夫が幼なじみの優勝を見届けた日、私は浴槽で死んだ。彼は狂うほど後悔した
導入
夫の幼なじみが世界一になった日、彼は私が自分を傷つけるのを恐れて、生配信さえ見ようとしなかった。
東京都北区の古いアパートで、彼は私のそばにいて、ただ一緒に録画を見ていた。
画面の中で、桜庭美緒は真紅のラテンドレスをまとい、ブラックプールの舞台の中央に立っていた。
そのドレスは、本来なら私のものだった。
私は車椅子に座ったまま、画面の中で揺れる裾を見つめていた。
息が、少しずつ苦しくなっていく。
また脚が痛み出した。
私は車椅子の肘掛けを握りしめ、低くつぶやいた。
「苦しい、蓮。私、苦しいよ」
黒瀬蓮はソファの端に座り、ずっとテレビを見ていた。
私の声を聞いて、彼はようやくこちらを向いた。
一度だけ。
たった一度だけだった。
次の瞬間、彼はソファのクッションの下から果物ナイフを取り出し、私の足元に放り投げた。
ナイフが床に落ちて、乾いた小さな音を立てた。
「苦しい?」
「だったら死ねば?」
「毎日苦しいって言ってるくせに、本当に死んだことなんてないだろ」
私はその場で固まった。
ごめん、と言いたかった。
けれど喉に何かが詰まったようで、一文字も出てこなかった。
その時、彼のスマートフォンが鳴った。
着信音は『Dance Monkey』。
桜庭美緒だけに設定された着信音だった。
彼はほとんど反射的に身をかがめ、スマートフォンを取った。
「美緒」
その声は、一瞬で柔らかくなった。
私が知っている彼とは思えないほど、優しい声だった。
「おめでとう」
「うん、見たよ。すごくよかった」
私はうつむき、床に落ちたナイフを拾った。
そして、自分の部屋へ戻った。
もう、限界なのだと思った。
1
三年が経った。
脚が使えなくなったあの日から、黒瀬蓮は私を息が詰まるほど守るようになった。
私を一人にできないと言った。
私がまた自分を傷つけるのが怖いと言った。
私さえ生きていれば、すべてはいつか良くなると言った。
だから彼はブラックプールを諦めた。
日本代表選考を諦めた。
手に入りかけていたすべての栄光を捨てた。
かつて全国大会の表彰台に立った黒瀬蓮は、今では東京都北区にある十八平米ほどの古いアパートにこもっている。
昼はダンス教室で代講をし、夜はコンビニでアルバイトをする。
時々、TikTokの短い動画を投稿している人のために、十数秒ほどの振り付けも作る。
一曲、八千円。
昔の彼なら、目を通すことさえしなかった仕事だ。
今では頭を下げて頼み込まなければならない。
彼が疲れていることは知っていた。
私が彼を壊しかけていることも知っていた。
このアパートは狭すぎた。
寝室にいる私にも、リビングにいる彼の呼吸が聞こえるほどだった。
毎晩、彼はソファで眠った。
ソファのほうが楽だと、いつも言った。
本当は違う。
深く眠りすぎて、夜中に私が何かをするのが怖かったのだ。
私の状態がひどい時、私は一日中、自分の部屋に閉じこもった。
彼は決して無理に入ってこなかった。
せめて最後の体面くらいは残してやりたい、と言った。
だから私が返事をしない時、彼はいつもドアの外に長く立っているだけだった。
食事をドアの前に置いて、低い声で言う。
「音羽、ここに置いておくよ。食べたくなったら呼んで」
時々、夜中の二時か三時に目が覚める。
壁の向こうで、黒瀬蓮はまだ眠っていない。
リビングを行ったり来たりする足音が聞こえる。
とても静かな足音だった。
それでも、私には聞こえた。
時々、彼は足を止める。
そして音楽が流れ出す。
とても小さな音だった。
私を起こさないようにしているみたいだった。
私はそっとドアを細く開ける。
彼は狭いリビングの中央に立ち、一人でペアダンスを踊っていた。
パートナーはいない。
照明もない。
観客もいない。
壊れかけの暖房、黄ばんだ壁紙、そして遠くを走る電車の音だけがあった。
彼の腕は、誰かを抱いている時と同じ形を保っていた。
ターン。
ステップ。
停止。
顔を上げる。
彼の視線は、誰もいない場所に落ちていた。
本当なら、そこに立っているのは私だった。
それは彼の骨に刻まれた習慣だった。
そして、骨に刻まれた痛みでもあった。
私は彼の背中を見ながら、名前を呼びたかった。
蓮、もう踊らないで。
美緒のところへ行って。
彼女なら、まだあなたと踊れる。
そう言いたかった。
けれど私の脚は言うことを聞かなかった。
彼の前まで歩いていって抱きしめることさえ、もうできなかった。
2
私は寝室に座り、まだあの果物ナイフを握りしめていた。
しばらくして、インターホンが鳴った。
黒瀬蓮が立ち上がり、玄関へ向かった。
ドアの向こうから桜庭美緒の声が聞こえた。
「蓮」
空港から戻ったばかりなのだろう。
その声には、まだ消えきらない疲れと興奮が混じっていた。
「こんな時間に来るべきじゃないって、分かってる」
「でも、どうしても手渡したいものがあったの」
黒瀬蓮は声を落とした。
「音羽は部屋にいる」
「分かってる」
桜庭美緒の声も低くなった。
「中には入らない」
二人は玄関で話していた。
ドア一枚を挟んで、私にははっきりとは聞こえなかった。
私は壁に手をつき、ゆっくりとドアのそばまで移動した。
隙間から、細い光が差し込んでいる。
桜庭美緒は紙袋を玄関の棚に置いた。
「トロフィーの写真と、いくつかの記事」
「蓮は見たくないかもしれない」
「でも、あの中にはあなたの名前もあるべきだった」
黒瀬蓮は何も言わなかった。
桜庭美緒は彼を見つめ、ゆっくり目を赤くしていった。
「本当に、このまま一生続けるつもり?」
