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夫が幼なじみの優勝を見届けた日、私は浴槽で死んだ。彼は狂うほど後悔した

作者: 熾星
掲載日:2026/06/16

 

 導入

 夫の幼なじみが世界一になった日、彼は私が自分を傷つけるのを恐れて、生配信さえ見ようとしなかった。

 東京都北区の古いアパートで、彼は私のそばにいて、ただ一緒に録画を見ていた。

 画面の中で、桜庭美緒は真紅のラテンドレスをまとい、ブラックプールの舞台の中央に立っていた。

 そのドレスは、本来なら私のものだった。

 私は車椅子に座ったまま、画面の中で揺れる裾を見つめていた。

 息が、少しずつ苦しくなっていく。

 また脚が痛み出した。

 私は車椅子の肘掛けを握りしめ、低くつぶやいた。

「苦しい、蓮。私、苦しいよ」

 黒瀬蓮はソファの端に座り、ずっとテレビを見ていた。

 私の声を聞いて、彼はようやくこちらを向いた。

 一度だけ。

 たった一度だけだった。

 次の瞬間、彼はソファのクッションの下から果物ナイフを取り出し、私の足元に放り投げた。

 ナイフが床に落ちて、乾いた小さな音を立てた。

「苦しい?」

「だったら死ねば?」

「毎日苦しいって言ってるくせに、本当に死んだことなんてないだろ」

 私はその場で固まった。

 ごめん、と言いたかった。

 けれど喉に何かが詰まったようで、一文字も出てこなかった。

 その時、彼のスマートフォンが鳴った。

 着信音は『Dance Monkey』。

 桜庭美緒だけに設定された着信音だった。

 彼はほとんど反射的に身をかがめ、スマートフォンを取った。

「美緒」

 その声は、一瞬で柔らかくなった。

 私が知っている彼とは思えないほど、優しい声だった。

「おめでとう」

「うん、見たよ。すごくよかった」

 私はうつむき、床に落ちたナイフを拾った。

 そして、自分の部屋へ戻った。

 もう、限界なのだと思った。



 1

 三年が経った。

 脚が使えなくなったあの日から、黒瀬蓮は私を息が詰まるほど守るようになった。

 私を一人にできないと言った。

 私がまた自分を傷つけるのが怖いと言った。

 私さえ生きていれば、すべてはいつか良くなると言った。

 だから彼はブラックプールを諦めた。

 日本代表選考を諦めた。

 手に入りかけていたすべての栄光を捨てた。

 かつて全国大会の表彰台に立った黒瀬蓮は、今では東京都北区にある十八平米ほどの古いアパートにこもっている。

 昼はダンス教室で代講をし、夜はコンビニでアルバイトをする。

 時々、TikTokの短い動画を投稿している人のために、十数秒ほどの振り付けも作る。

 一曲、八千円。

 昔の彼なら、目を通すことさえしなかった仕事だ。

 今では頭を下げて頼み込まなければならない。

 彼が疲れていることは知っていた。

 私が彼を壊しかけていることも知っていた。

 このアパートは狭すぎた。

 寝室にいる私にも、リビングにいる彼の呼吸が聞こえるほどだった。

 毎晩、彼はソファで眠った。

 ソファのほうが楽だと、いつも言った。

 本当は違う。

 深く眠りすぎて、夜中に私が何かをするのが怖かったのだ。

 私の状態がひどい時、私は一日中、自分の部屋に閉じこもった。

 彼は決して無理に入ってこなかった。

 せめて最後の体面くらいは残してやりたい、と言った。

 だから私が返事をしない時、彼はいつもドアの外に長く立っているだけだった。

 食事をドアの前に置いて、低い声で言う。

「音羽、ここに置いておくよ。食べたくなったら呼んで」

 時々、夜中の二時か三時に目が覚める。

 壁の向こうで、黒瀬蓮はまだ眠っていない。

 リビングを行ったり来たりする足音が聞こえる。

 とても静かな足音だった。

 それでも、私には聞こえた。

 時々、彼は足を止める。

 そして音楽が流れ出す。

 とても小さな音だった。

 私を起こさないようにしているみたいだった。

 私はそっとドアを細く開ける。

 彼は狭いリビングの中央に立ち、一人でペアダンスを踊っていた。

 パートナーはいない。

 照明もない。

 観客もいない。

 壊れかけの暖房、黄ばんだ壁紙、そして遠くを走る電車の音だけがあった。

 彼の腕は、誰かを抱いている時と同じ形を保っていた。

 ターン。

 ステップ。

 停止。

 顔を上げる。

 彼の視線は、誰もいない場所に落ちていた。

 本当なら、そこに立っているのは私だった。

 それは彼の骨に刻まれた習慣だった。

 そして、骨に刻まれた痛みでもあった。

 私は彼の背中を見ながら、名前を呼びたかった。

 蓮、もう踊らないで。

 美緒のところへ行って。

 彼女なら、まだあなたと踊れる。

 そう言いたかった。

 けれど私の脚は言うことを聞かなかった。

 彼の前まで歩いていって抱きしめることさえ、もうできなかった。



 2

 私は寝室に座り、まだあの果物ナイフを握りしめていた。

 しばらくして、インターホンが鳴った。

 黒瀬蓮が立ち上がり、玄関へ向かった。

 ドアの向こうから桜庭美緒の声が聞こえた。

「蓮」

 空港から戻ったばかりなのだろう。

 その声には、まだ消えきらない疲れと興奮が混じっていた。

「こんな時間に来るべきじゃないって、分かってる」

「でも、どうしても手渡したいものがあったの」

 黒瀬蓮は声を落とした。

「音羽は部屋にいる」

「分かってる」

 桜庭美緒の声も低くなった。

「中には入らない」

 二人は玄関で話していた。

 ドア一枚を挟んで、私にははっきりとは聞こえなかった。

 私は壁に手をつき、ゆっくりとドアのそばまで移動した。

 隙間から、細い光が差し込んでいる。

 桜庭美緒は紙袋を玄関の棚に置いた。

「トロフィーの写真と、いくつかの記事」

「蓮は見たくないかもしれない」

「でも、あの中にはあなたの名前もあるべきだった」

 黒瀬蓮は何も言わなかった。

