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第15章 ヒスパニアの使者

ガリアの大地に厳しい冬が訪れている。

コンスタンティヌスは無意識にブリタニアが位置する北側の窓を開けていた。

周囲は見渡す限りの雪景色で、しかも未だ降り続く吹雪は大地のみならず天空に浮かぶ太陽さえも覆い隠してしまっていた。

既に時間は昼正午を過ぎてはいるものの、ルテティアにある城館の窓から見る限り、まるで夜のような風景であった。

ほうっと息を吐くと真っ白になった吐息が立ち昇る。

アルトリウスのヤロウは大丈夫か・・・ふん、俺とした事が・・・ブリタニアはあいつに託してきたんだろうが・・・今更心配や感傷に浸ってもな・・・

「・・・ちっ、全く辛気臭えな、気分まで滅入ってくるぜ・・・」

コンスタンティヌスはそうつぶやくと、勢いよく木窓を閉じ、執務室の机に戻った。

先まで自分が座っていた椅子であるが、ほんの少し外を眺めるために席を立っただけでその椅子はもうすっかり冷え切ってしまっている。

コンスタンティヌスはその底冷えする冷たさに顔をしかめたが、直ぐにいつもの不敵な笑みを浮かべ、机の前にいる将官に顔を向けた。

その将官はコンスタンティヌスを前にしても、その威厳を崩さず、明らかに彼の部下ではない様子が窺える。

ローマ風の鎧を身に纏ってはいるものの、その肌の色は日焼けしたものとは異なるつややかな浅黒さを持ち、背丈は無いものの堂々たる体躯が歴戦の将官である事を伺わせた。

更には左目を縦に走る刀傷が一層その迫力と異様さに拍車をかけている。

「・・・で、要するに、あんたはこの辛気臭いガリアを捨てて、太陽煌めくヒスパニアへ俺を招待してえってわけだな?」

「・・・・そうだ、因みにあんたではない・・・ヌメリウス・マクシムスだ、それに、ヒスパニアにも雪は降る・・・」

マクシムスはそう訂正しながらコンスタンティヌスの言葉にうっそりと答える。

「まあ、そうは言ってもやっぱりここよりは暖かいだろうが?」

「・・・そうだが・・・冬が辛気臭いのは同じだ。」

 明るく話しかけてみるが、陰気さを崩さないマクシムスに再び顔をしかめるコンスタンティヌス。

「まあまあ、今回はヒスパニアとガリアが手を結ぼうと言うめでたい日ではありませんか、双方ともそう角突き合わさずに・・・」

 もみ手をしながら50絡みの男がコンスタンティヌスとマクシムスの間をとりなそうとする。

 小太りな身体をトーガに包み、禿げ上がった頭は脂ぎっており、やに下がった顔がこの人物の品性と性格を如実に表していた。

「誰も角突合せてなんぞいねえよ、ひっこんでろカルウス。」

「・・・」

 うんざりするように答えるコンスタンティヌスと不快感を顕にしたマクシムスに少し下卑た笑顔を引きつらせながらカルウスは言葉を継ぐ。

「いえいえいえ、そうではありません、こう、もっと和やかにお話をデスね・・・」

「ひっこんでろっつてんだろうが!!」

 びきりと青筋をこめかみに浮べたコンスタンティヌスがカルウスの言葉を遮って怒声を放った。

    ぐひっ

 息を飲んだカルウスが、顔を真っ赤にしてそそくさと執務室から退室した。

「・・・すまねえな、うちも人材不足でよ?あんなのしか残ってねえんだよ。」

「・・・問題無い、ローマ何処も人材不足だ・・・」

 苦笑しながら謝るコンスタンティヌスに、マクシムスはゆっくりと首を左右に振りながら答え、それからコンスタンティヌスを真っ直ぐ見据える。

 部屋の外を窺うとマクシムスはおもむろに切り出した。

「・・・で、問題は無いのだな・・・?」

その言葉にコンスタンティヌスはにやりと不敵な笑みを浮かべ答えた。

