第13章 見えざる敵
「疫病だと!!」
ロンディニウムの行政庁舎の執務室で報告を受けたアンブロシウスは愕然とした様子でその報告を受けた。
ヒベルニアをブリタニア有志連合軍のみの力で撃退してからもう一年が経っていた。
あの戦いで上げられた功績は戦績のみに留まらず、ヒベルニアはもとより周囲の蛮族の侵攻を思いとどまらせる事ができ、束の間の平和をブリタニアにもたらした。
そして、否が応にも権威を高め、ブリタニア再統一に向けて順調であるかのように見えたアンブロシウスらローマンブリタニア派にとって突然の凶報であった。
「はい、既に南東部を中心にブリタニア人の間でのみ広まりつつあります。」
冷静な表情の中にも鎮痛な色を滲ませてデキムス行政長官が報告する。
「主な症状は下痢と発熱、意識障害で、民間人のみならず行政府の官僚や軍人の中にも発症者が多数現れており、既に蔓延しているものと思われます。」
どさりと音を立ててアンブロシウスが椅子にへたり込んだ。
今まで営々と築き上げてきたものが一気に瓦解する音をアンブロシウスは確かに聞いた。
絶望的なまでに減少したブリタニアのマンパワーを、それこそ爪の先に火を灯す様にして維持し、増強し、遣り繰りして来たアンブロシウス。
それが今、疫病によって水泡に帰そうとしていた
額に手を当て頭痛を抑えるかのようにしていたアンブロシウスは、ふとデキムスの含みある言葉に気が付いた。
「・・・ブリタニア人の間にのみ・・・広まりつつあるのか・・・?」
「・・・・」
アンブロシウスの言葉に無言のデキムス。
「しかも、南東部・・・!」
がばっと椅子から起き上がったアンブロシウスはそのまま立ち上がって壁に掲げられた羊皮紙製のブリタニア全図に近付いた。
その図面には現在の詳細な勢力区分が顔料で塗り分けられており、その南東部のほとんどは、一際目立つ赤色で塗り込められていた。
「サクソン人か!!」
「はい、おそらく大陸渡りのサクソン人どもが持ち込んだ疫病ではないかと・・・」
ボルティゲルンの勝手な政策によって招き入れられたサクソン人は、文字通りの蛮族であった。
ローマが築き上げたインフラを理解できず、使いこなす事もできないまま破壊して周辺のブリタニア人集落に小さくない打撃を与えていた。
また、入り込んだ土地を気ままに、自分達のやり方で耕作する以外能が無く、土と気候に合わないまずいやり方で耕された土地はやせ衰え、収穫を上げられなかった者達は容易に野盗へと早変わりする。
あるものは襲撃を受け全滅し、あるものはそれを怖れて移住し、それ以前も続いていたブリタニア人の兆散に拍車がかかり、サクソン人の入植した土地周辺のブリタニア人集落から人が居なくなった。
もちろん、公衆衛生などという言葉は、蛮族たるサクソン人の言葉にすら存在せず、その不潔さは他の蛮族たちと何ら変わる所が無い。
襲撃か交易かは分からないが、いずれにせよ何らかの形でブリタニア人集落に来訪した病持ちのサクソン人からブリタニア人に感染し、さらに感染後各地に兆散して移動したブリタニア人から受け入れ側のブリタニア人に感染が拡大していった事が予想された。
強靭な体力を持つ蛮族にとっては些細な病も、衛生的な文明人であり、また大陸と隔離され抵抗力を持たないブリタニア人の間ではあっという間に感染が拡大する恐るべき疫病となったのであろう。
更に絶望的な報告がデキムスの口から発せられた。
「ヴェネト・イケニでは既に多数の死者が出ています。」
アルトリウスは同じ報告を北方の戦場で受け取った。
たった今ダルリアダの首長を処断し、戦場掃除と称される遺体の埋葬や物品の回収作業を終えたばかりのアルトリウスは、顔をしかめる。
「・・・」
「既にヴェネト・イケニを始めとする東南部の都市やキウィタスでは多数の死者が発生し始めております。」
