第21章 受難の時
「不可能だアルトリウス、気持ちは分かるが手掛かりが全く掴めない以上不用意に動くべきではない、何よりその怪我でお前自身が動くのは無理だ。」
アンブロシウスは苦りきった表情でアルトリウスに強くそう言った。
アルトリウスは文字通り護衛の兵士達によって寝台へ縄で括り付けられており、身動きが適わないため、必死に唯一動く口を使ってアンブロシウスを説得しようとしていた。
「無理では有りません、私が前面に出る必要は無いのです、コリニウムまで進出してそこで指揮を執ります、捜索自体は兵達に任せます、どうか私を外へ出してください!!」
ロンディニウム撤退はアウレリアが攫われるという予想外の出来事を余所に滞りなく進み、現在官僚達やロンディニウム市民はアルトリウスの居館があるカストゥス家の領地まで無事引き上げてきたところである。
サクソン人を牽制する為に出動していたブリタニ軍本隊も、東ブリタニア各地でサクソン人集落に対する小規模な焼き討ちを行い、サクソン人の動揺を誘い、いきり立って出動してきたサクソン軍を尻目に悠々と引き上げを完了しており、作戦自体は大成功の内に終了している。
アンブロシウスはアウレリアが攫われたとの第一報を受けて直ぐ、首謀者と見られる西のボルティポルに詰問の使者を立てて、アウレリアの身柄引き渡しについて交渉を行おうとしたものの、ボルティポル卿はアンブロシウスとの直接交渉を拒否し、使者を追い返してしまったのである。
おそらく自身が先に仕掛けた暗殺が失敗した為に、そのつけを払わされると考えたのであろう。
要は暗殺が怖くて会えない、という事である。
それでもアンブロシウスの懸命な働きかけにより、ボルティポルは信頼する配下豪族の1人であるグラティアヌスを派遣して詰問に応じたのであるが、その答えは何とも中途半端で全く当てにならないものであったのである。
「確かにサクソン兵を雇っていた事については間違いないが、そのサクソン兵どもは我が方の指揮を離脱し、ボルティポルの兵を殺して逃亡した、その前後の事柄については当方与り知らぬ。」
既に初老の域に達しているグラティアヌスは、西ブリタニアでは名を知られた剛勇であり、そのしかめ面を崩す事無くボルティポルには責任が無い旨を口上したが、怪我を押して来賓室で待っていたアルトリウスが青い顔のまま激しく噛み付いた。
「私の妻にもし万が一の事があった場合もその様に言い逃れを出来ると思ったら大間違いである事をあらかじめ申し伝えておきましょう!・・・・私の全力を持ってその報いを受けさせて見せるぞ!!」
酷い衰弱ぶりに似つかわしくないアルトリウスの恐ろしいまでの気迫に、鬼気迫るものを感じたグラティアヌスはしかめ面のままではあるがサッと顔色を変え、身内であるアンブロシウスでさえはっと息を呑む。
グラティアヌスはアルトリウスが指揮したブリタニア元老院後のピクト人やフランク人との戦闘に従軍し、その軍事的能力を目の当たりにしており、むろんアルトリウスの残虐性が発揮された戦場のいくつかも経験している。
その後は地元の有力者であるボルティポルの圧力に屈し、ブリタニア軍を離脱してその配下の将軍として近隣豪族との小競り合いに終始していたのであるが、アルトリウスの頼もしさと恐ろしさを彼は十分に理解していた。
しばらくアルトリウスと睨みあった後、グラティアヌスはしかめ面を一層しかめて搾り出すように言葉を発した。
「・・・アルトリウス司令官、私の口からこれ以上の事は申し上げ兼ねます、・・・が、あなたは目下カストゥス家以外の勢力から例外なくもっとも恐れられている存在である事をお忘れ無きよう御願い致します、聞けばアウレリア殿はあなたと同じ意匠の鎧を身にまとわれていたとか・・・それでは失礼いたします。」
がつっ
腕を胸元まで上げるローマ式の敬礼をすると、軍装のグラティアヌスは赤いマントを翻し居館の来賓室から背筋を伸ばしたままの姿勢で歩み去った。
「・・・アルトリウス、グラティアヌスの言葉の意味は分かったか?」
アンブロシウスが淡々とアルトリウスに確認するように問いかけた。
「アウレリア姉さんは私が依然使っていた同じ型式の鎧を丁度良い大きさだからと言って使っていました・・・つまりはアウレリア姉さんを私と間違えて手薄になったコリニウムの建築現場を襲ったと言う事です。」
ばん!!