「ああ。任せておけ、ゴートとヴァンダルの跳ね返りどもぐらい直ぐに追い出してやるぜ、我が軍の精鋭を出してやる、指揮官は俺の従弟のコンスタンスだ、問題ねえだろ?」

「・・・宜しく頼む、蛮族掃討の暁には、ヒスパニアはローマを離れてコンスタンティヌスに協力しよう。」


 カルウスはほうほうの体でコンスタンティヌスの執務室から退出すると、禿げ上がった額に浮き出た汗を拭きながら長く薄暗い城館の廊下を自分の部屋へと急いだ。

「くそくそくそっ!成り上がりの乱暴者が大きな顔をしやがって・・・!」

 そう毒づきながら、足早に廊下を歩くカルウス。

「・・・誰がヒスパニアに渡りを付けたと思っているんだ!!」

 今回のマクシムスの訪問は、カルウスがお膳立てして実現したものであった。

 カルウス・ヴェルス、ヴィエンヌ攻防戦で戦死したサルスティウス・オレリウスの後任としてガリア行政長官に任命された男である。

 元々はガリアワインを主に取り扱う商人であったが、いち早くコンスタンティヌスの幕下に馳せ参じ、ガリアに置ける一切の軍事必需品の手配を取り仕切る事を許され、莫大な利益を上げる事に成功していた。

 ヴィエンヌ攻防戦で苦戦したコンスタンティヌスに見切りをつけてその元を去る官僚や、未だコンスタンティヌスを反逆者とみなして協力を拒む官僚が多い中、曲がりなりにも協力的であり、数少ない行政実務能力のある味方であった。

 ただし、真っ当な人間からの評判は良くない。

 カルウスが徴税や軍需品の徴発を担うようになってから、その割合は飛躍的に引き上げられており、ガリア中から怨嗟の声が上がっていた。

カルウスはそうして増加した税収や供出物資で私腹を肥やしているとの専らの噂であり、事実それらの品の何割かは証拠や痕跡の無いまま巧みな手段で消え去ってしまっていた。

 サルスティウスが行政を取り仕切っていた頃は考えられなかった物資や資金の横領や着服が行政機構の中で公然と行われ、一旦は彼の元で粛清された綱紀や風紀が再び乱れ始める結果となっていた。

しかしながらそうした行政機構の腐敗を止めるどころか知る術すら、統治者ではあっても純然たる軍人のコンスタンティヌスは持ち合わせていなかった。

更には軍の中にもそうした腐敗行為に手を染め者が現われ始め、当然そのしわ寄せは庶民の身に振りかかる事となる。

生活の困窮や窮屈さはガリア全土に波及し、次第にそれはブリタニア軍団を率いてガリアを統治するコンスタンティヌスの評判を貶め、未だ規模は小さいものの、市民の抗議活動や暴動がガリアのあちこちで頻発することとなった。

今やガリアは再び荒廃の道をたどろうとしていた。

ガリアの解放軍として迎えられた当初からは考えられ無い民心の荒廃や市民の抵抗に、一番驚いたのはコンスタンティヌス自身であり、その理由に気が付かないままコンスタンティヌスは市民の暴動や抗議を力で押さえ込む方法を取ったため、ますます彼の評判は悪化した。

また、ヴィエンヌ攻防戦でかろうじてスティリコ率いるローマ本国軍の北進を阻んだものの、その人的損失は大きく、コンスタンティヌス軍はその勢威を大きく減じていた。

最盛期のヴィエンヌ攻防戦前は、約4万の軍を維持していたコンスタンティヌスであったが、今や自由に動かせる兵は1万8千余りに過ぎず、各地の守備隊を合わせても2万にようやく届く程度にまで減っていたのである。

それでもフランクやサクソンら北方の蛮族にはそれ以前に勝ち取った戦勝が未だ効いており、遅れを取る事はなかったが、ゴート族の一派やヴァンダル族がコンスタンティヌスの迎撃体制の合間を縫って、ガリア西部やアキテーヌ、ヒスパニア北部へと侵攻して来ていた。

