第2章 緒戦
「槍兵隊前へ!!」
敵の前衛に疲れが見え始めたことを敏感に悟ったアルトリウスが、騎乗から長剣を振りかざし、号令を掛けた。
「槍兵隊前へ!!」
40絡みのベテラン指揮官である、副官のグナイウス・タルギニウスが復唱し、そばに控えているラッパ手に右手で合図を送った。
勇壮で細切れのラッパの音が戦場に鳴り響く。
「おぅし!!ヤロウども!!よく辛抱したぞ!!!堪忍袋の尾を切って、前のクソどもにぶち込んでやれ!!!!」
槍兵隊を預かる、ティトウス・クロビウスがすでに我慢の限界を超えたような面持ちで声を絞り出す。
こめかみには明らかに戦闘の興奮意外のものによる血管が浮き出ているのが見て取れた。
この30過ぎの筋骨たくましい男には、明らかに敵対心以上の感情があるようだ。
それまで槍と盾をかざし、ピクト人の突撃を受け止めていた前衛の兵士たち体に力が漲る。
「槍兵ぜんしぃいいん!!!」
そう叫ぶと同時にティトウス・クロビウス自らローマ風の短槍を構え、盾を空けてピクト人戦士に突っ込んだ。
それまでただひたすら自分たちの攻撃を受け止めているだけだったローマ兵が突然押し出してきたことで、それまで好き放題に剣や斧で盾を殴りつけていたピクト戦士がわずかにひるんだ。
その瞬間、前衛の槍兵がいっせいに盾を開け、姿勢を低く槍を中腰に構えて突撃を開始した。
ウォォォォォォォと、周囲を圧する声と地響きが、ピクト戦士のひるみを怖気に変える。
ドンッというような衝撃とともに一斉に突き出されたローマ軍の槍に、最前線にいたピクト戦士たちが次々と串刺しにされる。
その間から湧き出るように第2線の槍兵が突撃する。
同じ光景が3度繰り返されたことで、疲れの見え始めていたピクト戦士は、一気に劣勢に陥ったが、敗走するまでには至らない。
「予備の歩兵を投入しますか?」
その光景を見ていたグナイウスがアルトリウスにそう話しかけた。
アルトリウスは戦場から視線をはずさないままうんとうなずく。
その視線の先には、勢いの最も弱まった敵の左翼があった。
「速やかに予備の歩兵を敵の左翼へ投入し敵を突き崩せ、槍兵隊は敵中央部に圧力を掛け続けさせろ」
「了解、歩兵隊敵左翼へ前進!!」
指揮官の直近に配置されていた剣と盾、投槍を装備した昔ながらのローマ歩兵100名が敵左翼に向かって4列で整然と前進し始めた。
歩兵隊百人隊長のクィントス・ペレドリウスは古臭い百人隊長用の兜の緒を改めて絞めなおし、黙々と配下の歩兵を指揮して前進を続けた。
しばらくすると、歩兵隊は槍兵隊とピクト戦士たちが鬩ぎ合う最前線の真後ろに到着した。
「投擲兵器用意!!」
歩兵隊長クィントスが号令を掛けると、盾を構えて前進していた歩兵隊はぴたりと停止し、盾の裏から投槍を取り出し、大きく振りかぶる。
しばらく戦線の様子を覗っていた、クィントスは頃合を見計らってのどが裂けんばかりに号令を掛けた。
「槍兵隊後退、前線を開けろ!!!」
ざああっ
それまで前線でピクト戦士と力の限り押し合っていた槍兵隊の右翼分隊が一旦ピクト戦士を全力で盾を使って押し込んだ後、一斉に後退し歩兵隊の前にしゃがみ込んで盾を並べ壁を作る。
「放てぇぇええ!!!」
ビュン ビュン ビュン ビュン
右腕をパンパンに張らす位まで力の込められた100本の投槍が至近距離からピクト戦士に降り注ぎ、嵩にかかって追撃しようとしたところに重い投槍が次々と命中してたばたと倒れ伏してゆく。
「突撃いぃぃぃいいい!!」
一旦納めた剣を抜いたクィントスが号令し、自ら真っ先に投槍を受けて怯んだピクト戦士の左翼へ突っ込んだ。
がつん ドカッ
クィントスは体ごと盾を目の前にいた巨漢のピクト戦士に叩き付け、相手が体制を崩したその瞬間、盾の右脇から剣を差込んで脇腹を突き上げた。
