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明日の勇者は昨日へ向かう  作者: 浮夜海月
魔王討伐前

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6/8

魔王討伐の前日


「魔王が倒された! 城が崩れたぞ!」

「勇者様だ! 勇者カイシュー様だ!」


 兵士たちが俺を囲み、勝利を叫んでいた。


 その声は遠かった。


 水の底から聞いているみたいに、ぼやけていた。


 俺は荒野の土の上に座り込んだまま、動けなかった。


 隣には、二つの亡骸。


 魔王は倒した。


 だが、誰も残らなかった。


 二人とも死んでしまった。

 俺はもう明日を迎えるのが恐ろしくなっていた。

 

 神様、どうかいつも通り昨日に行かせてください。 

 ルシアンとセラが生きている昨日に。 




 目を開けたら、焚き火の匂いがした。

 野営だ。木々に囲まれた小さな空き地。灰になりかけた焚き火。毛布一枚の簡素な寝床。勇者邸の天蓋つきの寝台とは比べものにならない、硬くて薄い地面の感触が背中に残っている。

 空には星が散っている。

 体を起こすと、焚き火の向こう側に二つの寝息があった。

 ルシアン。セラ。

 魔王城で死んだ二人が――寝ている。

 ルシアンは大の字で転がって、豪快にいびきをかいていた。口を半開きにして、呑気に眠っている。毛布は半分蹴飛ばしていた。いかにもルシアンらしいと、俺はまだ知らないくせに、そう思った。

 セラは毛布を顎まで引き上げて、静かに眠っていた。穏やかな寝顔を見せている。焚き火の残り火が頬を薄く照らし、長い睫毛の影を落としていた。

 生きている。

 二人とも、生きている。

 それを理解した瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。

 涙が出そうになった。

 いや、涙は実際に出た。暗闇の中で、一人で泣いた。声を殺して、歯を食いしばって、それでも止まらなかった。

 焚き火の残り火がぱちりと爆ぜた。ルシアンが寝返りを打った。


 泣くな。泣くな。

 二人はまだ生きている。ここにいる。温かい。息をしている。

 ただし。

 明日――世界にとっての明日――この二人は、魔王の城に向かう。

 そして、死ぬ。

 それを知っているのは、今この世界でたぶん俺だけだった。


 


 

 ルシアンが先に起きた。焚き火を起こし直し、干し肉を炙っている。火を熾す手つきが手慣れている。大剣を振るう男の指とは思えないほど器用に、小枝を組み、火種を育てていく。