「彼女のために、自分を捨てるの?」
リビングは怖いほど静まり返った。
長い沈黙の後、黒瀬蓮がようやく口を開いた。
私は彼の声を聞いた。
「時々、思うんだ。もし彼女が、あんなに苦しまない形でいなくなれたら、少しは楽になるんじゃないかって」
私の指先から力が抜けた。
ドア板が小さく鳴った。
リビングにいた二人が同時に止まった。
黒瀬蓮がすぐに振り向いた。
「音羽?」
私は息を止め、返事をしなかった。
彼はしばらく立っていた。
こちらへ来ようとしているようにも見えた。
桜庭美緒が静かに言った。
「眠ったのかもしれない」
黒瀬蓮はその場で止まった。
長い時間が過ぎてから、彼は低く言った。
「でも、俺にはできない」
「本当に、できないんだ」
私は壁に手をつき、ゆっくりと部屋へ戻った。
やっぱり、私たちはまだ通じ合っていた。
蓮。
あなたが考えたことを、私も考えていた。
ただ、あなたにはできない。
なら、私がやる。
3
桜庭美緒が帰った後、部屋はまた静かになった。
黒瀬蓮はリビングに長く立っていた。
午前一時を過ぎた頃、彼はようやくソファに横になった。
寝返りを打つ音が聞こえた。
そして、とても小さな声がした。
「ごめん」
私はベッドの端に座り、果物ナイフを握っていた。
その言葉は、私も彼に言いたかった。
ごめん。
蓮。
浴室は廊下の突き当たりにある。
私は壁を支えに、一歩ずつ歩いた。
車椅子は寝室に残しておいた。
そうすれば、明日彼がドアを叩いた時、私がまだベッドにいると思うかもしれない。
蛇口をひねる。
狭い浴室に、すぐ白い湯気が立ちこめた。
私は浴槽に身を沈めた。
湯が少しずつ体を包んでいく。
ふと、何年も前のことを思い出した。
あの頃の私は、まだ踊ることができた。
黒瀬蓮は私の腰に手を添え、練習室で何度も動きを直してくれた。
「音羽、顔を上げて。俺を見て。君は一人で踊ってるんじゃない」
私はその時、笑いながら聞いた。
「もし、いつか私が踊れなくなったら?」
「俺が抱いて踊る」
「もし、立つこともできなくなったら?」
「だったら、俺がしゃがんでそばにいる」
あの時の私は、そんな約束が一生を支えてくれるのだと思っていた。
でも後になって知った。
どんなに深い愛でも、長い痛みの中では少しずつ削られていく。
私は、彼が深夜にため息をつくのを聞いたことがある。
カウンセリングや薬の費用をこっそり調べているのも見た。
彼の母親が電話でこう言うのも聞いた。
「あなたは、いつまであの子のために犠牲になるつもりなの?」
私は目を閉じた。
刃先が手首に触れた時、怖くはなかった。
ただ、疲れていた。
とても疲れていた。
私は小さく言った。
「蓮。これからは、自由に生きて」
4
気がついた時、私は浴室の上に浮かんでいた。
浴槽の中に、一人の人間が横たわっている。
顔は青白く、唇には血の気がなく、濡れた髪が水面に漂っていた。
長く見つめて、ようやく気づいた。
あれは私だった。
ひどい顔。
蓮が見たら、怖がるだろうか。
浴室の灯りはついたままだった。
湯はとっくに冷めていた。
私は浴室を出た。
リビングでは、黒瀬蓮がまだソファで眠っていた。
眠りは浅く、眉間にしわが寄っていた。
指は強く握られていた。
私は彼のそばへ浮かび、額に触れようとした。
けれど私の手は彼の体をすり抜けた。
何にも触れなかった。
朝になり、彼は目を覚ました。
キッチンで水を飲み、私の部屋の前を通った。
そこで足を止める。
「音羽?」
私は彼の隣に立っていた。
返事をしたかった。
けれど彼には聞こえない。
彼はドアを開けなかった。
以前、私は彼に言ったことがある。
勝手に部屋に入ってこないで、と。
あの時の私は、ただ少しの自尊心を守りたかっただけだった。
でも今回は、それが彼に私を見逃させる理由になった。
午前中、電話が鳴った。
彼の母親からだった。
電話の向こうの声は大きかった。
「大晦日なのに、あなた帰ってこないの?」
黒瀬蓮は低く言った。
「母さん、音羽は体調が悪いんだ。外には出られない」
電話の向こうで、何かを言っている。
彼の表情が少しずつ沈んでいった。
「来なくていい。部屋が狭いし、不便だから」
相手は明らかに納得していなかった。
黒瀬蓮は眉間を押さえた。
「母さん、やめてくれ」
ほどなくして電話は切れた。
彼はソファに座ったまま、長い間動かなかった。
私は彼の前に立っていた。
蓮。
私はもう部屋にはいない。
浴室にいるの。
一度でいいから見て。
一度だけでいい。
けれど彼は見なかった。
午後四時過ぎ、インターホンが鳴った。
黒瀬蓮がドアを開ける。
そこに立っていたのは、彼の両親だった。
そして桜庭美緒もいた。
昨夜来たばかりの彼女が、またここに立っているとは思わなかった。
今度は一人ではなかった。
彼女は紙袋を持ち、その後ろに黒瀬蓮の母親と父親がいた。
黒瀬の母は入ってくるなり、持ってきた御節料理をテーブルに置いた。
「あなたがちゃんと準備しているわけないと思ったのよ」
「今日は大晦日なのよ。こんな日に一人で寂しく過ごすなんて、ありえないでしょう」
桜庭美緒は笑って言った。
「おばさまが心配していたから、私も一緒に来たの」
そして黒瀬蓮のほうを向き、声を柔らかくした。
「蓮、よいお年を」
黒瀬蓮は一瞬固まってから、小さくうなずいた。
「よいお年を」
キッチンはすぐに賑やかになった。
年越しそばのつゆが鍋の中で湯気を立てていた。
テレビがつけられ、紅白歌合戦の事前番組が流れ始めた。
黒瀬の母は皿を並べながら言った。
