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明日の勇者は昨日へ向かう  作者: 浮夜海月
魔王討伐後

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魔王討伐から14日目

 魔王討伐から十四日目。

 以前から気になっていた本があった。机の上にずっと置いてある革張りの分厚い本だ。端の方は指で何度もめくられたように柔らかくなっている。栞は毎晩ずっと同じ位置に挟まったままだった。

 その本の栞の位置が今朝は移動していた。

 何かに促されるように、俺は本を最初から読み始めた。

 題名は、

 『魔王記――災厄の系譜』。

 この世界に現れた歴代の魔王を記録した書物だった。

 最初は単なる年代記だと思った。

 何年に魔王が現れ、どの国が滅び、何人の勇者が死んだか。そういう乾いた記録の羅列だと。

 だが読み進めるうちに、奇妙なことに気づいた。

 魔王は、どの時代にも「突然」現れるのだという。

 ある日、何もなかった場所に魔王の城が現れる。

 その周囲に黒い霧が立ちこめ、魔物が溢れ出す。

 国境も歴史も地理も無視するように、まるで大地に突然生まれた悪夢のように。

 魔王の出自は不明。

 どこから来たのか、何者なのか、誰にもわからない。

 王族だったという説もあれば、異界の魔人だという説もある。神罰だと書く神官もいた。だがどの説も断片的で、決定打がない。

 ただ、ひとつだけ共通点があった。

 どの時代の記録にも、ほとんど同じ一文が残されていた。


 『魔王は、かつて人であった』


 人。


 魔王は、人間だった。

 それ以上の説明はない。

 誰がその人間だったのか。

 なぜ魔王になったのか。

 何を失って災厄になったのか。

 何も書かれていない。

 ただ、「かつて人であった」という伝承だけが、どの時代にも、傷のように繰り返し刻まれている。

 俺はしばらくその一文を見つめていた。

 人だった。

 だった、ということは、魔王になった後は人ではないということだ。

 では、どこから人でなくなる?

 何を越えたら、人は魔王になる?

 考えてみたが、答えは出ない。

 読み終えて本を閉じたあともしばらく、表紙の冷たい革を撫でていた。

 まるで本の中の誰かが、そこからこっちを見返しているみたいだった。


 