アルトリウスはそう言うと悔しそうに涙を流しながら自分のかけている椅子を握りこぶしで殴りつける。
「・・・まあ、そうだな・・・」
アンブロシウスは、従弟の言葉に同意しつつも胸の内では別の事を考えていた。
・・・・・怪我の功名とでも言うべきか、姉のおかげでアルトリウス個人を狙った暗殺に近い襲撃だったという事が判明した、これからアルトリウスには然るべき護衛を付けなければならない、ましてや一時的にとはいえサクソンとボルティポルが手を結んだという事は、これに近い事が今後も起こりうる可能性がある、サクソン自体もアルトリウスの命を狙っているのは明白だからな、それに何よりこれで西のボルティポルを攻める口実が出来た、アルトリウスも否とは言うまい・・・・・
「・・・アウレリアの事は私達に任せて、アルトリウス、お前は一刻も早く身体を元に戻すよう養生するんだ。」
アンブロシウスは護衛兵を呼び、アルトリウスを寝室へ戻そうとしたが、アルトリウスは脇から自分の身体を支えようとした護衛兵の手を振り払った。
「・・・お断りします、私は姉さんを助けに行かなければなりません、すぐにここを発ちます。」
「・・・っ!?無茶苦茶を言うんじゃない、お前の身体は完治からは程遠い状態なんだぞ!護衛兵!構わないからアルトリウスを司令官を無理にでも寝室につれてゆけ!逃げ出さないように縛り付けて置くのを忘れるなよ!!」
自分の胸の内を見透かしたかのように鋭い目つきで見つめられ、冷静沈着でめったに声を荒げないアンブロシウスは珍しく焦った様にアルトリウスを怒鳴りつけ、戸惑う護衛兵に命じて、嫌がるアルトリウスを無理矢理寝室へ戻してしまった。
そしてアルトリウスがいなくなった来賓室で、アンブロシウスは一人頭を抱える。
「・・・姉を救い出したいという気持ちはあるが、これに拘泥していては、無為に時間が経過する事となる、何より相手はサクソン人だ、例え命が無事だとしても姉が五体満足である可能性は限りなく低い・・・」
ましてや、幼少期にとはいえ蛮族に両親を惨殺され、正気を失った期間のあるアルトリウスが、精神と肉体を酷く傷つけられた従姉であり妻でもあるアウレリアを目の当たりにして一体どんな反応を示すだろうか。
肉体の頑強さと、戦闘における機知にかけてはブリタニ随一といっても過言ではない従弟アルトリウスには、身内の者の不幸に過剰な反応を示す傾向にあり、最近は落ち着いてはいたものの、副官から戦闘後の夜中に戦死した兵士の名を呼びながら、うなされている様子があるとの報告が秘密裏に上がってきている。
ましてや今回は幼少の頃から身近に居た従姉で、妻であるアウレリアが攫われた。
それ以降のアルトリウスの様子ははっきり言って普通ではなかった。
軍神アルトリウスの意外な弱点を突かれてしまった形になり、アンブロシウスは悩んだ。
アルトリウスが少年時代の悲惨な過去を完全に克服していれば問題ないが、それは実際その場になってみないと分からない上に、今の状態を見ている限りでは怪しいと言わざるを得ない、アンブロシウスとしては無用の賭けは避けたかった。
アルトリウスに万が一の事があっては全てが瓦解する、今アルトリウスを失うわけにはいかない。
実は既にアルトリウスには内密に、ブリタニア軍の一部を割いてアウレリアの捜索に当たらせていたアンブロシウスであったが、一つの非情な命令を与えていた。
『アウレリアが心身ともに無事で無い場合は、密かに殺害し、発見できなかった事にせよ。』
無論、アンブロシウス一人の胸の内に収められており、アルトリウスは愚か、マヨリアヌスにさえこの命令を出してある事は打ち明けていない。
「お願いですアンブロシウス従兄さん、どうか私を外へ出させて下さい。」
アンブロシウスは騒々しいアルトリウスに辟易しながらも、その話を聞いていたが、何度断っても諭しても諦める事をしないアルトリウスに少し呆れた。
「何度も言うように、無理だ、アルトリウス、この話はもう終わりだ。」
「従兄さん!」
最後にそれだけ言うと、アンブロシウスはなおも言い募るアルトリウスを無視して寝室の扉を閉め、外へ出た。
