるブリタニア軍は職業軍人がほとんどであるが、その他に諸侯から召集した兵や臨時に難民から雇った兵、そして各地の豪族達はそうではない。
そのほとんどが農民や市民であり、別に職業を持っている者達がほとんどなのである。
豪族達からして元は富農であり、領土と言うよりも自分の農地を持っているため農繁期に移る前に軍から解放する必要があったのであるが、今回は大幅に時期がずれ込んでしまった。
それは無理矢理今回の遠征に引っ張り出してしまったためで、サクソン人との決戦とアルマリックの救出という止むを得ない事情があったとはいえ、そういった臨時招集の兵からは大分苦情が出ていた事も事実である。
アルトリウスの手元に残された自由に使える兵力は半分の約1万、各地の砦や拠点防衛の為に常駐させている兵の合計5000を入れても1万5千。
しかしながら、事情はサクソン側も同じで、5万の戦士とは言っても貴族階級にある者達を除けばその大半は農夫であり、やはり農繁期においてその動員力は大きく減じる。
攻撃側の動員できる兵力が減じても、防衛側が緊急事態という事になれば臨時に総員招集をかけるのは当然であり、そういった状況下では相手を圧倒する戦力を集める事が出来ないためにお互い攻勢を掛ける事が出来ずに奇妙な小康状態が生まれた。
勢力圏の境目で小競り合いは頻発しているが、軍が本格的に出動するような事態は生じておらず、アルトリウスも夏期まで情勢を見極めた上で最大農繁期に入る初秋に総動員を解き、順次兵たちに休暇を取らせることにしたのである。
ただ、総司令官である自分が休暇をとる訳にはいかないので、街道の巡察隊に休みを取らせ、代わりにアルトリウスと護衛兵が街道巡察を行う事にした。
そしてそのついでに護衛兵達の故郷や実家に寄り道をして休暇の代わりとし、そして今日ようやくアルトリウスの番となってアウレリアの待つ居館へとやって来たのであった。
居館に到着すると、アウレリアがアルトリウスの下馬を待たずに横合いから飛び付いて来た。
アルトリウスはその勢いに驚き、慌てながらもアウレリアを優しく馬上に掬い上げて自分の前へ横抱きに乗せると、周囲の護衛兵達が朗らかな笑い声で2人を祝福した。
「お帰りなさい!」
「・・・只今帰りました。」
ぎゅっと首にしがみつき、胸に顔を埋めながら元気に出迎えの挨拶をするアウレリアの背中に手を沿え、アルトリウスは優しい笑みを浮かべて答える。
護衛兵たちはアルトリウスに黙礼を残し、それぞれ居館の裏手にある厩へと向かい、アルトリウスはせがまれてアウレリアを乗せたまま、馬首を返して居館の周囲を巡る小道に向かった。
「余り無茶はしないで下さい従姉さん、大事な身体です・・・大分お腹も大きくなりましたね、他は変わりありませんでしたか?」
「ええ、アルが居なくて寂しかっただけです。」
その言葉に苦笑しながら、実に半年近くブリタニア各地を転戦していたアルトリウスはいとおしげにアウレリアを見つめる。
アウレリアはアルトリウスの視線に照れたような顔をして、その硬く新しい鎧で覆われた胸に頬を寄せた。
見慣れたはずの館の周囲の景色もこの世で一番愛した人と一緒に見るとまた趣が異なるものなのだと、アウレリアは夕日に染まり、黄金色に輝く麦穂の平原を見る。
半年間、アルトリウスの無事を心配しない日は無かった。
アルトリウスから戦勝の知らせが届くたびに胸を撫で下ろし、そしてまた新たな戦場へと向かうこと知らされては胸を締め付けられる思いで神にその身の無事を祈る。
しかし、ようやくその日々が一時なりとも、終わった。
アルトリウスから巡察の途中に館へ立ち寄るという内容の知らせが届いてから、アウレリアはこの瞬間を今か今かと待ち望んでいたのである。
