第22章 新たなる門出
さわやかな風が柔らかい土の匂いを運び、初夏の陽光が、さやけく流れて美しい瀬音を立てる川の水を煌かせる中、大理石で出来た美しい舞台の上に2人はゆっくり立った。
この舞台は新しく築かれる都市の基礎、この上にはブリタニア随一の城が完成する予定である。
まだ低いその舞台で振り返る一瞬に目を合わせた2人は、同時ににっこりと微笑み、手を取り合いながら、背後の大観衆に向かって大きく手を振った。
わあああああああああああああ
その瞬間を待ち望んでいたブリタニア各地から集まった老若男女貴賎取り混じった観衆は大歓声を上げる。
アルトリウスは新調した、銀に輝くローマ式鎧に真紅のマントを身にまとい、アウレリアは飾りの少ない純白のドレスに身を包んでいた。
しばらくそうして観衆へ手を振っていた2人は、再び向かい合い、ローマ風に固く右手同士を重ね合わせて握手をし、夫婦の誓いを行う。
大歓声が渦となり2人の周囲を駆け巡る、が、アウレリアはアルトリウスの言葉を一言も聞き漏らす事は無かった。
「従姉さん、私達2人にとってこれは始まりです、まだこの都市が基礎の土台だけであるように、私達もまた今基礎の部分を築いたに過ぎません、これから完成し、発展していく都市と同じように私達もまたこれから成長して行きましょう。」
「・・・はい。」
それを見計らったかのように、マヨリアヌスが舞台の下に立ち、手を高く上げて観衆を静め、厳かに宣告する。
「・・・ブリタニアの総司令官にして守護神、アルトリウスから言葉がある、みな静聴するように!」
アルトリウスは、アウレリアの手を握り締めたまま、舞台の前に進み出ると、大観衆を見回してから言葉を発した。
「今日この日からブリタニアの闇は取り払われていくだろう!われらは暗黒に屈しない、暴力に屈しない、時代に屈しない、われら自身が未来を築く礎となろう、私達夫婦がブリタニアの闇を払い、未来へと続く道筋の道しるべとなり、ともし火とならんことを誓う!」
再び大歓声が爆発する。
アウレリアを救い出したアルトリウスは、アトラティヌスの忠告に従い一路コリニウムの建築現場へと向かった。
コリニウムでは仮設小屋に難民を収容し終えたマヨリアヌスが現場監督達と会合を行っていたが、騎乗のアウレリアとアルトリウスを見てぼとりと都市の設計図を取り落とした。
「・・・先生、空いている小屋はありますか?」
青白い顔をしたアルトリウスは、問いかけると同時に馬上から滑り落ちた。
「・・・!?アルッ!!」
アルトリウスの前に座っていたアウレリアが慌てて下馬し、落ちたアルトリウスを抱き起こす。
難民の診療を行う為にコリニウムへ来ていたアエノバルブスがアルトリウスの脈を取り、瞳孔を確かめると、ため息を付いてアウレリアに言った。
「・・・おお、しばらく動けんが心配はいらん、これは単なる疲労であろう、少し休めば直る、長い間床に就いておったのにいきなり激しく身体を動かしたりするからじゃい・・・それよりも、アウレリア、お主のほうが重傷である、直ぐにそこの小川で身体を洗ってわしの小屋へ来なさい。」
アエノバルブスは自分の小屋を示しながらそう言い、衣服と共に手布と大きな布を助手に用意させてアウレリアに手渡した。
「・・・アウレリア、無事じゃったか・・・」
現場監督達を解散させたマヨリアヌスが切れ切れにそう言って、アウレリアの両肩に手を当てる。
「・・・はい、この通りアルに助けてもらいました。」
「・・・しかし、アルトリウスはアンブロシウスが監禁しておったはずじゃが・・・」
