白翅
雪が降っていた。
空が音を失ったあとに残した、最後の呼吸のように。
砲声はもう聞こえない。耳が壊れたのか、風が奪ったのか。
ひとひらごとに、世界の境界が削れていき、
わたしの輪郭もまた、薄紙のように剥がれていく。
背中から熱が抜けている。
それは血が冷えていく感覚ではなく、
おそらく「存在」というものが蒸発していく気配だった。
静かすぎて、耳の奥でかえって轟いた。
目の前を、蝶がひとつ、横切る。
見紛うことのない翅の運動。
しかしそれが蝶であるかどうか、
わたしにはもう確信が持てなかった。
雪と蝶のあいだにあるはずのちがいが、
いまや、わたしの理解の外にあった。
蝶は、舞っている。
わたしのまわりを、いや、わたしの内側を。
内臓と骨のあいだを抜けて、ひとつの夢のように漂っていた。
言葉にならないやさしさだった。
呼びかけるには遅すぎて、手を伸ばすには早すぎた。
ふと、頬に雪が触れる。
皮膚の上を滑ったのは、蝶の翅かもしれなかった。
その冷たさが、涙の記憶を呼び起こす。
ずっと泣いていた気がする。
誰かの名を呼んでいた気がする。
けれど、それがいつのことだったかはもう、
雪の下に埋もれていた。
ひとひら、またひとひら、白い言葉が地上へ落ちる。
声が、遠い。
他人の声ではない。
それはわたしの中の声で、
でも、その言葉をかたちにできるほど、
もう舌は温かくない。
喉は白く凍っている。
蝶が胸の上に止まった。
ひらひら、とも言えぬほど、微細な動きで。
雪がその翅の上に舞い降り、
ふたつの白が重なって、音もなく溶けていく。
そのとき、わたしの意識もまた、
ゆるやかに、融けはじめた。
何かを愛したこと。
何かを憎んだこと。
何かを捨てたこと。
それらが蝶の翅動に合わせて、
ゆっくりと消えていく。
雪が積もる。
蝶が眠る。
わたしは、ひらひらと、還っていく。