西ローマ帝国において最も蛮族の居住地から離れた場所にあり、本来安全な地域であったはずのヒスパニアには治安維持に必要な程度の軍しか駐留しておらず、蛮族の強掠を防ぐ手段はそもそも備えていなかった。

ヒスパニア属州長官は、すぐさま早船を仕立てローマへ救援を要請したが、すげなく断られ、頼みにしていたスティリコ将軍のローマ本国軍による救援は得られなかった。

それでもヒスパニア属州長官は、ヒスパニアの防衛を諦める事無く、ヒスパニア全土の治安維持部隊を召集し、私財を投げうって5000の兵をかき集め、対抗しようとしたものの、戦い慣れた蛮族の大軍に抗する事は出来なかった。

ヒスパニア属州境界付近で5万の蛮族軍と一戦に及んだヒスパニア属州長官軍は、衆寡敵せず大敗を喫し、ヒスパニア属州長官自身は首を討ち取られた。

ヒスパニア・ローマ軍は、それ以降かろうじて辺境の砦にこもって蛮族軍を牽制するのが精一杯の状態に陥っていた。

ヒスパニア辺境のその砦に渡りをつけたのがカルウスで、その求めに応じて使者として派遣されてきたのがマクシムスである。

「・・・邪魔なコンスタンティヌスのヤロウをヒスパニアへ追い払う事ができれば、ガリアは俺様の思うままだと思ったのに・・・くそくそくそ!」


カルウスの狙いは、目の上のたんこぶであるコンスタンティヌスをヒスパニア救援へ追いやり、その間に更におおっぴらに私腹を肥やすことであった。

一方マクシムスは救援を無碍に断り、ローマを守る気概に溢れていたヒスパニア属州長官を無為に死なせたスティリコ将軍を恨んでいた。

 カルウスは以前の商売であるワインの納入で面識のあった、マクシムスに間者を使って接触し、コンスタンティヌスに援軍を頼んでみないかと誘いかけた。

マクシムスは、そのカルウスの誘いに応じて砦にこもる3000の兵の救援とヒスパニアに侵攻した蛮族の掃討を依頼するために、蛮族軍の攻囲する砦を命がけで抜け出し、はるばるガリア北部のルテティアまでやって来たのであった。

コンスタンティヌスは椅子に座りなおすと、両手を胸の前で組み合わせてマクシムスに話し掛けた。

「とりあえず動かせる軍は1万8千、その内の精鋭1万3千を従弟のコンスタンスに預けてやる、道案内はしっかり頼むぜマクシムス。」

「・・・うむ、恩に着る・・・しかしガリアは大丈夫なのか・・・?」

 うっそりと答えてからマクシムスは少し声の調子を落としてそう答えた。

 その言葉を聞いてコンスタンティヌスはフンと鼻を鳴らすと、傲然と言い放った。

「ふん、何の心配をしてるんだ貴様?オレはコンスタンティヌスだぞ!5000の兵があれば10倍の蛮族ぐらい蹴散らしてやらあ!」


 イタリア半島北部のラヴェンナ。

 現在皇帝ホノリウスを擁した西ローマ軍総司令官スティリコが軍と共に駐留している。

 ラヴェンナ市の中心部にある宮廷の一角を占めるスティリコの執務室。

その中央に唯一備え付けられた大きな机には、明るい赤色の髪を短く刈り揃え、快活そうな緑色の瞳を持つ、一見してローマの敵であるゲルマン人に酷似した風貌を持った背の高い男が、ローマの伝統衣装である純白のトーガを身に纏って座っていた。

ローマ人の衣装をゲルマン人が身に付けているという、本来は滑稽な姿であるはずが、その人物の持つ独特で荘厳な雰囲気のせいか、不思議と違和感無く調和しており、文明人の見本のような姿がそこにはあった。

