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掌編小説集

白翅

掲載日:2026/02/02

 

 雪が降っていた。

 空が音を失ったあとに残した、最後の呼吸のように。

 砲声はもう聞こえない。耳が壊れたのか、風が奪ったのか。

 ひとひらごとに、世界の境界が削れていき、

 わたしの輪郭もまた、薄紙のように剥がれていく。


 背中から熱が抜けている。

 それは血が冷えていく感覚ではなく、

 おそらく「存在」というものが蒸発していく気配だった。

 静かすぎて、耳の奥でかえって轟いた。


 目の前を、蝶がひとつ、横切る。

 見紛うことのない翅の運動。

 しかしそれが蝶であるかどうか、

 わたしにはもう確信が持てなかった。

 雪と蝶のあいだにあるはずのちがいが、

 いまや、わたしの理解の外にあった。


 蝶は、舞っている。

 わたしのまわりを、いや、わたしの内側を。

 内臓と骨のあいだを抜けて、ひとつの夢のように漂っていた。

 言葉にならないやさしさだった。

 呼びかけるには遅すぎて、手を伸ばすには早すぎた。


 ふと、頬に雪が触れる。

 皮膚の上を滑ったのは、蝶の翅かもしれなかった。

 その冷たさが、涙の記憶を呼び起こす。

 ずっと泣いていた気がする。

 誰かの名を呼んでいた気がする。

 けれど、それがいつのことだったかはもう、

 雪の下に埋もれていた。


 ひとひら、またひとひら、白い言葉が地上へ落ちる。

 声が、遠い。

 他人の声ではない。

 それはわたしの中の声で、

 でも、その言葉をかたちにできるほど、

 もう舌は温かくない。

 喉は白く凍っている。


 蝶が胸の上に止まった。

 ひらひら、とも言えぬほど、微細な動きで。

 雪がその翅の上に舞い降り、

 ふたつの白が重なって、音もなく溶けていく。

 そのとき、わたしの意識もまた、

 ゆるやかに、融けはじめた。


 何かを愛したこと。

 何かを憎んだこと。

 何かを捨てたこと。


 それらが蝶の翅動に合わせて、

 ゆっくりと消えていく。


 雪が積もる。

 蝶が眠る。

 わたしは、ひらひらと、還っていく。



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