魔法使いの最後の日①
男が死んだらしい。
焚き火の前で、ルシアンが泣いていた。声を押し殺して、大きな肩を震わせている。セラが隣に座って、何も言わずに背中に手を当てていた。
焚き火の向こう側に、布で包まれた細長い影が横たわっている。人の形。その周りに、杖と、欠けた木の杯と、使い古した地図が置いてある。
ヴァロワ。
昨日まで、いなかった。いなかったのだから、死にようがない。だが今日この男はもう死んでいた。
俺が一日逆行したことで、ヴァロワの死んだ直後の世界に着いたのだ。
「なんで……なんであいつが……」
ルシアンの声が漏れた。嗚咽に混じって、かろうじて言葉の形をしている。
「俺が……俺があの時もっと上手くやってれば……」
セラが首を横に振った。
「ルシアン殿のせいではありません」
「でもよ……あの時、俺が……」
何があったのか。ルシアンが何を悔いているのか。聞きたかった。だが聞けなかった。
泣いている男の隣に座って、「何があったんだ」とは聞けない。俺にとっては石像と伝聞でしか知らない男の死だ。だがルシアンにとっては、三年間背中を預けた仲間の死だ。
同じ焚き火を囲んでいるのに、俺だけが別の場所にいる。
悲しくないわけじゃない。人が死んだ。仲間だった人が死んだ。だがルシアンが流しているような涙は、俺の中にない。この男の声を、俺はまだ一度も聞いていないのだから。
その事実が、もどかしくてたまらなかった。
布の下にある顔を見た。俺より10歳以上年上の男。眉間に深い皺が残っている。
こいつは、どんな声で喋ったのだろう。
どんな皮肉を言ったのだろう。
どんなふうに口喧嘩したのだろう。
全部、知らない。
ルシアンが場所を選んでヴァロワの遺体を埋めた。峠の南側、風の通る丘の上。見晴らしがいい場所だった。北の方角に、赤黒い空と魔王城のシルエットが見える。前より遠ざかっていた。
ルシアンと2人で穴を掘った。黙って掘り続けた。ルシアンは手のひらの皮が剥けて血が滲んでも、止めなかった。
ヴァロワの体を横たえた。杖を隣に置いた。欠けた杯も。地図は残した。まだ使うから。
セラが祈りを捧げた。光が土の上で淡く輝いて、消えた。
ルシアンが土をかけた。一掬いずつ、丁寧に。最後の一掬いをかけた時、ルシアンの手が止まった。
「……あいつの茶、もう飲めないんだな」
誰に言うでもなく、呟いた。
その茶の味を俺はまだ知らなかった。
しばらくして、ルシアンが目を拭いた。赤い目のまま、焚き火に薪をくべた。
「……悪い、カイシュー。お前が一番ショックだよな」
「いや……ルシアンはヴァロワの最期をどう思った?」
俺は必死の思いでヴァロワの死の原因を探ろうとルシアンに聞いた。俺がルシアンを救える未来があると信じて。
「あいつは……ヴァロワは、最後まで俺たちのために戦ったんだ。魔物の群れに囲まれて、俺たちを守ろうとして……魔物に殺されて、死んだ」
ヴァロワの死因を街の人に聞いたとき皆が口々に「魔物に殺された」と言っていた。
だが、ルシアンの言い方に微かな引っかかりがあった。「守ろうとして」と言った時、彼は目を伏せた。
セラも同じだった。祈りを捧げる手が、わずかに震えていた。悲しみだけじゃない。
「ヴァロワ様は……最後まで立派でした」
セラが静かに言った。涙の跡が焚き火に照らされている。
「あの方がいなければ、私たちはとうにこの旅を終えていたでしょう。地図も、薬も、結界も……全部、ヴァロワ様がいたから」
街の人から聞いた話では彼は有名な魔法使いだった。よく効く薬を調合し、危険があると強い結界を張った男。