「おう、カイシュー。起きたか」


 にっと笑う。あの笑顔だ。石像と同じ、安置所の死に顔とは真逆の、太陽みたいな笑顔。


「……おはよう」

「どうした、しけた顔して。今日は大事な日だぞ」

「大事な日?」

「明日、魔王城に乗り込む。今日はその最後の準備だ。だろ?」


 心臓が跳ねた。

 明日。世界にとっての明日。

 俺が昨日体験した、あの日だ。

 セラも起き上がった。長い髪を手早く結いながら、静かに言った。


「今日中に魔王城の麓まで移動します。明朝、突入です」


 決意に満ちた目だった。恐怖がないわけじゃない。だが、それを上回る覚悟がある。三年間の旅の末に辿り着いた、最後の決断。

 俺だけが知っている。この決断の先に、何が待っているか。


「……なあ」


 声が出ていた。自分でも驚いた。


「明日の作戦、やめないか」


 焚き火の音が響く。ルシアンとセラが、同時にこちらを見た。


「……何だと?」


 ルシアンの声から笑みが消えていた。


「やめよう。魔王城には行かない方がいい」

「カイシュー、何を言ってる。三年間、このためにやってきたんだろうが」

「わかってる。わかってるけど――」


 言えない。明日お前たちは死ぬ、とは言えない。俺がそれを知っている理由を説明できない。時間を逆に生きているなんて、誰が信じる。


「――嫌な予感がする」


 ルシアンがじっと俺の顔を見た。


「嫌な予感」

「ああ。今回は、駄目な気がする」


 嘘じゃない。嫌な予感じゃなく、確定した未来だ。だがそうは言えない。

 ルシアンは長い間黙っていた。それから、ふっと息を吐いて笑った。


「お前の勘はよく当たるからな」

「……だったら」

「だったら何だ。逃げるのか?」


覚悟を決めた男の顔だった。


「怖いさ。俺だって怖い。ヴァロワとティエルを失って、三人だけで魔王に挑むんだからな」


 ヴァロワとティエルの名前が出て、胸が痛んだ。まだ会ったことのない二人。これからおそらく出会う二人。


「でもな、ここで引いたら、あいつらが死んだ意味がなくなる」

「……」

「ヴァロワもティエルも、魔王を倒すために命を懸けた。俺たちが逃げたら、あいつらは犬死にだ。それだけは許せねえ」


 ルシアンの目は真っ直ぐだった。この男は本当に真っ直ぐだ。街の人々が語った通りだ。

 セラが口を開いた。


「カイシュー様」


 やわらかな声なのに、逃げ場がない。


「怖いのは当然です。でも、私たちはここまで来ました。三年かけて」


 三年。俺にとってはまだ出会って一日目だ。だが二人にとっては、喧嘩も、別れも、後悔も、誓いも積み重ねた三年分の覚悟がある。


「引き返すことはできません。私は――聖女として、行かねばなりません」


 セラの声には、柔らかさの奥に強さがある。この人は折れない。折れないまま、明日、俺のために命を差し出す。

 止められない。

 二人を止める言葉を、俺は持っていない。「明日死ぬからやめろ」と言ったところで、理由を説明できない。そして仮に説明できたとしても、この二人は行くだろう。

 そういう人間だ。


「……わかった」

「よし! なら準備だ。カイシュー、剣の手入れはしたか?」

「……やっとく」


 ルシアンが背中を叩いた。あの力強い手。昨日、力が抜けていったあの手。

 今は温かい。

 その温かさに、また喉の奥がつまった。


 



 魔王城の麓まで歩いた。

 道中、ルシアンはよく喋った。

 たぶん緊張している時ほど喋るタイプなのだろう。黙ると怖さがこみ上げてくるから、笑い話で押し流そうとする。そういう性格が、何となくわかった。


「三年前にこのパーティが組まれた時はよ、俺は嬉しかったぜ。誇らしかった」

「……へえ」

「お前のこと、その前に一度だけ見たことがあったんだ。街道で盗賊の群れを片付けてるところ。十人以上いたのに、お前一人で一瞬だった。剣を一振りしたら、もう終わってた」