その男は黙々と目の前の書類に目を通し、そしてその末尾に自分の署名を記していく。

   フラヴィウス・スティリコ

その見事な署名はそう読み取れる。

 フラヴィウス・スティリコ、西ローマ帝国の宰相にして総司令官。

つまりは政治、軍事、財政、ローマの全てを把握し、動かしている男。

しかしその見かけの通りスティリコは生粋のローマ人ではない。

母親はローマ人であるが、父親はローマに兵士として雇われていたゲルマン人の一派、ヴァンダル人であった。

ローマ人や地中海世界に生きる民族は黒い瞳と黒い髪を持つ。

一方北方の大陸に暮らすゲルマン人やガリア人は金髪や赤毛、瞳の色も青や緑、灰色と変化に富んでおり、スティリコの風貌はどちらかというと父方のヴァンダル人の特徴を濃く受け継いでいた。

 しかしその立居振る舞いはあくまでも洗練された文明人らしく、その所作で彼を蛮族と呼ぶ者はいなかったが、いかんせんその蛮族的な風貌が悪目立ちしていた。

 他のローマ貴族やローマ市民たちは、万事に優秀で国政を壟断しているスティリコに対するやっかみもあり、彼をセミ・バルバロイ(半蛮族)と呼んで陰で蔑んでいたのである。

 かつては征服した他民族を積極的に自分達に同化させる事を国是としていたローマ帝国も、数百年を経て次第に変質し、不必要な差別がまかり通っるようになっていたのだ。

 それでもその差別ややっかみが陰から出てくる事は無かった。

スティリコがずば抜けて有能だったからである。

最早西ローマ帝国はスティリコ無しでは機能しないというところまで来てしまっていた。

軍を率いて東奔西走し、いずれも負ける事を知らず、幼い皇帝成り代わって帝国の政務を1人で誤り無く取り仕切り、不眠不休で私心無く帝国に尽くす彼の姿は半蛮族の誹りを押し流してしまっていた。

 スティリコは執務机状の書類から目を離さず、静かな声色で背後の陰に向かって話しかけた。

「アトラティヌスか、どうだ西の方は?」

 その声に反応して、部屋の影の部分からまるで滲み出るかのように、真っ黒なフード付のマントをすっぽり被った男がスティリコの背後に現われた。


その男は暗く小さな声で淡々とスティリコへ報告を始める。

「・・・ブリタニアではサクソン人傭兵を擁する有力豪族ボルティゲルンがブリタニア王を名乗り、親ローマ勢力のアルトリウスらと戦端を開いたようです。」

「ほう、初戦はどうなった?」

 何故かうきうきしたような声で問いかけるスティリコに、アトラティヌスは淡々とした調子を崩す事無く報告を続ける。

「ボルティゲルンが王命を用いてカレドニア侵攻を号令し、仕方なく応じたアルトリウス将軍をピクト人らとの決戦直後に騙し討ちしたようですが、アルトリウス将軍が負傷した以外は大して損害を与えられなかったようです。」

「・・・そうか、アルトリウスなら逆にサクソン軍を破るかとも思ったが、いずれにせよこれでブリタニアはしばらく勢力拮抗のまま内紛が続くな・・・」

 少し残念そうにそう言うと、スティリコはふと手を止めて顔を書類から上げた。

「・・・あるいは親ローマ勢力の台頭で北方の蛮族とコンスタンティヌスを牽制できるかとも思ったが・・・まあ仕方ない。」

 そしてそのまま考え込むとポツリとつぶやく。

「・・・ふむ、そういう手もあるか・・・」

スティリコは今まで目を通していた書類に署名を終えると、別の羊皮紙にさらさらと何かを書き付けて傍らに置き、再度もとの書類に目を落としながら質問を続ける。

「それで、ガリアはどうなっている?」

「ガリアではサルスティウス亡き後の行政を取り仕切るカルウスの横暴のため、簒奪者コンスタンティヌスの勢威と人気が日に日に落ちています。」

「ふむ、やはりコンスタンティヌスに政治力は無いな、予想通りか・・・」

 つぶやくスティリコ。

「重税と度重なる軍事徴発にガリア中で抗議活動と暴動が頻発しており、その理由を考えずコンスタンティヌスは武力鎮圧しているようです。」

「もう後一押しだな、よし・・・」

 スティリコは再び書類を一旦押しのけ、別の羊皮紙へ何事かを書き付けると、先程と同じように傍らに置いた。

「ヒスパニアはどうだ、新しい動きはあるか?」

「・・・ヒスパニア要塞司令官のマクシムスがヒスパニア救援を求め簒奪者コンスタンティヌスの元へ走りました、簒奪者コンスタンティヌスもこの要請に応じるようです。」

 この報告にスティリコは少し沈痛な表情を浮べた。

「ヒスパニア属州長官には速やかに脱出を図るよう通達したのだがな・・・つまらない意地を張るがために惜しい事をするものだ、ローマに退却していればまだまだ活躍の場はあったというのにな・・・」