伝令から受けた報告内容をクィントスがアルトリウスにそう告げた。
「おそらく疫病の出元はサクソン人だろうね、やつらの衛生観念は無きに等しい上に折角与えた石鹸すらまともに使えないからな。」
アルトリウスらローマンブリタニア派は再三に渡ってサクソン人の入植に反対し、ボルティゲルンにも抗議の書簡や使者を派遣していたが、王を名乗り始めたボルティゲルンが元老院での議決を盾にしてその要請に応じる事は無く、また実力でサクソン人を排除しようにも、その行為そのものがボルティゲルン、ひいてはブリタニア元老院に対する反抗となりかねない事から、内紛を怖れるアンブロシウスがそれを押し留めていた。
ブリタニア元老院の威光を尊重する以上、ローマンブリタニア派もその意味では同じ土俵上に居るわけであり、それに縛られてしまうのはボルティゲルンだけではなく自分達も同じという事をアルトリウスは思い知らされる形となった。
マヨリアヌスの発案で、せめて生活の文化程度を在来のブリタニア人と同程度といわないまでも引き上げてやろうと、石鹸を始めとする生活消耗品を与えては見たものの、蛮族であるサクソン人にはそもそもの衛生観念が欠落しているために成功しているとは言い難く、その試みは半ばにして疫病の発生という事態によって断ち切られた。
ヴェネト・イケニは、最初のブリタニア元老院においてアンブロシウスに政争で破れたタウルス都市行政長官が仕切る、ローマンブリタニア派の中でも孤立気味の都市ではあるが、カエサル以前のブリタニアで最大の部族だったイケニ族の中心地に立てられた都市で、規模や重要性は無視できない。
ましてや派閥とは関係なく1万余りのブリタニア人が暮らす大都市である。
見捨てる事は出来なかった。
「直ぐにロンディニウムの従兄さんに伝令を出してくれ、食料と医薬品を軍の倉庫から供出する許可と手配、私が軍を率いて疫病対策に当たる事、率いていくのは現有部隊のうち歩兵1000とすること。」
「・・・!!総司令官、それは・・・!!」
クィントスがアルトリウスの出した指示に絶句する。
「救援物資はロンディニウムに立ち寄って受領しよう、急げ、時間が勝負だ。」
躊躇するクィントスに、それ以上深く考える間を与えまいとするかのようにアルトリウスは急かした。
「しかし・・・!」
それでもなお躊躇するクィントス。
アルトリウス自身も軍の総司令官自らが、疫病感染の拡大している地域へ赴いて救護活動の指揮を執ろうとする、この指示が無茶である事は自覚していた。
しかし手を拱いている間にも病に倒れる人々は確実に増え続けている上に、今手を打たなければ疫病は南東部に留まらずブリタニア全土へと拡大していく惧れがあった。
ただ、アルトリウスといえども疫病相手となれば戦場のようには行かない、打てる手は極めて限られている上に、決して劇的な効果を表すわけでもなく、また下手をすればアルトリウスら救援側が感染に巻き込まれてしまう惧れもある。
クィントスが心配したのもアルトリウスが疫病にかかってしまった場合、その一点であろう。
「とにかく早く現地へ赴かなければいけない、ロンディニウムへ撤収する準備は急ぐようにさせてくれ。」
「・・・分かりました、一旦ロンディニウムへ戻るというのであれば、命令に従います。」
アルトリウスが重ねて指示を出すと、不承不承といった様子でクィントスは頷き、撤収を急がせるためにアルトリウスから離れた。
「敵は何時、何処からやって来るか分からないという事か・・・」
クィントスの去った後、アルトリウスはそうつぶやくと眼下の戦場へと目をやった。
先程までブリタニアの兵士とダルリアダ戦士がぶつかり合ったその場所は今静まり返って、動くものの気配はなく、燻った土と物が焦げた臭いに混じって早くも死臭がしている。
生臭い戦場の風がアルトリウスの真紅のマントをはためかせて通り過ぎていった。
