魔王討伐の前日
「魔王が倒された! 城が崩れたぞ!」
「勇者様だ! 勇者カイシュー様だ!」
兵士たちが俺を囲み、勝利を叫んでいた。
その声は遠かった。
水の底から聞いているみたいに、ぼやけていた。
俺は荒野の土の上に座り込んだまま、動けなかった。
隣には、二つの亡骸。
魔王は倒した。
だが、誰も残らなかった。
二人とも死んでしまった。
俺はもう明日を迎えるのが恐ろしくなっていた。
神様、どうかいつも通り昨日に行かせてください。
ルシアンとセラが生きている昨日に。
*
目を開けたら、焚き火の匂いがした。
野営だ。木々に囲まれた小さな空き地。灰になりかけた焚き火。毛布一枚の簡素な寝床。勇者邸の天蓋つきの寝台とは比べものにならない、硬くて薄い地面の感触が背中に残っている。
空には星が散っている。
体を起こすと、焚き火の向こう側に二つの寝息があった。
ルシアン。セラ。
魔王城で死んだ二人が――寝ている。
ルシアンは大の字で転がって、豪快にいびきをかいていた。口を半開きにして、呑気に眠っている。毛布は半分蹴飛ばしていた。いかにもルシアンらしいと、俺はまだ知らないくせに、そう思った。
セラは毛布を顎まで引き上げて、静かに眠っていた。穏やかな寝顔を見せている。焚き火の残り火が頬を薄く照らし、長い睫毛の影を落としていた。
生きている。
二人とも、生きている。
それを理解した瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。
涙が出そうになった。
いや、涙は実際に出た。暗闇の中で、一人で泣いた。声を殺して、歯を食いしばって、それでも止まらなかった。
焚き火の残り火がぱちりと爆ぜた。ルシアンが寝返りを打った。
泣くな。泣くな。
二人はまだ生きている。ここにいる。温かい。息をしている。
ただし。
明日――世界にとっての明日――この二人は、魔王の城に向かう。
そして、死ぬ。
それを知っているのは、今この世界でたぶん俺だけだった。
*
ルシアンが先に起きた。焚き火を起こし直し、干し肉を炙っている。火を熾す手つきが手慣れている。大剣を振るう男の指とは思えないほど器用に、小枝を組み、火種を育てていく。
「おう、カイシュー。起きたか」
にっと笑う。あの笑顔だ。石像と同じ、安置所の死に顔とは真逆の、太陽みたいな笑顔。
「……おはよう」
「どうした、しけた顔して。今日は大事な日だぞ」
「大事な日?」
「明日、魔王城に乗り込む。今日はその最後の準備だ。だろ?」
心臓が跳ねた。
明日。世界にとっての明日。
俺が昨日体験した、あの日だ。
セラも起き上がった。長い髪を手早く結いながら、静かに言った。
「今日中に魔王城の麓まで移動します。明朝、突入です」
決意に満ちた目だった。恐怖がないわけじゃない。だが、それを上回る覚悟がある。三年間の旅の末に辿り着いた、最後の決断。
俺だけが知っている。この決断の先に、何が待っているか。
「……なあ」
声が出ていた。自分でも驚いた。
「明日の作戦、やめないか」
焚き火の音が響く。ルシアンとセラが、同時にこちらを見た。
「……何だと?」
ルシアンの声から笑みが消えていた。
「やめよう。魔王城には行かない方がいい」
「カイシュー、何を言ってる。三年間、このためにやってきたんだろうが」
「わかってる。わかってるけど――」
言えない。明日お前たちは死ぬ、とは言えない。俺がそれを知っている理由を説明できない。時間を逆に生きているなんて、誰が信じる。
「――嫌な予感がする」
ルシアンがじっと俺の顔を見た。
「嫌な予感」
「ああ。今回は、駄目な気がする」
嘘じゃない。嫌な予感じゃなく、確定した未来だ。だがそうは言えない。
ルシアンは長い間黙っていた。それから、ふっと息を吐いて笑った。
「お前の勘はよく当たるからな」
「……だったら」
「だったら何だ。逃げるのか?」
覚悟を決めた男の顔だった。
「怖いさ。俺だって怖い。ヴァロワとティエルを失って、三人だけで魔王に挑むんだからな」