「残念ながらその属州長官がかき集めた軍ですが、衆寡敵せず属州長官本人は討ち取られ、属州軍はマクシムス要塞司令官の率いる3000のみとなり、それも蛮族の攻囲を受けて今や全滅寸前です。」

「ふむ、私を恨んでいるマクシムスがヒスパニアの統治権を餌にコンスタンティヌスを釣上げたか・・・何れにせよ放棄予定の領土だ、痛くもかゆくも無いが、コンスタンティヌスの勢力がこれ以上伸張するのは考えものだな・・・」

 顎に手をやりスティリコは思案顔でしばらく目を天井に泳がせる。

「・・・うむ、これは上手く利用すれば、皇帝陛下に仇為す簒奪者コンスタンティヌスと反抗勢力になりかねないマクシムスの両方をいっぺんに片付けられるかもしれないな・・・よし!」

 三度何事かを羊皮紙に書き付けるスティリコの手元を、アトラティヌスは静かに眺めていた。

 そして、スティリコが全てを書き終わるのを待ち、静かに執務机に近付いた。

「後はよろしく頼む、引き続きガリア、ヒスパニア、ブリタニアの情勢と蛮族の動向について探ってくれ。」

 無言で執務机の上から自分の書き付けを手に取り、するりとマントの内懐へしまいこむアトラティヌスに視線を合わさないまま、スティリコは静かにそう言うと、書類の決裁に戻った。

 そのときにはもうアトラティヌスの姿はスティリコの執務室から消え去っていた。

「さて、西ローマの未来はどっちだ?」

 あくまでも快活にスティリコはそうつぶやいた。


コンスタンティヌスはヒスパニア派遣軍の人選を滞りなく急いで進めていた。

行政能力には疑問符の付く統治者であるコンスタンティヌスであったが、こと軍事行政に関しては、常日頃から一流の手腕を発揮しており、行政官僚であったサルスティウス存命の時代には、その助けを得て何ら支障をきたす事無くガリアを統治する事が出来た。

しかしサルスティウス亡き今、行政を預けるべき人間はカルウスの様に腐敗にまみれた官僚や商人しか残っていなかった。

行政に疎いながらもそれを察していたコンスタンティヌスは、やむなくせめて政治的な腐敗と関連の無い商人であるところのカルウスを抜擢したわけであるが、この抜擢は返って更なる混乱を巻き起こす事となった。

サルスティウスが反乱者の汚名を着る覚悟で、心血を注いで整備し、再構築し、風紀を引き締めてやっとまともに機能し始めた行政機構と税制は、私利私欲にこれを利用する事しか考えないカルウスの手によって、行政機構は目的を見失っていた。

サルスティウスは、ローマの行く末を憂いながらも十分腕を発揮する事を許されていなかった有能な若手官僚を抜擢し、各地の担当官として責任を持たせ効果を挙げたが、カルウスはその官僚達を次々に罷免し、自分の腹心や言いなりになる腐敗官僚をその地位に就け、徴税や徴発の途中で中抜き、つまりはピンはねが出来るように組み替えてしまったのである。