「・・・私達に平穏なときは果たして訪れるのだろうか・・・」
そのアルトリウスの問いに答えるものは無かった。
「おお!?またそんな事を言っているのか、お前は相変わらずわかっとらんな!」
アルトリウスはアエノバルブスにいきなり一喝されて鼻白んだ。
「しかし、他に手立てはありません、我々軍が動かなければ・・・」
「だからわかっとらんと言っている!」
アルトリウスが言い訳めいた説明をしようとしたが、アエノバルブスに遮られた。
アエノバルブスはびっと右手の人差し指をアルトリウスの前に立てると少し肩を怒らせながら説明を始めた。
「いいか、アルトリウスよ、軍は確かに効率がいい組織だが、逆に疫病にとっても効率の良い組織なのだ、まともな医学知識の無い兵士などわざわざ疫病にかかり行くようなものだ。」
「・・・しかし・・・」
「おお、これだけ行ってもまだ分からんとは!悪い事は言わん、アルトリウス、病は医者に任せておけ、わしが医療班を別に編成して対処しよう、軍の衛生班を借りる事にするが、それ以外はいらん!邪魔だ。」
なおも言い募ろうとしたアルトリウスだったが、取り付く島も無いくらい、きっぱりとアエノバルブスにそう断られてしまう。
所在なさげに立っているアルトリウスに、しばらくしてからふと気付いたようにアエノバルブスが顔を上げた。
その気配に期待してアルトリウスはアエノバルブスの言葉を待つ。
「おお、そうそう、軍も郊外までの物資の搬送ぐらいは手伝えるだろう、貸してもらうが、お前さんは要らんから嫁ん所でも行ってるが良い、強壮剤いるか?」
アルトリウスはがっくり肩を落とした。
アルトリウスは北方の戦場を後にし、ブリタニア軍を率いてロンディニウムに帰還した。
ロンディニウムもブリタニアの南東部に当たるが、未だここまで疫病は届いていないのは、ブリタニア随一の大都市であると同時に守りも固く、サクソン人の襲撃を受け付けない事と無縁ではない。
アルトリウスは郊外の駐屯地に軍を置き、軍装を解くとアエノバルブスを伴い、行政庁舎にアンブロシウスを訪ねた。
執務室に入ったアルトリウスの前には憔悴し切ったアンブロシウスの姿があった。
マヨリアヌスとデキムスも既に入室しており、アルトリウスの到着を待っている状態であった。
「・・・アルトリウスか、ご苦労だった、報告は受けている、ダルリアダの首長は小競り合いのつもりだったようだが・・・」
「はい、完膚なきまでに叩きのめしておきました、ついでに首長の首もとりました。」
アンブロシウスはアルトリウスのその言葉に苦笑しながら答える。
「相変わらず容赦が無いな、まあ、そのおかげでダルリアダとは交渉が有利に進められるが・・・」
ヒベルニアからの移民がカレドニア南部に造った国がダルリアダである。
文化的にはだいぶ劣るものの、ブリタニアを除いて唯一国と呼べる存在であった。
位置的にはブリタニアからは北西方にあたり、ローマ健在な頃は当り障りのない関係に終始していたが、コンスタンティヌスの大陸出征以来は領土を巡ってブリタニアやカレドニアの蛮族とも小競り合いを頻繁に起こしていた。
アルトリウスがディーヴァ北岸の戦いでヒベルニアを撃破してからは積極的な戦闘を回避し、小競り合いでブリタニアの領土を掠め取ろうと蠢動していたが、今回、アルトリウスが派遣された事で怖気付いたダルリアダの首長は、戦場での講和を望んだ。
しかし、アルトリウスは交渉で一切の妥協をせず、戦意の無いダルリアダ軍を無理矢理戦闘に引きずり込んだ上で、大いに破り、さらには降伏したダルリアダ首長を切り捨てた。
ダルリアダは向こう3年間は回復できないくらいの打撃を受けていた。
「うむ、先に手を出してきたのはダルリアダからじゃし、何ら問題は無かろうて、ハドリアヌス帝の壁向こうにまで押し返す事が出来るかもしれんの。」
マヨリアヌスがそう言いながら執務室の壁に掛けられているブリタニア全図を見る。
