第19章 コンスタンティヌス敗亡
北イタリア、ローマ郊外の西ゴート軍野営地は深夜にもかかわらず騒然としていた。
野営地のあちらこちらで怒号が飛び交い、完全武装の上級戦士や族長たちが右往左往している様子が、高台から見て取れる。
次々と陣営の主要部分に篝火が焚かれ、西ゴート軍の陣地は瞬く間に明々と照らし上げられてゆく。
ゆらりと一つの人影が高台に現われ、そこから慌てふためく西ゴート軍の様子を眺めていた。
その目の前の一際豪華で大きな幕舎から、十数名の上級戦士を引き連れた若者が、左右の衛兵に敬礼されながら出てきたのが目に入った。
一見して王者の風格と覇気を持つその金髪の若者は、幕舎から出ると、何気なく立ち止まって目の前の丘を見上げる。
影と若者の視線が、一瞬ぶつかり、絡み合う。
若者は直ぐにふっと口元に笑みを浮かべ、周囲の者達に分からないようなわずかな仕草で影に黙礼すると、陣地の入り口に向かって立ち去っていった。
「スティリコ、使命は果たした。」
その影、スティリコの影の懐刀であるアトラティヌスは若者を見送りながらぼそりとつぶやき、自分のマントの中に収めた短剣を抜いて血脂で未だにぬめりの取れないそれをしばらく眺めた後、再び鞘に収め、漆黒のフード付マントをすっぽりと頭から被る。
「今しばらく、命令通りに動こう・・・それがお前との約束だ。」
誰に言うとも無く、アトラティヌスはそう言い放ち、踵を返すとその場を後にした。
アラリックはローマを壊滅させた後も、西ゴート族を率いて各地の都市を脅迫して物資や金銭を供出させたり、逆らう都市を攻め落としたりしてイタリア半島北部に居座り続け、破壊と死をもたらし続けたが、イタリア南部の諸都市が連合して反抗の構えを見せた為、これを降すべく軍を進発させたところで急死する。
病を得たわけでも、戦傷が元になった訳でもなく突然の死であったが、特に混乱なども無く平和裏に後を引き継いだ長子のアタウルフは、イタリア南部侵攻を取りやめ、先発していた西ゴート族の別働隊が入っているアキテーヌに向かい、その地の蛮族を統合して王を名乗り、ローマとの協力姿勢を打ち出す。
そして隣接勢力となったコンスタンティヌスと頻繁に小競り合いを起こしてコンスタンティヌスを悩ませ始めるようになった。
スティリコ刑死で動揺する西ローマ帝国を尻目に、各地の蛮族はこぞって活動を活発化させており、むしろスティリコが永遠に居なくなったこの機会を好機と捉えた蛮族たちが西ローマ各地の国境防衛線を喰い破り、大挙して侵入する事態となった。
コンスタンティヌスは西に強大化した西ゴート族、東に西ゲルマン族の雄フランク族、アルプスの王者アレマン族、南に西ローマ帝国と三方向から圧力を受ける事態に陥った。
ヒスパニアに派遣した軍も蛮族連合軍こそ撃破し、ヒスパニア属州軍との合流を果たせはしたものの、その後は分裂した蛮族軍や反コンスタンティヌス派の在地勢力等に悩まされ、統治の方は芳しい結果を残せていない。
蛮族は大敗すれば一旦引き上げるという特性があり、一度決着を付けてしまえば片付くとはいえ、ヒスパニアへ大半の兵を派兵したコンスタンティヌスにその決着を付けるべく決戦を挑もうにも、そもそも決戦のための兵力が無く、正に八方塞がりの状態であった
閉塞感や未来に対する絶望からガリアの民心は次第に荒廃し始めており、治安不安から経済活動が不活発化し、財政状況まで悪化し始めている。
「いいか、この事は誰にも言うんじゃないぞ。」
カルウスは荷物入れから金貨を取り出すと、そうっと百人隊長達に手渡す。
「・・・分かっています、我々にも生活がある。」
代表して一人の百人隊長がそう答えると、カルウスの手から金貨をむしりとり、仲間の百人隊長たちに配ると、振り返りもせずにカルウスの部屋から立ち去っていった。
百人隊長たちの足音が十分遠ざかるのを待って、カルウスはふううと安堵のため息をついた。