せっかく持ち直したガリアの行政機構は再び腐敗と怠惰の膿にまみれてしまった。

膿は膿を呼び、サルスティウスに抜擢された官僚達は閑職に追いやられるか、辞職を止むをえ無くされ、サルスティウスが罷免した腐敗官僚達が再び登用され始めていた。

そういった事情をよそにして、コンスタンティヌスは理由はどうあれ、閉塞した現状を打開するには守りに徹しているよりも外へ打って出る方が良いと考えたのである。

何よりも積極的な攻勢はコンスタンティヌス自身の性分に合っている。

「よし、これでいいだろう!」

満足げに自分の計画を記した大判の羊皮紙を眺め回しながらコンスタンティヌスはそう大声で独り言をいう。

総兵力1万3千名のそのほとんどがブリタニアから率いてきた精鋭たる古参兵で占められており、またコンスタンティヌスの従弟という以外は凡庸で経験不足の否めないコンスタンスを補佐するべく、同じくブリタニア以来の経験豊かで信頼の置ける古参将校を参謀として付ける事にしてある。

この時代ローマでは冬季における戦闘や進軍は行わず、都市や城砦へ軍を収容し、体制を整えて越冬をするのが一般的であった。

敵が進行してきた場合や、必要があればこの限りではないが、温暖な地中海世界で培われたローマの軍事技術や装備は冬季戦闘に向いているとは言い難く、このような慣習が生まれたのであろう。

しかし今回会えて冬季に出兵しようというのがコンスタンティヌスの作戦であった。

ローマ軍のこの慣習は当然蛮族も十分に知っており、今マクシムスが立て篭もっていた砦を攻囲している蛮族軍も当然そう考えている事から、彼らは来たとしてもローマの援軍は春以降と油断している事は間違いない。

その油断を突こうと、コンスタンティヌスは軍の編成を急いでいたのである。

「おい!誰かいないか!!」

コンスタンティヌスが執務室の外に向かってがなり立てると、すぐさま2人の官吏が入室してきた。

「ブリタニア軍団のうち、第1大隊から第5大隊の1万名、及びガリア兵3000を早急に召集しろ。」

 コンスタンティヌスが官吏の一人を右手の人差し指で差して指示すると、その官吏は黙って頭を下げ直ぐに執務室を退出して行った。

 更にコンスタンティヌスは自分の執務机に戻ると自分の記したヒスパニアへの出陣計画書とヒスパニア、ガリアの地図をばさりと手に取り、残った官吏へ手渡した。

「直ぐに会議室の用意をしろ、それから司令官連中とコンスタンスを会議室へ呼べ!準備が出来たら俺を呼びに来い!」

コンスタンティヌスの号令一下、ガリアはヒスパニア遠征に向かって一斉に動き出した。


「くそ、普通は春になってからしか軍を動かさないはずで・・・畜生!」

カルウスの目論見どおり、と言うか予想以上の反応でマクシムスの要請に応じたコンスタンティヌスは、冬季にもかかわらず軍を起こす事を指令したために、カルウスら行政官も上へ下への大騒ぎとなった。

兵士に配給する食糧や給料、軍馬の飼料、兵士の鎧兜などの装備品に投槍や矢弾などの消耗品の準備、また冬季である事から、当然それらの物資を輸送する手間も夏季以上に掛かってしまう。

軍事物資や輸送の手配をしながら普段の行政事務もこなさなければならず、軍をヒスパニアへ派遣するのは春以降と完全に思い込んでいたカルウスは、息つく間もない位の過剰業務に追われる事となった。

 だらだらと脂ぎった汗をかきながら、書類の束を抱えて自分の執務室に戻ってきたカルウスがその書類の束を置こうと自分の机を見ると、散乱した書類の中に見覚えの無い書状がぽつんと置かれている事に気がついた。

「なんだこれは?」

カルウスは差出人不明の書状を不思議そうに手に取る。

差出人はどこにも書かれておらず、ただ単に紋章の無い蝋で封緘されているだけで、宛名がカルウス行政官殿とだけ記されていた。

 業務連絡をするための書状にしては書式が重々し過ぎる上に封緘まで施されており、カルウスは戸惑った。

 とりあえず宛名は自分になっている事から、不審とは思いつつカルウスは封緘を解いて書状を広げた。

「・・・こっ、これは・・・!!」

書状を開いたカルウスは、一瞬で顔を真っ青にし、ぶるぶると全身を震わせながらそう漏らした。

それまでの脂汗とはまた違った汗が、カルウスの禿げ上がった額や顔中からぶわっと吹き出す。

書状の1通目にはカルウスが公職に就いてからの税金の横領、公金の隠匿、徴発物資の横流し、調達物資を購入する際の商人との賄賂の遣り取り等、具体的な金額から隠匿場所、カルウスの隠し金庫の場所や数まで詳細に記載されており、その悪事が網羅されていた。