だがそれは伝聞だ。「こういう男だった」という情報にすぎない。ルシアンとセラが今抱えている実体験としての喪失には、遠く及ばない。
「なんであんなことを……」
セラがほとんど息のような声で呟いた。
「あんなこと?」
問い返した瞬間、セラがはっとしたように口を閉ざした。
ルシアンも何も言わない。
沈黙が落ちる。
布に包まれた亡骸のそばに、欠けた杯が転がっている。この男のことを、知りたい。
でも、もう死んでいる。
ルシアンもセラも眠ったが、俺は眠れなかった。
零時一分を越えれば、さらに一日前に戻る。
ヴァロワが死んだ日、つまり、ヴァロワがまだ生きている日。
会えるのだ。生きているヴァロワに。
だが、どうすればいい。
今日聞けなかったこと。ルシアンの涙の理由。ヴァロワの本当の死因。
生きているヴァロワに会えば、何かがわかるかもしれない。だが生きているヴァロワにとって、俺は三年間の旅仲間だ。「お前のこと何も知らないんだ」とは言えない。
そして、もうひとつ。
ヴァロワは死ぬ。止められるのか。止める方法はあるのか。
ルシアンとセラの表情を思い出す。何かがあったのだ。普通の死ではない何かが。
もやもやする。目の前に答えがあるのに、手が届かない。
それでも、会いたい。
布の下にある穏やかな顔ではなく、生きた顔を見たい。
零時一分。
世界が軋んだ。
*
寝息が、三つになった。
森の中だ。遠くで梟が鳴いている。
三つ目の寝息は浅くて、不規則に途切れる。警戒しながら眠っている人間の息だ。
体を起こした。目が暗闇に慣れる。
ルシアンは大の字で口が開けたまま寝ていた。枕代わりの丸太から頭が落ちかけている。
セラは膝を抱えて丸まっている。手紙を胸に抱えたまま。
そして。
大きな樫の木の根元に、男が座っていた。
痩せている。頬がこけている。鎖骨の影が深い。杖を――節くれだった木の杖を胸に抱えて、背中を幹に預けている。眉間に深い皺。口元は薄く閉じられていて、寝ていても不機嫌に見える。
同じ顔だ、と思った。カイシューが前見たときも穏やかで、冷たかった。
しかし今は息をしている。胸が微かに上下している。生きている。
手が震えて、涙が出てきた。
今日、ヴァロワは死ぬ。
睡眠をとるために俺は再度寝直したが、どうしてもよく眠れずに目を開けたり閉じたりしていた。
ヴァロワが起きた音で俺は目覚めた。空がまだ藍色のうちに目を開け、一瞬で覚醒した。辺りを見回し、危険がないことを確認してから、杖を脇に置いて立ち上がった。
ヴァロワは焚き火の跡へ移動して、杖を一振りして手際よく火を起こした。
腰の水袋から小鍋に水を注ぎ、懐から乾燥した薬草の束を出す。指先で葉を千切って鍋に入れていく。
全部無言だった。誰に見せるでもなく、淡々と。
杯を四つ取り出した。一つだけ縁が欠けている。
あの杯だ。亡骸のそばに転がっていた、あの欠けた杯。
ヴァロワは欠けた杯を自分の手前に置いて、残りの三つを並べた。
この男は、欠けた杯を自分のものにしている。
「……今日は早いな、勇者殿」
火越しにこちらを見た。低い声。乾いた声。抑揚がないのに、不思議と耳に残る声だった。
初めて聞くヴァロワの声。
さっきまで、この声を聞きたくてたまらなかった。布の下の穏やかな死に顔を見ながら、この男がどんな声で喋るのか想像していた。
思っていたより、低かった。そして思っていたより、温度があった。
「……おはよう」
ヴァロワは俺をじっと見ていた。
「……目が赤いな。泣いたのか」
心臓が跳ねた。
「……寝不足だ」
「嘘が下手なのは相変わらずだな」
見透かされている。
この男は俺を三年間見てきた。嘘が下手なことも、目が赤い理由を誤魔化すことも、全部知っている。