 ルシアンが遠い目をした。


「あんな強えやつがいるのかって、震えたよ。あいつとなら、本当に魔王を倒せるかもしれないって、初めて希望が湧いた」


 セラが小さく笑った。


「ルシアン、パーティが決まった日に興奮して眠れなかったんですよね」

「うるせえ、それは言うなって」


 三年前の俺。盗賊を一瞬で倒した俺。今の俺よりずっと逆行が進んでいる俺だ。力は今より強いのか。


「まあ、実際話してみると、あの時ほど超人じみてなかったけどな。意外と普通の兄ちゃんだった」


 ルシアンが笑う。


「それがかえって良かったんだけどよ。化け物みたいに強いのに、素振りの教え方は下手くそだし、魚の焼き方は知らねえし」


 俺は少しだけ目を見開いた。

 子どもたちに素振りを教えたこと。

 街で魚の干物をもらったこと。

 百日目からの俺がやっていたことと、三年間の旅の記憶が、不意に繋がった気がした。


「ヴァロワなんかお前のこと最初から認めてたぞ。あいつは素直に言わねえから、皮肉で誤魔化してたけどな」


 ヴァロワ。石像でしか知らない男。


「ティエルは最初、ずっと俺の背中に隠れてたよな。人見知りだから。その割にカイシューにはすぐ懐いて……不思議だったな」


 ティエル。小柄な弓使い。まだ見ぬ仲間。


 二人の話を聞くのは、甘くて苦い。知らなかった断片が埋まっていく。石像と伝聞でしか知らなかった四人が、ルシアンの口を通して、色を持ち始める。

 だが同時に、こう思ってしまう。

 この思い出の中の俺は、俺じゃない。

 三年間旅をした俺は、今ここにいる俺とは別の存在だ。あるいは、未来の――いや、過去の? もうどっちかわからない。


「カイシュー?」

「ん?」

「聞いてたか? ティエルが初めて魔物を仕留めた話」

「ああ、聞いてた」


 聞いていなかった。思考が別のところにいっていた。


「まったく、今日のお前は特にぼんやりしてるな。緊張してんのか」

「……かもな」


 緊張じゃない。

 お前が明日死ぬと知っているのに、こうして笑い合っていることが、胸を潰しそうなだけだ。 


 夕方。魔王城が見える丘に陣を張った。

 赤黒い空の下、城が聳えている。

 焚き火を囲んで座る。ルシアンが干し肉を齧り、セラが水筒の水を飲む。

 穏やかだ。

 明日死ぬ二人が、こんなにも穏やかだ。


「なあ、カイシュー」

「ん?」

「魔王を倒したらどうしようか」


 ルシアンの言葉に俺は動揺した。


「……気が早いな」

「お前もよく聞いてただろ」

「ルシアンは?」


 ルシアンは干し肉を噛みながら考えた。


「俺は剣術道場を開く。田舎に帰ってよ。子供に剣を教える。言っただろ」


 剣術道場。子供に剣を教える。

 街で子供たちに素振りを教えていたのは、ルシアンの夢の延長だったのか。

 いや。それは俺がやったことだ。

 ルシアンが死んだ後、残された俺が、知らないうちにあいつの夢のかけらを拾っていたのかもしれない。 


「セラは?」

「私は……」


 セラは焚き火の光に照らされた顔で、少し考えた。


「王宮に戻って、聖女の務めを続けます。でも、たまには旅に出たいですね。今度は魔物と戦わない旅を」

「いいじゃねえか」  


 ルシアンが笑う。


「うまい飯食って、綺麗な景色見て、変な宿に泊まってよ」

「変な宿は嫌です」

「えー、面白いのに」

「あなたが面白がる宿は大体ろくでもありません」


 二人が笑い合う。


「カイシューはどうするんだ?」


 俺。

 俺はどうする。魔王を倒した後の俺は、百日間一人で暮らしていた。広すぎる部屋で、石を拾い集めて、本を読んで、街の人と果物をやりとりして。


「……平和な世界で過ごしたい」

「お前らしいな」


 ルシアンが笑う。何がお前らしいのかはわからないが、三年分の付き合いがそう言わせるのだろう。

 星が出ていた。空は綺麗だった。

 明日、この二人は死ぬ。

 俺はそれを知っていて、今この焚き火を囲んでいる。

 二人の未来が叶わないことを知っている。


 ルシアンは先に寝た。いびきが始まっている。

 セラだけが起きていた。焚き火の番をしながら、静かに何かを手の中で見ている。


「何を見てるんだ?」


 セラは少しだけ驚いた顔をして、それから手元を隠すように指を閉じた。


「……母からもらった手紙です」


 手紙。旅に出る前に渡されたものだろうか。

 セラは少し迷ってから、紙をほんの少しだけ広げて見せた。火に透けるほど薄い上等な紙だった。けれど、中身はほとんど見えない。端の方に、細く整った字が数行読めるだけだ。


「全部は、ちょっと恥ずかしいので」


 そう言って、セラは小さく笑った。


「旅の前に母がくれたんです。困った時に読みなさい、と」

「……優しい人なんだな」

「ええ」


 セラは頷いた。


「厳しい人でもありますけど」


 そう言って、焚き火に目を落とす。

 火の揺れが、伏せた睫毛の影を頬に落としていた。


「疲れた時とか、迷った時に読むと、不思議と落ち着くんです。大したことは書いていないんですけど」

「たとえば?」

「そうですね……」


 セラは少し考えてから、手紙に目を落とした。


「優しい人は、大抵不器用です。だから、その不器用さをすぐ嫌いになってはいけません――とか」

「……変わった手紙だな」

「そうですね」


 セラは微笑んだ。


「昔はなぜこんなことを書くのか分かりませんでした」

「今は分かるのか」

「ええ」


 セラは俺の目を見る。


「不器用な人ほど、大事なことをうまく言えないのだと思います」


 セラはそう言って、今度は丁寧に手紙を畳んだ。

 仕草が妙に慎重で、大切にされているものなのだとわかる。


「明日のことを考えると、少しだけ怖くなります。でも、後悔はしません」


 セラは手紙を膝の上で握りしめるように持ったまま、まっすぐ俺を見ていた。


「あなたに会えたから」


 返す言葉が見つからなかった。

 胸の奥に何かが引っかかったまま、ようやく俺は口を開いた。


「……勝てるさ」


 俺は言った。

 励ますつもりで。

 あるいは、自分に言い聞かせるために。

 セラは少しだけ驚いたように目を瞬いて、それから柔らかく笑った。


「ありがとうございます、カイシュー様」


 その笑顔は、焚き火の向こうで揺れていた。

 穏やかで、静かで、どこか諦めに似た優しさがあった。

 ただ、今はまだ生きている。

 明日には失われる温度なのだと思うと、胸が詰まった。


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