「・・・給料の遅配を引き起こしているのは俺なんだが・・・」
カルウスは、財政状況の悪化を理由として、コンスタンティヌスに兵士達への給料の遅配を進言しこれを承諾させて実施していたが、その期間は既に今月で半年を優に越えており、次第に下級指揮官や兵士達の間に不満が燻り始めていた。
ましてや反対勢力の力と数が増えた事で頻繁に動員を掛けられる上、常に優勢な相手との戦闘という過酷な状況下に置かれる兵士達の不満は日増しに大きくなっている。
カルウスは遅配した兵士の給料を表向きはコンスタンティヌスの私設費用という名目で処理し、実際は自分が管理する秘密金庫へと流していた。
そしてその流した金から兵士達に給料の代替金として無利子無担保で貸し付けを秘密裏に行っているのである。
しかもカルウスは、兵士の給料がコンスタンティヌスの私設費用として流用されている嘘の事実をそれとなく漏らす事で、兵士達の不満がコンスタンティヌスに向けられるように操作さえしていたのであったが、当然この様な謀略をカルウス自身が考えて実行している訳では無く、全てあの日に突如現われた影からの入れ知恵であった。
兵士や下級指揮官達にはあくまで私費からの貸付という事にしており、それまで商人上がりの腐敗官僚としてしか見られていなかったカルウスの評判はうなぎ上りに上がっており、最早大抵の願いや頼みは聞き入れられる程にまでなっていた。
最近は頼んでもいないのに私邸から官庁へ出勤する途中に兵士達が自発的に護衛を買って出る始末である。
さすがのカルウスも余りに事が上手く運びすぎている事で不安を覚えたが、毎月何処からとも無く現われ、謀略の進行状況を尋ね来る影に対しての恐怖心が勝っており、謀略の一端を担ぐ事自体に対して躊躇う気持ちは持っていなかった。
もちろんガリア居残りの兵士達だけでなく、カルウスは抜け目無く、かつて部下だった商人を使い、ヒスパニア派遣軍の兵士達にも同様の謀略を仕掛けている、が、このはかりごとが一体どういう意味を持つのかまでは思い至らないでいた。
むしろ、考えないようにしていたといった方が正しく、カルウスは自分の身の安全と蓄財の為にしているだけだと割り切って考えるようにしており、自分の行為がどういう結末を迎えるかなど考えたくも無かった。
自分は政治のごたごたに巻き込まれた被害者である。
「・・・俺の知った事じゃない。」
カルウスは最後にそうつぶやくと、自分の財産の計算と確認をする為に帳面を取り出した。
コンスタンティヌスはいつまでたっても進まないヒスパニア制圧に見切りをつけ、派遣軍をガリアに戻す算段を付けようとしていたが、通り道となる間のアキテーヌに西ゴート族が入り込んで強力な壁と化してしまった事から、連絡すら思うように取れずに苦労を強いられていた。
ヒスパニア派遣軍総司令官のコンスタンスは、まずい事に軍を小部隊に分散させて各地の反抗勢力に当たらせるという愚を犯しており、その中には局地戦で撃破されてしまう部隊まで出る体たらくであった。
ヒスパニア各地の反抗勢力は確かに小規模ではあるが、蛮族以外の在地勢力も多く、地の利、人の利は敵側にあるにもかかわらず、懐柔策等を取らないまま場当たり的な対処に終始している自分の従弟に、コンスタンティヌスは見切りを付けた。
「・・・もういい、ヒスパニア派兵は失敗だ、軍を呼び戻す。」
コンスタンティヌスはあっさり持論を引っ込め、ヒスパニア派遣軍を呼び戻すよう部下達に指示した。
多大な費用と期間、労力を費やし、強引に推し進めた当の本人が、あっさりと失敗を認めて軍を引き上げさせろと言う。
指揮官達の中に言いようの無い強い憤怒と不満が満ち満ちた。
「スティリコのヤロウが死んでちっとは情勢もましになるかと思や、返って悪くなっちまうんだからな、分からねえもんだ。」
当然の事ながら、スティリコ刑死の報は既にコンスタンティヌスにも届いていた。