不思議そうにそういうマヨリアヌスの横からアトラティヌスが黒いフードをすっぽりと被たままぬっと現われた。
「我が手助けさせてもらった、マヨリアヌス殿お初にお目にかかる・・・」
「・・・!?何じゃお主は?」
驚いたマヨリアヌスが振り向いて身構えるのをアウレリアがとりなした。
「先生、この方達があるを手助けして私を救出して下さったのです。」
「なんと?」
眉を顰めるマヨリアヌスに、アトラティヌスはくくくと笑みを浮かべて言葉を継ぐ。
「不審を抱かれるのも無理は無い、我は闇に住まうもの・・・マヨリアヌス殿、手土産代わりのカルウスという小物が溜め込んだ財宝、受け取って頂けたようで何より、では我はこれにて・・・」
それだけ言い残すとアトラティヌスは再び闇に紛れ込んで姿を晦ましてしまった。
「・・・むう・・・」
憮然とするマヨリアヌスを不思議そうに見ながら、アウレリアは体を洗う為に、やって来たアエノバルブスの女助手に付き添われて小川へと向かった。
アエノバルブスの小屋で怪我の手当てを受け、一通り診察を終えたアウレリアは衣服を直しながら、少しためらった後、アエノバルブスに思い切って質問をぶつけた。
「アエノバルブス先生、私の身体は・・・どうなのでしょう。」
手を消毒用の酒精で清めながらアエノバルブスはアウレリアの問いに珍しく逡巡する素振りを見せてから、やがて諦めたように口を開いた。
「・・・おお、その質問、いつかは来るだろうと覚悟してはいたが、こうも早いとは、アルトリウスめはお主に余程良い心の治療を施したようだ。」
アエノバルブスはぽんぽんとアウレリアの肩を叩き、そのまま肩に手を置いて寝台に座るアウレリアの視線に合わせて屈む。
「・・・心配いらん、身体が癒えれば子は作れよう、ただ・・・今この時点で望まぬ子を宿しているか否かまでは分からんのだ。」
「・・・そうですか・・・」
その様子を見たアエノバルブスがアウレリアの機先を制して口を開いた。
「・・・子を流す事はやめておいたほうが良い、成否に関わらず身体をひどく痛めつける、新たな子を宿せなくなる可能性が高い。」
自分の胸に当てた手をぎゅっと握り締め、アウレリアは下唇を噛んでそう言うと言葉を失った。
沈黙の時間がしばらく続いた後、アウレリアは顔を上げてアエノバルブスの目を真っ直ぐ見つめ、口を開いた。
「・・・わかりました、先生、有難うございます。」
「おお、くれぐれも身体大事にな、今日はアルトリウスに精一杯甘えておくと良い。」
「・・・はい。」
ふんわりとした笑みを残し、アウレリアはアエノバルブスの小屋を後にした。
「・・・甘える・・・か、我ながら下手くそな表現であるな。」
アエノバルブスはそう独り言をつぶやき、がしがしと頭を掻いて小屋の後片付けを始めた。
アウレリアがアエノバルブスの小屋から外に出ると、マヨリアヌスがそこに待っていた。
「マヨリアヌス先生・・・」
「・・・うむ、治療は終わったようじゃなアウレリア、身体を痛めているときに悪いのじゃが、これからアルトリウスの所へ一緒に来てくれぬか、今後について話があるのじゃ。」
アウレリアを労わる気遣いを見せながらも、マヨリアヌスは断固とした、有無を言わせない口調でそう言った。
「はい、分かっています。」
「うむ、では参ろうかの。」
アウレリアとマヨリアヌスがアルトリウスの休んでいる小屋へ入ると、そこには既にブリタニア軍の司令官達が集合しており、意識の戻ったアルトリウスと言葉を交わしていた。
おおよそ半年振りに第一線に出てきたアルトリウスを慕い、兵たちもアルトリウスとの会見を望んだが、夜半であり、またアルトリウスの体調が思わしくないこともあって司令官達が代表してアルトリウスの小屋にやって来ていたのである。