外で難しそうな表情をして待っていたマヨリアヌスに、アンブロシウスは苦笑しながら話し掛ける。
「どうにも聞き分けがなくて困ります、心情は分かるのですが・・・」
「ふうむ、確かにアウレリアの事は心配じゃが、進めるべき事は進めておかんといかんしのう・・・」
苦渋の決断を強いられているように渋い顔で答えるマヨリアヌスに、アンブロシウスもまじめな顔になって応じる。
「・・・逆に今アルトリウスが負傷していてくれて助かりました、これで健康なら抑え切れませんでしたから、まあ、もっともアルトリウスの身体が満足に動けばこういった事態も起こりようがありませんでしたけれども。」
「・・・これも運命か・・・酷ではあるが・・・婚姻を進めた手前もあるしのう。」
「・・・。」
アンブロシウスが無言で頷くと、マヨリアヌスはふううと大きくため息を付いた後、気を取り直したようにアンブロシウスを執務室の方へと促し、歩きながら話を始める。
「新都市造営の話じゃが、幸い襲われたにもかかわらず特に今までの建築物に損害は無い事が判明したのじゃ、ここに軍を駐屯させ、この間の金を使って一気に都市を造営してしまおうと思うておるのじゃが、承認はもらえるかの?」
一旦はアウレリア誘拐に絡む建築現場の襲撃事件で中断されていた新都市造営は、マヨリアヌスの手で再開される事が決まっていた。
これも進めなければいけない計画のひとつであり、この計画が進まなければ数万の難民が行き場を失って路頭に迷う事となる。
マヨリアヌスは費用の見積もりと、人員の募集、難民の移送等に関する計画を記した書類をアンブロシウスに手渡しながら言葉を続けた。
手渡された書類を見ながら、アンブロシウスは歩みを止める事無くマヨリアヌスに問いかける。
「造営にはどのくらい時間がかかりますか?」
「ふむ、まあ・・・引き上げ元のあちらこちらから建築材料を運び込んでおるしのう、人夫も難民がそのまま参加してくれる事になっておる・・・まあ半年弱というところか。」
都市の建築期間としては異様に短いが、軍団駐屯地だった頃の水道などのインフラ設備が元からあった上に、アルトリウスとアウレリアの手によってある程度土台が形作られていた事、労働力として多数の難民を使える事、資金が豊富に用意できた事、更には建築資材を放棄した都市からかなりの量を持ち出す事ができた事によりこの様な短い期間での都市建設が可能になった。
「・・・分かりました、それでは先生に総指揮を執って頂きますので宜しくお願いいたします。」
「うむ、ではわしは現場のコリニウムで指揮を執る事にするので、しばらくは戻らん・・・アルトリウスとアウレリアの事くれぐれも頼んだぞ。」
執務室に付く前に用件がすべて終わってしまったマヨリアヌスは途中で、進路を変えると、そう言ってからアンブロシウスをじっと振り返って見るとおもむろに口を開く。
「・・・あまり己を殺しすぎてはいかんぞ、例えその選択が指導者として正しかったとしても、じゃ。」
「・・・・・。」
黙り込んだアンブロシウスを置いてマヨリアヌスはすっと左手を上げると、居館の玄関へと向かって去っていった。
「・・・それでも、決断は誰かが下さなければなりません、そう教えてくださったのはあなたです、先生。」
マヨリアヌスが去った後姿を見ながら、アンブロシウスは暗い、しかし平静な顔でそうつぶやく。
季節は初夏、きらめく陽光がアンブロシウスの顔を照らし出すがその顔色は優れず、さわめく風にも心動かされぬまま、アンブロシウスは執務室へと向かった。
「・・・・・何者だ?」
アルトリウスはアンブロシウスが立ち去った後、気付いていた窓際の気配に向かって、廊下側の護衛兵に気付かれない様な小さい声で問いかけた。
「・・・ほう、我の殺した気配を察知するか、なるほど、並みの軍人ではないとの噂に違わぬ武人振りよ。」
黒いフードを被った全身黒ずくめの人物が、何時の間にかアルトリウスの枕元に現われた。
「・・・何処の間者だ?・・・ボルティゲルンか?」
アルトリウスの言葉に黒ずくめの人物は低い含み笑いを響かせる。