ヴァロワとティエルの名前が出て、胸が痛んだ。まだ会ったことのない二人。これからおそらく出会う二人。
「でもな、ここで引いたら、あいつらが死んだ意味がなくなる」
「……」
「ヴァロワもティエルも、魔王を倒すために命を懸けた。俺たちが逃げたら、あいつらは犬死にだ。それだけは許せねえ」
ルシアンの目は真っ直ぐだった。この男は本当に真っ直ぐだ。街の人々が語った通りだ。
セラが口を開いた。
「カイシュー様」
やわらかな声なのに、逃げ場がない。
「怖いのは当然です。でも、私たちはここまで来ました。三年かけて」
三年。俺にとってはまだ出会って一日目だ。だが二人にとっては、喧嘩も、別れも、後悔も、誓いも積み重ねた三年分の覚悟がある。
「引き返すことはできません。私は――聖女として、行かねばなりません」
セラの声には、柔らかさの奥に強さがある。この人は折れない。折れないまま、明日、俺のために命を差し出す。
止められない。
二人を止める言葉を、俺は持っていない。「明日死ぬからやめろ」と言ったところで、理由を説明できない。そして仮に説明できたとしても、この二人は行くだろう。
そういう人間だ。
「……わかった」
「よし! なら準備だ。カイシュー、剣の手入れはしたか?」
「……やっとく」
ルシアンが背中を叩いた。あの力強い手。昨日、力が抜けていったあの手。
今は温かい。
その温かさに、また喉の奥がつまった。
*
魔王城の麓まで歩いた。
道中、ルシアンはよく喋った。
たぶん緊張している時ほど喋るタイプなのだろう。黙ると怖さがこみ上げてくるから、笑い話で押し流そうとする。そういう性格が、何となくわかった。
「三年前にこのパーティが組まれた時はよ、俺は嬉しかったぜ。誇らしかった」
「……へえ」
「お前のこと、その前に一度だけ見たことがあったんだ。街道で盗賊の群れを片付けてるところ。十人以上いたのに、お前一人で一瞬だった。剣を一振りしたら、もう終わってた」
ルシアンが遠い目をした。
「あんな強えやつがいるのかって、震えたよ。あいつとなら、本当に魔王を倒せるかもしれないって、初めて希望が湧いた」
セラが小さく笑った。
「ルシアン、パーティが決まった日に興奮して眠れなかったんですよね」
「うるせえ、それは言うなって」
三年前の俺。盗賊を一瞬で倒した俺。今の俺よりずっと逆行が進んでいる俺だ。力は今より強いのか。
「まあ、実際話してみると、あの時ほど超人じみてなかったけどな。意外と普通の兄ちゃんだった」
ルシアンが笑う。
「それがかえって良かったんだけどよ。化け物みたいに強いのに、素振りの教え方は下手くそだし、魚の焼き方は知らねえし」
俺は少しだけ目を見開いた。
子どもたちに素振りを教えたこと。
街で魚の干物をもらったこと。
百日目からの俺がやっていたことと、三年間の旅の記憶が、不意に繋がった気がした。
「ヴァロワなんかお前のこと最初から認めてたぞ。あいつは素直に言わねえから、皮肉で誤魔化してたけどな」
ヴァロワ。石像でしか知らない男。
「ティエルは最初、ずっと俺の背中に隠れてたよな。人見知りだから。その割にカイシューにはすぐ懐いて……不思議だったな」
ティエル。小柄な弓使い。まだ見ぬ仲間。
二人の話を聞くのは、甘くて苦い。知らなかった断片が埋まっていく。石像と伝聞でしか知らなかった四人が、ルシアンの口を通して、色を持ち始める。
だが同時に、こう思ってしまう。
この思い出の中の俺は、俺じゃない。
三年間旅をした俺は、今ここにいる俺とは別の存在だ。あるいは、未来の――いや、過去の? もうどっちかわからない。
「カイシュー?」
「ん?」
「聞いてたか? ティエルが初めて魔物を仕留めた話」
「ああ、聞いてた」
聞いていなかった。思考が別のところにいっていた。
「まったく、今日のお前は特にぼんやりしてるな。緊張してんのか」
「……かもな」
緊張じゃない。
お前が明日死ぬと知っているのに、こうして笑い合っていることが、胸を潰しそうなだけだ。
夕方。魔王城が見える丘に陣を張った。
赤黒い空の下、城が聳えている。
