魔王討伐から60日目
魔王討伐から六十日目。
体の変化が、少しずつ無視できなくなってきた。
俺は強い。
日本にいた頃は、マラソン大会で後ろから三番目だった。体育の授業で長距離走がある日は、朝から腹が痛くなった。剣道も柔道もやったことがないし、腕立て伏せだって十回続けば上出来だった。
なのに、この世界では違う。
崩れた塀の瓦礫を片手で持ち上げられる。城壁脇の長い石段を全力で駆け上がっても、息が切れない。勇者邸の中庭に立てかけてあった大剣を、最初は両手でやっと持ち上げたのに、今では振り回すことさえできる。
しかも、日に日に力が増している気がする。
昨日持てなかった瓦礫が、今日は持てる。
昨日は手首がぶれた剣が、今日は軽い。
昨日より高く飛べる。
昨日より遠くまで走れる。
鍛えた覚えなんてない。筋肉痛になるほど体を動かしたことも、日本にいた頃はほとんどなかった。
それなのに、体の奥底から、どこか別の生き物のような力が湧いてくる。
もうひとつ気になることがある。街の野良犬が、俺を避ける。
最初は気のせいだと思った。だが復興作業をしている時、近くにいた犬が尻尾を巻いて逃げた。猫も寄ってこない。馬だけは平気だが、馬番に聞くと「勇者様が来ると少し落ち着かなくなる」と言われた。
動物に嫌われる体質ではなかったはずだが。
その日の午後、勇者邸の外で素振りをしていたら、近所の子どもたちが集まってきた。
「勇者様、剣教えて!」
「僕も!」
「おれ、将来はルシアン様みたいな剣士になるんだ!」
まだ十歳にもならないような男の子たちだった。木の枝を剣代わりにして、俺の周りでぴょんぴょん跳ねている。
ルシアンの名を聞いて、胸の奥が少しざらついた。
その名前は、今の街ではもう半分、伝説になり始めている。
「……教えるって言っても、俺もそんなにうまくないぞ」
「そんなことないよ! 勇者様だもん!」
「魔王を倒したんでしょ?」
無邪気に言われて、曖昧に笑うしかなかった。
魔王を倒した勇者。
そういうことになっている。
俺自身は、まだその瞬間を知らないのに。
とりあえず、足の開き方と、木の枝の握り方だけ教えた。
何人かは逆の手で持っていて、何人かは枝を振るたびによろけた。
「ちがうちがう、腰を入れて」
「こう?」
「そう。それで、振ったあとに足が流れないように……」
教えながら、妙な気分になった。
一通り教え終えると、子どもたちは目を輝かせた。
「すげえ! 本物の勇者様みたいだ!」
「本物だよ」
「そうだけどさ!」
笑い声が中庭に響く。
その明るさに救われる一方で、背筋には別の冷たさが這った。
俺は昨日より強くなっている。
それはつまり、明日――いや、俺にとっての昨日には、もっと強いということだ。
どこまで強くなるんだろう。
魔王を倒せるくらいに?
そこまで考えて、やめた。
子どもたちの木剣が、かつん、と石畳を叩く。
その音だけを聞いていた。
*
五十日目。
困ったことが起きた。
「勇者様、先月のお約束の件なんですが」
自治会長が書類を抱えてやってきた。
丸眼鏡の奥の目は、俺をまっすぐ信じている。
先月の約束。
もちろん俺には覚えがない。
これまでは何とかなっていた。
復興作業を手伝い、言われたことに頷き、曖昧に笑っていれば済んだ。
だが五十日目ともなると、「過去の俺」の行動が複雑になってくる。
街の人々は、五十日分の俺を知っている。
俺は、百日目から五十日目までの彼らしか知らない。
彼らが知っているのは「一日目から五十日目まで」の勇者カイシュー。
俺が知っているのは「百日目から五十日目まで」の街と人々。
重なっているのは、今日だけだ。
「あー……すまない、ちょっと記憶が曖昧で」
もう何度目かわからない言い訳だった。
自治会長は困ったように笑った。
「また記憶喪失ですか。勇者様はお忙しいですからなあ」
「……また?」
「ええ。よくそうおっしゃる」
笑えない冗談だった。
どうやらこの五十日間、俺は――いや、俺たちは、毎日のように同じ言い訳をしてきたらしい。
記憶がない。
覚えていない。
忙しくて曖昧だ。
そのたびに人々は納得し、許し、助けてくれたのだろう。
「それで、約束というのは」
「東門の修繕費について、商人組合と折半にすると」
「ああ……」
知らない。
でも、今さら知らないとは言えない。
書類を受け取る。
細かい数字の並んだ紙を眺めるふりをしながら、心臓だけがうるさく鳴っていた。
勇者であることよりも難しいのは、勇者のふりを続けることなのかもしれなかった。
自治会長が去ったあと、机に突っ伏した。
頭が痛い。
戦う方がまだ楽だ。
魔王を倒した勇者は、どうしてこんなに帳簿に追われているんだ。
そんなくだらないことを思って、少しだけ笑った。
笑わないとやっていられなかった。
*
四十日目。
ある朝、鏡を見て気づいた。