俺はこの男を一秒も知らない。だが向こうは、俺の嘘の癖まで知っている。
その非対称に、ぞくりとした。
ルシアンが起きた。丸太から転がり落ちて、地面に顔をぶつけて、「いでっ」と叫んで飛び起きた。鼻に泥がついている。
焚き火の前で仲間の死を偲んで泣いていた男と同じ人間とは思えない。
「……ったく。誰だ俺の枕を動かしたやつは」
「お前が寝相で蹴り飛ばしたんだ。見ていた」
「見てたなら直せよ、ヴァロワ」
「なぜ俺がお前の寝相の世話をしなければならない」
ルシアンとヴァロワは流れるように言い合いを始めた。
言い合いの声でセラが起き上がった。ぴょこんととびはねるような寝癖があるのにカイシューはすぐに気づいた。それに気づいてか慌てて毛布の中で髪を直そうとしている。
「おはようございます……」
「セラ嬢、寝癖がなかなか壮大だな」
「ヴァロワ様! 言わないでください!」
セラが真っ赤になって毛布を被ってカイシューの方を見た。俺はその様子に思わず笑みがこぼれた。ルシアンが腹を抱えて笑う。ヴァロワは鼻を鳴らしたが、目元が緩んでいた。
この男の亡骸の前で座っていたのが嘘みたいだった。
ヴァロワの作った薬草茶が俺たち三人に配られた。
一口飲んだ。
苦い。舌の奥が痺れるような渋み。草の匂いが鼻を抜ける。ちゃんと飲み込むのに苦労した。
……セラが作ってくれたものとはだいぶ違うな。
欠けた杯から、同じ茶を飲んでいるヴァロワを見た。不味そうな顔はしていない。慣れているのだろう。
ルシアンは顔をしかめている。
「苦え……毎朝思うけど、もうちょっと何とかならねえのか」
「味を良くすると効能が落ちる。美味い薬はただの飲み物だ」
「それ前も聞いた」
「お前が毎朝同じ文句を言うからだ」
セラが両手で杯を包んで、ふうふう吹いている。猫舌だ。
「私は好きですよ、この味」
「……礼は言わん」
「はい。知ってます」
ヴァロワの耳が赤くなった。ルシアンが俺の方を見て、にやっと笑う。
「褒められるとすぐ赤くなる」
「聞こえているぞ」
「聞こえるように言ってんだ」
笑い声が響いた。朝の森に、四人の声が。
ヴァロワの茶の苦さはしばらく口に残った。
ヴァロワが先頭近くで杖を光らせ、周囲を探る。俺が隣を歩いて、魔物が近くにいると倒しに行く。
ヴァロワはちらりとこちらを見て、何も言わなかった。だが探るような視線を感じた。
しばらく無言で歩いていると、ヴァロワが口を開いた。
「……お前、弱くなったな」
唐突だった。
「何が」
「力だ。旅の序盤に比べて、明らかに落ちている。剣の重みが軽い。魔物を倒す速度が遅くなった。魔物も前ほどお前を遠ざけていない」
「……そうか?」
魔物に遠ざけられる……? 動物に避けられることならよくあるが。
ヴァロワの言っている意味が理解できず首を傾げる。
「俺が気づかないとでも思ったか。三年間お前の横で戦ってきたんだ」
弱くなった。
言われてみれば、ヴァロワから見たらそうなのかもしれない。逆行すればするほど俺の力が増すのなら、世界の時間を順方向に見ると、旅の序盤の俺が一番強くて、終盤に向かうほど弱くなる。
三年前に盗賊を一瞬で片付けた男が、今は弱い魔物退治でも少し時間がかかるようになっている。ヴァロワはそれを見逃さない。
「病気か。呪いか。それとも、何か理由があるのか」
「……理由は、わからない」
「嘘だろう」
「嘘じゃない。本当にわからないんだ」
ヴァロワが俺を凝視した。あの鋭い目。嘘か本当か、測っている目。
しばらくして、鼻を鳴らした。
「……まあいい。弱くなったところで、お前はまだパーティで一番強い。当面は問題ない」
「そりゃどうも」