 桜庭美緒は彼を見つめ、ゆっくり目を赤くしていった。

「本当に、このまま一生続けるつもり?」

「彼女のために、自分を捨てるの?」

 リビングは怖いほど静まり返った。

 長い沈黙の後、黒瀬蓮がようやく口を開いた。

 私は彼の声を聞いた。

「時々、思うんだ。もし彼女が、あんなに苦しまない形でいなくなれたら、少しは楽になるんじゃないかって」

 私の指先から力が抜けた。

 ドア板が小さく鳴った。

 リビングにいた二人が同時に止まった。

 黒瀬蓮がすぐに振り向いた。

「音羽?」

 私は息を止め、返事をしなかった。

 彼はしばらく立っていた。

 こちらへ来ようとしているようにも見えた。

 桜庭美緒が静かに言った。

「眠ったのかもしれない」

 黒瀬蓮はその場で止まった。

 長い時間が過ぎてから、彼は低く言った。

「でも、俺にはできない」

「本当に、できないんだ」

 私は壁に手をつき、ゆっくりと部屋へ戻った。

 やっぱり、私たちはまだ通じ合っていた。

 蓮。

 あなたが考えたことを、私も考えていた。

 ただ、あなたにはできない。

 なら、私がやる。



 3

 桜庭美緒が帰った後、部屋はまた静かになった。

 黒瀬蓮はリビングに長く立っていた。

 午前一時を過ぎた頃、彼はようやくソファに横になった。

 寝返りを打つ音が聞こえた。

 そして、とても小さな声がした。

「ごめん」

 私はベッドの端に座り、果物ナイフを握っていた。

 その言葉は、私も彼に言いたかった。

 ごめん。

 蓮。

 浴室は廊下の突き当たりにある。

 私は壁を支えに、一歩ずつ歩いた。

 車椅子は寝室に残しておいた。

 そうすれば、明日彼がドアを叩いた時、私がまだベッドにいると思うかもしれない。

 蛇口をひねる。

 狭い浴室に、すぐ白い湯気が立ちこめた。

 私は浴槽に身を沈めた。

 湯が少しずつ体を包んでいく。

 ふと、何年も前のことを思い出した。

 あの頃の私は、まだ踊ることができた。

 黒瀬蓮は私の腰に手を添え、練習室で何度も動きを直してくれた。

「音羽、顔を上げて。俺を見て。君は一人で踊ってるんじゃない」

 私はその時、笑いながら聞いた。

「もし、いつか私が踊れなくなったら?」

「俺が抱いて踊る」

「もし、立つこともできなくなったら?」

「だったら、俺がしゃがんでそばにいる」

 あの時の私は、そんな約束が一生を支えてくれるのだと思っていた。

 でも後になって知った。

 どんなに深い愛でも、長い痛みの中では少しずつ削られていく。

 私は、彼が深夜にため息をつくのを聞いたことがある。

 カウンセリングや薬の費用をこっそり調べているのも見た。

 彼の母親が電話でこう言うのも聞いた。

「あなたは、いつまであの子のために犠牲になるつもりなの?」

 私は目を閉じた。

 刃先が手首に触れた時、怖くはなかった。

 ただ、疲れていた。

 とても疲れていた。

 私は小さく言った。

「蓮。これからは、自由に生きて」



 4

 気がついた時、私は浴室の上に浮かんでいた。

 浴槽の中に、一人の人間が横たわっている。

 顔は青白く、唇には血の気がなく、濡れた髪が水面に漂っていた。

 長く見つめて、ようやく気づいた。

 あれは私だった。

 ひどい顔。

 蓮が見たら、怖がるだろうか。

 浴室の灯りはついたままだった。

 湯はとっくに冷めていた。

 私は浴室を出た。

 リビングでは、黒瀬蓮がまだソファで眠っていた。

 眠りは浅く、眉間にしわが寄っていた。

 指は強く握られていた。

 私は彼のそばへ浮かび、額に触れようとした。

 けれど私の手は彼の体をすり抜けた。

 何にも触れなかった。

 朝になり、彼は目を覚ました。

 キッチンで水を飲み、私の部屋の前を通った。

 そこで足を止める。

「音羽?」

 私は彼の隣に立っていた。

 返事をしたかった。

 けれど彼には聞こえない。

 彼はドアを開けなかった。

 以前、私は彼に言ったことがある。

 勝手に部屋に入ってこないで、と。

 あの時の私は、ただ少しの自尊心を守りたかっただけだった。

 でも今回は、それが彼に私を見逃させる理由になった。

 午前中、電話が鳴った。

 彼の母親からだった。

 電話の向こうの声は大きかった。

「大晦日なのに、あなた帰ってこないの?」

 黒瀬蓮は低く言った。

「母さん、音羽は体調が悪いんだ。外には出られない」

 電話の向こうで、何かを言っている。

 彼の表情が少しずつ沈んでいった。

「来なくていい。部屋が狭いし、不便だから」

 相手は明らかに納得していなかった。

 黒瀬蓮は眉間を押さえた。

「母さん、やめてくれ」

 ほどなくして電話は切れた。

 彼はソファに座ったまま、長い間動かなかった。

 私は彼の前に立っていた。

 蓮。

 私はもう部屋にはいない。

 浴室にいるの。

 一度でいいから見て。

 一度だけでいい。

 けれど彼は見なかった。

 午後四時過ぎ、インターホンが鳴った。

 黒瀬蓮がドアを開ける。

 そこに立っていたのは、彼の両親だった。

 そして桜庭美緒もいた。

 昨夜来たばかりの彼女が、またここに立っているとは思わなかった。

 今度は一人ではなかった。

 彼女は紙袋を持ち、その後ろに黒瀬蓮の母親と父親がいた。

 黒瀬の母は入ってくるなり、持ってきた御節料理をテーブルに置いた。

「あなたがちゃんと準備しているわけないと思ったのよ」

「今日は大晦日なのよ。こんな日に一人で寂しく過ごすなんて、ありえないでしょう」

 桜庭美緒は笑って言った。

「おばさまが心配していたから、私も一緒に来たの」

 そして黒瀬蓮のほうを向き、声を柔らかくした。

「蓮、よいお年を」

 黒瀬蓮は一瞬固まってから、小さくうなずいた。

「よいお年を」

 キッチンはすぐに賑やかになった。

 年越しそばのつゆが鍋の中で湯気を立てていた。

 テレビがつけられ、紅白歌合戦の事前番組が流れ始めた。