第一報が早馬で到着した際には、コンスタンティヌスはこれで西ローマ帝国の政治情勢が変わり、自分達に対する態度も軟化するだろうと期待したものだったが、その後の皇帝ホノリウスの行動で、決してそう簡単に物事が進まない事を思い知る。
スティリコ刑死後の西ゴート族によるローマ攻囲と、それに続くローマ壊滅の知らせを受けたコンスタンティヌスは、その事実よりもコンスタンティヌスより近いラヴェンナに居ながら何の手も打たなかったホノリウスに驚愕した。
「こいつは・・・本物の無能だ・・・相手に出来ねえ・・・『どうもしよう』がねえ。」
ホノリウスの手元には、皇帝に忠誠を誓う近衛兵団3万が常駐しており、固くラヴェンナの皇帝宮を守備している上に、スティリコ子飼いの軍は粛清で消滅したとはいえ、残存する3万を数える生粋のローマ兵がラヴェンナ近郊で訓練中であった。
装備と錬度に勝るローマ兵6万がいれば、例え蛮勇を誇ると言えども、倍程度の西ゴート軍に対抗する事は十分可能な範囲である。
またスティリコ亡き今も、それなりに戦術に長けた将官はローマ軍内におり、ローマ攻囲の報を受けた時点で編成に着手していれば、ローマ防衛隊との挟み撃ちが可能となって、少なくともローマ市街が傲略の憂き目に遭う事も無かったはずであった。
しかも第一報を受けたホノリウスが真っ先にしたのは、自分の飼い鶏である「ローマ」の心配であったという噂がまことしやかに流れており、彼の無能さをより一層引き立てていた。
「無能が無能の舵取りしてんじゃどうしようもないぜ!」
スティリコを追い落とすのに少なからず協力した元老院を構成していたローマ貴族は、ローマの壊滅であらかた死ぬか、虜囚となって生き長らえた者も、身代金の支払いと西ゴート軍の略奪で全財産を失いその権勢は地に落ちた。
あくまでもローマの将来を慮ってスティリコを追い落としたローマ貴族は今や無く、権力を握ったのはそれまでスティリコの手によって遠ざけられていた権力欲だけの無能な廷臣や、陰湿な権謀に取り付かれた宦官である。
そんな者達に何かを期待するほどコンスタンティヌスは甘く無い。
「軍をヒスパニアから呼び戻したら、ガリアを空っぽにしてもローマを取りにいくぞ!」
コンスタンティヌスは気勢を上げるが、将官たちはしらけ切っており、覚めた目で一人気勢を上げ続けるコンスタンティヌスを見ていた。
そんな盛り上がりに欠ける軍議の最中、一人の将官が青ざめた顔で会議室にモノも言わずに駆け込んで来た。
「・・・なんだ、どうした?」
誰も用件を聞かないので、仕方なくコンスタンティヌスがその将官に用件を尋ねると、 その将官は青ざめたまま淡々と報告を始める。
「ヒスパニア派遣軍が裏切りました、コンスタンス派遣軍司令官はピレヌス要塞内でマクシムス将軍と共に暗殺され、軍は3分の2が西ローマ帝国に降伏し、残る3分の1は命からがらガリアへ脱出を図っております。」
「なっ・・・なんだとっっっ!!!?」
ダーン
コンスタンティヌスが力の限り会議室の机を殴りつける。
「どうなってるんだ一体!!?状況は?状況はどうなってる!!?」
常軌を逸したコンスタンティヌスの剣幕に、会議室内の将官達は呆気にとられ息を呑むばかりで、コンスタンティヌスが報告に訪れた将官の首を締め上げている状況を見ながら、ただ傍観している事しか出来なかった。
「お、お放し下さいっ、皇帝陛下、かっ。」
締め上げられている将官がやっとの思いでそう声を絞り出すと、ようやくそれに反応した数名の将官が、慌ててコンスタンティヌスの腕を引き落としてこれを制止する。
げぼげぼと激しくむせ返りながらも、首を絞められていた将官は着衣の襟元を正すと、喉を右手でさすりながら律儀に報告を始めた