「こうしてこそ家って感じがするのよ。毎日冷えきった部屋にいたら、人までだめになるわ」
私はリビングの隅に浮かび、彼らを見ていた。
賑やかだった。
こんな賑やかな音を聞くのは、本当に久しぶりだった。
でも、その賑やかさは私とは関係がない。
私は廊下の突き当たりの浴室で死んでいる。
浴室のドアは閉まっている。
その向こうのことを、誰も知らない。
5
夕食の前、黒瀬蓮は私の部屋の前に来た。
彼はそっとドアを叩いた。
「音羽。少し食べないか」
返事はなかった。
彼はもう一度叩いた。
「母さんが年越しそばを作った。昔、好きだっただろ」
私は彼の隣に立ち、必死に声を出そうとした。
蓮、私はそこにいない。
浴室にいる。
でも声は出なかった。
ドアの外が少し静かになった。
黒瀬の母の声がした。
「出てきたくないなら、無理に呼ばなくていいわ。こんな日くらい、みんなもう十分疲れているんだから」
黒瀬蓮は何も言わなかった。
桜庭美緒が静かに言った。
「おばさま、音羽さんは体調が悪いんだと思います。休んでいるだけかもしれません」
黒瀬の母は小さく笑った。
「私は三年も気を遣ってきたのよ。蓮だって三年も気を遣ってきた。まだ足りないの?」
黒瀬蓮が振り向いた。
「母さん」
その声は低かった。
けれど黒瀬の母は、ずっと押し込めていたものをついに吐き出すように続けた。
「私、間違ったことを言っている?」
「昔の蓮がどんな子だったか、今のあなたがどうなっているか、自分で分かっているの?」
「世界大会にも行けた。もっと大きな舞台に立てた」
「それが今はどう?」
「昼は人の代講、夜はコンビニ。まともに眠ることさえできない」
彼女は私の部屋のドアを見た。
その声は冷たくなった。
「一人の人生に、もう一人の人生まで巻き込むものじゃないわ」
私はドアの前に立っていた。
もう死んでいるのに、胸が痛んだ。
死んでも、苦しむのだと知った。
黒瀬蓮は何も言い返さなかった。
ただ、ドアの前に長く立っていた。
それから、ドアの向こうに向けて低く言った。
「音羽、君の分は残しておく。食べたくなったら呼んで」
彼は食卓に戻った。
テーブルでは、テレビの中で紅白歌合戦が始まっていた。
司会者の声は明るく、華やかだった。
黒瀬の母が年越しそばをよそった。
桜庭美緒は彼らへの贈り物を取り出した。
黒瀬の母には淡い色のカシミヤのマフラー。
黒瀬の父には保温ボトル。
黒瀬の母は満足そうだった。
「美緒ちゃんは本当に選ぶのが上手ね」
桜庭美緒は微笑んだ。
そして、何かを思い出したように、紙袋のいちばん下から細長い桐箱を取り出した。
「これ……」
彼女は黒瀬蓮を見た。
「京都で見つけたの。蓮に似合うと思って」
箱を開ける。
中には一対の漆箸が入っていた。
黒と朱。
包装紙の札には、夫婦箸と書かれていた。
空気が一瞬止まった。
桜庭美緒は今さら気づいたように、顔を赤くした。
「そういう意味じゃないんです。ただ、店員さんがこの柄はきれいだって……」
黒瀬の母はその黒と朱の箸を見て、笑みを深くした。
「あなたって子は。こういうものは、軽い気持ちで贈るものじゃないのよ」
桜庭美緒はうつむいた。
黒瀬蓮はその箱に触れなかった。
けれど黒瀬の母は続けた。
「あの事故さえなければ、あなたと蓮は今ごろ……」
「母さん」
黒瀬蓮が顔を上げた。
その声は冷えていた。
黒瀬の母は口を閉じた。
だがすぐ、また私の部屋のドアを見た。
「私はただ、もったいないと思っているだけよ。あなたがこんなふうになるべきじゃなかった」
桜庭美緒が小さく言った。
「おばさま、もうやめてください」
けれど彼女は否定しなかった。
私はふいに、自分がひどく余計な存在に思えた。
生きていた時も余計だった。
死んだ後でさえ、まだ余計だった。
6
食事の後、黒瀬の母はバッグから一枚の書類を取り出し、テーブルに置いた。
紙が広げられる音は小さかった。
けれど黒瀬蓮の顔色が一瞬で変わった。
「何だ、これは」
黒瀬の母は言った。
「離婚届」
桜庭美緒も驚いたように固まった。
彼女も、黒瀬の母がここまで直接やるとは思っていなかったのだろう。
黒瀬の父が眉をひそめた。
「お前、今ここで……」
黒瀬の母は彼を無視した。
その紙を黒瀬蓮の前へ押し出す。
「妻の欄にはもう名前が書いてある。印鑑も押してある。あなたは署名するだけ」
黒瀬蓮はその紙を見つめた。
「どこから手に入れた」
黒瀬の母は視線をそらした。
「白石家のほうからよ。あちらのお母さんが、ここまで来たらもう決着をつけるべきだって。娘があの状態じゃ、誰にとってもよくないって」
黒瀬蓮の指が、ゆっくりと握りしめられていく。
「音羽が同意するはずがない」
黒瀬の母は言った。
「どうしてあなたに分かるの?」
「あの子が今の状態で、あなたに何をしてあげられるの?」
「蓮、あなたはまだ二十八よ。本当に残りの人生を、このアパートに閉じ込めておくつもり?」
黒瀬蓮は一語一語、はっきりと言った。
「俺は署名しない」
黒瀬の母は焦った。
「あなた、いつまで意地を張るつもりなの? あの子みたいな人は、あなたの人生まで引きずり込むだけよ」
黒瀬蓮は顔を上げ、母を見た。
「母さん。彼女は俺の妻だ」
黒瀬の母は一瞬言葉を失った。
数秒後、彼女は顔をそらし、低くつぶやいた。
「あの子はあなたの妻なんかじゃない。あなたを縛っているだけよ」
私はテーブルのそばに立っていた。
その言葉は、もう存在しないはずの私の体に、細い針のように刺さった。
桜庭美緒が立ち上がり、黒瀬蓮のそばへ行った。
「蓮」
その声はとても静かだった。
「私たちは、音羽さんを見捨てろと言っているわけじゃないの」