 黒瀬の母は皿を並べながら言った。

「こうしてこそ家って感じがするのよ。毎日冷えきった部屋にいたら、人までだめになるわ」

 私はリビングの隅に浮かび、彼らを見ていた。

 賑やかだった。

 こんな賑やかな音を聞くのは、本当に久しぶりだった。

 でも、その賑やかさは私とは関係がない。

 私は廊下の突き当たりの浴室で死んでいる。

 浴室のドアは閉まっている。

 その向こうのことを、誰も知らない。



 5

 夕食の前、黒瀬蓮は私の部屋の前に来た。

 彼はそっとドアを叩いた。

「音羽。少し食べないか」

 返事はなかった。

 彼はもう一度叩いた。

「母さんが年越しそばを作った。昔、好きだっただろ」

 私は彼の隣に立ち、必死に声を出そうとした。

 蓮、私はそこにいない。

 浴室にいる。

 でも声は出なかった。

 ドアの外が少し静かになった。

 黒瀬の母の声がした。

「出てきたくないなら、無理に呼ばなくていいわ。こんな日くらい、みんなもう十分疲れているんだから」

 黒瀬蓮は何も言わなかった。

 桜庭美緒が静かに言った。

「おばさま、音羽さんは体調が悪いんだと思います。休んでいるだけかもしれません」

 黒瀬の母は小さく笑った。

「私は三年も気を遣ってきたのよ。蓮だって三年も気を遣ってきた。まだ足りないの?」

 黒瀬蓮が振り向いた。

「母さん」

 その声は低かった。

 けれど黒瀬の母は、ずっと押し込めていたものをついに吐き出すように続けた。

「私、間違ったことを言っている?」

「昔の蓮がどんな子だったか、今のあなたがどうなっているか、自分で分かっているの?」

「世界大会にも行けた。もっと大きな舞台に立てた」

「それが今はどう?」

「昼は人の代講、夜はコンビニ。まともに眠ることさえできない」

 彼女は私の部屋のドアを見た。

 その声は冷たくなった。

「一人の人生に、もう一人の人生まで巻き込むものじゃないわ」

 私はドアの前に立っていた。

 もう死んでいるのに、胸が痛んだ。

 死んでも、苦しむのだと知った。

 黒瀬蓮は何も言い返さなかった。

 ただ、ドアの前に長く立っていた。

 それから、ドアの向こうに向けて低く言った。

「音羽、君の分は残しておく。食べたくなったら呼んで」

 彼は食卓に戻った。

 テーブルでは、テレビの中で紅白歌合戦が始まっていた。

 司会者の声は明るく、華やかだった。

 黒瀬の母が年越しそばをよそった。

 桜庭美緒は彼らへの贈り物を取り出した。

 黒瀬の母には淡い色のカシミヤのマフラー。

 黒瀬の父には保温ボトル。

 黒瀬の母は満足そうだった。

「美緒ちゃんは本当に選ぶのが上手ね」

 桜庭美緒は微笑んだ。

 そして、何かを思い出したように、紙袋のいちばん下から細長い桐箱を取り出した。

「これ……」

 彼女は黒瀬蓮を見た。

「京都で見つけたの。蓮に似合うと思って」

 箱を開ける。

 中には一対の漆箸が入っていた。

 黒と朱。

 包装紙の札には、夫婦箸と書かれていた。

 空気が一瞬止まった。

 桜庭美緒は今さら気づいたように、顔を赤くした。

「そういう意味じゃないんです。ただ、店員さんがこの柄はきれいだって……」

 黒瀬の母はその黒と朱の箸を見て、笑みを深くした。

「あなたって子は。こういうものは、軽い気持ちで贈るものじゃないのよ」

 桜庭美緒はうつむいた。

 黒瀬蓮はその箱に触れなかった。

 けれど黒瀬の母は続けた。

「あの事故さえなければ、あなたと蓮は今ごろ……」

「母さん」

 黒瀬蓮が顔を上げた。

 その声は冷えていた。

 黒瀬の母は口を閉じた。

 だがすぐ、また私の部屋のドアを見た。

「私はただ、もったいないと思っているだけよ。あなたがこんなふうになるべきじゃなかった」

 桜庭美緒が小さく言った。

「おばさま、もうやめてください」

 けれど彼女は否定しなかった。

 私はふいに、自分がひどく余計な存在に思えた。

 生きていた時も余計だった。

 死んだ後でさえ、まだ余計だった。



 6

 食事の後、黒瀬の母はバッグから一枚の書類を取り出し、テーブルに置いた。

 紙が広げられる音は小さかった。

 けれど黒瀬蓮の顔色が一瞬で変わった。

「何だ、これは」

 黒瀬の母は言った。

「離婚届」

 桜庭美緒も驚いたように固まった。

 彼女も、黒瀬の母がここまで直接やるとは思っていなかったのだろう。

 黒瀬の父が眉をひそめた。

「お前、今ここで……」

 黒瀬の母は彼を無視した。

 その紙を黒瀬蓮の前へ押し出す。

「妻の欄にはもう名前が書いてある。印鑑も押してある。あなたは署名するだけ」

 黒瀬蓮はその紙を見つめた。

「どこから手に入れた」

 黒瀬の母は視線をそらした。

「白石家のほうからよ。あちらのお母さんが、ここまで来たらもう決着をつけるべきだって。娘があの状態じゃ、誰にとってもよくないって」

 黒瀬蓮の指が、ゆっくりと握りしめられていく。

「音羽が同意するはずがない」

 黒瀬の母は言った。

「どうしてあなたに分かるの?」

「あの子が今の状態で、あなたに何をしてあげられるの?」

「蓮、あなたはまだ二十八よ。本当に残りの人生を、このアパートに閉じ込めておくつもり?」

 黒瀬蓮は一語一語、はっきりと言った。

「俺は署名しない」

 黒瀬の母は焦った。

「あなた、いつまで意地を張るつもりなの? あの子みたいな人は、あなたの人生まで引きずり込むだけよ」

 黒瀬蓮は顔を上げ、母を見た。

「母さん。彼女は俺の妻だ」

 黒瀬の母は一瞬言葉を失った。

 数秒後、彼女は顔をそらし、低くつぶやいた。

「あの子はあなたの妻なんかじゃない。あなたを縛っているだけよ」

 私はテーブルのそばに立っていた。

 その言葉は、もう存在しないはずの私の体に、細い針のように刺さった。

 桜庭美緒が立ち上がり、黒瀬蓮のそばへ行った。

「蓮」

 その声はとても静かだった。

「私たちは、音羽さんを見捨てろと言っているわけじゃないの」