アウレリアとマヨリアヌスが入ってきたのを見て、椅子に座っていたアルトリウスは嬉しそうに二人へと話しかけた。
「従姉さん、先生、さっきアエノバルブスの助手が来ましたよ、徐々に身体を慣らすために現場復帰をしていいそうです、当分は様子を見ながらではありますけれどもね!」
周囲の司令官達もじつに嬉しそうに、その様子を見ており、いかにブリタニア軍からアルトリウスが頼りにされ待ち望まれているかが、その様子を見るだけで良く分かる。
「総司令官、積もる話はまた明日にでもゆっくりと、一旦私達は戻ります。」
副司令官のグナイウスが代表してそう言うと、司令官達は談笑しながらアルトリウスの小屋を後にした。
その顔には安堵と希望の表情が満ち溢れている。
そして司令官達全員が小屋から離れたの確認して、マヨリアヌスが徐に口を開いた。
「アルトリウス、アウレリア、今後のおぬしら2人の事について少々重い話しをせねばならん。」
「そうですか・・・私もマヨリアヌス先生にお願いしたい事があります。」
アルトリウスは居住まいを正して二人を見つめる。
そのアルトリウスに対し、マヨリアヌスはすっと右手の平をかざして発言を制した。
「・・・待て、お主の言わんとする事は分かっておる、アウレリアとの結婚であろう?」
そのままの格好でマヨリアヌスはそう言い、驚く二人をよそに、ふううっと大きなため息をついた。
「おぬしら若い者の情熱と一本気さにはほとほと呆れると同時にいつもうらやましく思う、しかし今回はそう事は簡単に運ばん、何しろアルトリウス、お主の従兄にしてカストゥス家の当主たるアンブロシウスがその結婚を認める事は無いからじゃ。」
マヨリアヌスは重々しく言うと、かざした手を握りこみ、拳を形作った。
「今この時点でありうる限りのお主らの進む事の出来る道を示してみよう、しかし勘違いするではないぞ、あくまで『進む事の出来る道』じゃ、『進むべき道』ではない、よいな?」
その前置きに、アルトリウスとアウレリアはそれぞれお互いの顔を見合わせてからマヨリアヌスに向き直って2人同時に頷いた。
「うむ、ではまず第一じゃ、これは絶対選ばんじゃろうから先に言っておく、二人して死ぬことじゃ、後腐れはおぬしらに限って言えば全く無いわい・・・この場合、道義的、軍事的にブリタニアは崩壊するが。」
「・・・先生、冗談にも程がありますよ・・・?」
拳から親指を立て、さくっと言い放ったマヨリアヌスに思わず突っ込みを入れるアルトリウス。
しかしマヨリアヌスは空とぼけた表情で言葉を続けた。
「むん?まあそう怒るでない、さっきも言ったじゃろう、わしが話しておるのは『進む事の出来る道』じゃからな、進む進まんは別の話じゃ、あくまでも選択肢の内にあるものを上げておるだけじゃ、話を進めるぞい。」
マヨリアヌスは次に人差し指を立てる。
「第2は駆け落ちじゃな、わしの伝を使ってヒスパニア、カルタゴ経由で東ローマのアレキサンドリアへ行く事が出来る、同じくこの場合もブリタニアはアルトリウス、おぬしという軍事的柱石を失い崩壊する。」
アウレリアが息を呑むのがアルトリウスにも分かった。
「・・・どうじゃ、アレキサンドリアという新しい街では誰もおぬしらの事を詳しく知らん、魅力的じゃろう、その上アルトリウスにアレキサンドリア駐留東ローマ帝国軍軽装騎兵隊長の職が待っておる、わしのなけなしのコネを使った場合じゃがな、どうじゃ?」
顎を突き出して意地悪そうに言うマヨリアヌスに、アウレリアは逡巡し、アルトリウスは終始無言で応じる。