「・・・状況は詳しく入って来ている訳では有りません、何分アキテーヌを経由する陸路とブリタニアの海易商人からの情報ですので、不確定な部分も多いと思慮されますが、それでもヒスパニア派遣軍の壊滅は間違い無さそうです、またブリタニアの海易商人が厚意で脱出に成功したブリタニア歩兵小隊を乗船させてアルモリカの港に送り届けてくれたそうで、もうしばらくすれば、その兵士達からの聞き取り調査の結果が出るでしょう。」
事の重大さが会議室に集まっている将官たちの中にジワリと浸透する。
コンスタンティヌスが最も頼みとしていた軍の精鋭の内実に3分の2が敵である西ローマ帝国に寝返ってしまったのだ。
単純に戦いに破れて軍を失うのとは訳が違い、こちらの戦力が落ちた分だけ敵の戦力が増強されてしまったという事は、単純に寝返った兵数の2倍の損害と同じという事である。
しかもコンスタンティヌスの手元に残されたのは、錬度不十分のガリア招集兵、同じく錬度に不安のあるアキテーヌ反乱軍、そして少数の近衛兵にガリア渡海時に比べて3分の1に減ってしまったブリタニア歩兵で、西ローマ帝国は愚か雪崩をうって侵入してくる蛮族に正面切って対抗する術を事実上失った事になる。
「くそっ!!くそううううっ!!!」
ぎりぎりと歯を食いしばり過ぎ、口角から血を引きながら、コンスタンティヌスは会議室の大机に置かれた西ローマ全土を示した地図をばんばんと拳で叩く。
「何故だっ!!何故こうなったんだ!!」
絶叫し頭をかきむしって半狂乱のコンスタンティヌスを、将官たちは気味悪そうに無言で眺めるだけだった。
アトラティヌスは配下の影達から報告を受けると珍しくその顔に表情らしき表情を浮べたものの、いつもの黒いフードにすっぽりと頭部が覆われている為、わずかに口元が歪んだ様子だけを窺う事が出来た。
「ご苦労だった、ヒスパニアは蛮族に侵食された地域を除いて不完全ながら西ローマの元に戻って来よう。」
アトラティヌスの言葉を受け、ヒスパニアに派遣されていた影が黙礼を残して闇に溶け込んでいく。
その後には血の滲み出した首桶が二つ残されていたが、この場に集合した影達にその中身を確かめる必要は無かった。
コンスタンス マクシムス
ヒスパニアから届けられた首桶には、木炭で記された簡単な表記のみが記されている。
アトラティヌスがしばらく首桶を眺めたまま佇んでいると、別方向で片膝をついていた、毎月のようにカルウスの前に現われては彼を脅しつけている影がするりと進み出た。
「総帥、偽帝コンスタンティヌスの軍にも動揺が広がっているようですが、好機では?」
しかし、アトラティヌスはその進言に対して、わずかに頭を左右へ振って拒絶の意志を示した。
「我等が手を下すまでも無い、偽帝コンスタンティヌスのけん獪な性格は既に多くの恨みを買っている、今また我等の謀略にて生活を圧せられた兵士達の不満が暴発するのを待つ、というのが亡きスティリコ様のお考えだ。」
アトラティヌスが低い声でそう告げると、進言した影は先程の影と同じように黙礼を残して闇に溶け込んでいった。
「・・・闇に徹し意志を貫け、ローマの為に・・・」
アトラティヌスは残った影達にそう告げ、影達が次々と闇に紛れ、静寂の内に全員がその場から立ち去った事を確認すると、衣服の中からスティリコから託された書付を取り出す。
アトラティヌスがしばらく書付ををじっと眺めると、その手の中で、ぼっっと小さな炎が上がり、羊皮紙で出来たスティリコの書付は赤く、明るい光を放ち燃え上がり、普段は露わになる事の無いアトラティヌスの顔を静かに照らし出す。
緑色の瞳に赤色の髪。
スティリコと寸分たがわぬ容貌がそこにはあった。
アトラティヌスの手の中で、スティリコの書付は黒い灰へゆっくりと変わってゆく。
「光あってこその闇・・・我が光たる弟よ、遺志は果たした、これからの我は闇としてでは無く我が意思にて歩む事にしよう。」
アトラティヌスは燃え尽き冷たくなった書付の残滓である灰を無表情のまま握り締めると、するりと闇の中に紛れ去った。
コンスタンティヌスは苦悩していた。