「今回の賞金も、今まで貯めてきたお金も、全部出せる」

「専門の介護施設を探せるし、介護士も、リハビリの先生も探せる」

「あなたが一人で背負わなくていい」

「本当に、あなたは疲れすぎている」

 黒瀬蓮は彼女を見なかった。

「ありがとう」

「でも、いらない」

 桜庭美緒の目が赤くなった。

「どうして?」

「彼女は俺の妻だから」

 同じ言葉を、さっきは母に向けて言った。

 今度は桜庭美緒に向けて言った。

 桜庭美緒はその場に立ち尽くし、少しずつ顔から血の気を失っていった。

 黒瀬の母は怒りで立ち上がった。

「好きにしなさい」

 彼女は深く息を吸い、声を冷たくした。

「どうしても自分の人生をあの子に費やしたいなら、そうすればいい」

 黒瀬蓮は黙っていた。

 黒瀬の母は彼を見つめた。

 その目には怒りと、言いようのない失望が混ざっていた。

「もう、あなたが壊れていくところを見たくないの」

 そう言って、彼女はバッグを取り、玄関へ向かった。

 黒瀬の父は黙ってその後を追った。

 桜庭美緒はしばらく立っていたが、最後にはバッグを持った。

 玄関まで行った時、彼女は振り返った。

「蓮」

 彼は顔を上げなかった。

 ドアが閉まった。

 大晦日の夜、アパートは一瞬で静まり返った。

 テレビでは、紅白歌合戦がまだ続いていた。

 誰かが舞台の上で新年の歌を歌っている。

 そして私は浴室で死んでいた。

 黒瀬蓮は、まだそれを知らない。



 7

 部屋には黒瀬蓮だけが残った。

 彼は食卓の前に長く立っていた。

 それから食器を片づけ始めた。

 蛇口を開ける。

 水の音が、テレビから流れる歌を覆い隠した。

 途中で、彼はふと手を止めた。

 両手をシンクにつき、うつむく。

 肩が小さく震えていた。

 私は彼の隣に立っていた。

 頭に触れたかった。

 けれど指は彼の髪をすり抜けるだけで、何にも触れられなかった。

 彼は食器を洗い終えると、あの離婚届を手に取った。

 紙はすでに彼の手の中でしわになっていた。

 彼はそれを長く見つめた。

 そして、少しずつ破った。

 紙片がゴミ箱に落ちる。

 私はその破片を見ながら、涙をこぼした。

 馬鹿な黒瀬蓮。

 こんなに何度も逃げる機会があったのに。

 どうして私を捨ててくれないの。

 彼は私の分の年越しそばを鍋に残し、御節料理も少し取り分けてラップをかけた。

 それから、私の部屋の前に来た。

「音羽。ご飯、残してある。お腹が空いたら呼んで」

 彼は少し黙った。

 声はさらに柔らかくなった。

「今夜はコンビニのシフトに入る。今日は少し時給が高いから。すぐ戻るよ」

 私は彼の前に立っていた。

 蓮、行かないで。

 浴室を見て。

 一度でいいから。

 でも彼には聞こえなかった。

 彼はコンビニの制服に着替え、その上から古いダウンジャケットを羽織った。

 玄関のドアが開く。

 冷たい風が流れ込んだ。

 そしてドアは閉まった。

 アパートは再び静かになった。

 私は浴室の前まで漂った。

 そのドアの向こうには、すでに冷たくなった私の体がある。

 死は終わりではなかった。

 死とは、すべてを見ているのに、何一つ変えられないことだった。

 黒瀬蓮が出ていってから、しばらくして玄関の鍵がまた鳴った。

 桜庭美緒が戻ってきた。

 彼女は予備の鍵の場所を知っていたらしい。

 中に入ると、彼女は大きな明かりをつけず、玄関の小さな灯りだけをつけた。

 このアパートはバス・トイレ別だった。

 トイレは玄関のそばにある。

 浴室は廊下の突き当たりにあり、ドアはずっと閉まっていた。

 桜庭美緒は浴室のほうを見なかった。

 まっすぐ私の部屋の前へ向かい、ドアを強く三回叩いた。

「白石音羽、いるんでしょう。出てきて」

 返事はない。

 桜庭美緒は深く息を吸った。

「あなた、いつまで蓮を引きずるつもりなの?」

「先月、彼が軽度のうつと診断されたこと、知ってる?」

「医者は薬を出した。でも彼は取りに行かなかった」

「そのお金は、あなたのリハビリに使うって言ったの」

 彼女の声はだんだんかすれていった。

「彼が毎晩眠れないこと、知ってる?」

「彼が一人でリビングに立って踊っていること、知ってる?」

「音楽もない。パートナーもいない」

「ただ腕を上げて、まるでまだ誰かを抱いているみたいに、何度も何度も回るの」

「そんな蓮を、私は一度見ただけで、もう二度と見たくないと思った」

 私は彼女のそばに立っていた。

 言いたかった。

 知っている。

 全部知っている。

 だから私は行ったの。

 でも彼女には聞こえない。

 桜庭美緒は長く待ったが、返事はなかった。

 彼女はリビングへ戻り、ゴミ箱の中の紙片に気づいた。

 しゃがみ込み、それを一枚一枚拾って、床に並べた。

 彼女は離婚届をつなぎ合わせ始めた。

 長い時間がかかった。

 紙の端で指を切り、小さく血がにじんだ。

 それでも彼女は気づかないようだった。

 つなぎ合わせ終えると、彼女は離婚届をテーブルに置いた。

 それから部屋を片づけ始めた。

 掃除をする。

 床を拭く。

 テーブルを拭く。

 薬の箱を整える。

 黒瀬蓮がソファに置いていった上着をたたむ。

 その手つきは慣れていた。

 まるで、ここは本来彼女の家だったみたいだった。

 片づけ終えると、彼女はソファに横になり、目を閉じた。

 私はそばに浮かんで、彼女を見ていた。

 胸がひどく痛んだ。

 でも、認めざるを得なかった。

 彼女のほうが、黒瀬蓮にふさわしい。

 彼女は健康で、綺麗で、彼と一緒に踊れる。

 彼女は光の中に立っている。

 私は死んでさえ、ドアの向こう側にいる。



 8

 黒瀬蓮が帰ってきた時、空は白み始めていた。

 東京は冷たく、玄関のドアが開くと、彼の体から冷気が流れ込んだ。

 コンビニの制服の上に古いダウンジャケットを着ていて、顔色は出ていく前より悪かった。

 彼は綺麗に片づいた部屋を見て、少し驚いた。

