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明日の勇者は昨日へ向かう  作者: 浮夜海月
魔王討伐後

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3/8

魔王討伐から60日目

 魔王討伐から六十日目。

 体の変化が、少しずつ無視できなくなってきた。

 俺は強い。

 日本にいた頃は、マラソン大会で後ろから三番目だった。体育の授業で長距離走がある日は、朝から腹が痛くなった。剣道も柔道もやったことがないし、腕立て伏せだって十回続けば上出来だった。

 なのに、この世界では違う。


 崩れた塀の瓦礫を片手で持ち上げられる。城壁脇の長い石段を全力で駆け上がっても、息が切れない。勇者邸の中庭に立てかけてあった大剣を、最初は両手でやっと持ち上げたのに、今では振り回すことさえできる。

 しかも、日に日に力が増している気がする。


 昨日持てなかった瓦礫が、今日は持てる。

 昨日は手首がぶれた剣が、今日は軽い。

 昨日より高く飛べる。

 昨日より遠くまで走れる。

 鍛えた覚えなんてない。筋肉痛になるほど体を動かしたことも、日本にいた頃はほとんどなかった。

 それなのに、体の奥底から、どこか別の生き物のような力が湧いてくる。


 もうひとつ気になることがある。街の野良犬が、俺を避ける。

 最初は気のせいだと思った。だが復興作業をしている時、近くにいた犬が尻尾を巻いて逃げた。猫も寄ってこない。馬だけは平気だが、馬番に聞くと「勇者様が来ると少し落ち着かなくなる」と言われた。

 動物に嫌われる体質ではなかったはずだが。


 その日の午後、勇者邸の外で素振りをしていたら、近所の子どもたちが集まってきた。


「勇者様、剣教えて!」

「僕も!」

「おれ、将来はルシアン様みたいな剣士になるんだ!」


 まだ十歳にもならないような男の子たちだった。木の枝を剣代わりにして、俺の周りでぴょんぴょん跳ねている。

 ルシアンの名を聞いて、胸の奥が少しざらついた。

 その名前は、今の街ではもう半分、伝説になり始めている。


「……教えるって言っても、俺もそんなにうまくないぞ」

「そんなことないよ! 勇者様だもん!」

「魔王を倒したんでしょ?」


 無邪気に言われて、曖昧に笑うしかなかった。

 魔王を倒した勇者。

 そういうことになっている。

 俺自身は、まだその瞬間を知らないのに。

 とりあえず、足の開き方と、木の枝の握り方だけ教えた。

 何人かは逆の手で持っていて、何人かは枝を振るたびによろけた。


「ちがうちがう、腰を入れて」

「こう?」

「そう。それで、振ったあとに足が流れないように……」


 教えながら、妙な気分になった。

 一通り教え終えると、子どもたちは目を輝かせた。


「すげえ! 本物の勇者様みたいだ!」

「本物だよ」

「そうだけどさ!」


 笑い声が中庭に響く。

 その明るさに救われる一方で、背筋には別の冷たさが這った。


 俺は昨日より強くなっている。

 それはつまり、明日――いや、俺にとっての昨日には、もっと強いということだ。

 どこまで強くなるんだろう。

 魔王を倒せるくらいに?