今までに無い苦境に置かれている事は間違いないが、これまでそうしてきたように積極的な攻勢や政策を採ろうにも採れないという、ジレンマがその苦悩をより深めていた。
スティリコが刑死してから早くも一年が経とうとしている。
季節は秋になり、コンスタンティヌスの統治するガリアでも、収穫の時期を迎えようとしていたが、行政機構に欠陥を抱えたままのコンスタンティヌス政権に一年を通じて痛めつけられたガリアの庶民に納税を果たす力はほとんど残っていなかった。
それでもどうにか蛮族の攻勢に耐え切ったのは、ひとえにコンスタンティヌスの軍事的才能によるものであった。
しかし、兵力不足と資金不足はじわじわと首を真綿で絞めるようにしてコンスタンティヌスを苦しめていた。
兵士や武器などの損害を補充する事が出来ないのである。
また、給料の据え置き、遅配は既に1年半の長期間に渡り、兵士には現物支給という形で備蓄している糧食から給料に応じて食料品を配布し、急場を凌いでいるものの、今度は軍事行動に不可欠な糧秣がそのせいで不足するという事態に陥り、コンスタンティヌスは頭を抱える羽目になった。
「むううう、あちらを立てればこちらが立たず・・・いっそブリタニアに引き上げちまうか・・・今更アルトリウスに合わす顔もねえが・・・」
執務室に篭りがちなコンスタンティヌスはふとそう弱気な独り言を言う。
何気なく、普段に無い弱気からでた言葉であったが、しかしその言葉は奇妙な魅力を持ってコンスタンティヌスの心に響いた。
「・・・今のところブリタニアから来た時に乗ってきた船も使わずにそのまんまで使ってねえしなあ・・・」
帰ろうと思えば帰れない事は無いのである。
その事実に気付いたコンスタンティヌスは自分の考えに戸惑った。
しかしながら自分は一体なんと言ってブリタニアを、故郷を捨て、ガリアへやって来たのだったかを思えば、最初からそれは選択肢に入る事すらありえないはずであった。
そうであったのだが、コンスタンティヌスはブリタニア帰還という有り得ないはずの考えを一笑に付して葬り去る事ができなかった。
「・・・帰る・・・か、ブリタニアへ・・・」
コンコン
軽いノックの音が思索の煙を破り、コンスタンティヌスを現実世界へと引き戻した。
「・・・なんだ?」
「・・・刃砥ぎが終わりましたので、剣をお持ちしました。」
コンスタンティヌスが低い声でドアの外へ問いかけると、従卒兵がいつものようにか細い声で用件を伝える。
「そうか、入れ。」
コンスタンティヌスが許可を与えると、これまたいつものように恐る恐る初老の従卒兵が剣を奉げ持ち、執務室に入って来た。
コンスタンティヌスが従卒兵の差し出した剣を取り、砥がれた刃の具合を確かめようと剣の柄に手を掛けて引き抜こうとしたときに、将官の一人が開け放たれたままのドアに現われ、コンスタンティヌスに敬礼を送る。
「なんだ?」
柄に触れた手を止めてコンスタンティヌスが将官に問うと、将官は少し押し殺したような声でコンスタンティヌスの問いに答えた。
「・・・軍議の時間です、既に他の司令官や隊長は会議室に集合しております。」
「もうそんな時間だったか、分かった直ぐに行こう。」
コンスタンティヌスは代わりに佩いていた長剣を剣帯から外して机に置くと、従卒兵から受け取った剣をそのまま剣帯に留めて会議室に向かう。
執務室へ迎えに来た将官の様子がいつもと異なる事に少し不審を覚えたが、ヒスパニアでの軍団裏切りの直後である、平常心でいられる訳がないのだ。
普段であれば部下の弱気を怒り、発破を掛けるところが、そう思ってしまうほど、コンスタンティヌス自身が弱気になっており、また、コンスタンティヌスはいつもであれば皇帝である自分を先導するはずの将官が後ろから付いてくる事にも考えが及ばなかった。
コンスタンティヌスは自分の弱気が部下達にまで伝染してしまったかと、しきりに反省しながら会議室へと急ぐ。
「待たせたな。」