2通目には、これから訪問する人物の言う事をよく聞かなければ、この書状の内容をコンスタンティヌスに告げると書かれていた。

「だ、誰が来ると言うのだっ?」

 あからさまな脅迫に、動揺で呂律の怪しくなったカルウスは部屋の中を見回すが、人影を見つけ出す事ができない。

「ひ、ひやかしかあ~あはあ~。」

「・・・冷やかしと思って貰っては困るな・・・」

 情けない声を上げてへたり込みそうになるカルウスの背後から影のぼそりと薄暗い声が響く。

「あひえええ~!!」

「・・・騒ぐな、お前の人生を終わらせる事など雑作も無いのだぞ。」

 更に情けない悲鳴を挙げてへたり込むカルウスの喉元に、その影は短剣を背後から押し当てながらそう怒気を込めた声で言った。

「うぎっ・・」

 息を呑んで固まるカルウスをそのままに影はようやく相手が話しを聞く体制が出来た事を確認し、今度は静かに感情を感じさせない声色でとつとつと語り始めた。

「・・・我々はお前の薄汚い蓄財になど興味は無い、ただコンスタンティヌスが邪魔と言うのであれば協力してやろう、どうだ?」

 カルウスは声を出せないままこくこくこくと短剣の刃に触れない程度に短く何度も頷く。

「・・・いいだろう、ただしお前が裏切った際は安い代償だが命を貰い受ける、我の実力は良く分かっただろう?警護の者を万余に増やしても無駄だぞ・・・」

 再びこくこくこくと短剣の刃に触れない程度に短く何度も頷くカルウスは、影のその言葉に怖気で背筋を凍らせた。

 この影にはどんな警戒も役には立たないと言う事が今更ながら良く分かったからである。

 コンスタンティヌスも詰めているこの城館は当然兵士達によって厳重な警備が敷かれており、その上今は出兵準備で多数の官僚や軍人達が隙間無くあちこちを走り回っている。

 そんな中を誰にも気付かれる事無く最深部の一角にあるカルウスの執務室まで到達し、あまつさえカルウス自身にすら気付かせず、ここで今短剣を突きつけている。

 じっとりと汗が短剣を突きつけられている首筋から滲み出る。

「・・・ふん、貴様ごときがガリアを牛耳っているとは・・・」

 カルウスには聞こえないように、呆れたような、怒ったような声を漏らす影の顔は侮蔑に歪んでいる。


 影はそうっとカルウスの耳元に口を近付けるとぼそぼそと何事かを告げた。

 途端にカルウスの顔色が真っ青になった。

「ななっ、そんなっ!私には無理でっすっ!!」

 奇妙にどもりながら大汗を額から垂らし、カルウスが悲鳴じみた声を挙げる。

「・・・何を勘違いしている?これは依頼ではないのだぞ、やらねばお前の身に破滅が訪れるだけだ。」

 喉元の短剣をするりと肌に押し当てながら冷たく言い放つ影の言葉に、カルウスはごくりと喉を鳴らし、絞り出すようにしてしゃがれた声をようやく出した。

「わ、分かった、何とかやってみます。」

「・・・それで良い、要らぬ心得違いをするものではないぞ・・・」

 カルウスの承諾の言葉ににたりと口元を笑みの形にゆがめた影は、短剣をマントの中に引き込むと、そのまま闇に溶け込むように部屋から消えた。

カルウスは目を一旦ぎゅっとつぶってから恐る恐る開き、部屋をゆっくりと見回してみた。

先程まで影が確かに居たはずの部屋には、しかしカルウス以外に人の居た痕跡どころか気配すら無く、カルウスが一読して腰を抜かさんばかりに驚いた悪事の数々を暴き立てた書状も、影と共に何時の間にか消えていた。