しかしその後でため息を付きながら言葉を継いだ。
「しかし、わしらも同じぐらいの打撃を疫病で受けかねん、早くもブリタニア南東部に留まらず、ブリタニア全土へと蔓延の気配を見せておる、予断は許されぬ状況じゃ。」
その言葉に反応してアンブロシウスは頭に手をやり、首を左右に振った。
「折角の統一戦略を練り直す必要が出てきた、疫病は主に我々ローマンブリタニア派の勢力圏を中心に広まっている、その理由も分かっている、サクソン人の襲撃を受けるのはいつも我々の勢力の村や都市だからだ、ボルティゲルンめ、これを意図した訳ではないだろうが・・・」
アンブロシウスのその表情と声には苦悩がにじみ出ていた、よく見れば無精ひげが散見され、普段隙無く身だしなみを整えているアンブロシウスにしては珍しい事である。
アルトリウスの視線に気が付いたのか、アンブロシウスは苦笑しながら顎の無精ひげを一本引き抜いた。
「ちょっとぐらい痛くても構わないから、この髭のように難題も簡単に抜き取れればなあ・・・」
「今しばらくすれば小康状態も訪れるじゃろうて、そう落ち込むでない。」
「各地の医師に手配をしております、直ぐにここへ皆駆け付けてくれる事でしょう。」
らしからぬ弱音を吐くアンブロシウスに、マヨリアヌスとデキムスが心配そうに慰めた。
「・・・おぬし、寝ておらんのじゃないか、少し睡眠をとるがいい。」
その様子を見ていたアエノバルブスがそう言って薬瓶らしきものを取り出し、アンブロシウスに手渡した。
「・・・これは?」
何かの薬かと思ったらしいアンブロシウスが訝しげに尋ねると、アエノバルブスは豪快に笑って答えた。
「おお、イタリア本国産の最高級ワインだ。」
絶句するアンブロシウスにアエノバルブスは更に言う。
「よく眠れるぞ、つまらん弱音も寝不足からだ、よく寝て英気を養わん事には名案も浮かぶまい、まあ、疫病に関してはわしらに任せて置け。」
「・・・とは言ったものの、すぐに疫病を終息させる事は出来ん。」
アンブロシウスを仮眠室に引き取らせた後、アルトリウスらを前にしてアエノバルブスはそう言った。
「しばらくはこのままの状態が続くじゃろうと言う事は分かっておりますわい。」
その言葉に頷きながらマヨリアヌスがそう答えた。
「・・・今は人の移動を制限する事ぐらいしか出来ません、救援に派遣した行政官や軍人からも発症者があらわれ始めています。」
デキムスのその言葉にアエノバルブスは顔をしかめる。
「おお、知らん事とは言え無謀な事をしたものだ、感染拡大の原因はブリタニア人の兆散だけではないな。」
「・・・申し訳もありません、救援に派遣した者達からの感染拡大と認められる者も多くなって来ています。」
アエノバルブスが看破すると、言葉どおり申し訳無さそうにデキムスが答えた。
「とにかく患者の血、汚物、咳によるつばには絶対触れぬように、触れてしまった場合は速やかに石鹸を使用して洗浄し、消毒は酒精と草木灰を使用する事、付着した衣服については焼き捨てる事、水葬は禁止し、埋葬は土葬では無く火葬する事、飲料水は煮沸する事、例え浅手でも傷口のある面を晒さぬ事を布告して頂きたい。」
「承りました。」
アエノバルブスの説明をデキムスは素早く石版にメモを書き付けると、布告を作るために執務室を退出した。
次いでアエノバルブスはマヨリアヌスの方を見て言葉を続ける。
「おお、それからマヨリアヌス殿、疫病にかからない者も中におるはずです、その者達の把握はしておりますかな?」
「うむ、既に聞き取り調査を始めておるところじゃ。」
よどみなく答えるマヨリアヌスに、アエノバルブスが嘆息する。
「おお、医学知識のあるマヨリアヌス殿がおられればここまでには至らなかったものを・・・」
「面目ないの、大陸での仕事が立て込んでおった次第じゃ・・・」