 そしてソファの上の桜庭美緒を見た。

 桜庭美緒が目を覚ます。

 彼女は立ち上がり、テーブルの上の離婚届を彼の前に押し出した。

「どうして破ったの?」

 黒瀬蓮はその紙を見なかった。

「どうやって入った」

「どうして破ったのかって聞いてるの」

「言っただろ。俺は音羽と離婚しない」

 桜庭美緒の目から、涙が一気にあふれた。

「黒瀬蓮、私は十年待ったのよ」

 彼は少し黙った。

「美緒」

「俺は、待ってくれなんて言っていない」

 桜庭美緒はその言葉に刺されたようだった。

 彼女はそこに立ち尽くし、顔色を少しずつ失っていった。

「本当に残酷ね」

 黒瀬蓮は答えなかった。

 彼はまっすぐ私の部屋の前へ向かった。

「音羽」

 彼はドアを叩いた。

 音はない。

 今回、彼はようやく眉をひそめた。

 ドアノブを握り、そっと開けた。

 部屋には誰もいなかった。

 ベッドにも誰もいない。

 布団はきちんとたたまれている。

 車椅子はベッドのそばに止まっていた。

 その瞬間、黒瀬蓮の顔色が変わった。

 彼はようやく何かに気づいたように、勢いよく振り返り、廊下の突き当たりを見た。

 浴室の明かりはまだついていた。

 ドアは半分開いている。

 彼は一歩ずつ近づいた。

 その一歩一歩は、とても遅かった。

 足元で何かが砕けてしまうのを恐れているみたいだった。

 彼は手を伸ばし、ドアを押し開けた。

 そして、私を見た。

 部屋中が死んだように静まり返った。

 浴槽の水はとっくに冷えきっていた。

 私の体はそこに横たわっていた。

 青白く、硬く、少しも動かなかった。

 黒瀬蓮は浴室の入り口に立ったまま、長い長い間、何の声も出さなかった。

 桜庭美緒が彼の後ろへ来た。

 彼女は一目見ただけで口を押さえ、全身を震わせて後ずさった。

「音羽さん……」

 黒瀬蓮がようやく動いた。

 浴槽のそばに膝をつき、私の顔に手を伸ばした。

 その手はひどく震えていた。

「音羽?」

 返事はなかった。

「音羽、起きて」

 彼の声はとても小さかった。

 私を起こしてしまわないようにしているみたいだった。

 彼は私を水の中から抱き上げた。

 水が私の髪と服の裾から滴り落ちる。

 彼はバスタオルで私を包み、強く抱きしめた。

「水が冷たい」

「どうして呼ばなかったんだ」

「音羽、寝るな」

「風邪をひくだろ」

 私は彼の隣に立ち、彼が私の遺体を抱きしめ、何度も何度も私の名前を呼ぶのを見ていた。

 伝えたかった。

 蓮、もう呼ばないで。

 聞こえてるよ。

 でも、遅すぎた。

 救急車が来た。

 警察も来た。

 小さなアパートは、人でいっぱいになった。

 医師、看護師、警察官、近所の人たちが、みんなドアの外に立っている。

 医師は診察を終えると、首を横に振った。

「すでに生命反応はありません」

 黒瀬蓮は聞こえていないようだった。

 彼は私を抱いたまま離さなかった。

 誰かが近づくたび、まるで獣のような目で相手をにらんだ。

「死んでない。眠ってるだけだ」

 医師は数秒沈黙し、さらに声を低くした。

「落ち着いてください。ご遺体の状態から見て、死亡から二十四時間以上経っています」

 黒瀬蓮が固まった。

 二十四時間。

 つまり。

 昨日の朝、彼の母親から電話が来た時、私はもう死んでいた。

 昨日の午後、彼がドアを開けて彼らを中に入れた時、私はもう死んでいた。

 彼らがリビングで年越しそばを食べていた時、私は浴室で死んでいた。

 彼が私の部屋の前に立ち、何度も名前を呼んでいた時、私は浴室で死んでいた。

 彼の母が、私が彼を引きずっていると言った時、私は浴室で死んでいた。

 桜庭美緒が夫婦箸を取り出した時、私は浴室で死んでいた。

 離婚届がテーブルに置かれた時、私は浴室で死んでいた。

 彼が「彼女は俺の妻だ」と言った時、私も浴室で死んでいた。

 そして彼が仕事へ行く前、ドア越しにこう言った時。

「音羽、すぐ戻るよ」

 その時にはもう、私は二度と彼に返事ができなくなっていた。

 黒瀬蓮は突然身をかがめ、激しくえずいた。

 何も吐けなかった。

 警察官が近づき、低く尋ねた。

「あなたは亡くなった方のご主人ですか」

 彼は床にしゃがみ込み、うなずいた。

「ご遺体がこれほど長くご自宅にあったのに、気づかなかったのですか」

 その言葉が落ちた瞬間、黒瀬蓮の体から何かが抜け落ちたようだった。

 彼は顔を上げ、半分開いた浴室のドアを見た。

 その目には、もう何の光もなかった。



 9

 黒瀬の母が駆けつけた時、アパートはまだ片づいていなかった。

 彼女は玄関を入るなり、浴室の方に張られた規制線を見て、まず顔を白くした。

 そして思わず口走った。

「本当に死んだの? どうしてよりによって家で……」

 その先の言葉は続かなかった。

 黒瀬蓮が顔を上げ、彼女を見たからだ。

 その一瞥だけで、彼女はその場に凍りついた。

「出ていけ」

 黒瀬の母は固まった。

「蓮、私はあなたの母親よ」

「出ていけ」

 彼の声は大きくなかった。

 けれど冷たく、恐ろしかった。

「あなたはずっと、彼女にいなくなってほしかったんだろう」

「今、彼女はいなくなった」

「満足か?」

 黒瀬の母の顔から血の気が引いた。

「そういう意味じゃないの。私はただ、あなたが心配で……」

 黒瀬蓮は立ち上がった。

「彼女は全部聞いていた」

 黒瀬の母は息をのんだ。

「何を言っているの?」

「彼女が俺を引きずっていると言った。俺を縛っていると言った。俺の人生を壊すだけだと言った」

「全部、彼女は聞いていた」

 彼は浴室を指した。

「彼女はあそこにいた」

「一人で、丸一日、あそこにいた」

 黒瀬の母は一歩後ずさった。

 桜庭美緒が彼を支えようと近づいた。

「蓮、落ち着いて」

 黒瀬蓮は彼女を見た。

「君も出ていけ」

 桜庭美緒は固まった。

「私……」

「美緒、君がそこまで悪い人間じゃないことは分かってる」