そんなアルトリウスを尻目に、マヨリアヌスは3本目の中指を立てて言った。
「第3は、アンブロシウスの思惑通り、おぬしらの結婚を諦めてアウレリアを領地に戻すのじゃ、アルトリウス、おぬしはどこぞの有力者の娘をあてがわれるじゃろう、この場合、ブリタニアの軍事力は維持され、更に婚姻相手によっては強化されるが、アウレリア、おぬしは飼い殺しじゃ。」
「・・・・・・」
今度はアウレリアが青い顔をして黙り込んでしまった。
マヨリアヌスは最後に、と前置きをしてから4本目の薬指を立て、話を継ぐ。
「第4の道は茨の道じゃ、アンブロシウスの反対を無視し、ここで結婚式をして既成事実を作ってしまうことじゃな、おぬしら2人の幸せは達成できようが、アンブロシウスは決してこれを認めんじゃろう、また、生まれてくる子の事じゃが・・・アウレリア、心して聞くがよい・・・長子は必ず『サクソンの落とし種』との誹りを受ける、女の子ならまだしも、男の子の場合は推して量るべし、じゃ、おぬしらの茨の道を息子にまで歩ませる事となる上に、その事が内紛の火種となり後々ブリタニアへ災いをもたらし兼ねん。」
言い終えたマヨリアヌスは、ぱっと手のひらを上に両腕を広げて二人に厳しい表情で告げた。
「・・・これ以上の案は、今のところ考えられぬ、最初の案はともかく、何れにせよブリタニアをとるか、おぬしら二人の幸せを取るか、はたまた両方を中途半端な形でとるかじゃ、選ぶのはお主らであるからな、わしは今回に限りアンブロシウスよりもおぬしらの意向に沿うてやろうとは思うておる。」
言い終えるとマヨリアヌスは、両腕を下し、2人を交互に見てから再度口を開いた。
「よく2人で話し合って決めるが良いが・・・但し費やせる時間はそう多くない、2、3日程度といった所じゃ、居館にいるアンブロシウスが何方かの報告を聞いてここへ掛け付けて来ればもう手遅れとなろう。」
マヨリアヌスの去った小屋で、アルトリウスとアウレリアは同じ寝台に同じ毛布を被って横たわっていた。
小屋にはもう一つ寝台が用意されているにも関わらずである。
「・・・従姉さん、どうして同じ寝台で・・・眠ろうとするのですか?」
「・・・もう、絶対に、離さない、と言いました、ですから、離さないで、下さい。」
真正面、即ち天井を見上げたまま恐る恐るアルトリウスが尋ねると、アウレリアはすました声で、それでいてきっぱりと、言葉を一区切りづつにして念を押すように答え、更にはぎゅっとアルトリウスの手を握り、肩口に顔を寄せる。
「あ、いや、そうでは無く・・・」
「・・・うそつき」
更に戸惑いを隠さずにアルトリウスが尋ね返そうとしたのを遮るように、今度はポツリと耳元でつぶやくように言葉を漏らすアウレリア。
「・・・えっと、あの・・・」
更に戸惑うアルトリウスを余所にアウレリアは更にアルトリウスへ身体を摺り寄せた。
「お願い、離さないで・・・」
「・・・はい・・・」
今度は儚げな声でそう訴えられ、アルトリウスは素直に返事をするが、緊張で頭は真っ白になっている。
「アルは変わらない・・・穢された私を、変わらず迎えてくれる、変わらず接してくれる、こんな私に、私の誘いに応えてくれる・・・」
すりすりと額をアルトリウスの肩口に擦り付けながら、ほっとしたような声でつぶやくアウレリアに、アルトリウスは訝しげに、恐る恐るではあったがようやく横を向いた。
「・・・何が変わるというんですか・・・私が、あ~その、愛しているのは・・・ね?」
暗がりでもはっきり分かるほど赤面しつつ一生懸命にそう言うアルトリウスにアウレリアは嬉しそうに横から毛布の中で抱きついた。