「ふふふ、丁寧なご挨拶痛み入る、しかし貴官の予想は大外れと言わざるを得んな、わざわざラヴェンナの深淵からまかり越したのだ、もう少し捻りの利いた回答が欲しかったぞ。」
「・・・!?西ローマの間者か!」
驚いて問い返すアルトリウスに、含み笑いを消さないままその人物は答える。
「当たらずとも遠からじ、といったところか、まあよい、我が名はアトラティヌス、かつてのスティリコ西ローマ帝国副皇帝にして総司令官の影、今は無職、目下求職中だ。」
「スティリコ将軍の・・・」
黒ずくめの人物ことアトラティヌスは、再び驚くアルトリウス寝台の横に、フードを取って立った。
「・・・!スティリコ総司令官!!?」
「ほう、これは失敗かな?アルトリウス殿に我が弟と面識があったとは・・・。」
自分の顔を見て上ずった声をあげるアルトリウスに、アトラティヌスは再び含み笑いを漏らしながら、感心したような声をあげる。
「・・・ああ、面識というほどのものじゃないが、1度だけ、スティリコ総司令官がブリタニア遠征に来られた時にな。」
10年近く前の少年時代の話であるが、スティリコはブリタニアの防衛情勢視察のために軍を率いてブリタニアに来島し、その際1回目のブリタニア軍団引き抜きを行っている。
まだ幼かったアルトリウスは西ローマの英雄を一目見ようとアンブロシウスやアウレリアに連れられて、ポートルゥスマグナムの埠頭まで彼の勇姿を見物に行った事があった。
そのときの輝かんばかりの笑顔をアルトリウスは忘れていなかったのである。
「・・・いつか私もああ言う英雄になりたいと思ったから、よく覚えているさ・・・しかし、兄がいたとは・・・。」
アトラティヌスの陰気はスティリコと明らかに纏っている雰囲気が異なるが、顔の造形はかつて仰ぎ見たスティリコの顔を幾分老けさせた程度のものである。
あの時スティリコを見て歓声を上げていた少年は、今やブリタニアの司令官として軍を率いている、経過した年数を考えればおかしな事ではない。
「まあ良い、これで貴官には是が非でも我を雇って貰わねばな、無関係のものに秘密を知られてしまっては何かと支障がある・・・で本題だが、貴官はこんな所でうかうかしておっても良いのか?」
アルトリウスの言葉を聞き流し、アトラティヌスはからかうようにそう言った。
「・・・・・。」
「アウレリア殿を探しておるのだろう?我ならば力になれるぞ、どうする?」
黙りこんだアルトリウスを更に挑発するようにアトラティヌスは言葉を継ぐ。
「・・・どうやって探し出すというんだ、行方は知れていないし、相手は気ままで無茶無理を当たり前にするような蛮族だ。」
しばらく間を置いて言葉を発したアルトリウスを相変わらず揶揄するような口調でアトラティヌスはしつこく問いかけた。
「ふむ、それは我等を雇う事を承諾したと看做して良いのだな?」
「・・・ああ、雇おう、アウレリア姉さんを無事連れ戻せるならなんだってする!」
苛立ったアルトリウスが声を少し大きく上げると、アトラティヌスはにっと口過度だけで笑みを浮かべてアルトリウスの欲していた答えを口にする。
「実はそれらしい500名程度のサクソン隊を見つけてある、残念ながら見つけたのはつい先程であるから、アウレリア殿の身の保障は致し兼ねるがな。」
がたん
縛り付けられているアルトリウスの寝台が強く揺れた。
「直ぐにこの縄を解いてくれアトラティヌス!!」
「・・・その怪我では貴官が行っても足手まといにしかならんが・・・」
激しく身体をよじってそう願うアルトリウスを冷めた目で見つめるアトラティヌスはそう言って断るが、強い視線を自分に向けてくるアルトリウスを面白がるように問い直す。
「・・・アウレリア殿の心身が汚されていた場合、貴官はどうするつもりだ?」
「・・・!」
絶句するアルトリウスの縄を手早く切りながらアトラティヌスは言葉を継ぐ。
「まあよい、貴官の剣技と気迫に期待しよう、しかし想像したくないのだろうが、我の言葉を今一度噛み締めた方が良いと思うぞ・・・本人と会う前にな。」
・・・ここは一体何処なんでしょう・・・
