魔王討伐の前々日
目が覚めて、現実を確認したくなった。
寝息が聞こえる。二つ。ルシアンとセラ。
さっきまでと同じだ。ルシアンがいびきをかいて、セラが静かに眠っている。
だが、さっきまでのセラとは一日分違う。手紙を見せてくれたセラは明日のセラだ。今のセラはまだその話をしていない。いや、手紙を読んだかもしれない。でも俺に見せてはいない。
頭がこんがらがりそうだ。
一つだけ確かなことがある。
俺は今、魔王討伐の二日前にいる。明日の夜には前日に戻り、その翌夜にはさらに前日に戻る。
魔王城は一日ごとに遠ざかっていく。あの戦いは、もう来ない。ルシアンとセラの死は、もう起きない。
二人はこれから、俺が遡る日々の中でずっと生きている。
安堵した。
どうしようもなく、安堵した。
救えなかった未来は消えない。
だが少なくとも、俺の前からは少しずつ遠ざかっていく。
その事実だけが、初めてこの逆行を祝福してくれた。
*
二日前の朝。
「おう、カイシュー。今日はあと半日歩けば、魔王城の手前の村に着くな」
ルシアンが地図を広げている。昨日は魔王城の麓にいた。今日はもう少し南。旅が巻き戻っている。
「明後日には仕掛けられるか。いよいよだな」
明後日。ルシアンにとっての明後日。俺にとっては二日前の出来事だ。
「ルシアン」
「ん?」
「……いや、何でもない」
魔王城まで行くのを止めようとした。また言葉が喉まで出かけて、引っ込んだ。
昨日も止めた。止められなかった。理由を説明できないからだ。
そしてもう一つ理由がある。
昨日気づいた。俺が何を言おうが、世界は変わらないのだ。
俺が「行くな」と言った昨日――世界にとっての一日前の俺も「行くな」と言ったはずだ。だが二人は行った。そして死んだ。俺がそれを経験済みだということは、俺の言葉では歴史は変わらなかったという証拠だ。
止められない。止まらない。世界は前に進む。俺だけが後ろに歩いている。
この世界で、未来を知っていることは、何の力にもならないのかもしれなかった。
*
三日前。四日前。五日前。
魔王城が少しずつ遠ざかっていく。旅が巻き戻る。
毎日、ルシアンとセラと歩いた。野営をして、飯を食って、焚き火を囲んで話をした。
穏やかだった。
ルシアンは夜になると必ず昔話をした。旅の序盤の失敗談。ヴァロワと口喧嘩した話。ティエルが初めて泥沼にはまった話。
「あの時のティエルの顔! 泥だらけでよ、弓だけ死守してやがった!」
ルシアンが腹を抱えて笑う。セラも小さく笑う。
俺も笑った。作り笑いじゃなく、本当に笑えた。
会ったこともないティエルの泥だらけの顔を想像したら、おかしかったのだ。
同時に、こう思った。
――ティエルが泥だらけになった日に、いつか俺は辿り着く。
そしてその日を、俺はもう笑えないかもしれない。彼女がどう死ぬか、知った上で見ることになるから。
笑い声がふっと喉に詰まった。
「カイシュー?」
「いや、何でもない。続けてくれ」
「お前、最近そればっかだな。何でもない、何でもないって。何かあるなら言えよ」
「……本当に何でもない」
ルシアンが肩をすくめた。三年の付き合いなら、俺の嘘はたぶんバレている。だが追及しない。そういう男なのだろう。
追及されたら、むしろ楽だったかもしれない。
全部話してしまえたらどんなに楽かと思う。
でも話したところで、たぶんこの二人は困った顔をして、それでも俺のそばにいるだけだ。
そして結局、魔王城には行く。
だから俺は何も言えない。
*
魔王討伐の七日前。
小さな村を通りかかった。魔王領との境に近い村で、半分は焼かれていた。
村人たちが俺たちを見て、目を見開いた。
「勇者様だ! 勇者一行が通る!」
「魔王を倒してくれるんでしょうか!」
子供が駆け寄ってくる。ルシアンが膝を折って、子供の頭を撫でた。
「ああ、任せとけ。すぐに平和になるからな」
子供が輝く目で見上げる。ルシアンが笑う。
俺は知っている。この約束は果たされる。魔王は倒される。平和は来る。
ただし、ルシアンはその平和を見ることはない。
「カイシュー様」
セラが隣に立っていた。
「この村の人たちに、回復の祈りを施してもいいですか。負傷者がいるようです」
「ああ。もちろん」
セラの祈りの光が溢れ、傷が癒えていく。村人たちが涙を流して感謝した。
聖女の力。命を削る回復の秘術。
セラの祈る姿を見ていられなかった。
祈りは美しい。
美しいのに、俺にとっては死の予告に見える。
この光を見るたび、最後の静かな光を思い出す。
*
魔王討伐の十日前。
旅が日常になり始めていた。
朝起きて飯を食う。魔獣と戦い、途中の道で野営する。焚き火を囲み、夜になったら眠る。
前日に戻る。
また朝が来る。ルシアンが笑う。セラが祈る。
俺だけが、この日常の先を知っている。
だが、不思議なことに、慣れてきていた。
ルシアンの笑顔を見るたびに死に顔を思い出す。それは消えない。セラの祈りを聞くたびに、倒れた姿を思い出す。それも消えない。
でも、同時に、今ここにいる二人の温もりが上書きされていく。
死んだルシアンではなく、生きているルシアン。
倒れたセラではなく、祈っているセラ。
毎日一日分、二人との日々が積もっていく。俺の中にだけ。
二人にとっての俺は、日に日に「一日浅い」存在になっていく。だが俺にとっての二人は、日に日に深くなる。
その非対称さが、時々たまらなく苦しかった。
俺がどれだけ二人を知っても、二人にとっての俺は少しずつ“知らない男”に近づいていく。
俺だけが愛着を増して、二人は少しずつ思い出を失っていく。
まるで、手の中の水を抱え込もうとするみたいだった。
もうすぐ、勇者一行の四人目と五人目に会える。
ヴァロワが死んだ日を過ぎれば、ヴァロワは生きている。ティエルが死んだ日を過ぎれば、ティエルも生きている。
五人全員が揃う日が、近づいている。
楽しみだと思った。
同時に、怖いと思った。
彼らの死に方を知った上で、初めましてをするのだ。
笑えるだろうか。