言葉を濁してそう答えるマヨリアヌスに、アエノバルブスは破顔して言う。
「おお、過ぎた事は置いておき、今出来る事をするとしましょう。」
アエノバルブスによる疫病対策がどんどん進められていく一方、医学知識と言っても戦場での応急手当ぐらいしか出来ないアルトリウスは手持ち無沙汰で話を横で聞いていた。
何か出来る事を指示されないかと思ってずっと執務室の隅で待っていたアルトリウスだったが、一向にその気配が無い。
「あの・・・」
話が一段落したところで恐る恐る声を掛けるアルトリウスに、アエノバルブスはうるさそうに振り返った。
「何だ?」
「・・・いえ、その何か私に役目はありま・・・」
「無い!早く家に帰って嫁とよろしくやってこい!」
アエノバルブスはアルトリウスの問いかけを途中で断ち切って乱暴にそう答えたが、アルトリウスがその場を離れずに立ち尽くしているのを訝しげに見てから、にやりと笑った。
「・・・強壮剤欲しいのか?」
「・・・・!」
アルトリウスは顔を真っ赤にして、年甲斐も無く吹き出しているマヨリアヌスとニヤニヤしているアエノバルブスの視線から逃げるようにアンブロシウスの執務室を後にした。
アエノバルブスとマヨリアヌスはアルトリウスが執務室から出て、自宅である官舎に向かって行った事を確認すると真顔に戻って互いに顔を見合わせた。
「・・・アエノバルブス医師よ、お手前には危険な仕事を頼む事になってしもうた、申し訳も無い。」
マヨリアヌスが沈痛な表情でそう言うと、アエノバルブスはガシガシと自分の頭を右手で掻きながらぶっきらぼうに答えた。
「おお、医者ともあろう者が疫病ごときに背は向けておられん、まあ任せてもらおう。」
うむと頷きながらマヨリアヌスが更に言った。
「・・・他でもない、大陸の情勢が再び動きそうなのじゃ、今ブリタニアが立ち往生しては蛮族に付け込まれかねん、一刻も早く疫病を収束させ無ければいかん、是非お願い致す。」
マヨリアヌスの最敬礼を受けたアエノバルブスは、頭にやっていた手を下ろし、今度は人差し指でぽりぽりと鼻を掻きながら答えた。
「さて、何処までわしの力が通用するか・・・試され時だな。」
アルトリウスは自宅となっているロンデニィウムの行政庁舎に隣接する官舎へ約1ヶ月ぶりに戻ってきていたが、質素ながらも頑丈な造りのドアを前に躊躇していた。
「従姉さん、怒っているか・・・いやきっと怒っているな!」
妙な確信を得たアルトリウスは意を決してドアを開けた。
「・・・・ただいま・・・?」
戦場での様子からはおよそ考えられないくらい、恐る恐るそう声を掛けながらドアを開けるアルトリウスは、自分で今の姿は部下の兵士達には決して見せられないなと思った。
1ヶ月前にダルリアダへの動員令が下されたとき、本来は副司令官のグナイウスが軍を率いる事に決まっていた所を、敢えてアルトリウスは自らが軍を率いる事に決めた。
一つはダルリアダ側に戦意が余り無い事が事前の諜報活動で明らかになっており、遅滞戦術を取るか、戦場での交渉で事を終わらせようとしている事がうすうす判明していた為、ダルリアダに時間稼ぎをさせないようこれを一気呵成に破る必要があった事。
二つ目に、アルトリウスの戦場での名声によって、ダルリアダの戦士たちに動揺を誘い、戦意を挫いて戦いを少しでも有利に運べるようにする事がその目的であった。
しかし、アウレリアはアルトリウスが故郷のコーンウォールに一旦戻って結婚式をするという約束を引き伸ばされた事に内心ひどくがっかりしたらしく、総司令官の妻となる者として気丈なところ見せ、表立って反対したり態度を変えたりする事は無かったものの、アルトリウスが出陣するまでの1週間は、静かにそして常にモヤのような暗黒い気配を滲み出させていた。