ゆらゆらと揺れる身体でぼんやりとしていたアウレリアは、ふと周囲を見回してそう思った。
コリニウムの建設現場で襲撃されてから、まる1週間が経っていた。
視界に入ってくる瑞々しく緑を湛えた初夏の青草や木々の新芽すら灰色に見えてしまう。
日は暮れ始めており、また恐怖の夜が訪れようとしていた。
強引に破り剥ぎ取られた衣服はほんの少しアウレリアの身体に引っかかっているだけの状態であり、体中には大小の傷があり、そこから出た血が固まってこびりついている。
激しく抵抗した際に殴りつけられた顔は左側を中心に酷く腫れ上がり、左目はそのために開かずよく見えなくなってしまっていた。
口の中も殴られた時に切ったままでぼろぼろに傷ついている。
・・・アルにこんな姿見せられません・・・
・・・でも、もう一度だけでいい、アルに、逢いたい・・・
自ら命を絶とうと考えたアウレリアだったが、それすら許されない状態が続いていた。
実際、ほとんど身動きどころか身じろぎすら出来ないくらいきつく縄で後ろ手に縛られた上に、一度舌を噛み切ろうとした事から、今は猿轡まできつく噛まされている。
既に一週間が経っていたが、流石のサクソン兵達にも、ここは敵地の真っ只中であるという認識があるためか、彼らはほとんど休み無く歩き続けており、アウレリアはずっと荷物のようにサクソン兵の肩に担がれて運ばれており、逃げ出す隙も自殺する術も見出せ無かった。
サクソン兵達も昼間にへとへとになるぐらい歩いて移動している為か、夜になると少ない食料を奪い合うようにして食散らし、その後は2、3時間の短い睡眠を取ると直ぐまた出発していた。
しかもアウレリアは食糧は愚か、水すら満足に与えられず、酷く衰弱してきており、今は例え隙があったとしても逃げ出すことは体力的に難しくなってきている。
声を発する事も出来ず、アウレリアは絶望と希望の狭間で思考を彷徨わせながら1週間を過ごしていた。
乱世である事は十分に理解していたつもりであり、いつかこういう時が来るかもしれないと漠然と考えた事はあったアウレリアであったが、やはり実際に自分が乱世の現実に為す術も無く巻き込まれてしまうと、そのあまりに圧倒的な暴虐に抵抗すら適わず、ただただ耐えることしか出来なかった。
いや、とても耐えられたとは言えない。
アウレリアは痛みと嫌悪感に泣き叫び、想い人の名を呼び助けを求め、嘲笑に胸を裂かれ、暴力に悲鳴を挙げた。
嵐のような無情な時間が過ぎた後も、アウレリアは心を殺したまま、横たわっていた。
しばらくして自分が生きている事に気が付いたくらいである。
・・・まだ、生きています、私はまだ生きている・・・生きなければ・・・
どさりと乱暴にサクソン兵の肩から地面に降ろされたアウレリアは、強く身体を打って胸が詰まり、弱弱しく咳き込んだ。
今日はいつもより早く休憩に入るようで、あちこちでサクソン兵が丸くなって焚き火の用意を始めている。
・・・ああ、アル、早く、早く助けて・・・
うっすらと滲む涙を通し、アウレリアの瞳に蛮族の起こし始めた焚き火の光がぼやけて映った。
「主殿よ、いたぞサクソン人どもだ、野営の準備をしている。」
アトラティヌスの言葉に反応して馬を止めたアルトリウスが遠望すれば、500人弱のサクソン人がそれぞれ固まって火を起こしている様子が窺えた。
その端に、一人縄を打たれた華奢な人影があった。
よく見るまでも無く、かなり衰弱して地面に横たわっている様子である。
「・・・・!?姉さん!くそっ、一気に蹴散らしてやる、行くぞアトラティヌス。」
息を切らせながら怒りに奮えたアルトリウスが剣を抜こうとしたのを、アトラティヌスが手を上げて留め、馬から降り、更にアルトリウスにも馬から降りるよう促す。
「落ち着け、それに主殿はここまでの強行で既に体力をかなり消耗している、少し休むべきであろう、我が配下の者達も間もなく到着する。」
アトラティヌスが言い終わらない内に、次々とフード付のマントを身に纏った黒装束の者達が暗闇の中から現われた。
全員で10名、アトラティヌスとアルトリウスを入れてもわずか12名。
