第18章 最後のローマ人
「以上である!貴様に死刑を言い渡す!!」
少し甲高い、少年の頃の名残を醜く残したような声が議場に響き渡った。
その宣告に迎合するかのような低い歓声が議場に広がり、一瞬で宣告を言い渡した声がかき消されてしまったが、男は気付いていた。
自分に死刑を宣告したその声にわずかではあったが震えが混じっている事に、である。
無理も無い、今まで政治から軍事、私生活に至るまで私が全てお膳立てをしてきたのだからな・・・彼が始めて自らの意志で出す命令が、そうしてきた私の死刑になるとは、運命とは皮肉で無残なものだ。
血が滲んだ口元にふっと微笑を浮べたその男は、それでも苦言を呈さざるを得ないのか、小さな声でポツリとつぶやく。
「・・・あれ程毅然とした態度を示しなさい、動揺を表に出してはいけませんとお教えして来たのだが・・・」
がつううん
言葉を終えようとした途端、硬い樫で出来た棍棒で横面を張り飛ばされ、跪いていた男は固く冷たい大理石が敷き詰められた議場の床にゆっくり倒れ伏す。
「黙れ!半蛮族が!!」
棍棒を振るったローマ兵が、男を罵り顔面につばを吐き掛けたが、その屈辱にもさして反応を示さず、男は黙ったまま口角から新たな血をこぼす。
男は少し倒れたまま考えるようなそぶりを示してから自分のトーガに血が付着しないよう器用に頭を前に出し、顔についた兵士のつばをそのままに再び跪きの姿勢へと戻る。
よく見れば男の手は後ろ手に鉄鎖で戒められており、足首には奴隷と同じ鉄で出来た重りが枷られていた。
着用しているトーガが純白な上に上質の布であり、更にはほとんど汚れらしい汚れも無い状態である事が、より一層男の痛々しさと哀れさを引き立てていた。
「フラヴィウス・スティリコ!申し開きはあるか!?」
再び耳障りな甲高い声が議場に響き渡る。
「・・・ございません。」
頭を垂れ、下を向いたまま、その男、西ローマ帝国軍総司令官フラヴィウス・スティリコは簡潔にただ一言だけそう言った。
「・・・それが皇帝陛下のご命令であれば・・・」
死刑の理由などどうでも良かった。
後任がどうなるかなど、どうでも良かった。
誰がこの宣告文を考えたかなどとうにお見通しであるが、それもどうでも良かった。
西ローマ帝国の今後についても、心配ではあったが事ここに至ってはどうでも良かった。
ただ、後事を託された先帝との約束を果たせず、守り育てた皇帝本人の手によって自分の役目が終わらせられてしまうその皮肉には耐えられなかった。
ぽた
一筋の涙がスティリコの目から落ち、冷たいラヴェンナの皇帝宮の大理石を打った。
「・・・願わくばわが部下達の助命と、今後も皇帝陛下へ忠誠を奉げる事をお許し下さい。」
しかしながら出自こそ卑しいが、自分の意志を信じ、今まで付いて来てくれた有能な部下達は、この頼りない皇帝陛下のためにも残さなければならない。
「・・・も、もう遅いわ!!」
再び甲高い声が響く。
「既にお主に付き従ったものどもは全て処刑されたわ!!先におぬしを地獄でまっていようぞ!!」
スティリコは今度こそ本当に絶望した。
なんということだ。
いくら危急の時とはいえ、皇帝宮を長く離れるのではなかった。
自分が教育した皇帝が、宦官や無能な廷臣どもにこうもあっさり毒されてしまうとは予想外であった。
長く西ローマを苦しめた西ゴート族最大の王アラリックを何度も破り、今回ようやく西ローマに従わせる事の出来る傭兵協定を結べそうであったため、スティリコはローマの元老院を説得し、その莫大な費用を工面した。
それは、ローマの富裕層を対象とした供出金で賄うという大胆な構想で、ローマの元老院を構成するその対象となった富裕層はこぞって反対したが、ローマがなくなっても金が必要かという、スティリコの半ば脅しとも取れる説得によって、彼らは渋々金を出した。