「でも君も、彼女が席を空けるのを待っていた」

 桜庭美緒の顔色が一瞬で白くなった。

 黒瀬蓮はもう誰も見なかった。

 彼はドアを飛び出し、救急車を追って階段を駆け下りた。

 早朝、街には神社の初詣から戻ってきた人たちがいた。

 御守を手にしている人がいた。

 福袋を持ち、連れと笑いながら新年の挨拶を交わしている人がいた。

 黒瀬蓮はよろめきながら街角まで走り、ついに道端に膝をついた。

 彼は遠ざかっていく車へ手を伸ばした。

「音羽!」

 私は彼の隣に立っていた。

 支えたかった。

 けれど手は彼の肩をすり抜けた。

 何にも触れなかった。

 その後、彼は病院へ運ばれた。

 医師によると、長年の過労に強いショックが重なり、重度の不整脈を起こしたらしい。

 手術室の灯りがついた。

 私は彼について中へ入った。

 彼は手術台の上に横たわっていた。

 顔色は私よりも白かった。

 心電図モニターがせわしなく音を立てている。

 医師たちは彼の名を呼び続けた。

 突然、機械が長く鳴った。

 ピーッ。

 世界が静かになった。

 次の瞬間、私は黒瀬蓮が起き上がるのを見た。

 彼の体ではない。

 彼の魂だった。

 彼は茫然と辺りを見回した。

 そして私を見つけた。

 その瞬間、彼の目が明るくなった。

「音羽!」

 彼は私へ駆け寄ってきた。

 今度は、本当に私に触れた。

 彼の手はまだ温かかった。

 その温かさに、私は泣きそうになった。

「見つけた」

 彼は私を抱きしめた。

 その声には、歓喜に近い震えがあった。

「よかった」

「君は待っていてくれると思ってた」

「行こう」

「ブラックプールへ行こう。パリへ行こう。君が行きたがっていた場所へ全部行こう」

「セーヌ川を見たいって、ずっと言ってただろ。連れていく」

「これからは毎日、俺が君と踊る」

 彼は急いで言った。

 私が次の瞬間には消えてしまうことを恐れているみたいだった。

 私は彼を突き飛ばした。

「誰が来ていいって言ったの?」

 彼は固まった。

「音羽?」

「戻って」

 私は手術台の上の体を指さし、震える声で言った。

「黒瀬蓮、戻って」

 彼は首を振った。

「戻らない」

「君がいなければ、俺は一人で生きていけない」

「あの家には君のものばかりだ。君の影ばかりだ。目を閉じれば、浴室に横たわる君が見える」

「音羽、怖いんだ」

 彼は泣いていた。

 かつて試合中、どれほど痛くても涙を見せなかった黒瀬蓮が、子供のように泣いて私にすがった。

「追い返さないでくれ。やっと君を見つけたんだ」

 胸が裂けそうだった。

 でも彼を死なせるわけにはいかなかった。

 彼はまだ二十八歳だ。

 この先には長い道がある。

 彼にはまだ踊りがある。

 世界がある。

 私にはもう行けない未来がある。

「蓮」

 私は初めて、こんなに厳しく彼の名前を呼んだ。

「よく聞いて」

「私はあなたを道連れにするために死んだんじゃない」

「あなたに生きてほしくて死んだの」

「戻って」

「私の代わりにブラックプールを見に行って」

「私が踊りきれなかったあのダンスを、あなたが踊って」

 彼は必死に首を振った。

「嫌だ。踊りもブラックプールも、君がいないなら意味がない」

「俺は君だけがいい」

 彼はまた私を抱きしめた。

 今度は、すぐには押し返せなかった。

 私は手を上げ、彼の顔に触れた。

「蓮、言うことを聞いて」

 私は彼に近づき、唇を重ねた。

 それが、私たちの最後のキスだった。

 彼は固まった。

 私はその隙に、全身の力で彼をあの体へ押し戻した。

「戻って」

「ちゃんと生きて」

「私に踊りを見せて」

「追いかけてこないで」

 黒瀬蓮の魂が後ろへ落ちていく。

 彼は私に手を伸ばし、引き裂かれるように叫んだ。

「音羽——!」

 次の瞬間、心電図モニターが再び音を刻み始めた。

 ピッ。

 ピッ。

 ピッ。

 手術台の上で、黒瀬蓮が勢いよく目を開いた。

 目尻から一筋の涙が落ちた。

 彼は生き返った。

 終わりのない痛みと後悔を抱えたまま、生き返った。



 10

 黒瀬蓮が目を覚まして最初にしたことは、体につながれた管を引き抜くことだった。

 看護師が驚いて駆け寄り、彼を押さえた。

「今は動いてはいけません!」

「家に帰る」

 医師が鎮静剤を打とうとしたが、彼はそれを押しのけた。

「音羽を探しに帰る」

 誰も彼を止められなかった。

 彼は弱りきった体を引きずるようにして、あのアパートへ戻った。

 大家がドアの前に立ち、困った顔をしていた。

「黒瀬さん、この部屋は……」

 黒瀬蓮が彼女を見た。

 大家はその先の言葉を飲み込んだ。

 部屋は、あの日のままだった。

 床には乱れた足跡が残っている。

 浴室には、どうしても消えない匂いが残っていた。

 黒瀬蓮は中へ入った。

 彼は浴室に長くいた。

 日が暮れてから、ようやく掃除を始めた。

 床を拭く。

 浴槽をこする。

 すべての痕跡を消そうとする。

 何度も何度も拭いた。

 まるでここを綺麗にすれば、あの日のことまで消せると信じているようだった。

 その後、彼は私の枕の下から小さな鉄の箱を見つけた。

 古い箱だった。

 中にはキャッシュカードが一枚。

 二万三千円。

 それから一枚のメモ。

 そこにはこう書いてあった。

 暗証番号はあなたの誕生日。

 新しいラテンシューズを買って。

 さらに小さな日記帳があった。

 ピンク色の表紙で、角は擦り切れている。

 黒瀬蓮は床に座り、最初のページを開いた。

 二月五日。

 脚が痛くて眠れない。

 でも寝返りを打つのが怖い。

 蓮を起こしてしまうから。

 彼は昼間、とても疲れている。

 四月十五日。

 今日、蓮は短い動画の振り付けの仕事に行った。

 女の子がずっと彼の手に触っていた。

 私は見ていた。

 彼は避けなかった。

 責めない。

 彼にはその仕事が必要だから。

 五月八日。