「今回の賞金も、今まで貯めてきたお金も、全部出せる」
「専門の介護施設を探せるし、介護士も、リハビリの先生も探せる」
「あなたが一人で背負わなくていい」
「本当に、あなたは疲れすぎている」
黒瀬蓮は彼女を見なかった。
「ありがとう」
「でも、いらない」
桜庭美緒の目が赤くなった。
「どうして?」
「彼女は俺の妻だから」
同じ言葉を、さっきは母に向けて言った。
今度は桜庭美緒に向けて言った。
桜庭美緒はその場に立ち尽くし、少しずつ顔から血の気を失っていった。
黒瀬の母は怒りで立ち上がった。
「好きにしなさい」
彼女は深く息を吸い、声を冷たくした。
「どうしても自分の人生をあの子に費やしたいなら、そうすればいい」
黒瀬蓮は黙っていた。
黒瀬の母は彼を見つめた。
その目には怒りと、言いようのない失望が混ざっていた。
「もう、あなたが壊れていくところを見たくないの」
そう言って、彼女はバッグを取り、玄関へ向かった。
黒瀬の父は黙ってその後を追った。
桜庭美緒はしばらく立っていたが、最後にはバッグを持った。
玄関まで行った時、彼女は振り返った。
「蓮」
彼は顔を上げなかった。
ドアが閉まった。
大晦日の夜、アパートは一瞬で静まり返った。
テレビでは、紅白歌合戦がまだ続いていた。
誰かが舞台の上で新年の歌を歌っている。
そして私は浴室で死んでいた。
黒瀬蓮は、まだそれを知らない。
7
部屋には黒瀬蓮だけが残った。
彼は食卓の前に長く立っていた。
それから食器を片づけ始めた。
蛇口を開ける。
水の音が、テレビから流れる歌を覆い隠した。
途中で、彼はふと手を止めた。
両手をシンクにつき、うつむく。
肩が小さく震えていた。
私は彼の隣に立っていた。
頭に触れたかった。
けれど指は彼の髪をすり抜けるだけで、何にも触れられなかった。
彼は食器を洗い終えると、あの離婚届を手に取った。
紙はすでに彼の手の中でしわになっていた。
彼はそれを長く見つめた。
そして、少しずつ破った。
紙片がゴミ箱に落ちる。
私はその破片を見ながら、涙をこぼした。
馬鹿な黒瀬蓮。
こんなに何度も逃げる機会があったのに。
どうして私を捨ててくれないの。
彼は私の分の年越しそばを鍋に残し、御節料理も少し取り分けてラップをかけた。
それから、私の部屋の前に来た。
「音羽。ご飯、残してある。お腹が空いたら呼んで」
彼は少し黙った。
声はさらに柔らかくなった。
「今夜はコンビニのシフトに入る。今日は少し時給が高いから。すぐ戻るよ」
私は彼の前に立っていた。
蓮、行かないで。
浴室を見て。
一度でいいから。
でも彼には聞こえなかった。
彼はコンビニの制服に着替え、その上から古いダウンジャケットを羽織った。
玄関のドアが開く。
冷たい風が流れ込んだ。
そしてドアは閉まった。
アパートは再び静かになった。
私は浴室の前まで漂った。
そのドアの向こうには、すでに冷たくなった私の体がある。
死は終わりではなかった。
死とは、すべてを見ているのに、何一つ変えられないことだった。
黒瀬蓮が出ていってから、しばらくして玄関の鍵がまた鳴った。
桜庭美緒が戻ってきた。
彼女は予備の鍵の場所を知っていたらしい。
中に入ると、彼女は大きな明かりをつけず、玄関の小さな灯りだけをつけた。
このアパートはバス・トイレ別だった。
トイレは玄関のそばにある。
浴室は廊下の突き当たりにあり、ドアはずっと閉まっていた。
桜庭美緒は浴室のほうを見なかった。
まっすぐ私の部屋の前へ向かい、ドアを強く三回叩いた。
「白石音羽、いるんでしょう。出てきて」
返事はない。
桜庭美緒は深く息を吸った。
「あなた、いつまで蓮を引きずるつもりなの?」
「先月、彼が軽度のうつと診断されたこと、知ってる?」
「医者は薬を出した。でも彼は取りに行かなかった」
「そのお金は、あなたのリハビリに使うって言ったの」
彼女の声はだんだんかすれていった。
「彼が毎晩眠れないこと、知ってる?」
「彼が一人でリビングに立って踊っていること、知ってる?」
「音楽もない。パートナーもいない」
「ただ腕を上げて、まるでまだ誰かを抱いているみたいに、何度も何度も回るの」
「そんな蓮を、私は一度見ただけで、もう二度と見たくないと思った」
私は彼女のそばに立っていた。
言いたかった。
知っている。
全部知っている。
だから私は行ったの。
でも彼女には聞こえない。
桜庭美緒は長く待ったが、返事はなかった。
彼女はリビングへ戻り、ゴミ箱の中の紙片に気づいた。
しゃがみ込み、それを一枚一枚拾って、床に並べた。
彼女は離婚届をつなぎ合わせ始めた。
長い時間がかかった。
紙の端で指を切り、小さく血がにじんだ。
それでも彼女は気づかないようだった。
つなぎ合わせ終えると、彼女は離婚届をテーブルに置いた。
それから部屋を片づけ始めた。
掃除をする。
床を拭く。
テーブルを拭く。
薬の箱を整える。
黒瀬蓮がソファに置いていった上着をたたむ。
その手つきは慣れていた。
まるで、ここは本来彼女の家だったみたいだった。
片づけ終えると、彼女はソファに横になり、目を閉じた。
私はそばに浮かんで、彼女を見ていた。
胸がひどく痛んだ。
でも、認めざるを得なかった。
彼女のほうが、黒瀬蓮にふさわしい。
彼女は健康で、綺麗で、彼と一緒に踊れる。
彼女は光の中に立っている。
私は死んでさえ、ドアの向こう側にいる。
8
黒瀬蓮が帰ってきた時、空は白み始めていた。
東京は冷たく、玄関のドアが開くと、彼の体から冷気が流れ込んだ。
コンビニの制服の上に古いダウンジャケットを着ていて、顔色は出ていく前より悪かった。