 十二日目。

 魔王討伐から十二日。

 街は静まり返っていた。

 祭りなんてどこにもない。

 人々は家の中に閉じこもり、通りには兵士が巡回している。

 百日目には花で飾られていた広場も、今は荷車と資材と傷病兵で埋まっていた。


「勇者様。お疲れのところ申し訳ありません」


 兵士が敬礼した。若い兵だった。声にまだ震えが残っている。


「城から伝令です。戦後処理の会議に出席をお願いしたいと」


 戦後処理。

 十二日前に魔王を倒したばかりの世界では、まだそんな段階だ。


 平和は“始まった”のではなく、ようやく戦争が“止まっただけ”なのだと、その言葉でわかった。

 城に向かった。

 石の回廊には血と薬品の匂いが残っていた。

 磨かれた床の上を、担架が何台も行き交う。

 百日目にはもう見えなかった光景だ。

 重い扉を開けると、広間に将軍や貴族が並んでいた。

 全員が俺を見て、立ち上がった。


「勇者カイシュー殿。魔王を討たれた武勲、改めて感謝いたします」


 白髪の将軍が頭を下げる。

 その動きは丁寧だったが、目の下には深い隈があった。十二日間ろくに寝ていないのだろう。


「……して、ご同行の二名の亡骸の件ですが」


 心臓が跳ねた。

 亡骸。

 その一言だけで、部屋の空気が急に重くなる。


「戦場より収容し、現在城の安置所にございます。葬儀の日取りについて、勇者殿のご意向を伺いたく」


 ルシアン。

 セラ。

 ヴァロワ。

 ティエル。

 百日かけて、街の人々の断片から少しずつ知った四人の名前。


 豪快で人懐っこかった剣士。

 王女でありながら旅に出た聖女。

 皮肉屋の天才魔法使い。

 誰よりも先に危険を察知した弓使い。

 そのうち二人の亡骸が、今この城にある。


「……見せてくれ」


 将軍は一瞬だけ俺の顔を見て、それから静かに頷いた。


 安置所は城の地下だった。

 冷たい石の部屋。

 窓もなく、空気は乾いている。

 二つの台に白布が掛けられていた。

 将軍が一枚目をめくった。

 大柄な男だった。

 日に焼けた肌。頬にうっすらと無精髭。剣ダコだらけの手。

 眠っているような、穏やかな死に顔だった。


「剣士ルシアン殿です。魔王軍の攻撃から勇者殿を庇い、戦死されました」


 俺を庇って。

 将軍の言葉が、やけに遠く聞こえた。

 この男は、俺を知っていた。

 俺のために、咄嗟に体を張った。

 俺はまだ、この男と一言も話していないのに。


 二枚目。

 若い女だった。

 長い黒髪。整った顔立ち。閉じられた瞼の睫毛が長い。

 俺と同い年くらいの少女だ。


「セラフィーヌ殿下です。勇者殿が瀕死の重傷を負われた際、必死の覚悟で回復の秘術を行使し……その代償として」


 俺の回復の代償に。

 この人は自分の命を削って俺を生かした。

 俺の知らないところで。

 

「他の二人は?」

「旅の途中で埋めたとルシアン様から手紙を」

「途中で?」

「……そう聞いておりますが、ご存知ではありませんでしたか」

「いや、そうだった」


 俺は覚えているふりをした。

 全員、俺のために戦って死んだ。

 俺は――まだ、彼らと一言も話していない。

 知っているのは名前だけ。

 顔だって、今初めてちゃんと見た。

 好きな食べ物も、癖も、笑い方も知らない。

 それなのに、彼らの死だけが俺にとって先にある。


「勇者殿。葬儀は――」

「……一番いい場所に埋めてくれ」


 将軍の顔を見ずに言った。

 もっと何か言うべきだったのかもしれない。

 英雄らしい言葉を。仲間を悼む立派な言葉を。

 でも、出てこなかった。

 悼むには近すぎて、悲しむには遠すぎた。

 俺は彼らを知らない。

 なのに彼らは、俺のために死んでいる。

 その歪さだけが、胸の真ん中に鉛みたいに沈んだ。


 


 十一日目。

 目を覚ますと、俺は馬車の中にいた。

 硬い揺れが背中に伝わる。薄い毛布をかけられて、長椅子の上に寝かされていたらしい。窓の外はまだ暗く、夜明け前なのか、それとももう日が落ちた後なのか、一瞬ではわからなかった。少なくとも、百日祭の浮かれた空気も、街の喧騒も、ここにはなかった。

 体を起こすと、向かいの席に置かれていた水差しが揺れた。


「起きられましたか、勇者様」


 御者の声が前方から飛んできた。馬の蹄の音に混じって、車輪が道を噛む低い音が続いている。


「……どこに向かってる?」

「都です。国王陛下より、夜も昼も問わず、勇者様を一刻も早く都へお連れするようにと命を受けております」


 思わず窓の外を見た。黒い森が後ろへ流れていく。道は整っていて、街道を外れてはいないらしい。俺はいつの間にこんなところまで運ばれたのだろう。眠っている間か、それとも気を失っていたのか。逆向きに生きていると、時々こうして自分の身がどこへ運ばれているのかさえ曖昧になる。


「もうすぐ都に着く頃です」  


 御者が続けた。


「勇者様のために屋敷が用意してあるとか。お疲れでしょうし、しばらくはそちらでお休みいただけると」

「屋敷……」

 