「・・・どうするんだ、早くしないと姉さんが・・・」
アルトリウスが焦りの声を上げるのとは対照的に落ち着いた様子でアトラティヌスは口を開いた。
「こういった闇の仕事は我等に一日の長がある、任せてもらおう、主殿は我と共にアウレリア殿を助けに行く機会を見計らえばよい。」
「・・・分かった。」
アルトリウスは不承不承ではあるがアトラティヌスの言葉に頷き、その場に腰掛ける。
自分の体力が落ちている事や身体に無理が利かない事は、アルトリウス自身が一番痛感しており、このまま無闇に突撃しても犬死である事を悟っていたからである。
その言葉に頷いたアトラティヌスは配下に目配せすると、影達はするりと闇に紛れてサクソン人の野営地を目指した。
しばらくするとサクソン軍の陣営の端の方で異変が起こる。
焚き火を囲んでいたサクソン兵たちが無言で次々と倒れ伏していき、それはアウレリアの転がされている焚き火の近くまで進むと、今度はその周囲に広がった。
やがて、アウレリアがいる焚き火の周囲にある焚き火を囲んでいたサクソン兵たちは、全て倒れ伏した。
「毒の吹き矢だ主殿、では行こう、我に付いて来てくれ。」
驚くアルトリウスにアトラティヌスはそう短く説明すると、短剣をするっと抜き放ち、ゆらりと立ち上がってアルトリウスを促し、巧みに闇の濃い場所を選び、サクソン軍の陣営に近付いていく。
『・・・やあ今晩は、ちょっと良いかね』
アトラティヌスが気さくな感じでサクソン語を使って話し掛けると、サクソン人隊長がうっそりと立ち上がって訝しげに言葉を返してきた。
『何の用だ、見たところおれの部下では無さそうだが、こんな所にサクソンの同胞がいるとは・・・』
『いや、何、あんたが隊長か、丁度良かったあんたにお礼がしたいって人がいるんだが』
気さくな雰囲気を壊さずアトラティヌスは話しを継続し、一方でアルトリウスに会話の合間で腹話術を使って話の内容を伝える。
『ほう、誰だ?』
『戦王アルトリウスだよ、妻を可愛がってくれた礼をしたいそうだ。』
『何!?』
怒りに燃えたアルトリウスの剣がアトラティヌスの影から縦に一陣の光を残して走り、サクソン人隊長の丸太のような右腕と右足を一気に切り飛ばした。
がああああああ!!
ケダモノのような叫び声を挙げてサクソン人隊長が右手右足を失い、その傷から血を噴水のように吹き出させて転がる。
一緒に焚き火を囲んでいた10名ほどのサクソン兵たちが異変に気付いて駆け寄って来た。
「・・・蛮族め、何時までこのブリタニに悲劇を撒き散らすつもりだ・・・!」
肩で荒い息をしながらもアルトリウスはサクソンソードを文字通り叩きつけてきた、サクソン兵を剣でいなしてやり過ごし、その次にまだ剣を振りかぶる途中のサクソン兵の首を突いて絶命させてから、先程いなした兵士が立ち直る前にうなじを横に切り裂いた。
更にアルトリウスは剣を突き出して突進してきたサクソン兵の頭を叩き割り、帰す刀で背後から忍び寄っていたサクソン兵の腹を下から切り上げた。
その間にアトラティヌスは2人のサクソン兵をそれぞれ一本の短剣でサクソンソードを受けては隠し持っていたもう一本の短剣で喉を掻ききる戦法で葬っている。
そうしている内に周囲にいたアトラティヌスの影達がサクソン兵を一人ずつ背中から刺し殺し、あっという間にサクソン人隊長の側近達は全滅してしまった。
死に切れずにまだ叫び声を上げ、自分の血にまみれてばたばたと暴れているサクソン人隊長を尻目に、アルトリウスは息を切らせ、痛む背中を庇いながら剣を杖代わりについてアウレリアに駆け寄った。
「従姉さん!従姉さんしっかりして!」
横たわるアウレリアを抱き起こして猿轡を取り、身体を縛り付けている縄を剣で切り落としたアルトリウスは、ぼろ雑巾のように汚れ、傷ついたアウレリアを抱きしめて呼びかけた。
「・・・あ、アル?・・・本当に?・・・うそ・・・」
目を薄く開いたアウレリアは、アルトリウスの姿を認め、切れ切れに言葉を紡ぎだす。
しっかりとした優しさの込められた抱擁は間違いない、いつも欲していたこの暖かい抱擁はアルトリウスだ。