 今夜も蓮はリビングを歩き回っていた。

 抱きしめに行きたかった。

 でも怖かった。

 私の顔を見たら、彼がもっとつらくなる気がした。

 十二月八日。

 今日、蓮のお母さんからまた電話があった。

「あなたはいつまであの子のために犠牲になるつもりなの」と言っていた。

 蓮は電話を切った。

 切ったあと、彼はリビングに長く座っていた。

 抱きしめに行きたかった。

 やっぱり行けなかった。

 最後のページは、私が死んだ日に書いたものだった。

 字は乱れていた。

 紙には乾いた涙の跡があった。

 蓮、私は行きます。

 私を探さないで。

 痛くないから。

 カードの中のお金は少ないけど、新しい舞踏靴を買うくらいなら足りると思う。

 ブラックプールへ行って。

 私が踊りきれなかったダンスを、代わりに踊って。

 ごめんね。

 私は本当に疲れました。

 来世では、あなたが私の妻になって。

 あなたが毎日ベッドに横になっていて、私が外でお金を稼ぐ。

 私があなたの世話をする。

 私はあなたを嫌いにならない。

 黒瀬蓮は最後のページを読み終えると、長い間、動かなかった。

 それから、日記帳に額を押しつけた。

 一滴の涙が紙の上に落ち、私の字をにじませた。

 私は彼のそばに立っていた。

 涙を拭いてあげたかった。

 けれど指は彼の頬をすり抜けた。

 何にも触れなかった。



 11

 葬儀の日、東京の空は曇っていた。

 雪は降らず、太陽も出なかった。

 来た人は多くなかった。

 黒瀬蓮。

 彼の両親。

 親戚が数人。

 そして桜庭美緒。

 私の母は来なかった。

 私が黒瀬蓮と結婚すると決めた時、母はこう言った。

「踊る人なんて、将来どうなるか分からないでしょう」

 私は聞かなかった。

 その後、私の脚が使えなくなった時、母は一度だけ来た。

 五十万円を残した。

 そして二度と現れなかった。

 黒瀬蓮は一番前に立っていた。

 洗いざらしの黒いコートを着ている。

 痩せすぎて、骨だけになったようだった。

 あごには青黒い無精ひげ。

 目は深く落ちくぼんでいた。

 葬儀社の人が、私を火葬炉へ運ぼうとした。

 彼が急にそれを止めた。

 私のそばへ来て、白い布をめくり、最後に一度だけ私の顔を見た。

 私は化粧をされていた。

 顔色はそこまで白くなく、唇にも少し色があった。

 けれど目は閉じたままで、少しも動かない。

 二度と目覚めない人形のようだった。

 黒瀬蓮は身をかがめ、私の額にキスをした。

 それから、あの鉄の箱を私のそばに置いた。

「持っていけ」

「来世では、俺が君の世話をする」

 火葬炉の鉄扉が開いた。

 熱が押し寄せる。

 その熱が彼の顔を赤く照らした。

 彼はまっすぐ炎を見ていた。

 唇がかすかに動いた。

 声はとても小さかった。

「痛くないか、音羽」

「怖がらなくていい。俺はここにいる」

 黒瀬の母は後ろに立っていた。

 もう何も言わなかった。

 一晩でずいぶん老けたように見えた。

 桜庭美緒も何も言わなかった。

 ただうつむき、涙を一滴ずつ落としていた。

 骨が出てきた時、黒瀬蓮は自分の手で骨壺に収めた。

 彼の手はずっと震えていた。

 それでも一つ一つの動作は、とても丁寧だった。

 彼は骨壺を抱いて外へ出た。

 桜庭美緒のそばを通る時、足を止めた。

「美緒」

 桜庭美緒が顔を上げる。

 目は真っ赤だった。

 黒瀬蓮は言った。

「君はいい人だ」

「一緒に踊れる人を見つけて」

「俺を待たなくていい」

 それだけ言うと、彼は私を抱いて去っていった。

 桜庭美緒はその場に立ち尽くし、さらに激しく泣いた。

 墓地は東京郊外にあった。

 とても静かな場所だった。

 黒瀬蓮は骨壺を納め、自分の手で土をかけた。

 終わると、袋の中から新しいラテンシューズを取り出した。

 真紅のサテン。

 細いヒール。

 私が昔、一番好きだった形だった。

 彼はそれを墓前に置き、小さな白菊の花束も添えた。

「音羽、それを履いて」

「向こうで踊って」



 12

 三年後、黒瀬蓮は再び競技会場に戻った。

 けれど彼はもう踊らない。

 審査員席に座っていた。

 胸には特別審査員の札がかかっている。

 濃い色のスーツを着て、髪は短く切られていた。

 三年前よりは少し落ち着いて見える。

 けれど目は相変わらず空っぽだった。

 ステージでは、若いペアがラテンを踊っていた。

 女性は真紅のドレスを着ている。

 回転するたび、スカートの裾がふわりと上がった。

 炎のようだった。

 黒瀬蓮の視線は彼女を通り過ぎ、遠い場所へ落ちていた。

 隣の審査員が彼に触れた。

「黒瀬先生、採点を」

 彼は我に返り、採点ボードの数字を押した。

 競技が終わり、彼は体育館を出た。

 外は小雨だった。

 彼は傘を差さなかった。

 入口まで歩いた時、透明な傘を持った女性が立っていた。

 桜庭美緒だった。

 三年が過ぎ、彼女は以前よりも大人びていた。

 明るい白のダウンではなく、淡いグレーのコートを着ている。

 彼女は黒瀬蓮を見て、静かに言った。

「蓮。偶然、通りかかったの」

「今日、あなたが審査員をしているなんて思わなかった」

 その言い訳は下手だった。

 黒瀬蓮はそれを指摘しなかった。

 彼は小さくうなずき、そのまま歩き出した。

 桜庭美緒は追いかけてきて、傘を彼の上に差し出した。

「そんなふうに濡れたら風邪をひくわ」

 黒瀬蓮は足を止めた。

「美緒」

 彼女の指が傘の柄を強く握った。

「言ったはずだ」

「俺を待つな」

 桜庭美緒はうつむいた。

 目の縁が赤くなった。

「待ってない」

「ただ……放っておけないだけ」

 透明な傘に、雨が細かい音を立てて落ちていた。

 彼女はしばらく沈黙し、それから尋ねた。

「まだ、踊る?」

 黒瀬蓮は遠くを見た。

 長い時間が経ってから、言った。

「踊らない」

「どうして?」

「ペアダンスだから」