束の間の休息だとしても、今この時、アルトリウスと共にする時間が何よりもアウレリアに安らぎと安心、そして充足感をもたらす大切なもの。
アルトリウスは居館の傍にある自分が治める領地をほぼ一望できる丘の上に着くと馬を止める。
初秋の少し冷たい風がすっと吹き抜けたのを感じたアルトリウスは自分の赤いマントを外し、丁寧にアウレリアの身体に巻きつけた。
くすぐったそうに、アルトリウスの為すままになっていたアウレリアは、最後にアルトリウスがマントの留め金を付ける手の甲へそっと自分の手を重ねる。
大きく暖かい手がアウレリアの手からはみ出し、その手のひらが返ってアウレリアの手を包み込んだ。
そうしてしばらく夕焼けに染まる景色を2人で眺めていたが、アルトリウスはおもむろにアウレリアの気持ちを知ってか知らずか話しかける。
「これからこの周辺地域の巡察と治安維持に当たりますから、しばらくの間はここに滞在します。」
「そうですか・・・ではお仕事以外はずっと一緒にいて下さいね?」
アルトリウスはアウレリアの願いに対して言葉で答える代わりにその身体をそっと抱き寄せ、優しく口付けた。
ふふっ
アウレリアは幸せそうに笑みこぼすと、アルトリウスの顔に手をやり、甘えるようにしてより一層深い口付けを求める。
夕日が重なり合う2人の影を長く、長く引いてゆるゆると丘の果てへと沈んでいった。
「果てさてまたもや難題が降り掛かって来たものじゃ、もはやブリタニアは神から見捨てられ賜うたかのう・・・」
マヨリアヌスがアンブロシウスから手渡されたガリア上級総督コンスタンティウスからの書状を開いてため息混じりにそうつぶやいた。
「この命令・・・もとい、要請を断るわけにはいきません。」
「当たり前じゃな、もし断ればブリタニアはそれこそ干乾にされてしまうじゃろう。」
アンブロシウスが淡々とそう言うと、マヨリアヌスもその意見に一も二も無く賛同した。
「この御仁、西ローマ帝国の総司令官にあるのはまやかしでも何でも無い、正式にスティリコ将軍の後任としてガリアへ派遣されておる事は確認が取れた、例え無茶なものだとしても要請を断る事など端から選択肢に無いわい。」
マヨリアヌスは書状を丸め直してアンブロシウスへ返すと言葉を継ぐ。
「彼の御仁、アクイタニアに巣食った西ゴート族もその手で降しておるからのう、得意技と言うわけじゃ。」
西ローマ帝国総司令官となったコンスタンティウスは、かつてアクイタニアの西ゴート族に対して戦闘ではなく、海上封鎖による食糧供給の遮断という手段を使って降伏に追い込んでいた。
「しかし、折角降したその西ゴート族の面々も油断ならぬ、故に我等ブリタニアをアルモリカへ引き込んでその牽制役に使おうという訳じゃろうな。」
マヨリアヌスの言葉に、アンブロシウスは机上に開いた地図を見つめながら答える。
「・・・しかし、アルモリカ属州を与えるとは、また大盤振る舞いも良い所です。」
「ふふん、今更何を言うか、アルモリカへのブリタニア人の浸透がおぬしの仕業とばれたのじゃろうよ。」
鼻で笑い飛ばしながら言うマヨリアヌスに、アンブロシウスも視線を下に向けたまま、負けじと人の悪い笑みをその口角に浮かべる。
アンブロシウスは東ブリタニアからの難民を西ブリタニアの各地へと受け入れていたが、それだけでは足りず、積極的にアルモリカ属州への入植を進めていた。
西ブリタニアがいくら東ブリタニアより田舎と言えども、元は同じくローマの手によって開発され既に文明の手による高度な開発が終わった土地であり、新都市の造営を含めてもそれほど多くの難民を受け入れる余地は無い。
それに比べてアルモリカ属州は、元々ガリアの最辺境の土地であり人口がそもそも少なく、また近年バガウダエ(反ローマ帝国農民反乱)が横行して治安が極度に悪化し、ただでさえ少ない人口が兆散や荒廃で更に減少していた。