それ以前からも、出自が半蛮族である事に加え、兵力不足を理由に富裕層の財産である奴隷から徴兵したり、蛮族兵士を正規軍に採用したりすることでローマの上流階級からは白い目で見られていたスティリコであったが、西ローマを守り続けた実績が、彼の身を守り続けていた。
しかし、半蛮族である事が外見上も明らかなスティリコに何度も論破され、従わされてきたローマ貴族達の嫉妬と怒りが、長くローマを牛耳ってきたものの、同じくスティリコの手によって押さえ付けられていた廷臣や宦官と結びついてしまった。
西ゴート族を軍に加え、ガリアの儀帝コンスタンティヌスを倒すべく、軍の編成と訓練に余念の無かったスティリコに、皇帝ホノリウスからの召集状が突然、来た。
何故この時期にという訝しさは感じたものの、あの皇帝にそんな大それた理由があるはずは無いだろうという油断もあり、取るものも取りあえず皇帝宮のあるラヴェンナへ僅かな供回りを連れて向かったスティリコは、ラヴェンナの城門を越えた所でいきなり逮捕された。
忠実な護衛兵たちは訳も分からぬままに次々と血しぶきに沈み、スティリコ自身は懇望で頭を強打されて意識朦朧としたまま皇帝宮へと連行されたのだった。
裁判らしい裁判も行われず、皇帝の居ない場所で次々とスティリコの有りもしない罪状がつまびらかにされ、裁断されて行き、とうとう余りの杜撰な公判進行にこれを受けているはすのスティリコが呆れて助け舟を出す始末であった。
それでも、皇帝に会いさえすれば幾らでも挽回は可能であろうと考えていたスティリコだったが、皇帝ホノリウスが今日この時の自分を見る目を見て、全てが終わった事に気が付いた。
自我の芽生え、とでも言うべきか・・・
むしろ不満の噴出と言った方が的確であるが、皇帝は自分の不満が何であるか、何が原因であるかを知ってしまったのである。
何を吹き込まれていたのかは、想像に難くないし、改めてそれを確認しようという気持ちもなかったが、皇帝自身に何らかの思うところが無ければこうまでも簡単に事が進むはずも無く、スティリコは皇帝が明確な形を持たないまま、日々不満を持って自分に接していたのだという事に思い至った。
まあ、仕方あるまい、幾ら幼少のころからの付き合いとはいえ、生活全てを指図されて面白く思わないのは人として当たり前だ。
スティリコはなるべくホノリウスに不満を持たせないように予算の許す範囲ではあったが、贅沢な生活を享受させ、政治から適度に遠ざけ、宦官や廷臣から距離を取らせていたのであったが、この短い期間にあえなくその苦労して築いた障壁は突破されてしまっていたようである。
おそらく皇帝宮に入れてあった腹心の部下達はとうに始末されてしまったのだろう。
味方はこのラヴェンナに一人もいない。
怒り、後悔、諦念、絶望・・・
言葉だけでは表し尽くせない不の感情がスティリコを苛むが、最早これをどうにかするだけの意志も術もスティリコは持ち合わせていなかった。
「・・・ふむ、これまでか・・・」
意外と自分が冷静である事に自ら驚きながらスティリコは傍らに立つローマ兵に引き立てられ、処刑場へと引き立てられる。
処刑場へと向かう途中、ふと、ブリタニアでローマを維持するべく戦う将軍の事が思い出された。
遠いブリタニアの一司令官に今更何を期待するのか・・・
自分の滑稽極まりない考えに、それでも自分が未だこの期に及んでもローマの未来を気にかけている事にスティリコは苦笑する。
確か名は・・・そう、アルトリウス・・・
砂を敷き詰めた暗い部屋で鈍い光が一閃し、ローマに疎まれ、蔑まれ続けながらもその生涯をローマに奉げた、1人の高潔なローマ人の想いと命が絶たれた。
そして西ローマ帝国中に粛清の嵐が吹き荒れる。