彼は綺麗に片づいた部屋を見て、少し驚いた。
そしてソファの上の桜庭美緒を見た。
桜庭美緒が目を覚ます。
彼女は立ち上がり、テーブルの上の離婚届を彼の前に押し出した。
「どうして破ったの?」
黒瀬蓮はその紙を見なかった。
「どうやって入った」
「どうして破ったのかって聞いてるの」
「言っただろ。俺は音羽と離婚しない」
桜庭美緒の目から、涙が一気にあふれた。
「黒瀬蓮、私は十年待ったのよ」
彼は少し黙った。
「美緒」
「俺は、待ってくれなんて言っていない」
桜庭美緒はその言葉に刺されたようだった。
彼女はそこに立ち尽くし、顔色を少しずつ失っていった。
「本当に残酷ね」
黒瀬蓮は答えなかった。
彼はまっすぐ私の部屋の前へ向かった。
「音羽」
彼はドアを叩いた。
音はない。
今回、彼はようやく眉をひそめた。
ドアノブを握り、そっと開けた。
部屋には誰もいなかった。
ベッドにも誰もいない。
布団はきちんとたたまれている。
車椅子はベッドのそばに止まっていた。
その瞬間、黒瀬蓮の顔色が変わった。
彼はようやく何かに気づいたように、勢いよく振り返り、廊下の突き当たりを見た。
浴室の明かりはまだついていた。
ドアは半分開いている。
彼は一歩ずつ近づいた。
その一歩一歩は、とても遅かった。
足元で何かが砕けてしまうのを恐れているみたいだった。
彼は手を伸ばし、ドアを押し開けた。
そして、私を見た。
部屋中が死んだように静まり返った。
浴槽の水はとっくに冷えきっていた。
私の体はそこに横たわっていた。
青白く、硬く、少しも動かなかった。
黒瀬蓮は浴室の入り口に立ったまま、長い長い間、何の声も出さなかった。
桜庭美緒が彼の後ろへ来た。
彼女は一目見ただけで口を押さえ、全身を震わせて後ずさった。
「音羽さん……」
黒瀬蓮がようやく動いた。
浴槽のそばに膝をつき、私の顔に手を伸ばした。
その手はひどく震えていた。
「音羽?」
返事はなかった。
「音羽、起きて」
彼の声はとても小さかった。
私を起こしてしまわないようにしているみたいだった。
彼は私を水の中から抱き上げた。
水が私の髪と服の裾から滴り落ちる。
彼はバスタオルで私を包み、強く抱きしめた。
「水が冷たい」
「どうして呼ばなかったんだ」
「音羽、寝るな」
「風邪をひくだろ」
私は彼の隣に立ち、彼が私の遺体を抱きしめ、何度も何度も私の名前を呼ぶのを見ていた。
伝えたかった。
蓮、もう呼ばないで。
聞こえてるよ。
でも、遅すぎた。
救急車が来た。
警察も来た。
小さなアパートは、人でいっぱいになった。
医師、看護師、警察官、近所の人たちが、みんなドアの外に立っている。
医師は診察を終えると、首を横に振った。
「すでに生命反応はありません」
黒瀬蓮は聞こえていないようだった。
彼は私を抱いたまま離さなかった。
誰かが近づくたび、まるで獣のような目で相手をにらんだ。
「死んでない。眠ってるだけだ」
医師は数秒沈黙し、さらに声を低くした。
「落ち着いてください。ご遺体の状態から見て、死亡から二十四時間以上経っています」
黒瀬蓮が固まった。
二十四時間。
つまり。
昨日の朝、彼の母親から電話が来た時、私はもう死んでいた。
昨日の午後、彼がドアを開けて彼らを中に入れた時、私はもう死んでいた。
彼らがリビングで年越しそばを食べていた時、私は浴室で死んでいた。
彼が私の部屋の前に立ち、何度も名前を呼んでいた時、私は浴室で死んでいた。
彼の母が、私が彼を引きずっていると言った時、私は浴室で死んでいた。
桜庭美緒が夫婦箸を取り出した時、私は浴室で死んでいた。
離婚届がテーブルに置かれた時、私は浴室で死んでいた。
彼が「彼女は俺の妻だ」と言った時、私も浴室で死んでいた。
そして彼が仕事へ行く前、ドア越しにこう言った時。
「音羽、すぐ戻るよ」
その時にはもう、私は二度と彼に返事ができなくなっていた。
黒瀬蓮は突然身をかがめ、激しくえずいた。
何も吐けなかった。
警察官が近づき、低く尋ねた。
「あなたは亡くなった方のご主人ですか」
彼は床にしゃがみ込み、うなずいた。
「ご遺体がこれほど長くご自宅にあったのに、気づかなかったのですか」
その言葉が落ちた瞬間、黒瀬蓮の体から何かが抜け落ちたようだった。
彼は顔を上げ、半分開いた浴室のドアを見た。
その目には、もう何の光もなかった。
9
黒瀬の母が駆けつけた時、アパートはまだ片づいていなかった。
彼女は玄関を入るなり、浴室の方に張られた規制線を見て、まず顔を白くした。
そして思わず口走った。
「本当に死んだの? どうしてよりによって家で……」
その先の言葉は続かなかった。
黒瀬蓮が顔を上げ、彼女を見たからだ。
その一瞥だけで、彼女はその場に凍りついた。
「出ていけ」
黒瀬の母は固まった。
「蓮、私はあなたの母親よ」
「出ていけ」
彼の声は大きくなかった。
けれど冷たく、恐ろしかった。
「あなたはずっと、彼女にいなくなってほしかったんだろう」
「今、彼女はいなくなった」
「満足か?」
黒瀬の母の顔から血の気が引いた。
「そういう意味じゃないの。私はただ、あなたが心配で……」
黒瀬蓮は立ち上がった。
「彼女は全部聞いていた」
黒瀬の母は息をのんだ。
「何を言っているの?」
「彼女が俺を引きずっていると言った。俺を縛っていると言った。俺の人生を壊すだけだと言った」
「全部、彼女は聞いていた」
彼は浴室を指した。
「彼女はあそこにいた」
「一人で、丸一日、あそこにいた」
黒瀬の母は一歩後ずさった。
桜庭美緒が彼を支えようと近づいた。
「蓮、落ち着いて」