 胸の奥が嫌なふうにざわついた。

 屋敷。

 百日目に目を覚ました、あの広すぎる勇者邸。石像のある都。人々が俺に頭を下げ、祝祭の飾りが風に揺れていた街。

 だが十一日目の都は、百日目の都とは違うはずだ。

 平和に慣れた街ではなく、魔王討伐からまだたった十一日しか経っていない街。歓喜よりも、喪失と混乱の方が色濃く残っているはずの街だ。

 馬車はさらに進んだ。やがて空が白み始め、遠くに石造りの城壁が見えてきた。門の上には王家の旗が掲げられている。兵士たちが道を開け、馬車を見て敬礼した。


 都だ。

 見慣れているはずなのに、まだどこか張りつめている。通りには人がいるが、百日祭の頃のような賑わいはない。店の軒先は開いていても、皆どこか声を潜めていた。勝ったはずなのに、街全体が大声を出すことを忘れてしまったみたいだった。

 馬車は石畳を進み、やがて大きな屋敷の前で止まった。

 見覚えのある門。高い柵。正面の白い階段。

 百日目には静まり返っていたその屋敷の前に、今日はすでに人影があった。

 豪奢な衣をまとった男女が、ほとんど駆けるように馬車へ近づいてくる。男は金糸の刺繍の入った外套を羽織り、女は宝石のついた冠を載せていた。どちらも顔色は悪く、目の下には深い影が落ちている。

 国王と王妃だ、と気づいたのは、その二人がもう目の前まで来てからだった。


 御者が慌てて馬車を降り、膝をつく。俺も遅れて立ち上がろうとしたが、その前に扉が乱暴に開けられた。


「なぜだ……」


 男――国王の顔は、怒りと悲しみで歪んでいた。

 威厳のある王の顔ではない。娘を奪われた父親の顔だった。


「なぜ、娘を助けてくれなかった!」


 その怒声が、朝の冷えた空気を裂いた。

 胸が強く打たれた。


 助けてくれなかった。


 その言葉だけで、誰のことを言っているのか、考えるより先にわかってしまった。


 セラ。

 王女であり、聖女であり、最後には俺を生かすために命を差し出した人。

 俺はとっさに何も言えなかった。


「陛下」


 王妃が震える声で国王を制した。だがその人の目にも涙が溜まっていた。制しているのではなく、崩れそうな何かを必死に押し留めているだけだった。


「今は……今はそのような」

「ではいつ問えばよい!」


 国王は叫んだ。


「セラフィーヌは死んだのだぞ! あの子は王家の娘である前に、私たちの娘だ! お前と共に旅に出て、魔王を討ち、そして帰ってきたのはお前一人だ……!」


 お前一人。

 その言葉が、妙に重く響いた。

 俺だけが生き残った。

 それは百日目の街でも、安置所でも、何度も突きつけられてきた事実だ。だがこうして父親の口から言われると、まるで刃物みたいに鋭かった。

 セラは石像の英雄じゃなかった。

 聖女でも、王女でもなかった。

 この人たちにとっては、ただの娘だった。


 ルシアンにも、ヴァロワにも、ティエルにも、同じように帰りを待つ誰かがいたのかもしれない。だが俺は、まだそこまで知らない。知っているのはセラの死に顔と、穏やかな祈りの姿だけだ。


「……助けたかった」


 ようやく出た声は、自分でも驚くほど掠れていた。

 国王が睨みつける。


「助けたかった、だと」

「俺だって、助けたかった」


 言葉を継ぐたび、喉が痛んだ。


「でも……できなかった」


 それしか言えない自分が情けなかった。

 本当のことを言えばいいのか。セラは俺を生かすために命を使ったのだと。俺が死んで、あの人が蘇らせたのだと。だが、そんなことを語れるほど、俺はあの人のことを何も知らない。