これまた普段の皇帝入退室の際であれば、従卒兵を配置しドアの開閉を行うところを、誰もいなかったためコンスタンティヌス自身がドアを開き部屋へ入ると、将官達が全員剣を抜いていた。
どすっ
鈍い音がコンスタンティヌスのわき腹から発せられる。
ぐほっ
大量の血液が鈍い音と共にコンスタンティヌスの口から溢れる。
歯を食いしばったコンスタンティヌスが脇を見ると、副将格の将官が必死の形相で長剣をコンスタンティヌスのわき腹に突き立てていた。
「ぐう、きさま・・・」
痛みや苦しみよりも、猛烈な怒りがコンスタンティヌスの中に湧き起こり、血まみれの手でその将官の襟髪を握るが、しかし
どすぅ
今度は背中から鈍い音がし、赤くぬめる剣先がコンスタンティヌスの腹から突き出た。
ぐりっと振り向くと、先程コンスタンティヌスを執務室まで迎えに来た将官が、冷めた目で見ながら剣を背中に突き立てていた。
どはっ・・・・びしゃびしゃっっ・・・
更に大量の血がコンスタンティヌスの口から吐き出され、会議室の真っ白な大理石を赤く覆ってゆく。
コンスタンティヌスは副将格の将官を蹴り飛ばし、後方の将官には肘撃ちを当てて振り払うと、自分の剣に手を掛けて一気に引き抜いた。
ざりりりり・・・
金属製の剣には有り得ない、木材をこすり合わせるような音が鯉口からしたかと思うと、コンスタンティヌスの手にはボロボロの木材で出来た、精巧さとは程遠い木剣が握られていた。
「・・・・何だこれは・・・」
自分の手の中にある木剣を呆然と見つめたコンスタンティヌスは、静かにそして冷ややかに絶望に満ちた声を発する。
「何だこれはあああああああああ!!!!!」
コンスタンティヌスが口から血泡を吹き上げながら絶叫し、木剣を振り上げた。
うわあああああああ!!
その絶叫と行動が引き金となり、部屋に居た将官達が一斉にコンスタンティヌスに駆け寄り、剣を次々とその身体に刺し込んだ。
どすどすどすどすどすどす・・・・!!!
「あああああああああああああああ!!!!!!」
コンスタンティヌスは剣を身体に差し込まれるたびに絶叫し、木剣を振り上げたまま無抵抗に刺され続けた。
「・・・・・・・アルトリウスっ!!!!」
最後にそう絶叫を遺し、十数本もの剣に刺し貫かれ、ようになったコンスタンティヌスは、壁まで押し込まれた上に剣で縫い付けられ、倒れる事すら許されず木剣を振り上げたまま事切れた。
「・・・かくて贋物を掴まされし偽者は滅びたり・・・最期に呼びし者の名の後に続く言は謝罪か後悔か・・・はたまた境遇への怨恨であったか、今となっては詮索も意味を成さぬが・・・」
従卒兵は、喧騒と絶叫の途絶えた会議室をそっと窺うと、コンスタンティヌスに渡した贋物と寸分たがわぬ本物の剣を取り出し、鯉口を静かに切った。
しううううう・・・
凄みのある刃物がだけが立てる、静かな刃ずれの音を残し、暗がりでも光を放ちそうな鋭い刃を持った剣が現われた。
その剣をしばらく眺めていた従卒兵は、慎重に剣を持ち替え、ゆっくりと剣を鞘へ納めてから自らの顔の皮を髪の生え際から引き剥がし始める。
「・・・重さを調節する為にわざわざ鞘に鉛を仕込んでまで作った特注品の木剣、紛い物にしては出来すぎであったな・・・そう、偽帝コンスタンティヌス、お前と同じように。」
そう言いながらバリバリと自分の顔の皮をすっかり剥がし終えた従卒兵は、手早く自分の顔の皮を肩からかけている物入れに仕舞い込むと、同じ物入れから布を取り出し、剣を外見上剣と分からないようにその布を巻きつけて隠し、会議室から離れた。
「しかし紛い物は幾ら出来が良くとも所詮紛い物、本物にはなれない、コンスタンティヌス、例え貴様が本物の英雄だったとしても・・・本物の皇帝にはなり得ないのだ。」
会議室をすっと振り返るのは、亡きスティリコと寸分たがわぬ同じ顔。
その顔を今や唯一持つ男、アトラティヌスは、再び踵を返すと廊下を悠然と歩いて会議室の近くから立ち去る。