「!」
驚きで身体を硬くしたアルトリウスに、アウレリアは切なさそうにささやく。
「・・・アル、お願い・・・」
「・・・」
アルトリウスが無言でそっとアウレリアの身体の下へ右手を回し抱きかかえた。
それでようやく安心したかのように、アウレリアはにっこりと微笑むと、ぴったりとアルトリウスの胸に自分の頬をくっつけながら問いかける。
「・・・離さない?」
「大丈夫です、私が付いています、これからは毎日、毎晩・・・」
アルトリウスが生真面目に答えると、アウレリアは含み笑いを漏らした。
「・・・うふ、いやらしい・・・」
「・・・嬉しそうに言わないで下さいっ。」
顔を赤くしたまま慌てたように言うアルトリウスに、アウレリアは毛布を被ったままアルトリウスの上に覆いかぶさり、艶やかな笑みを浮かべその顔を正面から見つめた。
「・・・ありがとう」
「・・・うう・・・」
自分の言葉一つ一つにきっちりと反応するアルトリウスに、アウレリアは最後に感謝の言葉を口にする。
今のアウレリアの心情がもっとも吐露された言葉に、アルトリウスは少しの間絶句し、下から見上げるようにアウレリアをぼうっと見つめた後に、我に返り、気を取り直したように言葉を返した。
「・・・最初に言っておきますけれども・・・私が結婚するのはアウレリア、あなた以外にはありえない。」
「・・・・・」
アウレリアは言葉の変わりに、自分の唇をアルトリウスの唇に強く、優しく重ねる。
そよ風が青草を撫でる音が微かに聞こえる以外は、まるでこの世に2人の他には誰もいないような静寂が2人を包む。
雲ひとつ無い空、月の光が静かに、わずかに開いた窓からそよ風と共に優しく窓から入り来て2人の身体と顔を撫でる様に通り過ぎていった。
初夏の強くなった日差しが東側の空を白々と照らし出し始めている。
アルトリウスとアウレリアは毛布こそ被り、寝台へ横になっていたもののまだ起きていた。
相変わらずアウレリアはアルトリウスの上に覆いかぶさって頬を胸に付けており、離れる気配は無い。
まどろみから醒めたアルトリウスは難しそうな顔をしながら、口を開いた。
「これから話すのは、あくまで表向きの理由というか・・・結婚に表も裏も無いとは思いますし、別に嘘でも建前でもありません、表現が難しいですけれども・・・つまりは私達の結婚式に込めたいメッセージの事です、アンブロシウス従兄さんにも話します。」
アウレリアはその言葉に少し頭を持ち上げ、何も言わずにアルトリウスの顔を見る。
「マヨリアヌス先生は、私達に3つの道しか無いと言いましたけれども、私はもう一つ道はあると思います。」
アルトリウスはアウレリアの視線を感じながら、そう言いつつもぞもぞと窮屈そうに身体を動かし、起き上がろうとしたが、アウレリアに身体を掴まれて動きを封じられてしまった。
アウレリアが腕を首筋に回してくるのを半ば呆れる思いで見ながら、アルトリウスは寝台から出る事を諦めてアウレリアの頭を撫でながら、しばしまどろみの時を過ごす事にし た。
アルトリウスとアウレリアは、しばらくまどろんだ後、身繕いをしてから小屋を出た。
もう小屋の中にいてもその活況は手に取るように聞こえてきてはいたが、改めてその様子に目を見張るアルトリウス。
新都の建築現場は、砂埃にまみれ、槌音響く凄まじい喧騒に包まれると同時に働く人々の活気が満ち溢れている。
全員が明るい表情で、そして積極的に働いている様子が一目瞭然であった。
家族を失い、傷を負い、財を失い、そして行き場を失い、難民として東ブリタニアから逃れ出てきた人々が大半を占めているはずであったが、そこに暗い表情は微塵も表れていない。