最初は交易の中継地点としてアルモリカの港湾地区に目を付けたアンブロシウスであったが、港湾整備のために実地調査を行い、そういった実情の把握が進むに連れて考えを改めた。
すなわち、アルモリカを新たなブリタニアの植民地と為し、難民の入植と開発を進めると言う方向に考えを変えたのである。
アルモリカ属州はガリアの西北に位置する半島であり、半島の付け根部分には防衛に適した地点がいくつもある上に、ローマ帝国健在な頃からブリタニア人の移住が多く、在地住民にもブリタニアに親近感を持っている者が少なくない。
しかし、これは非公然ながら西ローマ帝国の領土を掠め取ろうと言う算段であり、決して公になってはいけない事であった。
幸いにして、帝位簒奪者コンスタンティヌスはこの動きを黙認し、対立していたスティリコはブリタニアの動き自体は察知していた節があるものの、間にガリアを支配するコンスタンティヌスを挟んでおり、またブリタニアを味方に引き込んでガリアを挟撃しようと言う構想を持っていたためか、特に掣肘を加えてくる事は無かった。
その後の混乱期には言うに及ばず、西ローマ帝国は最辺境のアルモリカ属州ごときに構っている余裕を無くしていたので計画は順調に進んでいたが、ここに来てコンスタンティウスと言う油断ならない新たな指導者がガリアへ派遣されて来た。
その手練手管を知り、内心冷や汗をかいていたアンブロシウスであったが、コンスタンティウスの側からアルモリカの支配を正当化する根拠を与えてくれるとは、正に渡りに船だったのである。
既にブリタニアの影響力は港湾都市に及んでおり、少数の海兵を主体として治安維持に当たっているが、頻発するバガウダエ(反ローマ帝国農民反乱)や盗賊には手を焼いているのが実情であった。
今回、コンスタンティウスからの要請で、これまでと違い大っぴらに兵を派遣しバガウダエ(反ローマ帝国農民反乱)や盗賊を征討し、アルモリカ属州全土へと支配権を拡大する事が出来る。
「アルモリカ属州の支配権確立はブリタニアにとって死活問題です、今後の交易や安全な後背地の確保の為にも成し遂げなければいけません、元老院を騙す様な事になってしまいましたが・・・」
アンブロシウスの懸念はブリタニアの内向化にもあった。
特に最近ブリタニアの有力者達は外に目を向ける事を止めてしまった者が多くなってきている。
曲がりなりにも西ローマ帝国の一部として存在していた頃は、行政、軍事、交易の各ルートを通じて自然と情報が入ってきていたものの、放棄領土となってからはそういった情報の流れが完全に途絶えた。
またブリタニアの人々は身近な生活に追われ、更には押し寄せるサクソン人を始めとした外敵との防衛戦争にその全精力を注ぎ込まねばならず、ブリタニアの外に対して目を向け情報を収集するという、余裕をなくしていたのである。
この傾向は既にコンスタンティヌスのガリア出征の頃から現われ始めており、それ故にアンブロシウスがブリタニアの交易権を独占する事に対して誰からも反対が出なかったのだ。
唯一アンブロシウスらブリタニア総督府だけが外交と交易のルートを自らの力で維持しているだけで、それ以外の有力者達は外部情報を得る術を持っていないし、持とうという意思も無い。
今回のコンスタンティウスからの書状によって、少なくともブリタニアの有力者達の目を外に向けさせる事に成功した。
また、その書状によってアンブロシウスはブリタニア域外への影響力行使について常に消極的だった有力者達を説得し、派兵を止むを得ないものとして認めさせる事が出来たのである。
アンブロシウスとマヨリアヌスが話し合いをしているその最中に、カイウス議長とデキムス行政長官の親子、それからコルウス海軍提督、グナイウス副司令官に元ヴェネト・イケニ守備隊長のクアルトゥス・アヴェリクスが従兵に伴われて入室してきた。