焚き火を囲んで座る。ルシアンが干し肉を齧り、セラが水筒の水を飲む。
穏やかだ。
明日死ぬ二人が、こんなにも穏やかだ。
「なあ、カイシュー」
「ん?」
「魔王を倒したらどうしようか」
ルシアンの言葉に俺は動揺した。
「……気が早いな」
「お前もよく聞いてただろ」
「ルシアンは?」
ルシアンは干し肉を噛みながら考えた。
「俺は剣術道場を開く。田舎に帰ってよ。子供に剣を教える。言っただろ」
剣術道場。子供に剣を教える。
街で子供たちに素振りを教えていたのは、ルシアンの夢の延長だったのか。
いや。それは俺がやったことだ。
ルシアンが死んだ後、残された俺が、知らないうちにあいつの夢のかけらを拾っていたのかもしれない。
「セラは?」
「私は……」
セラは焚き火の光に照らされた顔で、少し考えた。
「王宮に戻って、聖女の務めを続けます。でも、たまには旅に出たいですね。今度は魔物と戦わない旅を」
「いいじゃねえか」
ルシアンが笑う。
「うまい飯食って、綺麗な景色見て、変な宿に泊まってよ」
「変な宿は嫌です」
「えー、面白いのに」
「あなたが面白がる宿は大体ろくでもありません」
二人が笑い合う。
「カイシューはどうするんだ?」
俺。
俺はどうする。魔王を倒した後の俺は、百日間一人で暮らしていた。広すぎる部屋で、石を拾い集めて、本を読んで、街の人と果物をやりとりして。
「……平和な世界で過ごしたい」
「お前らしいな」
ルシアンが笑う。何がお前らしいのかはわからないが、三年分の付き合いがそう言わせるのだろう。
星が出ていた。空は綺麗だった。
明日、この二人は死ぬ。
俺はそれを知っていて、今この焚き火を囲んでいる。
二人の未来が叶わないことを知っている。
ルシアンは先に寝た。いびきが始まっている。
セラだけが起きていた。焚き火の番をしながら、静かに何かを手の中で見ている。
「何を見てるんだ?」
セラは少しだけ驚いた顔をして、それから手元を隠すように指を閉じた。
「……母からもらった手紙です」
手紙。旅に出る前に渡されたものだろうか。
セラは少し迷ってから、紙をほんの少しだけ広げて見せた。火に透けるほど薄い上等な紙だった。けれど、中身はほとんど見えない。端の方に、細く整った字が数行読めるだけだ。
「全部は、ちょっと恥ずかしいので」
そう言って、セラは小さく笑った。
「旅の前に母がくれたんです。困った時に読みなさい、と」
「……優しい人なんだな」
「ええ」
セラは頷いた。
「厳しい人でもありますけど」
そう言って、焚き火に目を落とす。
火の揺れが、伏せた睫毛の影を頬に落としていた。
「疲れた時とか、迷った時に読むと、不思議と落ち着くんです。大したことは書いていないんですけど」
「たとえば?」
「そうですね……」
セラは少し考えてから、手紙に目を落とした。
「優しい人は、大抵不器用です。だから、その不器用さをすぐ嫌いになってはいけません――とか」
「……変わった手紙だな」
「そうですね」
セラは微笑んだ。
「昔はなぜこんなことを書くのか分かりませんでした」
「今は分かるのか」
「ええ」
セラは俺の目を見る。
「不器用な人ほど、大事なことをうまく言えないのだと思います」
セラはそう言って、今度は丁寧に手紙を畳んだ。
仕草が妙に慎重で、大切にされているものなのだとわかる。
「明日のことを考えると、少しだけ怖くなります。でも、後悔はしません」
セラは手紙を膝の上で握りしめるように持ったまま、まっすぐ俺を見ていた。
「あなたに会えたから」
返す言葉が見つからなかった。
胸の奥に何かが引っかかったまま、ようやく俺は口を開いた。
「……勝てるさ」
俺は言った。
励ますつもりで。
あるいは、自分に言い聞かせるために。
セラは少しだけ驚いたように目を瞬いて、それから柔らかく笑った。
「ありがとうございます、カイシュー様」
その笑顔は、焚き火の向こうで揺れていた。
穏やかで、静かで、どこか諦めに似た優しさがあった。
ただ、今はまだ生きている。
明日には失われる温度なのだと思うと、胸が詰まった。