城壁は見る見るうちに組み上がり、壊れた水道や建築土台や基礎も綺麗に修復され、町の基盤となる道路は、かつて世界を網羅したローマ街道もかくやという見事な出来栄えを見せて敷設されている。
今までありとあらゆるものが破壊され、失われる一方であったブリタニアに新たな創造の時と息吹が訪れている。
アルトリウスはその中心に立ち、建築現場を指揮するために朝早くから野外に出ているマヨリアヌスを見つけた。
マヨリアヌスは喧騒の最中、まるで神と対話する古の賢者のような超然とした様子で、ゆったりと大きな羊皮紙を両手で広げ持ち、作業監督達と何やら話をしている。
少しして指示が終わったのか、マヨリアヌスの元から気合の入った表情をした現場監督達がそれぞれの持ち場へと散っていく。
マヨリアヌスはくるくると羊皮紙を丸めると脇に抱えるようにして持ち、また別の羊皮紙を取り出して形作られてゆく途中の町と見比べながら、ペンとインクを取り出して何やら書き込みをしていたが、ふと顔を上げた拍子に、近寄るアルトリウスの視線とぶつかった。
「おお、アルトリウス、ようやくお目覚めじゃな。」
ペンを走らせる手を止めたマヨリアヌスが微笑みながらそう声を掛けてくる。
「・・・はい、お蔭様で・・・都市の方は順調そうですね、先生。」
「うむ、まあ見ておれ、わしの脳髄に貯め置き知恵の全てを絞りてこの都市を形作ろうぞ、ブリタニアはおろか、西ローマ随一の都市の完成はすぐそこじゃ。」
マヨリアヌスは切り株で出来た椅子に座るようアルトリウスとアウレリアに促すと、自分もその前の切り株椅子に腰掛け、話を切り出す。
「それで、どうじゃ?その顔を見る限りでは答えが出たようじゃが。」
「はい。」
神妙に頷き、アルトリウスは口を開いた。
「ブリタニアでは皆が傷を負っている・・・財産はもとより、命や誇り、貞潔を奪われた人々はそれこそ数え切れません、本人だけでなく、その家族も言うに及ばずです、それでも、私達は強く生きていかなかければいけません、例えどんな酷い目に、辛い目に遭おうとも、ブリタニアの民は屈しないというメッセージを私達の結婚式を通じて、サクソンのような敵だけでは無く、先の見えない暗黒の時代を迎え、心の折れかかっているブリタニアの民に対しても送りたいのです、何があろうとも、強く逞しく生きていこう、そしてやり直せない事は何一つとして無いのだと。」
マヨリアヌスはその言葉を、顎に手をやり、無言で髭をしごきながら聞く。
「傷ついた従姉さんを利用するような形になってしまいますが・・・。」
申し訳無さそうに、自分を振り返り見るアルトリウスに、アウレリアは首を左右に振ってから微笑んだ。
その様子を見ていたマヨリアヌスは、顎から手を離すと徐に言う。
「・・・アウレリアと添い遂げる為に捻り出した理由がそれと言う訳じゃな・・・ふむ、悪くないのう・・・じゃが、それでは政治的な問題が一時的に棚上げにされたに過ぎん、アンブロシウスとてその辺は直ぐに見抜くじゃろうからな、しかし他にうまい手は無い、まあ、それで説得してみるしかあるまいよ、もうしばらくここに滞在するがいいじゃろう、おっつけアンブロシウスもやって来る。」
「はい。」
素直に頷くアルトリウスに、笑みを消さずマヨリアヌスは、パシンと自分の両膝を叩いてから席を立った。
「それでは、結婚式の準備を始めるとしよう、なあに心配するなアウレリア、それもわしに任せておくが良い、ブリタニア中のご婦人方が羨むような素晴らしい結婚式にしてやるわい。」
マヨリアヌスは笑みを浮かべたまま、くるりと踵を返して建築現場の視察へと向かった。
