魔王討伐から90日目
魔王討伐から九十日目。
昨日、石段で転んで左手の甲を擦りむいた。
大した傷じゃない。血は止まったし、痛みもほとんどない。
だが、朝起きて手を見た時、背筋が冷えた。
傷が、残っている。
世界は一日巻き戻ったはずだ。街の飾り付けも、果物屋のおっさんとの会話も、全部昨日の前の状態に戻っている。なのに俺の手の傷だけが、昨日のまま残っている。
試しに、今日は自分の腕に小さくナイフで切り傷をつけてみた。
翌朝。世界は巻き戻った。だが腕の傷は消えていない。その上に、昨日の擦り傷もそのまま残っている。
つまり、こういうことだ。
世界は巻き戻る。俺の体は巻き戻らない。
世界が百回巻き戻っても、俺の体は百日分前に進む。昨日つけた傷は今日も残り、今日つけた傷は明日も残る。
俺の体だけが、一方通行だ。
*
八十五日目。
この頃になると、街の空気が少し変わってきた。
百日祭の熱狂はとっくに過ぎている――いや、正確に言えば、まだ来ていない。俺が今いるのは魔王討伐から八十五日目の世界だ。祭りの準備はまだ影も形もない。
だが人々は穏やかだった。平和を噛みしめるように、静かに暮らしている。
「勇者様、今日も散歩ですかい」
おっさんが梨を差し出した。この時期、林檎はまだ入荷していないらしい。
「おう。ありがとう」
「しかしあんた、毎朝ここを通るねえ。律儀なもんだ」
おっさんはこれから先の俺を知っている。俺はおっさんを十五日分しか知らない。
だが不思議なことに、会話に不自由はなかった。おっさんが語る「昨日の俺」は、だいたい今日の俺と同じことをしているからだ。散歩して、石像の前で立ち止まって、果物をもらって、礼を言う。
俺の行動パターンは、前の俺――いや、未来の俺と大して変わらないらしい。
「そういえば、聞いたかい。魔王が倒されてから百日目になったら祭を開くらしいよ」
「楽しみだな」
いつものように果物屋のおっさんと立ち話していると、知らない男に声をかけられた。
「おお、勇者の兄ちゃん。この前はすまなかったねえ」
「……はあ」
覚えのない自分の行動で感謝されるのは変な気分だった。
*
八十日目。
どうしても確かめたいことがあった。
俺はいつ戻っているのか。
いつもは毎晩眠りに落ちて、目が覚めたら前日だった。だが、眠った瞬間に戻るのか? それとも特定の時刻に?
その夜、俺は眠らずに待った。
机の上の蝋燭の灯りで時計を見る。この世界にも時計はある。歯車式の、無骨な置き時計。勇者邸の机の上にずっとあったが、意識して見るのは初めてだった。
十一時。何も起きない。
十一時半。変わらない。蝋燭が揺れている。
十一時五十分。心臓が早鳴りし始めた。
十一時五十九分。
時計の針が、零時を指した瞬間――。
来た。
世界が軋む。体がぐらりと揺れて、一瞬の浮遊感。
目の前の蝋燭が消えて真っ暗になった。いや、消えたんじゃない。灯される前の新品の蝋燭がそこには置いてあった。
暗い。窓の外も暗い。夜だ。
蝋燭にマッチで火をつけて時計を見る。零時一分を指している。
前の日の、零時一分。
俺は翌日に行くことなく一瞬で前の日の零時一分に飛ばされた。世界は前日の始めに巻き戻り、俺は前日の始まりに立っている。
零時ちょうど。それが境界線だ。
眠っていようが起きていようが関係ない。零時になる前に強制的に前日の零時一分に戻される。俺の意思は関係ない。
それがわかっただけでも、今夜寝ずに待った甲斐はあった。
猛烈に眠くなり、俺はベッドに戻った。
*
七十日目。
異変に気づいた。
街の人々の態度が、微妙に変わっている。以前より――つまり、俺にとっての以前、世界にとっての未来より――人々の笑顔に翳りがある。
当然だ。
魔王が討伐されてまだ七十日。百日目に比べれば、傷は生々しい。
街外れに、焼け落ちた家の跡が残っていた。九十日目の世界では更地になって花が植えられていた場所だ。七十日目では、まだ焦げた木材が積まれたままだった。
「魔王軍の最後の侵攻でやられたんでさあ」
近所の男が教えてくれた。
「討伐の直前だったからよ。あと少し早けりゃ……」
男は言葉を飲み込んだ。
……手伝うか。
翌日から、俺は復興作業に加わった。焼け跡の木材を運び、瓦礫を片づけ、壊れた柵を直す。勇者様にそんなことさせられないと最初は止められたが、体を動かしていないと頭がおかしくなりそうだった。
どうせ明日になれば、俺が片づけた瓦礫は元に戻る。直した柵は壊れた状態に戻る。
でも、世界にとっての明日――俺にとっての昨日――では、俺はちゃんとこの作業をやったことになっている。街の人々はそれを覚えている。
俺は逆再生で世界を見ている。更地が焼け跡に戻り、花が消え、傷が開いていく。俺が手伝った復興が巻き戻っていく。
これはいつ終わるんだろうか。俺は本当に魔王を倒したのか。
きっとその答えは魔王を倒した日の俺だけが知っている。