アウレリアの身体を自分のマントで覆い、皮袋で出来た水筒から水を飲ませるアルトリウスは、更に濡れた布で、顔を拭くが、アウレリアの瞳からは涙が次から次へと溢れ出し用を成さない。
もっとよく見たいのに、あれほど待ち望んだ瞬間なのに、枯れ果てたはずの自分の涙が邪魔でアルトリウスの顔を良く見る事が出来ない。
「ご、ごめんなさい、ごめんさいぃぃ・・・」
泣きじゃくりながらアルトリウスにぎゅっとしがみつくアウレリア。
「従姉さんは何も悪くありません、私が・・・すいません、私が色々頼んだりしなければこんな事にはならなかったのに。」
違う、聞きたかったのはそんな謝罪の言葉じゃない。
アウレリアは弱々しく頭を横に振った。
「違うの、いいの・・・そうじゃないの・・・怖かったの、逢いたかったの・・・嬉しいの・・・!!」
身体を抱きしめ直したアルトリウスにアウレリアは更に強くしがみつき、泣き続けた。
泣きじゃくるアウレリアを抱き抱えるようにしてアルトリウスは暗闇の中をアトラティヌスたちの先導で馬を繋いだ場所まで戻り、サクソン兵たちから逃れた。
隊長を倒したとはいえ、未だ半分以上のサクソン兵がその事実すら知らずに久々の大休止で騒ぎに興じている、うかうかしていると事が露見し追っ手を掛けられる惧れがあった。
手早く馬に横抱きのままアウレリアを抱え上げ、アルトリウスは馬を走らせた。
「主殿、戻るのであれば、マヨリアヌス師のいるコリニウムの建築現場へ向かってもらいたい、アンブロシウス殿は少しばかりきな臭い。」
馬をしばらく走らせ、サクソンの野営陣から十分離れたところで、アトラティヌスはそう言って行く先の変更を求めた。
「・・・どういうことだ、アトラティヌス、従兄さんが信用できないというのか?」
憮然とした様子で問いただすアルトリウスに、アトラティヌスはフードの中で密かに薄笑いを浮べて応じる。
「きな臭い、と言ったのだ主殿、アンブロシウス殿は稀代の政治家にして生粋の指導者、今回の件でいかな判断を下したもうたのかは推して図るべし、主殿を自由にしなかっただけでも良い証左であろうと思うが、如何?」
「・・・分かった、先生のところに向かう、従兄さんへの伝言は頼まれてくれるな、アトラティヌス。」
アルトリウスが渋々沿う応じた事にアトラティヌスは満足そうに笑みを浮かべて答えた。
「承知した、主殿、我が配下の者を向けよう。」
日は既に完全に落ち、石で舗装されかつては照明さえも完備されていたローマ街道も、今は手入れをする者も無く、わずかに月光の冷たい輝きを反射しているだけで、暗闇は深まっている。
その暗闇の中をただ一騎、明かりを灯すことすらせず、アウレリアを抱いたアルトリウスが駆け抜けてゆく。
「我等は近隣の豪族にサクソン兵がここで寝こけている事を教えてやろうと思う、さすれば黙っていてもサクソン兵は始末されよう・・・では野暮は消える。」
アトラティヌスは無表情でそう言い残すと、部下の影たちを従え、再び闇に紛れて姿を消した。
泣きじゃくっていたアウレリアも、アルトリウスの胸の中でようやく落ち着きを取り戻し、今はその衣服をシッカリと握り締めて離さないものの、無言でアルトリウスの走らす馬の揺れに身を任せている。
「・・・アル、馬を止めてください。」
アウレリアは丘陵地に差し掛かった所でアルトリウスに馬を止めるよう頼んだ。
アルトリウスが馬を止めて降り、アウレリアを降ろすと、アウレリアはローマ街道の脇にある休憩所の跡地に入っていく。
今は全く使用されている形跡は無く、蔦に覆われ、所々ひび割れが生じてはいるものの、頑丈な石造りの建物はしっかりと往時の2階建てを維持し続けていた。
アウレリアはアルトリウスが馬を繋ぎ、自分の後から付いて来るのを確認すると、壁を伝いながら2階部分に向かう。
2階に着いたアウレリアを待っていたのはさわやかな風。
・・・まるでアルみたいな風・・・気持ちよくて、さわやかで・・・でも、今の私にはふさわしくない・・・見合わない・・・
風は、アウレリアの気持ちを余所に心地よく髪と身体を通り抜けて行くが、2階から見える景色もまた、闇に包まれどこに何があるかは全く窺えなかった。