黒瀬蓮は彼女を見た。
「君も出ていけ」
桜庭美緒は固まった。
「私……」
「美緒、君がそこまで悪い人間じゃないことは分かってる」
「でも君も、彼女が席を空けるのを待っていた」
桜庭美緒の顔色が一瞬で白くなった。
黒瀬蓮はもう誰も見なかった。
彼はドアを飛び出し、救急車を追って階段を駆け下りた。
早朝、街には神社の初詣から戻ってきた人たちがいた。
御守を手にしている人がいた。
福袋を持ち、連れと笑いながら新年の挨拶を交わしている人がいた。
黒瀬蓮はよろめきながら街角まで走り、ついに道端に膝をついた。
彼は遠ざかっていく車へ手を伸ばした。
「音羽!」
私は彼の隣に立っていた。
支えたかった。
けれど手は彼の肩をすり抜けた。
何にも触れなかった。
その後、彼は病院へ運ばれた。
医師によると、長年の過労に強いショックが重なり、重度の不整脈を起こしたらしい。
手術室の灯りがついた。
私は彼について中へ入った。
彼は手術台の上に横たわっていた。
顔色は私よりも白かった。
心電図モニターがせわしなく音を立てている。
医師たちは彼の名を呼び続けた。
突然、機械が長く鳴った。
ピーッ。
世界が静かになった。
次の瞬間、私は黒瀬蓮が起き上がるのを見た。
彼の体ではない。
彼の魂だった。
彼は茫然と辺りを見回した。
そして私を見つけた。
その瞬間、彼の目が明るくなった。
「音羽!」
彼は私へ駆け寄ってきた。
今度は、本当に私に触れた。
彼の手はまだ温かかった。
その温かさに、私は泣きそうになった。
「見つけた」
彼は私を抱きしめた。
その声には、歓喜に近い震えがあった。
「よかった」
「君は待っていてくれると思ってた」
「行こう」
「ブラックプールへ行こう。パリへ行こう。君が行きたがっていた場所へ全部行こう」
「セーヌ川を見たいって、ずっと言ってただろ。連れていく」
「これからは毎日、俺が君と踊る」
彼は急いで言った。
私が次の瞬間には消えてしまうことを恐れているみたいだった。
私は彼を突き飛ばした。
「誰が来ていいって言ったの?」
彼は固まった。
「音羽?」
「戻って」
私は手術台の上の体を指さし、震える声で言った。
「黒瀬蓮、戻って」
彼は首を振った。
「戻らない」
「君がいなければ、俺は一人で生きていけない」
「あの家には君のものばかりだ。君の影ばかりだ。目を閉じれば、浴室に横たわる君が見える」
「音羽、怖いんだ」
彼は泣いていた。
かつて試合中、どれほど痛くても涙を見せなかった黒瀬蓮が、子供のように泣いて私にすがった。
「追い返さないでくれ。やっと君を見つけたんだ」
胸が裂けそうだった。
でも彼を死なせるわけにはいかなかった。
彼はまだ二十八歳だ。
この先には長い道がある。
彼にはまだ踊りがある。
世界がある。
私にはもう行けない未来がある。
「蓮」
私は初めて、こんなに厳しく彼の名前を呼んだ。
「よく聞いて」
「私はあなたを道連れにするために死んだんじゃない」
「あなたに生きてほしくて死んだの」
「戻って」
「私の代わりにブラックプールを見に行って」
「私が踊りきれなかったあのダンスを、あなたが踊って」
彼は必死に首を振った。
「嫌だ。踊りもブラックプールも、君がいないなら意味がない」
「俺は君だけがいい」
彼はまた私を抱きしめた。
今度は、すぐには押し返せなかった。
私は手を上げ、彼の顔に触れた。
「蓮、言うことを聞いて」
私は彼に近づき、唇を重ねた。
それが、私たちの最後のキスだった。
彼は固まった。
私はその隙に、全身の力で彼をあの体へ押し戻した。
「戻って」
「ちゃんと生きて」
「私に踊りを見せて」
「追いかけてこないで」
黒瀬蓮の魂が後ろへ落ちていく。
彼は私に手を伸ばし、引き裂かれるように叫んだ。
「音羽——!」
次の瞬間、心電図モニターが再び音を刻み始めた。
ピッ。
ピッ。
ピッ。
手術台の上で、黒瀬蓮が勢いよく目を開いた。
目尻から一筋の涙が落ちた。
彼は生き返った。
終わりのない痛みと後悔を抱えたまま、生き返った。
10
黒瀬蓮が目を覚まして最初にしたことは、体につながれた管を引き抜くことだった。
看護師が驚いて駆け寄り、彼を押さえた。
「今は動いてはいけません!」
「家に帰る」
医師が鎮静剤を打とうとしたが、彼はそれを押しのけた。
「音羽を探しに帰る」
誰も彼を止められなかった。
彼は弱りきった体を引きずるようにして、あのアパートへ戻った。
大家がドアの前に立ち、困った顔をしていた。
「黒瀬さん、この部屋は……」
黒瀬蓮が彼女を見た。
大家はその先の言葉を飲み込んだ。
部屋は、あの日のままだった。
床には乱れた足跡が残っている。
浴室には、どうしても消えない匂いが残っていた。
黒瀬蓮は中へ入った。
彼は浴室に長くいた。
日が暮れてから、ようやく掃除を始めた。
床を拭く。
浴槽をこする。
すべての痕跡を消そうとする。
何度も何度も拭いた。
まるでここを綺麗にすれば、あの日のことまで消せると信じているようだった。
その後、彼は私の枕の下から小さな鉄の箱を見つけた。
古い箱だった。
中にはキャッシュカードが一枚。
二万三千円。
それから一枚のメモ。
そこにはこう書いてあった。
暗証番号はあなたの誕生日。
新しいラテンシューズを買って。
さらに小さな日記帳があった。
ピンク色の表紙で、角は擦り切れている。
黒瀬蓮は床に座り、最初のページを開いた。
二月五日。
脚が痛くて眠れない。
でも寝返りを打つのが怖い。
蓮を起こしてしまうから。
彼は昼間、とても疲れている。
四月十五日。
今日、蓮は短い動画の振り付けの仕事に行った。