「まあ・・・説得が不首尾に終わっても、何とかしてやるわい。」
「・・・そんな事が認められる訳が無いだろう、先生まで一緒になって一体何の世迷いごとですか?冗談も好い加減にしてもらいたいのですが。」
アトラティヌスの配下からの報告と、捜索に出ていた兵士の報告両方を受けて、馬を飛ばして新都市建築現場へ文字どおり駆けつけたアンブロシウスは、アルトリウスとアウレリアを前にし、マヨリアヌスから2人の結婚式について説明を受けると、開口一番、厳しく吐き捨てるようにそう言い放つと、2人をじろりと睨み付けた。
アルトリウスの決断から二日後、今だ喧騒の最中にある新都市の建築現場の小屋で、4人が切り株で出来た粗末な椅子に座り、話し合いをしている。
「姉さん、あなたがこの状況を一番よく分かっているはずだ、あなたにアルトリウスと一緒になる道は既に一週間前に無くなってしまっている事に何故気が付かないのです?それとも、気付きながらもそんな甘い事を言っているんですかね。」
その辛辣な言葉に、アウレリアが一瞬びくりと身体を震わせるが、アルトリウスがしっかりとその手を握って首を左右に振り、優しく微笑んだ事で、落ち着きを取り戻した。
その様子を認め、アンブロシウスは苦虫を噛み潰したような顔でマヨリアヌスを見るが、マヨリアヌスはそ知らぬ顔でアンブロシウスを見ている。
アンブロシウスとて、言いたくてこのようなキツイ事を言っている訳ではなかったが、今のブリタニアの情勢では、出来るだけ他勢力から謗りや非難を受けるような弱みを作る事は避けたい。
敢えてアウレリアをアルトリウスから引き離そうと試みているのも、その一心からであったが、どう言う訳かマヨリアヌスも2人の肩を持っている以上、今この場所この時では分が悪い。
「・・・この話は居館に戻ってからゆっくりする事にしよう、アルトリウス、もう馬には乗れるな?姉さんを連れて戻るんだ。」
「・・・それは・・・出来ません。」
きっぱりと言い放ったアルトリウスに目をむくアンブロシウス。
すんでのところで怒鳴り付けるのを耐えたアンブロシウスは、深く深く深呼吸をしてからもう一度アルトリウスに同じ事を言おうとしたが、口を開いたところでマヨリアヌスの言葉が入り、再び目をむく羽目になった。
「ああ、そうじゃ、既に結婚式の招待状をブリタニア各地に有力者や都市送ってしまっておる、ボルティゲルンは愚か、サクソンのヘンギストや西ローマ皇帝ホノリウス宛にもな、最早回収するには手遅れじゃ。」
「なっ!?」
「おぬしも見んかったか、街道のあちこちにも高札も立てておいたのじゃがな?」
とぼけたマヨリアヌスの言葉にアンブロシウスは目の前が真っ赤になるような怒りを覚えて大声を上げる。
「何を考えているのですかっっっ!!?」
うるさそうにマヨリアヌスが右耳を小指で掻きながら答える。
「何もどうもなかろう、2人の結婚式をするのじゃ、婚約しておったんじゃ、今でも遅いくらいじゃろうて。」
「・・・くっ、そういう事を言っているのでは・・・!!」
「諦めよ、もうどうにも出来んわい・・・今は政治家や指導者としてよりも、2人の身内として結婚を祝ってやれ。」
焦って椅子から立ち上がっては座るという動作を繰り返していたアンブロシウスは、マヨリアヌスのその言葉にがっくりと力尽きたようにへたり込んでしまった。
「・・・アルトリウス、お前のお陰で手間が増えた、埋め合わせは必ずしてもらうぞ?」
心配して立ち上がったアルトリウスを恨みがましそうな目で見上げ、アンブロシウスはそう言うと、アウレリアを見た。
「姉さんは幸せ者だ・・・こんな良い婿は他にいませんよ。」