「どうもお待たせしました。」
先頭に入ってきたグナイウスがアンブロシウスに話しかける。
グナイウスは元々アルトリウスの副官であったが、ブリタニア軍創設の際に副総司令官に任じられ、それ以降は現場指揮よりも補給や備品調達といった軍政面での仕事が多くなっている。
「おおかたアルモリカ遠征についてではないのか?アンブロシウス殿の事だ、もう既に手配の所見は出来ておるのであろうよ。」
がりがりと首筋を掻き毟りながらそう言うのは、先程までアンブロシウスと共に元老院を仕切っていたカイウス議長。
その言葉に苦笑を返しながらアンブロシウスは入って来た5人に席を勧め、自分も椅子に座ると話しを始めた。
「まさに、そのアルモリカ遠征についてです・・・正直なところ準備にはどれくらいの期間と費用が必要になるか分かりませんが、取り敢えず今から準備を始めたとして派兵が可能になるのは何時ごろになるでしょうか?」
「海軍の方ですが・・・直ぐには無理です、この間アレキサンドリアに向けて大商船団を出港させたばかりですからね、派兵数にもよりますが、その船団が戻ってこない事には兵員輸送はおぼつきません。」
アンブロシウスの言葉にコルウス海軍提督が静かに答えた。
「軍政面でも難しいかと思います、これから矢や投槍などの消耗品や盾、鎧などの予備の装備品について余剰生産に入らないといけません、補給がままならない大陸に行く以上は十分な数を揃えませんと・・・」
グナイウスも淡々とアンブロシウスの言葉に答えると、デキムス行政長官も難しい顔で徐に口を開く。
「財政的には未だ余力があります、しかしながら難民に対する糧食や手当て等の保障が負担となっているのが現状です、開墾地の増加やこの秋の豊作で麦の収穫自体は増加が見込まれているものの、遠征に回す十分な糧食の確保は難しいかもしれません。」
「新参者の私がこういう事を申し上げるのも口はばったいのですが・・・兵士の心情もお考えいただきたい。」
クアルトゥスが発言すると、周囲の者が興味深そうに彼を見つめる。
アンブロシウスから先を話すように促され、クアルトゥスは一礼を置いてから言葉を継いだ。
「・・・ブリタニア軍の草創期からの古参兵士は、コンスタンティヌス基地司令官殿の誘いを半ば命がけで断り、ブリタニアという故郷を守るべく、あるいは家族と離れがたくて居残った兵士達ばかりです・・・かく言う私もその一人なのですが、そんな者達を対岸のアルモリカといえども遠征へと駆出しては無用の反発を招きかねません、また新たに徴募した兵士達とてそれは同じでしょう、ブリタニアを守る為ブリタニアで戦おうと兵士になった者達がほとんどです、指導者層のように大義や政治、外交を理解しているならばともかく、市民や兵士達にはきっちりとした彼らの納得する理由を説明してやらねば、異国の地で果てる可能性もある今回の遠征では士気が保てません。」
「最もな意見です、兵士達については基本的に志願者を募ると言う事にしましょう。」
クアルトゥスの主張にグナイウスも賛同し、打開策を提示する。
「分かった、アルモリカ遠征については、何れにせよ市民に説明をしなければならない事であるから、併せて兵士達へも説明をする事にしよう、その上で志願者を募る事にする。」
アンブロシウスは2人の言葉に頷き返しながら、その意見を容れる事を承諾した。
「それで、アレキサンドリアへ派遣した商船団は何時戻ってくるのじゃ?」
マヨリアヌスがコルウスに質問すると、コルウスは書付を取り出して目を通してから答えた。