女の子がずっと彼の手に触っていた。
私は見ていた。
彼は避けなかった。
責めない。
彼にはその仕事が必要だから。
五月八日。
今夜も蓮はリビングを歩き回っていた。
抱きしめに行きたかった。
でも怖かった。
私の顔を見たら、彼がもっとつらくなる気がした。
十二月八日。
今日、蓮のお母さんからまた電話があった。
「あなたはいつまであの子のために犠牲になるつもりなの」と言っていた。
蓮は電話を切った。
切ったあと、彼はリビングに長く座っていた。
抱きしめに行きたかった。
やっぱり行けなかった。
最後のページは、私が死んだ日に書いたものだった。
字は乱れていた。
紙には乾いた涙の跡があった。
蓮、私は行きます。
私を探さないで。
痛くないから。
カードの中のお金は少ないけど、新しい舞踏靴を買うくらいなら足りると思う。
ブラックプールへ行って。
私が踊りきれなかったダンスを、代わりに踊って。
ごめんね。
私は本当に疲れました。
来世では、あなたが私の妻になって。
あなたが毎日ベッドに横になっていて、私が外でお金を稼ぐ。
私があなたの世話をする。
私はあなたを嫌いにならない。
黒瀬蓮は最後のページを読み終えると、長い間、動かなかった。
それから、日記帳に額を押しつけた。
一滴の涙が紙の上に落ち、私の字をにじませた。
私は彼のそばに立っていた。
涙を拭いてあげたかった。
けれど指は彼の頬をすり抜けた。
何にも触れなかった。
11
葬儀の日、東京の空は曇っていた。
雪は降らず、太陽も出なかった。
来た人は多くなかった。
黒瀬蓮。
彼の両親。
親戚が数人。
そして桜庭美緒。
私の母は来なかった。
私が黒瀬蓮と結婚すると決めた時、母はこう言った。
「踊る人なんて、将来どうなるか分からないでしょう」
私は聞かなかった。
その後、私の脚が使えなくなった時、母は一度だけ来た。
五十万円を残した。
そして二度と現れなかった。
黒瀬蓮は一番前に立っていた。
洗いざらしの黒いコートを着ている。
痩せすぎて、骨だけになったようだった。
あごには青黒い無精ひげ。
目は深く落ちくぼんでいた。
葬儀社の人が、私を火葬炉へ運ぼうとした。
彼が急にそれを止めた。
私のそばへ来て、白い布をめくり、最後に一度だけ私の顔を見た。
私は化粧をされていた。
顔色はそこまで白くなく、唇にも少し色があった。
けれど目は閉じたままで、少しも動かない。
二度と目覚めない人形のようだった。
黒瀬蓮は身をかがめ、私の額にキスをした。
それから、あの鉄の箱を私のそばに置いた。
「持っていけ」
「来世では、俺が君の世話をする」
火葬炉の鉄扉が開いた。
熱が押し寄せる。
その熱が彼の顔を赤く照らした。
彼はまっすぐ炎を見ていた。
唇がかすかに動いた。
声はとても小さかった。
「痛くないか、音羽」
「怖がらなくていい。俺はここにいる」
黒瀬の母は後ろに立っていた。
もう何も言わなかった。
一晩でずいぶん老けたように見えた。
桜庭美緒も何も言わなかった。
ただうつむき、涙を一滴ずつ落としていた。
骨が出てきた時、黒瀬蓮は自分の手で骨壺に収めた。
彼の手はずっと震えていた。
それでも一つ一つの動作は、とても丁寧だった。
彼は骨壺を抱いて外へ出た。
桜庭美緒のそばを通る時、足を止めた。
「美緒」
桜庭美緒が顔を上げる。
目は真っ赤だった。
黒瀬蓮は言った。
「君はいい人だ」
「一緒に踊れる人を見つけて」
「俺を待たなくていい」
それだけ言うと、彼は私を抱いて去っていった。
桜庭美緒はその場に立ち尽くし、さらに激しく泣いた。
墓地は東京郊外にあった。
とても静かな場所だった。
黒瀬蓮は骨壺を納め、自分の手で土をかけた。
終わると、袋の中から新しいラテンシューズを取り出した。
真紅のサテン。
細いヒール。
私が昔、一番好きだった形だった。
彼はそれを墓前に置き、小さな白菊の花束も添えた。
「音羽、それを履いて」
「向こうで踊って」
12
三年後、黒瀬蓮は再び競技会場に戻った。
けれど彼はもう踊らない。
審査員席に座っていた。
胸には特別審査員の札がかかっている。
濃い色のスーツを着て、髪は短く切られていた。
三年前よりは少し落ち着いて見える。
けれど目は相変わらず空っぽだった。
ステージでは、若いペアがラテンを踊っていた。
女性は真紅のドレスを着ている。
回転するたび、スカートの裾がふわりと上がった。
炎のようだった。
黒瀬蓮の視線は彼女を通り過ぎ、遠い場所へ落ちていた。
隣の審査員が彼に触れた。
「黒瀬先生、採点を」
彼は我に返り、採点ボードの数字を押した。
競技が終わり、彼は体育館を出た。
外は小雨だった。
彼は傘を差さなかった。
入口まで歩いた時、透明な傘を持った女性が立っていた。
桜庭美緒だった。
三年が過ぎ、彼女は以前よりも大人びていた。
明るい白のダウンではなく、淡いグレーのコートを着ている。
彼女は黒瀬蓮を見て、静かに言った。
「蓮。偶然、通りかかったの」
「今日、あなたが審査員をしているなんて思わなかった」
その言い訳は下手だった。
黒瀬蓮はそれを指摘しなかった。
彼は小さくうなずき、そのまま歩き出した。
桜庭美緒は追いかけてきて、傘を彼の上に差し出した。
「そんなふうに濡れたら風邪をひくわ」
黒瀬蓮は足を止めた。
「美緒」
彼女の指が傘の柄を強く握った。
「言ったはずだ」
「俺を待つな」
桜庭美緒はうつむいた。
目の縁が赤くなった。
「待ってない」
「ただ……放っておけないだけ」
透明な傘に、雨が細かい音を立てて落ちていた。
彼女はしばらく沈黙し、それから尋ねた。