実の所アルトリウスにはこのまま結婚してしまって良いものだろうかという、特に理由の無い感情があったことから、丁度下された動員令に飛びつく事で時間稼ぎをしたという後ろ暗い理由もあったので、余計不審な態度を取ってしまっていたのである。
「あっ、アル!おかえりなさい、早かったですね!」
アルトリウスの後ろ暗い心配をよそに、アウレリアは出陣前の暗黒い様子から打って変わった花が咲いたような笑顔でアルトリウスを迎えた。
「た、ただいま従姉さん。」
微妙に引きつった笑顔でアウレリアに答えるアルトリウス。
アウレリアはしかしそれに気が付いていないかのようにアルトリウスへ近づくと、その手を自然な仕草で取り、自分の額にそっと当てると目を静かに閉じる。
「アルが無事に帰ってくれた事に感謝します。」
つぶやくように感謝の言葉を述べ終えたアウレリアは、そのまま手を胸元でぎゅっと両手で包み込むように握り締め、アルトリウスの顔を見つめる。
「今度の戦いも大勝利だったみたいですね、アンブロシウスから聞いています。」
さわやかな笑顔でそう語りかけるアウレリアにアルトリウスは少しほっとした様子で答えようとした。
「はい、戦いは無事終わりました、従姉さんも大事無くて・・・」
「・・・大事はありましたよ?」
「・・・え?」
アウレリアは笑顔のまま、アルトリウスの言葉を途中で遮った。
ぎくっとして固まるアルトリウスを見つめながら、アウレリアは口を開いた。
「外では言えませんが・・・私はすごく寂しかったんです。」
アウレリアはそれまでしっかり握っていたアルトリウスの手を、今は握り潰さんばかり力を込めてがっちりと捕まえ、明るく華やかな雰囲気から一変して暗黒い気を漂わせ始めていた。
「・・・・!?」
すっかり油断していたアルトリウスはアウレリアの豹変振りに付いて行けずに手を捕まれたまま目を白黒させている。
「・・・うめあわせ」
ぽつりとこぼすアウレリア。
「・・・はいっ!?」
過剰に反応はするものの、その言葉の意味を図りかねてうろたえるアルトリウスは絶句してしまった。
「・・・埋め合わせは、してくれますか?」
再度のアウレリアの言葉でようやく意味を掴んだアルトリウスは、慌てて冷や汗を流しながら、ぶんっ、と風切り音がなりそうなくらいの勢いで首を縦に振る。
「か、必ず!!」
翌日、十分な睡眠をとり、すっきり疲れの取れたアンブロシウスと、いささか疲れの見えるアルトリウス、マヨリアヌスにデキムスが執務室に集まった。
アエノバルブスは既に早朝ブリタニア軍の輜重隊(補給部隊)の一部を率いてヴェネト・イケニへ向かっていた。
「ひとまずわしらが出来る事はやった、後はアエノバルブス医師に任せておく事しかできん。」
マヨリアヌスの言葉に頷きながらデキムスが発言した。
「アエノバルブス医師の指示事項は昨日のうちに緊急布告として出しておきました、今後は少し病の広がりを押さえられるのではと期待しております。」
アンブロシウスはそれでも暗い表情でかぶりを振った。
「いや、もうここまで疫病が蔓延してしまっていては、劇的な効果は望めないだろう、昨日アエノバルブスは言わなかったが、恐らくやらないよりはましという程度に過ぎないと思う。」
以前ボルティゲルンに叩き壊された継ぎ接ぎだらけの執務机に着いたアンブロシウスはその机の上で肘をつき手を組んだ。
「この機会に乗じて周辺勢力がどう動くかがこれから重要になってくるな・・・アルトリウス、ダルリアダの情勢はどうだった?」
一転して鋭い目つきになったアンブロシウスはアルトリウスに尋ねる。
それまで眠そうに話を聞いていたアルトリウスも、一度自分で頬をぴしゃりと叩いて気を引き締めると、アンブロシウスの問いに答える。
「そうですね、戦の後に前の首長の義理の弟にあたるガルディアトが誼を通じて来ていました、中立と交易を保障する代わりに首長の座に就く事を後援して貰いたいとようです。」
「ああ、報告にあった奴だな、他に有力者はいないか?」