・・・最期の景色が暗闇なんて・・・でも、アルの顔さえ見えれば私は・・・
アウレリアも政治家としての素養は受けている、心情的に穢されたと感じる以外に、今の自分がどういう状態であるかは分かっていた。
例え今後アルトリウスとの間に子供が出来たとしても、おそらくこの一週間の為に疑惑の目で見られる事は間違いない。
ましてや軍神アルトリウスの後継者ともなれば、ただ好奇の目に晒され、無用の誹りを受けるだけでも耐え難いのに、それだけでは済まされず、必ずそこに政治が絡んでくる。
弟であるアンブロシウスもその辺の事は十分わきまえているはずであり、おそらく弟はそういった危険な芽を摘むべく、アウレリが無事戻ったとしても、婚約を白紙に戻すだろう。
その後良家の娘をアルトリウスに娶わせ、アウレリアは領地で隠遁生活を強いられるのは目に見えていた。
蛮族に心身を汚された上に、それを理由として身内に想い人を奪われる、それはアウレリアにとって耐えられるものでは無かった。
「・・・従姉さん、どうしたんですか?こんな所に来て・・・」
アルトリウスが訝しげにそう声を掛けると、アウレリアは外に向けていた顔をアルトリウスの方へ向け直した。
アウレリアの暗がりに慣れた目に映ったのは、何事も無かったかのように、心配そうな顔でアウレリアを見ているアルトリウスの姿だった。
そのいつもと変わらない態度がより一層アウレリアの心を苛む。
それでもアウレリアは意を決したように口を開いた。
「・・・アル・・・アルにも最期に会えました、もう思い残す事はありません、私を・・・」
躊躇いながら、しかししっかりとした声色でアウレリアが思いつめたように言葉を発したものの、アルトリウスはその言葉を遮るように口を開いた。
「従姉さん、結婚式をしましょう。」
「・・・えっ・・・?」
その脈絡の無い言葉にアウレリアが驚いて身を硬くし、アルトリウスの顔を見つめる。
アルトリウスは近くに投げ捨てられていたランプを拾い上げ、中身を確かめて油が残っている事を確認すると、持っていた火打石で火をおこしてランプに火を灯した。
ぼんやりとした光が吹きさらしの建物を照らし出す。
アルトリウスはランプを壁にかけ、アウレリアの瞳を真っ直ぐに見つめ、にこりと微笑み言葉を継いだ。
「婚約はしたんですけれども、その後お互いに忙しかった上に、私が怪我をしてしまって、一番肝心な結婚式をしていませんでしたから!う~ん、そうですねえ・・・コリニウムの街の落成式と一緒に、盛大に。」
呆然としたように自分を見つめるアウレリアに、アルトリウスは少し照れ臭そうに視線を外しながら、がらじゃありませんが、と前置きした上で続ける。
「ブリタニア中の諸侯や市民達を招きましょう、ローマにも使者を立てたらいいかもしれませんね、ついでにサクソン王とやらにも招待状を出してやりましょう!」
季節も最高ですしね、と言い添えながらアルトリウスは固まっているアウレリアに近付き、その身体を抱き、額に優しくキスした。
そうして一旦身体を離すと、アルトリウスはアウレリアの両腕を持ったまま、正面から視線を合わせ、やさしく、そしてさわやかに言葉を紡ぎだした。
「・・・愛してますアウレリア、あなたが必要です、あなた以外には、何も、要らない。」
「・・・!」
その言葉はアウレリアの心に温かく染み渡り、固めた死の決意を陽光が氷を溶かすように、ゆっくりと溶かしてゆく。
「・・・っ・・・ああっ!」
感極まったアウレリアが涙を再び溢れさせると、アルトリウスに身体をぶつけるように抱きつき、その首に両手を回してしがみついた。
しばしの間そうした後、2人はそっとくちづけを交わす。
「ああっ、アル、私のアルっ!もう・・・もう2度と離れたりしません!」
ふるふると身体を震わせて泣きながら、そう熱っぽくつぶやくアウレリアの背中に、アルトリウスはそっと手を添えた。
「・・・絶対に離しません、絶対に・・・!」
ランプの灯が消え、何時しか月の和らいだ光が建物の窓から射し込み、抱き合う2人を祝福するかのように優しい光で照らしていた。