 そこまで考えて、やめた。

 子どもたちの木剣が、かつん、と石畳を叩く。

 その音だけを聞いていた。



 五十日目。

 困ったことが起きた。


「勇者様、先月のお約束の件なんですが」


 自治会長が書類を抱えてやってきた。

 丸眼鏡の奥の目は、俺をまっすぐ信じている。

 先月の約束。

 もちろん俺には覚えがない。

 これまでは何とかなっていた。

 復興作業を手伝い、言われたことに頷き、曖昧に笑っていれば済んだ。

 だが五十日目ともなると、「過去の俺」の行動が複雑になってくる。

 街の人々は、五十日分の俺を知っている。

 俺は、百日目から五十日目までの彼らしか知らない。

 彼らが知っているのは「一日目から五十日目まで」の勇者カイシュー。

 俺が知っているのは「百日目から五十日目まで」の街と人々。

 重なっているのは、今日だけだ。


「あー……すまない、ちょっと記憶が曖昧で」


 もう何度目かわからない言い訳だった。

 自治会長は困ったように笑った。


「また記憶喪失ですか。勇者様はお忙しいですからなあ」

「……また?」

「ええ。よくそうおっしゃる」


 笑えない冗談だった。

 どうやらこの五十日間、俺は――いや、俺たちは、毎日のように同じ言い訳をしてきたらしい。

 記憶がない。

 覚えていない。

 忙しくて曖昧だ。

 そのたびに人々は納得し、許し、助けてくれたのだろう。


「それで、約束というのは」

「東門の修繕費について、商人組合と折半にすると」

「ああ……」


 知らない。

 でも、今さら知らないとは言えない。

 書類を受け取る。

 細かい数字の並んだ紙を眺めるふりをしながら、心臓だけがうるさく鳴っていた。

 勇者であることよりも難しいのは、勇者のふりを続けることなのかもしれなかった。

 自治会長が去ったあと、机に突っ伏した。

 頭が痛い。

 戦う方がまだ楽だ。

 魔王を倒した勇者は、どうしてこんなに帳簿に追われているんだ。

 そんなくだらないことを思って、少しだけ笑った。

 笑わないとやっていられなかった。



 四十日目。

 ある朝、鏡を見て気づいた。

 顎の産毛が、少し濃くなっている。

 あれから六十日。

 見た目はほとんど変わらない。誰に指摘されるほどじゃない。

 でも自分の体だ。微かな違いはわかる。

 頬の骨格が少しだけ締まった気がする。

 肩も、前より厚い。

 手の甲には、小さな傷跡が増えている。

 世界の人々にとって、勇者カイシューは四十日間、少しずつ若返っているはずだ。

 だが俺の感覚では違う。俺の体だけは、確実に時間を重ねている。

 世界は後ろへ。

 俺だけが前へ。

 そのズレが、ようやく肉体に現れ始めた。

 今はまだ誤差の範囲だ。

 十五歳と六十日と、十五歳と四十日を見分けられる人間なんてそういない。

 だが、このまま年単位で逆行したらどうなる。

 鏡の中の顔が、ひどく他人に見えた。

 考えないことにした。

 今はまだ、目の前の一日を生きるだけで精一杯だ。

 遠い未来――いや、遠い過去のことまで考えたら、たぶん正気を保てない。



 三十日目。

 街の空気が、また変わった。

 笑顔が減った。

 魔王討伐から三十日。

 まだ一ヶ月しか経っていない。

 百日目の世界では、祭りがあり、花があり、酒場には笑い声があった。

 三十日目の世界では、確かに安堵はある。だがその下に、消えきらない恐怖があった。

 夜になると城壁の上に見張りが立つ。

 武器屋は日暮れ前に店を閉める。

 子どもたちは暗くなる前に家へ帰される。

 百日目にはもうなかった習慣だ。

 この世界では、まだ誰も確信できていない。

 本当に終わったのか。

 本当に魔王は死んだのか。

 それを俺に聞く人もいた。


「勇者様、魔王は……本当に倒されたんですよね?」


 声をかけてきたのは、パン屋の女だった。

 まだ若いのに、腕には赤黒い火傷の痕があった。

 小麦粉をこねるたびに痛むのか、時折ひきつるように眉を寄せる。


「ああ。倒した」


 口からは即座に言葉が出た。

 嘘じゃない。

 この世界では、俺が魔王を倒したことになっている。

 俺自身はまだその瞬間を知らないが、それでも三十日前の事実として世界に刻まれている。


「そうですか……そうですよね。すみません、わかっているんです。ただ、怖くて」


 女は目を伏せた。


「夜になると、火の匂いを思い出すんです。もう燃えてないのに」


 その言葉に、何も返せなかった。

 俺が過去へ進むほど、花は減り、焼け跡は増え、人々の目から光が消えていく。

 逆再生だ。

 平和が巻き戻って、戦争に戻っていく。

 もし百日目の世界を知らなかったら、この三十日目の街を「平和」と呼んだかもしれない。

 でも俺は知っている。

 この先――彼らにとっての未来には、もっと明るい日々がある。

 それなのに俺は、それを伝えられない。

 「大丈夫だ」と言うことはできる。

 だが「百日後には祭りが開ける」とは言えない。

 俺が見た未来は、俺にしか意味を持たないからだ。



 十五日目。

 街の外に出た。

 それまでは街の中だけで過ごしていた。

 だがもう限界だった。街の人々の「過去の俺」の記憶が複雑になりすぎて、ぼろが出始めていた。


 街の外は荒れていた。

 踏み荒らされた畑。

 焼け落ちた納屋。

 途中で放棄された荷車。

 草むらの中に、折れた槍が一本だけ刺さっている。

 百日目の世界では、ここにも人が戻り始めていた。畑は耕され、柵が立て直され、家畜の鳴き声がしていた。


 十五日目では、まだ何も戻っていない。

 俺は黒く焦げた井戸端にしゃがみこんだ。

 石に触れると、まだざらついた炭が指についた。

 ここで誰かが暮らしていた。

 朝、水を汲んで、昼に畑へ出て、夜になれば家へ帰ったはずだ。

 その普通の暮らしを、魔王軍が奪った。


 ようやく実感した。

 魔王は本当にいたのだ。

 これは物語でもゲームでもない。

 実際に人が死に、家が焼かれ、世界が壊された。

 そして、それを止めたのが俺ということになっている。

 石像の四人と一緒に。


 不意に、足元で何かが光った。

 拾い上げると、焼け残った子ども用の木笛だった。

 煤けて、半分焦げている。

 息を吹き込んでみたが、音は鳴らなかった。

 その鳴らない笛を見つめながら、俺は初めてはっきりと思った。

 俺は、本当に魔王を倒したのか。

 街の人々は信じている。

 石像も立っている。

 祭りだってあった。

 でも俺自身は、その瞬間を知らない。

 もし倒していないとしたら。

 もし俺が見ている百日目の平和が、誰かの作った嘘だとしたら。


 木笛を握る手に、少しずつ力が入った。

 その時、遠くで狼のような鳴き声がした。

 反射的に振り返る。

 体が勝手に動いた。

 腰に差していた剣に手が伸びる。

 呼吸が整う。視界が澄む。

 強い。

 その自覚だけが、妙に生々しかった。

 俺は焦げた村の真ん中に立ち尽くしたまま、鳴らない笛を懐にしまった。

 それは誰のものだったのか、もうわからない。

 でも、俺がこれから過去へ遡るたびに、こういう「手遅れなもの」が増えていくのだと思うと、胸の奥が冷えた。

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