「だが、このまま弱くなり続けるなら対策が必要だ。俺に隠すな。約束しろ」
約束。三年分の信頼が、その一言に乗っている。この男は俺の変化を見逃さず、それでも「対策しよう」と言ってくれている。見捨てるのではなく、支えようとしている。
「……ああ。約束する」
「よろしい」
ヴァロワが前を向き直した。背中が痩せている。だが真っ直ぐだった。
昼になり、水分補給のために川のそばで座った。
ルシアンとセラが上流へ水を汲みに行った。ルシアンのはしゃぐ声とセラの叱る声が聞こえてくる。水の掛け合いだ。
「……子供か、あいつらは」
ヴァロワが呆れた声で言った。杖を布で磨いている。節の部分を丁寧に。
二人きりになった。
聞きたいことがあった。ずっと。あの焚き火の向こうで、布の下にある顔を見ながら、聞きたくてたまらなかったこと。
「……ヴァロワ」
「何だ」
「その杯、なんで欠けてるのに使ってるんだ」
ヴァロワの手が止まった。杯のことを聞かれるとは思っていなかったのだろう。一瞬だけ、表情が揺れた。
「……妻がくれたものだ」
「妻?」
「リゼット。パン屋の娘で、宮廷魔術師の妻になるような器じゃなかった。本人もそう言っていた。だが俺には勿体ないくらいの女だった」
淡々としているのに、声の底に熱がある。
「よく『あなたは冷たい茶を飲みそうだから、温かいのを入れなさい』と言っていた。言われた通り、毎朝淹れている」
「……娘もいたのか」
「三つだった。俺に似ず、母親似の明るい子だ。俺の杖で遊ぶのが好きでな、振り回しては花瓶を割っていた」
ヴァロワが杖の節に触れた。古い傷がある。
「魔王軍の襲撃で、村ごと焼かれた。俺は宮廷にいた。帰った時には灰しか残っていなかった。家も、パン屋も、何もかも」
水の音が流れている。鳥が鳴いている。
「だから俺はここにいる。魔王を殺すために。それ以外の理由は一つもない」
声が硬い。だが硬さの奥に、折れそうなものがある。
胸が痛んだ。理由のわからない痛みだ。この男の話を聞くと、他人事なのに胸の奥が締めつけられる。
「……すまなかった」
「何を謝っている。お前が焼いたわけじゃないだろう」
ヴァロワが鼻を鳴らした。
「お前は変な男だな。この話は前にも一度したことがあるのに、まるで初めて聞くみたいだ」
「すまない」
「二回も他人の家族の話で泣きそうになる男は、お前くらいだ」
ヴァロワが杖を磨く手を止めた。川面を見ている。
「気味が悪いと言いたいところだが……嫌いじゃない」
小さな声だった。川の音に紛れそうな。
この男は、俺を嫌いじゃないと言ってくれた。
俺はまだこの男のことをほとんど知らない。声を聞いたのは今朝。欠けた杯の理由を聞いたのはたった今。
だが、ヴァロワは俺を三年間知っている。嘘が下手なことも、弱くなっていることも、他人の話で泣きそうになることも。
非対称だ。この非対称が、もどかしくてたまらない。
俺もこの男を知りたい。三年分は無理でも、一日分でも。
上流からルシアンの声が近づいてきた。
「おーい! 水汲んできたぞー! セラがめちゃくちゃ怒ってるけど!」
「ルシアン様が私に水をかけたからです!」
「あれは事故だって!」
ヴァロワが立ち上がった。杯を四つ取り出す。欠けたのを手前に。
「帰ってきたか。茶を淹れ直そう」
皮肉屋が仲間の茶を淹れる。妻のリゼットに言われた通り、温かい茶を。
峠の頂上に着いた。
風が強かった。北の空が赤黒い。
魔王の城がかすかに見えた。黒い棘のように地面から突き出た巨大な影。
ルシアンが拳を握った。セラが祈った。
魔王城だ。
ヴァロワは黙って城を見ていた。風に痩せた体が揺れている。杖を握る手が白かった。