 でもそれを言ったところで、何が変わる。


 娘を失った父親に、「あの人は立派に役目を果たしました」とでも言うのか。そんな言葉は残酷なだけだ。

 王妃が一歩前に出た。涙に濡れた目で、俺を見上げる。


「セラは……苦しみましたか」


 国王の怒声より、その問いの方がきつかった。

 苦しみましたか。

 それは王妃としての問いではなかった。

 母親の問いだった。

 俺の脳裏に、祈りの姿勢のまま倒れていたセラの姿が浮かぶ。穏やかな顔。静かな最期。自分の命が尽きる瞬間まで、俺のために祈ってくれたのだと思った。


「……いいえ」


 俺は答えた。


「最後まで、綺麗でした」


 王妃の目から、静かに涙が落ちた。

 国王は長い沈黙のあと、ようやく低い声で言った。


「……入れ」  


怒りを飲み込んだのではない。ただ、それ以上ここで叫ぶことに意味がないと悟っただけの声だった。


「勇者としての待遇は約束しよう。だが、お前が何を失わせたのかは忘れるな」


 何を失わせたのか。

 俺は頷くこともできず、その言葉を受け止めるしかなかった。

 


 十日目。

 逆行が進む。

 馬車は昼も夜も問わずひたすら走り続けた。

 九日目、八日日目、七日目と逆行するたび、戦場に近づいていった。魔王領は思っていたよりずっと遠かった。

 瓦礫の山。焦げた大地の臭い。

 百日目にはすべてが終わった後だった。

 それはまだ現実だった。

 人々はまだ勝利を実感していない。

 ただ、倒れる暇もないまま後始末に追われている。馬車は御者と馬を入れ替えひたすら走り続けた。

 


 一日目。

 魔王討伐から一日後の世界。

 目が覚めると、馬車の上ではなかった。長い間馬車の上にいたせいか、ベッドが柔らかすぎるように感じた。

 魔王領近くの民家に好意で泊めさせてもらっていたようだった。

 魔王城が墜ちたという噂を人々が口にする。

 勝利の興奮と、喪失の悲しみが入り混じっている。

 兵士たちが俺を見て敬礼する。

 泣いている者もいた。


「勇者様……本当に魔王を倒されたんですね」

「ああ」

「お仲間の方々は……」


 一瞬、言葉に詰まった。


「全員、死んだ」


 兵士が息を呑んだ。

 俺は背を向けた。

 その言葉だけは、妙に現実感があった。

 明日。

 いや、今夜零時に世界が巻き戻れば――。

 俺は魔王討伐の当日に立つ。





 零時。

 いつもの感覚。

 歯車が逆に回る。

 世界が軋む。

 

 目を開けると、勇者邸でも、馬車でもなかった。

 荒野だった。

 焦げた大地。砕けた岩。空は赤黒く染まり、風には灰が混じる。

 遠くに巨大な城が見える。空を喰うように、夜そのものを固めたような黒い城。

 魔王城。

 傍らには剣があった。

 見覚えのない剣だ。

 だが握りは馴染む。重さも、重心も、指に吸いつくようにわかる。

 まるで最初からそこにあったように。

 背後に気配があった。振り返る。

 二人が立っていた。

 大剣を構えた大柄な男がにっと笑う。


「カイシュー。行くぞ」


 祈りを捧げていた少女が静かに頷いている。

 安置所で見た、二つの死に顔。

 それが今、生きて、俺の隣に立っている。

 ルシアンと、セラ。

 死体だった顔が笑っている。

 冷たかった手が、今は血の通った人間のものとして剣と杖を握っている。

 息が詰まった。

 二人だけだった。

 ヴァロワとティエルの姿はない。

 旅の途中で死んだと聞いた。

 五人で始まった旅は、最後の戦いでは三人になっていた。


 名前を知っている。

 顔を知っている。

 死に方を知っている。

 でも、声を聞くのは初めてだった。


「おい、どうした。固まってんなよ」


 ルシアンが背中を叩いた。

 安置所の穏やかな死に顔からは想像もつかない、力強い手だった。

 痛い。

 生きている人間の手だ。

 その痛みだけで、泣きそうになる。


「……ああ。行こう」


 喉の奥が少し震えた。

 ばれなかったかどうか、自分でもわからない。

 目の前の魔王城を向いた。

 あの中に、俺が倒すべき魔王がいる。

 覚えのない英雄譚の始まりの日に、俺はようやくたどり着いた。

 百日かけて。


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