その瞬間、真っ赤な血潮が噴出し、それと同時にそのピクト戦士は力を失い地面へ崩れ落ちる。
ローマ歩兵隊の突撃で、ピクト戦士たちの左翼は崩壊し、ついには壊走を始め、それは敵全体に波及しつつあった。
「よし!騎兵隊前へ!!」
とどめの一撃を与えるべく、アルトリウスは直属の騎兵隊を率いて自軍の左翼へ出る。
未だ何とか踏みとどまって戦おうとしているピクト戦士たちもいるが、それはもう少数でローマの歩兵や槍兵達に次々と討ち取られていった。
しかし、その中央で頑強に抵抗を続けている一段をアルトリウスは目に留めた。
「グナイウス!」
副官グナイウスはアルトリウスからそう呼びかけられただけで、司令官が何を云わんとしているのかを察した。
「騎兵団抜剣!!!」
グナイウスがそう叫ぶと、周囲の騎兵たちが長剣を一気に引き抜いた。
雲の合間から射すわずかな陽光が長剣を鈍く光らせる。
「目標!敵中央!!」
ラッパ手がさっきより一段早い調子でラッパを吹き鳴らす。
わぁあああ
アルトリウス騎兵団は長剣を頭上にかざし、一団となって戦場に突っ込んだ。
短い間隔のラッパ音を聞き、クロビウスは斃したピクト戦士の胸を蹴って自分の槍を引き抜き自軍の左翼を仰ぎ見ると、長剣を鈍く光らせた騎兵団がアルトリウスを先頭に突撃に移ろうとしている様子が見えた。
「おう!ヤロウども、アルトリウス司令官が突撃に移った、順次繰り引きに移れ!!」
頑強に抵抗を続けるピクト人の族長とその一団に対峙していたローマの槍兵たちは、クロビウスの号令で再び盾を前面に構え、じりじりと後退し距離をとる。
それまで圧力を掛け続けてきていたローマ軍がわずかながら引く構えを見せたことで、ピクト人は戸惑いを見せていたが、しかしその戸惑いは一瞬後驚愕に変わった。
自分たちの右手からアルトリウスを先頭に騎兵団が突っ込んで来るのが見えたからだ。
わぁぁぁあああああああああ!!!!
馬蹄の轟と喚声がいっぺんにピクト戦士たちに降り注ぐ。
それまで頑強に抵抗を続けていた、族長とその一族たちだったが、アルトリウス騎兵団の突撃になすすべなく切り崩されていく。
アルトリウスは騎兵団の先頭に立ち、まず長剣の一突きで盾を構えていたピクト戦士を斃すと、そのまま馬体を戦士達の固まりへ突っ込ませた。
20人ほどのピクト戦士たちは、アルトリウスに続いた騎兵団に長剣で衝かれ、斬り立てられた上、軍馬に踏み抜かれてほとんどが倒れた。
アルトリウスは一団の中心にいる恰幅のいい壮年の男に目を向ける。
周囲にいるピクト戦士たちより身なりや装備品の質が良く、未だこの状態で取り乱している様子がないようだ。
「ブリタニア騎兵団司令官、アルトリウス!!」
アルトリウスはその男、部族長ベリウスを認め、名乗りを上げた。
「・・・!!」
ベリウスの顔に驚愕と恐怖が同時に表れ、慌てて剣をアルトリウスに向けた。
がりっ
その瞬間、アルトリウスの長剣はベリウスの顔面にめり込み、鮮血がわずかに飛び散り、ゆっくりとその体が前のめりに倒れ伏す。
「族長ベリウス、アルトリウスが討ち取った!!!」
わああああああ
今までとは違う、歓喜の叫びが戦場のあちらこちらで沸き上がった。
戦場を見渡せる小高い丘に登り、アルトリウスはロンディニウムのブリタニア行政府への伝令に渡すべく、書簡をしたためていた。
以前はパピルス紙が使われていたが、最近は物流が滞りがちで、南方はおろか、大陸の物品さえ手に入り辛くなって来ているため、薄い木片に簡単な文章を書き付ける。
「従兄が気を揉んでいるだろうから、なるべく早く頼みたい、詳細は口頭で頼む、戦場の見たままを伝えれば良い。」