かつてスティリコに仕えた有能な軍人や文官たちは反スティリコ派のローマ貴族や宦官、廷臣達の手の者によって、合法的に、時には非合法に次々と血祭りに挙げられ、スティリコが苦心して築き上げたローマ復興のシステムとプログラムは完膚なきまでに叩き潰され、それに代わって腐敗と怠慢が蔓延する元の沈み逝くローマ帝国が復活した。
その嵐の猛威は有力者達だけに留まらず、スティリコの手によって奴隷身分から解放された兵士や、スティリコの人柄や有能さに惹かれて集まった蛮族出身の兵士や無頼の傭兵達にも容赦なく襲い掛かった。
粛清の前に大半の兵士達は気配を察知して逃亡し、また残った少数の者は虐殺されてしまい、スティリコの集めた戦場経験豊かな西ローマ軍の真の精鋭部隊は雲散霧消した。
この状況に最も狂喜したのはローマ貴族でも廷臣でも、また宦官でもなく蛮族の雄、西ゴート王アラリックその人であった。
スティリコ一人に何度も煮え湯を飲まされ続け、遂にはその軍事力に屈服し屈辱極まりない傭兵契約まで結ばされた西ゴート王は、スティリコ刑死の報を聞くと早速ローマに向かって進撃を開始した。
表向きは、傭兵契約料の増額要求のための進軍であったが、到底ローマ側が飲めない無茶な金額を提示したのは言うまでもなく、本当はローマ側が要求を断ればこれを口実にローマを攻め落とし、その溢れんばかりの財宝を傲略する事を狙ってのものである。
ローマ元老院はアラリック率いる西ゴート軍がローマに向かって来ているとの知らせを聞き度肝を抜かれた。
そして、慌ててアラリックの提示した傭兵契約金増額の要求を呑む旨伝えるべく3人の元老院議員をアラリックの元に遣わしたが、3人は首だけとなってローマの城門前に晒された。
「なにを今さら言うて来ても無駄じゃわ、我等の目指すはひとえにローマの傲略よ。」
アラリックは配下にそう嘯くと、15万の兵でローマ市を包囲した。
「・・・わしが怖かったんはスティリコただ一人よ、奴め味方討ちで死んでまいよったわ、最早ローマの弱兵など怖るるに足らず、もう間もなくお前らにたらふく黄金を拝ましてやろうぞ。」
アラリックはそう配下の族長や戦士たちを励ますと、ローマ攻撃を命じた。
西ゴート軍の強襲攻撃に、ローマ防衛軍8000は全力を尽くして戦ったが、衆寡敵せず、最高指揮官を失い未だ後任すら決まらないまま指揮系統の定まらない状態での戦いを余儀なくされ、攻撃開始から7日目に敢え無く城壁の一角を破られてしまう.。
世界の首都ローマは壊滅した。
情け容赦の無いゴート族の殺戮、略奪、放火、破壊の前に文明の力は余りに無力であり、何者もその野蛮で残酷な風を振り払う事はできなかった。
数百年に渡り世界の文明と権力の中心として繁栄を謳歌して来たローマは、わずか10日間の短い期間で瓦礫と灰、そして死体だけが残る死の都と変わり果ててしまったのである。
西ローマ皇帝ホノリウスは、ローマ壊滅の報をラヴェンナの皇帝宮で伝えられて大いにうろたえた。
「余の大事なローマが!!」
突然中庭に向かって走り出したホノリウスに、その報を伝えた近衛兵は、その行動に一瞬呆気に取られるが、慌てて兜を手にしたまま皇帝の後を追う。
ホノリウスは長い皇帝宮の廊下を肥満した体をゆすりながらそれでも結構な速度で駆け抜けると、ぜいぜいと息を切らしながら中庭に到達した。
そしてそこに設置してある鶏小屋を覗き込むと、後を追ってきた近衛兵を怒鳴りつけた。
「余のローマはここに大事無く居る!ウソの報告をしおって、何が目的だ!!」
ホノリウスの指示する先を見ると、一羽の雄鶏がわっさわっさと羽を揺すりながら砂浴びをしている最中であった。
「おお~ローマすまんすまん、気の利かん近習がお前が一大事だと言うので様子を見に来ただけだ、さ、続けてくれ。」
呆然とする近衛兵を余所に、ホノリウスは怪訝そうに自分を見つめて砂浴びを途中でやめてしまった雄鶏を一生懸命なだめ続けていた。