顎の産毛が、少し濃くなっている。
あれから六十日。
見た目はほとんど変わらない。誰に指摘されるほどじゃない。
でも自分の体だ。微かな違いはわかる。
頬の骨格が少しだけ締まった気がする。
肩も、前より厚い。
手の甲には、小さな傷跡が増えている。
世界の人々にとって、勇者カイシューは四十日間、少しずつ若返っているはずだ。
だが俺の感覚では違う。俺の体だけは、確実に時間を重ねている。
世界は後ろへ。
俺だけが前へ。
そのズレが、ようやく肉体に現れ始めた。
今はまだ誤差の範囲だ。
十五歳と六十日と、十五歳と四十日を見分けられる人間なんてそういない。
だが、このまま年単位で逆行したらどうなる。
鏡の中の顔が、ひどく他人に見えた。
考えないことにした。
今はまだ、目の前の一日を生きるだけで精一杯だ。
遠い未来――いや、遠い過去のことまで考えたら、たぶん正気を保てない。
*
三十日目。
街の空気が、また変わった。
笑顔が減った。
魔王討伐から三十日。
まだ一ヶ月しか経っていない。
百日目の世界では、祭りがあり、花があり、酒場には笑い声があった。
三十日目の世界では、確かに安堵はある。だがその下に、消えきらない恐怖があった。
夜になると城壁の上に見張りが立つ。
武器屋は日暮れ前に店を閉める。
子どもたちは暗くなる前に家へ帰される。
百日目にはもうなかった習慣だ。
この世界では、まだ誰も確信できていない。
本当に終わったのか。
本当に魔王は死んだのか。
それを俺に聞く人もいた。
「勇者様、魔王は……本当に倒されたんですよね?」
声をかけてきたのは、パン屋の女だった。
まだ若いのに、腕には赤黒い火傷の痕があった。
小麦粉をこねるたびに痛むのか、時折ひきつるように眉を寄せる。
「ああ。倒した」
口からは即座に言葉が出た。
嘘じゃない。
この世界では、俺が魔王を倒したことになっている。
俺自身はまだその瞬間を知らないが、それでも三十日前の事実として世界に刻まれている。
「そうですか……そうですよね。すみません、わかっているんです。ただ、怖くて」
女は目を伏せた。
「夜になると、火の匂いを思い出すんです。もう燃えてないのに」
その言葉に、何も返せなかった。
俺が過去へ進むほど、花は減り、焼け跡は増え、人々の目から光が消えていく。
逆再生だ。
平和が巻き戻って、戦争に戻っていく。
もし百日目の世界を知らなかったら、この三十日目の街を「平和」と呼んだかもしれない。
でも俺は知っている。
この先――彼らにとっての未来には、もっと明るい日々がある。
それなのに俺は、それを伝えられない。
「大丈夫だ」と言うことはできる。
だが「百日後には祭りが開ける」とは言えない。
俺が見た未来は、俺にしか意味を持たないからだ。
*
十五日目。
街の外に出た。
それまでは街の中だけで過ごしていた。
だがもう限界だった。街の人々の「過去の俺」の記憶が複雑になりすぎて、ぼろが出始めていた。
街の外は荒れていた。
踏み荒らされた畑。
焼け落ちた納屋。
途中で放棄された荷車。
草むらの中に、折れた槍が一本だけ刺さっている。
百日目の世界では、ここにも人が戻り始めていた。畑は耕され、柵が立て直され、家畜の鳴き声がしていた。
十五日目では、まだ何も戻っていない。
俺は黒く焦げた井戸端にしゃがみこんだ。
石に触れると、まだざらついた炭が指についた。
ここで誰かが暮らしていた。
朝、水を汲んで、昼に畑へ出て、夜になれば家へ帰ったはずだ。
その普通の暮らしを、魔王軍が奪った。
ようやく実感した。
魔王は本当にいたのだ。
これは物語でもゲームでもない。
実際に人が死に、家が焼かれ、世界が壊された。
そして、それを止めたのが俺ということになっている。
石像の四人と一緒に。
不意に、足元で何かが光った。
拾い上げると、焼け残った子ども用の木笛だった。
煤けて、半分焦げている。
息を吹き込んでみたが、音は鳴らなかった。
その鳴らない笛を見つめながら、俺は初めてはっきりと思った。
俺は、本当に魔王を倒したのか。
街の人々は信じている。
石像も立っている。
祭りだってあった。
でも俺自身は、その瞬間を知らない。
もし倒していないとしたら。
もし俺が見ている百日目の平和が、誰かの作った嘘だとしたら。
木笛を握る手に、少しずつ力が入った。
その時、遠くで狼のような鳴き声がした。
反射的に振り返る。
体が勝手に動いた。
腰に差していた剣に手が伸びる。
呼吸が整う。視界が澄む。
強い。
その自覚だけが、妙に生々しかった。
俺は焦げた村の真ん中に立ち尽くしたまま、鳴らない笛を懐にしまった。
それは誰のものだったのか、もうわからない。
でも、俺がこれから過去へ遡るたびに、こういう「手遅れなもの」が増えていくのだと思うと、胸の奥が冷えた。