アルトリウスから書簡を受け取った伝令は一礼するとすぐに騎乗し、南のロンディニウムに向かった。
アルトリウスがぼんやり周囲を見渡していると、副官のグナイウスが現れた。
「司令官、戦場の後片付けは概ね終わりました。」
「そうか、ご苦労さん、情勢はどうなっている」
グナイウスは、少しあたりを見渡してから話し始めた。
「我が軍の損害は戦死24名、負傷が軽傷を含めて197名、敵は戦死が600名ほどです、負傷は・・・ほとんど無いでしょう、族長ベリウス以下一族の主だった者は戦死を確認できました、ほぼ全滅です」
「・・・完勝か」
「はい、この方面はひとまず安心です、西へ転進しますか?」
「いや、一旦ロンデニィウムへ戻ろうと思う、500名程度の部隊ではヒベルニアの海賊には対抗できない」
「・・・分かりました、しかし、友好部族だったベリウスたちまで裏切るとは思いませんでした」
「・・・ローマ軍の大陸進出がこんなに早く影響してくるとは、正直思わなかった」
短いため息をつき、アルトリウスはもう一度戦場だった場所を眺めた。
ヒベルニアのアタコッティ人、高地地方のスコット人やピクト人が、ローマ軍の大陸出征を知って徐々に動き始めたのだ。
とは言っても、未だ大勢力の動きは無いため、火事場泥棒的な反乱や侵入に終始しているが、この情勢はいつ変わるか予断を許さない。
これまでは部族ごとに情報源に差が有ることと、その情報について未だあの強大なローマが衰えたりといえどもそう急速に弱体化するだろうかという懐疑的な考えを持つ部族が多いことが幸いしていた。
また、小さな反乱や進入に対しても、アルトリウスを始めとして、ブリタニア居残りの指揮官たちが、迅速果敢に対処し、今回のように敵対勢力を完膚なきまで叩きのめしているため、それ以上のことの及んでいない。
しかし、今回決して敵対的ではなかった部族の一つが近隣のローマ人集落を襲った。
これがベリウス率いる部族で、アルトリウスも巡察で彼の持つ部族の集落を訪れ、何度か顔を合わせたことがある。
かつては巡察で歓待を受け、ローマ側の式典へ招待し、一緒に酒食を共にしたこともあった。
ベリウスが反乱を起こして近隣の友好部族の集落を襲い、ローマのキウィタスの一つを攻撃したという知らせを受けたアルトリウスは、騎兵100に槍兵300、歩兵100を率いて駆けつけ、略奪を終えて自分たちの集落へ帰還途中だったところを補足し、たった今撃破したのだ。
わずかずつではあるものの、止め処なく情勢が悪い方向へ傾きつつあることをアルトリウスは肌で感じ取っていた。
そのアルトリウスの気持ちを代弁するかのようにグナイウスがつぶやいた。
「5年前のスティリコ将軍の引き抜きに続いての大陸出征ですからな、ようやくローマの弱体化が周辺部族にも実感として認識され始めたのでしょう。」
「まだ私は物の分からない少年だったが・・・」
そのつぶやきに反応して漏らしたアルトリウスは遠く、自分の生まれ育ったコーンウォールの方角に目をやる。
「・・・何か大変なことが起こっていたことだけは、分かっていた」
アルトリウスはしばらく戦場の風に吹かれるまま、遠くを見ていた。
グナイウスはそんな指揮官の後ろ姿を見ながら、同じように風に吹かれていたが、アルトリウスがただ故郷の方角を見ているだけではないことに気がついた。
・・・この人は、いったい何を見ているのだろうか・・・
年は自分より遥かに若く、外見上からも年齢以上のものは覗えない容貌のアルトリウスだったが、グナイウスはしばしばこのように遠い目をするアルトリウスを見かけていた。
そして、そんなときのアルトリウスは年齢を超えた老成された雰囲気を醸し出していると同時に、何か近寄りがたい気配を纏っていることが多いのだった。