「まだ、踊る?」
黒瀬蓮は遠くを見た。
長い時間が経ってから、言った。
「踊らない」
「どうして?」
「ペアダンスだから」
「一人では踊れない」
桜庭美緒は雨の中に立ち、彼が一歩ずつ遠ざかるのを見ていた。
雨の幕が、その背中を長く引き伸ばした。
私は彼のそばに立っていた。
三年が経った。
私の魂は、まだ消えなかった。
なぜなのか、自分でも分からない。
たぶん、彼を置いていけなかったのだ。
私は彼が毎日仕事へ行き、帰ってくるのを見ていた。
毎週、墓地へ行くのを見ていた。
苺のケーキを買って、私の墓前に置くのを見ていた。
私の日記帳を、端が擦り切れるほど読み返すのを見ていた。
毎晩ソファに座り、鍵のかかった私の部屋のドアを見つめるのを見ていた。
三年の間、彼は引っ越さなかった。
あの古いアパートはまだある。
私の部屋も、まだある。
彼は一度も入らなかった。
まるで、そのドアを開けなければ、私はまだ中で眠っているのだと思えるみたいだった。
13
その夜、黒瀬蓮はアパートへ戻った。
雨はまだ降っていた。
彼はコートを脱ぎ、ソファに座った。
手にはあのピンク色の日記帳があった。
日記帳はもう古くなっていた。
彼は最後のページを開いた。
蓮、私は行きます。
私を探さないで。
痛くないから。
彼は長く見つめていた。
やがて日記帳を閉じ、立ち上がった。
そして私の部屋の前へ向かった。
そのドアは三年間、開かれていない。
彼はドアノブに手を置いた。
長く止まった。
そして、ようやくそっと開けた。
部屋の中は三年前のままだった。
ベッド。
机。
クローゼット。
壁に貼られたクッション材。
ベッドサイドの棚には、一枚の写真が置かれていた。
若い頃の私たちの写真だった。
写真の中の私は練習着を着て、彼の肩にもたれて笑っていた。
彼はその写真を手に取り、胸に押し当てた。
それから私のベッドに横になり、目を閉じた。
私はベッドのそばに立ち、彼を見ていた。
彼は少し老けた。
目尻には細いしわができていた。
髪の中には、白いものも何本か混じっていた。
それでも、彼はまだ綺麗だった。
私が初めて練習室で見た時と同じ、光の中に立っていた少年のようだった。
その時、ふいに何かが私を引いた。
とても軽い力だった。
けれど逆らえない。
私は分かった。
時間が来たのだ。
もう行かなければならない。
今度こそ、本当に離れなければならない。
私は彼の前へ漂い、最後に額へキスをしようとした。
唇が触れた瞬間、彼が目を開けた。
彼は私を見ていた。
私は固まった。
彼の声が震えた。
「音羽?」
信じられなかった。
「あなた……私が見えるの?」
黒瀬蓮は空中に手を伸ばした。
けれど何もつかめなかった。
それでも彼の目は、まっすぐ私を見ていた。
瞬きをしたら、私が消えてしまうとでも思っているようだった。
「音羽」
彼はもう一度、私の名前を呼んだ。
私の涙が一気に落ちた。
私は彼に飛びつき、形だけの腕で彼を抱きしめた。
「蓮」
「ちゃんと生きて」
「もう私を守らないで」
「いい人を見つけて、ちゃんと暮らして」
彼は首を振った。
涙が目尻からこめかみへ流れていく。
私を引く力はどんどん強くなった。
体が軽くなっていく。
指先が少しずつ細かな光へ変わっていく。
黒瀬蓮は私を見つめ、ようやく慌てた目をした。
「だめだ。音羽、行くな」
私は彼に笑いかけた。
「蓮」
「私はあなたを長く縛りすぎた」
「今度は、私の言うことを聞いて」
彼の唇が震えた。
たくさん言いたいことがあるようだった。
でも最後に、彼が言ったのは一言だけだった。
「音羽、踊って見せて」
私は一瞬、言葉を失った。
そして笑った。
「うん」
風が止んだ。
雨の音も遠ざかっていくようだった。
私の体は無数の光の粒になり、少しずつほどけていった。
最後の瞬間、黒瀬蓮が起き上がり、その光をつかもうと手を伸ばすのが見えた。
けれど彼は何もつかめなかった。
光がすべて消えた後、部屋に残ったのは彼一人だった。
彼はベッドの端に座り、長い間動かなかった。
窓の外で雨は止んでいた。
東京の夜は静かだった。
彼は立ち上がり、クローゼットの前へ行った。
いちばん下の引き出しには、赤いラテンシューズが入っていた。
後になって彼が買ったものだった。
私の墓前に置いたものと、まったく同じ靴だった。
彼はそれを取り出し、リビングの床に置いた。
それから上着を脱ぎ、リビングの中央に立った。
この古いアパートは、相変わらず狭かった。
壁紙は黄ばんでいる。
暖房は時々、古びた音を立てる。
窓の外を電車が通り過ぎた。
黒瀬蓮は腕を上げた。
パートナーを抱く形のまま。
彼は目を閉じた。
音楽はなかった。
それでも、彼は踊り始めた。
ターン。
ステップ。
停止。
顔を上げる。
一人で踊るペアダンス。
踊っているのは、男性のステップだった。
彼の視線は、誰もいない場所に落ちている。
でも私は知っている。
そこには一人の人間がいる。
ずっと、いる。
彼はとてもゆっくり踊った。
誰かを起こさないようにするみたいに。
そして、三年遅れのあのダンスを、ようやく私に見せてくれているみたいだった。
最後の動きで止まると、彼はかすかに腰を折った。
見えないパートナーへ礼をするように。
窓の外で、空の端が少しだけ白くなっていた。
新しい一日が来ようとしている。
黒瀬蓮はリビングの中央に立ち、静かに言った。
「音羽、踊り終えたよ」
誰も答えなかった。
けれど赤いラテンシューズのそばを、風がそっと通り抜けたように見えた。
まるで、ドレスの裾がひるがえった一瞬のように。