ぶるりと肥満した身体を震わすと、カルウスは顔を青くしたままそそくさと執務室を出て行った。


「だから何度も言ってんだろうがよ!」

 ルテティアの会議室にコンスタンティヌスの怒声が響き渡り、官吏の何人かは思わず首をすくめた。

「さっきから何べん言わすんだこのボンクラどもが!!」

 再度会議室の中央に設えられた大きな樫製の机をがんがんがんと立て続けに拳で打ち鳴らしながらコンスタンティヌスが将官たちを怒鳴りつけた。

 机の上に置かれた地図や編成表がコンスタンティヌスの拳に合わせて机から踊り上がる。

 将官たちもコンスタンティヌスが余りの剣幕で怒鳴り付けて来るために、眉を顰めたり、

眉間にしわを寄せたりしている。

いつもの事ではあるのだが、全員が辟易の表情を浮べていた。

「今すぐに軍を進発させれば春の雪解け前に砦を囲んでいる蛮族の背後に回り込めるんだよ!道順はここ!ここ!ここ!」

苛立った様子でコンスタンティヌスは拳で打たれて乱れた地図を指し示す。

コンスタンティヌスが示した道は、ローマ街道から外れてこそいないものの、冬季には凍結や積雪によって難所となり、通行が禁止されている箇所ばかりであった。

しかも、ヴァンダル族が入り込んでしまっているアキテーヌ地方を縦断する進路を取っており、道中穏やかという訳にはいかない。

冬季であり遭遇する確率は低いものの、度々小競り合いを繰り返し続け、決して友好的とはいえない相手の勢力圏を通り抜けるのである。

万が一にも無事で通過できる事は無いであろう。

将官たちが渋るのは無理も無い、今回の遠征はただ移動するのではなく、移動後に自軍に倍する蛮族軍と戦わなくてはならない。

さらに本拠地から離れ、補給や補充の望めない状態での戦闘となる。

蛮族を首尾良く討ち破る事が出来た場合でも、大きな損害を受けてしまった場合などは特にその回復は容易に望めず、例え砦に篭る3000のヒスパニア属州軍が参加したとしても決して割の良い勝負とはいえなかった。

将官たちは、コンスタンティヌスがこの難解な戦いに自ら出陣せず、配下に任せようとしている事に対して不信感を募らせていた。

「いいか!お前らがいくら反対しようが関係ねえ!オレは軍をヒスパニアへ派遣するし、冬に進発もさせる!!これは決定事項だぞ!黙って策を練り上げろ!分かったか!!!」

 コンスタンティヌスは渋る将官たちにかんしゃくを爆発させて一気にそう怒鳴り上げると、くるりと踵を返して会議室の入り口に向かった。

 将官たちは戸惑ったようにお互い顔を見合わせていたが、一番下級の将官が他の将官たちから促されて恐る恐るコンスタンティヌスの背中に言葉をかけた。

「・・・皇帝陛下、どちらへ行かれるのですか?」

コンスタンティヌスはぎろりと振り返って将官達をにらみ付け、怒りを抑え付けながら先程とは打って変わって静かに言った。

「・・・陽動作戦だ、お前らがアキテーヌを通り易いようにオレが5000の兵でロアール川の北岸からスウェビ、アレマン、サルマートの連中に攻撃を仕掛けてやる、敵は泡喰って北へ軍を集結させるだろうからな、南部やヒスパニアの州境は手薄になる、オレがヒスパニアへ行ってもいいが、5000の兵で10倍の蛮族に勝てるヤツがいねえからな。」 

 コンスタンティヌスの言葉に、しかし将官たちは息を呑み、気まずそうにお互いの顔を見合わせただけで動こうとしない。

 コンスタンティヌスはしばらく誰かが動き出すか、質問をするかと思って怒鳴るのを我慢していたが、一向にその様子が無い事にとうとう痺れを切らし、ダンと足を踏み鳴らして我鳴り立てた。

「だから貴様らもぐずぐずのろのろしてねえでさっさと行けってんだよ!!」

 コンスタンティヌスの再度の怒声でようやく全員が風を食らったように動き出した。

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