「一人では踊れない」

 桜庭美緒は雨の中に立ち、彼が一歩ずつ遠ざかるのを見ていた。

 雨の幕が、その背中を長く引き伸ばした。

 私は彼のそばに立っていた。

 三年が経った。

 私の魂は、まだ消えなかった。

 なぜなのか、自分でも分からない。

 たぶん、彼を置いていけなかったのだ。

 私は彼が毎日仕事へ行き、帰ってくるのを見ていた。

 毎週、墓地へ行くのを見ていた。

 苺のケーキを買って、私の墓前に置くのを見ていた。

 私の日記帳を、端が擦り切れるほど読み返すのを見ていた。

 毎晩ソファに座り、鍵のかかった私の部屋のドアを見つめるのを見ていた。

 三年の間、彼は引っ越さなかった。

 あの古いアパートはまだある。

 私の部屋も、まだある。

 彼は一度も入らなかった。

 まるで、そのドアを開けなければ、私はまだ中で眠っているのだと思えるみたいだった。



 13

 その夜、黒瀬蓮はアパートへ戻った。

 雨はまだ降っていた。

 彼はコートを脱ぎ、ソファに座った。

 手にはあのピンク色の日記帳があった。

 日記帳はもう古くなっていた。

 彼は最後のページを開いた。

 蓮、私は行きます。

 私を探さないで。

 痛くないから。

 彼は長く見つめていた。

 やがて日記帳を閉じ、立ち上がった。

 そして私の部屋の前へ向かった。

 そのドアは三年間、開かれていない。

 彼はドアノブに手を置いた。

 長く止まった。

 そして、ようやくそっと開けた。

 部屋の中は三年前のままだった。

 ベッド。

 机。

 クローゼット。

 壁に貼られたクッション材。

 ベッドサイドの棚には、一枚の写真が置かれていた。

 若い頃の私たちの写真だった。

 写真の中の私は練習着を着て、彼の肩にもたれて笑っていた。

 彼はその写真を手に取り、胸に押し当てた。

 それから私のベッドに横になり、目を閉じた。

 私はベッドのそばに立ち、彼を見ていた。

 彼は少し老けた。

 目尻には細いしわができていた。

 髪の中には、白いものも何本か混じっていた。

 それでも、彼はまだ綺麗だった。

 私が初めて練習室で見た時と同じ、光の中に立っていた少年のようだった。

 その時、ふいに何かが私を引いた。

 とても軽い力だった。

 けれど逆らえない。

 私は分かった。

 時間が来たのだ。

 もう行かなければならない。

 今度こそ、本当に離れなければならない。

 私は彼の前へ漂い、最後に額へキスをしようとした。

 唇が触れた瞬間、彼が目を開けた。

 彼は私を見ていた。

 私は固まった。

 彼の声が震えた。

「音羽?」

 信じられなかった。

「あなた……私が見えるの?」

 黒瀬蓮は空中に手を伸ばした。

 けれど何もつかめなかった。

 それでも彼の目は、まっすぐ私を見ていた。

 瞬きをしたら、私が消えてしまうとでも思っているようだった。

「音羽」

 彼はもう一度、私の名前を呼んだ。

 私の涙が一気に落ちた。

 私は彼に飛びつき、形だけの腕で彼を抱きしめた。

「蓮」

「ちゃんと生きて」

「もう私を守らないで」

「いい人を見つけて、ちゃんと暮らして」

 彼は首を振った。

 涙が目尻からこめかみへ流れていく。

 私を引く力はどんどん強くなった。

 体が軽くなっていく。

 指先が少しずつ細かな光へ変わっていく。

 黒瀬蓮は私を見つめ、ようやく慌てた目をした。

「だめだ。音羽、行くな」

 私は彼に笑いかけた。

「蓮」

「私はあなたを長く縛りすぎた」

「今度は、私の言うことを聞いて」

 彼の唇が震えた。

 たくさん言いたいことがあるようだった。

 でも最後に、彼が言ったのは一言だけだった。

「音羽、踊って見せて」

 私は一瞬、言葉を失った。

 そして笑った。

「うん」

 風が止んだ。

 雨の音も遠ざかっていくようだった。

 私の体は無数の光の粒になり、少しずつほどけていった。

 最後の瞬間、黒瀬蓮が起き上がり、その光をつかもうと手を伸ばすのが見えた。

 けれど彼は何もつかめなかった。

 光がすべて消えた後、部屋に残ったのは彼一人だった。

 彼はベッドの端に座り、長い間動かなかった。

 窓の外で雨は止んでいた。

 東京の夜は静かだった。

 彼は立ち上がり、クローゼットの前へ行った。

 いちばん下の引き出しには、赤いラテンシューズが入っていた。

 後になって彼が買ったものだった。

 私の墓前に置いたものと、まったく同じ靴だった。

 彼はそれを取り出し、リビングの床に置いた。

 それから上着を脱ぎ、リビングの中央に立った。

 この古いアパートは、相変わらず狭かった。

 壁紙は黄ばんでいる。

 暖房は時々、古びた音を立てる。

 窓の外を電車が通り過ぎた。

 黒瀬蓮は腕を上げた。

 パートナーを抱く形のまま。

 彼は目を閉じた。

 音楽はなかった。

 それでも、彼は踊り始めた。

 ターン。

 ステップ。

 停止。

 顔を上げる。

 一人で踊るペアダンス。

 踊っているのは、男性のステップだった。

 彼の視線は、誰もいない場所に落ちている。

 でも私は知っている。

 そこには一人の人間がいる。

 ずっと、いる。

 彼はとてもゆっくり踊った。

 誰かを起こさないようにするみたいに。

 そして、三年遅れのあのダンスを、ようやく私に見せてくれているみたいだった。

 最後の動きで止まると、彼はかすかに腰を折った。

 見えないパートナーへ礼をするように。

 窓の外で、空の端が少しだけ白くなっていた。

 新しい一日が来ようとしている。

 黒瀬蓮はリビングの中央に立ち、静かに言った。

「音羽、踊り終えたよ」

 誰も答えなかった。

 けれど赤いラテンシューズのそばを、風がそっと通り抜けたように見えた。

 まるで、ドレスの裾がひるがえった一瞬のように。






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