アルトリウスの説明に頷くアンブロシウスがそう尋ねると、マヨリアヌスがその問いに答えた。
「ローマ融和の穏健派にナルダスがおるな、今の地位は前の首長の従兄じゃったか、ガルディアトはタカ派の南進論者じゃから、早いうちに中立は破られよう。」
「私もナルダスを支持した方が良いと思います、ナルダスは部族間の支持基盤が弱く、首長になった場合うまく部下を抑え切れない惧れがありますが、逆に国内の統制に力を注がねばならず、対外的に軍を出す余裕がなくなると思います、上手くいけばガルディアトらとの内紛に発展してくれるかもしれません。」
デキムスがマヨリアヌスの意見を支持してそう発言すると、続いてアルトリウスも頷き、軍事的な面からも有効な方策である事を説明する。
「最悪内紛を起こした場合、劣勢に陥ったナルダスをブリタニアの負担にならない程度に支援してやれば良いですね、それぐらいならいつでも可能です。」
見知らぬ土地に侵攻するのでも、侵攻して来た敵を叩くのでもなく、案内役がいる国に進駐して矢面に立たない支援に留める事であれば、辺境の分遣隊を派遣すれば事が足りる。
「よし、それではガルディアトには返事を引き延ばして時間を稼ぎ、その時間を利用してナルダスに首長に就くよう促しその準備を整えさせよう、アルトリウス名前を借りるぞ。」
アンブロシウスはそう決断すると、アルトリウスがどうぞと言う間に机の羊皮紙にさらさらと素早くペンを走らせて2通の書状を瞬く間に完成させた。
そして内容を吟味し、文章的に整っている事を確認してから手元の赤い蝋を蝋燭の火にかざして溶かし、丸めた書簡の継ぎ目に塗り付け、封緘印を押しデキムスに渡した。
「ガルディアトにはアルトリウス名で書簡を送り、国境で今後の対応策を話し合うとしておいた、逆にナルダスにガルディアトが首長の座を狙っているので、国を離れた隙に首長に就くよう依頼する内容になっている、これでいずれにせよしばらくの間、ダルリアダは動けない。」
にやりと人の悪い笑みを浮かべたアンブロシウスはデキムスが黙礼して部屋を出て行くのを見送りながら書簡の中身を披露した。
「ふむ、上出来じゃ、北西はひとまず安泰かのう~」
同じように人を喰ったような笑みを浮かべて言うマヨリアヌス。
アルトリウスは、つくづくこの二人がこの時期に敵側では無く、ブリタニアの指導者として居る事を神に感謝した。
おそらく部屋を出たデキムスも同じ気持ちで居るに違いない、部屋を出る時のデキムスのなんとも言えない顔をアルトリウスは見逃していなかった。
デキムスが書簡を送るための使者を手配して戻ってくるまで、小休止を取る事にしたアンブロシウスは、従者を呼んで飲み物を用意させた。
まだ日も高い事からワインという訳には行かず、アンブロシウスはワインを割る為のぶどうジュースを用意させた。
甘くワインよりよく匂うぶどうジュースが運ばれてくると同時に、デキムスとグナイウスが執務室へやって来た。
デキムスは平静を装っているが、心なしか顔が青ざめており、グナイウスにいたっては明らかに顔色が悪い。
訝しげに自分達を見つめるアンブロシウスらに向き直った2人は、互いに目配せをし合ってから、まずデキムスが口を開いた。
「書簡は送付する手続きが終わりました、早ければ1週間程度でそれぞれの相手に届くはずです。」
デキムスのアンブロシウスに対する報告が終わるのを待ち切れないかのように、グナイウスはアンブロシウスが頷くのを確認するや否や、よろしいでしょうかとデキムスの言葉の最後に自分の言葉を被せる様に、形ばかりの前置きをしてから発言を始めた。
「総司令官、3日前にボルティゲルンのサクソン傭兵隊がピクト人とスコット人の連合軍をエブラクム近郊で破りました、スコット人はほぼ全滅、ピクト人も有力部族の主だった者が根こそぎ討ち取られてほうほうの体で敗走したようです。」