「・・・おおよそ4ヵ月~5ヵ月後の冬になります、今回は各地の情勢調査を兼ねておりますので、寄港地が多く期間が長いのです、寄港地はガリアで3箇所、ルシタニアで3箇所、ヒスパニアで4箇所、アフリカでカルタゴを含め7箇所、クレタ島、ロードス島、キュプロス島、シリアで2箇所、パレスティナ、そしてアレキサンドリア着となります。」
一つ頷いたマヨリアヌスは今度はデキムスに顔を向けて質問を発した。
「備蓄の食糧を含めて、遠征の兵糧に回せる食料の量はどれくらいじゃ?そしてそれは何時までに揃えられるかのう?」
「秋の収穫が終わってからでなければ正確な数字は出せませんが、昨年やその前の年の統計を基に算出すれば、ブリタニア全体の流通量を損なう事無く十分な量は確保できるでしょう、但し、難民の手当て及び今年の備蓄に必要な分は残さなければなりませんので、兵糧は大部分が買入れによる調達となることから、若干の値上がりや売り渋りが予想されます、時間は・・・まあ、収穫が終わって麦が市場に出回ってから買入れを行いますので、後3~4ヶ月後といったところでしょうか。」
自分の質問にてきぱきと答えるデキムスの様子を満足そうに眺め、マヨリアヌスは最後にグナイウスを見て質問を発した。
「それでは、グナイウス副司令官、兵の選抜と編成はどうじゃな?」
「そうですね、兵の選抜に少し時間を戴くとしても、編成自体は1カ月で済むと思います。」
さらりと答えるグナイウスにふむと頷くと、マヨリアヌスはそれぞれの回答を書き付けていた羊皮紙を眺め、アンブロシウスに話しかけた。
「ふうむ、これで行けばアルモリカ遠征は船団が帰還するまでの最大5ヶ月後、少し余裕を見て半年後じゃな!まあ、書状による要請そのものが急な話であったからの、それぐらいは仕方あるまい、アンブロシウス、一応その旨の断りをガリアのコンスタンティウスに手紙で入れておいた方が良いぞ、向こうもそれぐらいは承知だと思うが、無用の疑念を招きかねん要素は排除するに越した事は無いからのう。」
「分かりました、それでは今日中に書状をしたため、送付する事にします・・・しかし、半年も経てばサクソンが新たな動きを見せるかもしれませんが・・・」
アンブロシウスはマヨリアヌスの言葉に頷くと同時に懸念を示すが、マヨリアヌスは書付を机の上に置き、自分の顎鬚をしごきながらのんびりと答えた。
「おそらく当分は動くまい、この間の合戦での打撃はいかな無尽蔵の人的資源を持つサクソンとて馬鹿にならんものだったようじゃ、今は東ブリタニア各地に定着することを優先させている様子との情報が入ってきておる、まあ、何れにせよ遠征前にもう一撃加えておく必要はあるやもしれんがのう。」
「会議の結果はアルトリウス総司令官に早急にお伝えした方が宜しいでしょうか?」
生真面目に尋ねてくるクアルトゥスにマヨリアヌスとアンブロシウスは苦笑を漏らし、カイウスとデキムスの親子は顔を見合わせ、グナイウスはため息を漏らしながらクアルトゥスの肩を押えてそれを制した。
「いや、大丈夫だ、今回の会議については私が一任されている、第一夫婦水入らずのところに仕事の話など持って行こうものなら、奥方殿に怨み殺されてしまうぞ?」
謹厳実直を絵に描いたようなグナイウスの冗談とも付かない言葉を聞いて棒を呑んだような顔をしたクアルトゥスに、他の面々は一斉に吹き出し、部屋は爆笑に包まれた。
「・・・まあ、大丈夫だ、姉もあれで弁えた人だから怨み殺しはしないと思うが、緊急事態ではないし、今はゆっくり過ごさせてやって欲しい。」
「・・・分かりました。」
目に涙を浮べるくらい笑い転げたアンブロシウスがそう言うと、クアルトゥスは憮然としたまま承諾した。
「さあて、別室に食事と飲み物の用意をしてある、面倒くさい話はカタが付いたことじゃし、少し強張った身体の力を抜こうではないか。」
マヨリアヌスの呼びかけで、全員が席を立ち、執務室を出て来客用の部屋へと向かった。