「・・・アンブロシウス・・・」
アウレリアが何かを言う前に、アンブロシウスは立ち上がってマヨリアヌスを見ると、深々と頭を下げた。
「・・・2人を宜しくお願いします。」
「先生、今回の事に関しては本当にありがとうございます、先生の策略のお陰で助かりました。」
「・・・策略とは、人聞きが悪いのう、まあ、気付いてはおったと思うたが。」
アンブロシウスの言葉に、マヨリアヌスは苦笑しながら答える。
夜、作業が全て終了し全員がそれぞれの寝床に引き上げた後、アンブロシウスはマヨリアヌスの小屋で世話になる事にした。
アルトリウスが決断したその日のうちに、マヨリアヌスは素早く各地へ結婚式の招待状を送りつけ、さらには街道沿いに高札を掲げる等して、ブリタニア市民に対し、結婚式の告知を行った。
結婚式の予定を広く知らしめる事で既成事実を作り上げ、アンブロシウスが反対したところで引き返せない状態にしてしまったのである。
遅い食事を共にしながら、アンブロシウスは言葉を継いだ。
「・・・このままであったなら、政治家としてはともかく、家族としては最低な結果に・・・家族を不幸にしてしまうところでした、強引に進めて下さったお陰で、私はここにいられる。」
マヨリアヌスはワインの入った木杯を傾けながら話を聞いていたが、木杯を粗末な机に置くと、アンブロシウスに語りかける。
「・・・どちらがより良い選択であったかは、正直分からぬ、むしろ2人を引き裂いておった方が良かったのかもしれん、しかし、じゃ。」
マヨリアヌスは一旦口を閉じると、傍らに置いてあるこれまた粗末なパンを取り上げた。
「この粗末なパン一つとっても、様々な人の手を経ておる、どこかでこのパンに関わった誰かがいなければ、このパンはここには届かん、つまりは『人の輪』と、そこに必要な『和』が大事と言うことじゃな、アウレリアを粗末に扱えば、アウレリアと同じ境遇を持つあまたのブリタニア人やその家族を蔑ろにすると言う事じゃし、ましてや己の家族間に亀裂を生じさせて良い仕事が出来るとも思えぬ、『人の和』が乱れ、『輪』が切れ切れになってしまうという事じゃ。」
手に取ったパンを口に入れ、うむ、うまい、と独語しているマヨリアヌスから視線を外し、アンブロシウスは自分の木杯を手に取り少なくなった中身を覗いてそう言った。
「しかし、ブリタニアの有力者達は何と言うか・・・」
苦しそうな顔でこぼすアンブロシウス。
有力者達は必ず何らかの形でアウレリアの不幸を誹り、アルトリウスとの結婚を非難してくる事は間違いない。
「大丈夫じゃ、大して役に立たん有力者や豪族には何とでも言わして置けばよい、アルトリウスとアウレリアが結婚しようとすまいと、そこに瑕疵があれば文句を言う、奴らはおぬしを非難さえ出来れば良いのじゃからな、それに比べブリタニアの庶民、市民はこの結婚式でアウレリアを許し、アルトリウスと結び付けたお主の存在を認め、支持する事は間違いないが、逆に引き離しておれば非情な指導者として支持を失っておっただろう。」
アンブロシウスは手に取った木杯のワインをぐいっと飲み干すと、さっぱりとした顔でマヨリアヌスに向き合い、何か吹っ切れたように言い放った。
「ブリタニアの民こそ力、有力者などいずれ全ていなくなりますよ。」
「・・・そうじゃな、いずれは、失くさねばな。」
マヨリアヌスはそう強がるアンブロシウスの木杯に瓶からワインを注いでやると、自分の木杯にもワインを足し、それを掲げた。
「2人の前途が幸多からん事を願って。」
こん
軽く、ささやかな木杯同士の当たる音が小屋に響いた。