しばらく廊下を歩き、アトラティヌスは行政長官執務室、つまりはカルウスの部屋の前で一旦立ち止まり、周囲に人影の無い事を確認すると、黒い布で顔を覆い隠しするりと音も無く室内へと滑り込んだ。
「ひっ!」
「・・・騒ぐな、私だ。」
アトラティヌスはそう言ってカルウスをなだめるが、その部屋の主であるカルウスは似合わない旅装束に身を包んで、部屋の隅でがたがたと震えている。
おそらくコンスタンティヌス暗殺後に混乱のドサクサに紛れ、財産を持ってどこかへ逃げる腹積もりであったのだろう、カルウスの後ろには金貨の入った袋が山積みにされている。
当然、カルウスは今日この日この時に何が起こるのかを影から聞かされて知っており、またその謀略の下準備の為、今まで影の言うなりにではあったものの、陰日なたと画策し、兵士や将官達をコンスタンティヌス暗殺へと導いたのは紛れも無くカルウス本人である。
カルウスは、西ローマ皇帝ホノリウスから内々にコンスタンティヌスを排除すれば特赦を与え、西ローマ帝国の指揮下に滞りなく復する事が可能であるという趣旨の連絡を受けていることを将官達に明かした。
むろん、影から吹き込まれた嘘である。
そしてその上で西ローマに合流し、協力して蛮族の脅威に対処しなければ、遅かれ早かれ蛮族の数の力に圧倒され敗亡の憂き目を見るのは明白であり、その為にはコンスタンティヌスを偽帝として断罪し、これを廃してしまわなければならないと焚きつけたのであった。
ヒスパニア派遣軍の瓦解を受け、衝撃と絶望感に苛まれていた将官や兵士達の大半は、一も二も無くこの誘いに乗った、この煽動にまんまと乗ってしまった。
それまで給料を立替払いしていたカルウスの声望が高まっていた事も、将官や兵士たちの信頼を得るのに有利に働いた。
当然ヒスパニア派遣軍の瓦解についてもアトラティヌスの手の者達が暗躍し、成し遂げた謀略であったが、誰もその様な事は分からない。
密かにコンスタンティヌス暗殺計画は進められ、これを知り、反対した者やコンスタンティヌスに近しい者達には容赦の無い暗殺が実行される。
贋物の木剣を用意したのもカルウスであった。
歴戦の勇者であるコンスタンティヌスに掛け値無しの本当の木剣を手渡してしまえば、その重量感や自身の剣の重心の差異などで直ぐに贋物である事がばれてしまう。
カルウスは腕利きの刀剣鍛治師に、皇帝の剣の贋物とは知らせずに、真剣と重量や質感が変わらないような木剣の作成を依頼し、出来上がったものをアトラティヌスに渡した。
コンスタンティヌスは、まがりなりにも英雄である。
同じく軍人として鍛えられた将官十数人が束になってかかれば、よもや仕損じる事はあるまいが、万が一という事もあり、アトラティヌスは慎重策を取った。
そして準備が全て整った時点で、この暗殺計画の幕が開けることとなったのである。
「・・・お主ももう十分金を拝んだ事であろう?」
「ひ、ひいいい?」
ずるりと近付くアトラティヌスに怯え、カルウスは必死に部屋の床を這い後ずさる。
とん
短剣の柄がカルウスの心臓から生え出した。
「あぐえええええええ・・・・」
絶叫とはとても言い難い短く汚い悲鳴を上げたカルウスは、ぐるりと白目をむき、直ぐに動かなくなった。
舞台裏を知っている人間は少ない方が良い。
アトラティヌスは、自殺に見えるように事切れたカルウスの手へ短剣の柄を握りこませる。
カルウスの遺書を偽造し、アトラティヌスはカルウスの執務室を後にした。
廊下の先にはコンスタンティヌスが最期を遂げた会議室がある。
アトラティヌスはその扉をしばらく眺めると、コンスタンティヌスの最期の言葉を思い出した。
「・・・あるいは、思いを託そうとしたのか・・・我が弟と言い、彼の者には思いを託せるだけの何かがあるのか・・・・・・ふむ、面白い。」
誰に聞かせるでもなくつぶやいたアトラティヌスは、顔を北に向ける。
「・・・行くか、ブリタニアへ。」