魔王討伐から100日目
「魔王を倒してくださり、ありがとうございます!」
通りがかりの人に感謝され、俺は曖昧に笑った。
俺は魔王を倒した勇者らしい。倒した記憶はない。
祭りの真っ最中だった。花のアーチが通りを彩り、露店が軒を連ね、楽師が陽気な旋律を奏でている。子供たちが走り回り、酒場からは昼間だというのに酔っ払いの歌声が漏れてくる。
広場の中央に五人の石像が立っていた。
剣を掲げる勇者。
大剣を持つ剣士。
祈りを捧げる聖女。
杖を掲げる魔法使い。
弓矢を手に持つ弓使い。
台座には『魔王を倒した勇者一行』と刻まれている。
石像の勇者は、俺の顔だった。
その日の朝、俺は知らないベッドで目を覚ました。
*
窓の向こうで、誰かが歌っていた。お祝いをするような陽気な音楽が流れていた。
……何だこれ。隣の部屋のテレビか?
目を開けて、固まった。
なぜか天蓋つきのベッドで寝ている。石造りの壁。燭台。テレビどころかコンセントすら見当たらない。窓の外には尖塔と城壁。その向こうから、さっきの賑やかな楽器の音色が聞こえてくる。
直前の記憶を探る。確か自分の部屋で、期末テストの勉強をしていて……それから? 何もない。ぷつん、と糸が切れたみたいに記憶が途絶えて、気がつけばこのベッドだ。
十五歳。高校一年の冬。
ありふれた日常を送っていたはずの俺は、状況がまったく飲み込めないまま、とりあえずベッドから降りた。
机の上には本。壁に外套が掛かっている。窓辺には小さな石がいくつか並んでいた。
誰かが暮らしている部屋だ。生活の痕跡がある。
だが、何ひとつ見覚えがない。
扉をおそるおそる開けると、廊下に給仕の服を着た少女が立っていた。盆の上に湯気の立つスープとパンを載せている。
「あ、カイシュー様! おはようございます。今日は魔王討伐の百日祭ですね、おめでとうございます!」
にっこり笑って、当たり前のように盆を差し出された。
……俺のこと、知ってるのか?
「あの、えっと……」
「今朝はスープをお持ちしました。昨日、明日は軽めがいいっておっしゃってたので」
昨日そう言った? 俺が?
記憶がない。この少女の顔も、この部屋も、この世界のことも、何ひとつ。
「す、すまない。ちょっと聞いていいか」
「はい、何でしょう?」
「ここ、どこだ?」
少女がきょとんとした。
「……え? ここはリュシエンヌの勇者邸ですけど。カイシュー様、何日もここにお住まいじゃないですか」
ゆうしゃてい?
意味がわからないまま、とりあえずスープを飲んだ。うまい。パンもうまい。状況は飲み込めないが、スープは飲み込めた。
*
あの石像、俺にそっくりだ。
広場で呆然としていると、果物売りのおっさんが俺に林檎を投げてよこした。
「勇者様、百日祭おめでとうさん! いやあ、あんたが来てからこの街は毎日が祭りみたいなもんだったがなあ!」
「……ありがとう」
「おう。あんたはいつも一人で来るからよ、たまにゃ誰かと――」
おっさんが言葉を切った。
「……すまねえ、余計なことを」
「いや、いいんだ」
いいも何も、俺には何もわからない。
石像に刻まれた四人。俺は彼らの名前すら知らない。
だが、おっさんの顔を見ればわかる。街の人々のあの一瞬の表情を見ればわかる。仲間の話題が出ると、みんな同じ顔をするからだ。言いかけて、止まる。
そうか、四人はもういないのか。
どうやら俺はこの夢では、生き残った勇者ということになっているようだ。
林檎を軽く上に投げ、再度掴んだ。
石像の前を通り過ぎようとした時、後ろから声が聞こえた。
「まだ若いのにかわいそうにねえ」
振り返ると、老婆が石像を見上げて目を潤ませていた。俺に聞かせるつもりはなかったのだろう。
かわいそう。
英雄に向ける言葉じゃない。でも、たぶんこの街の誰もが思っていることだ。四人の仲間を失った十五歳の少年。一人きりで暮らしている英雄。
林檎をかじった。甘かった。
*
夜。勇者邸の部屋に戻った。
広い。広すぎる。
机の上の本を開くと、栞が本の前半のページに挟まっていた。何故か分からないが本の内容は驚くほどすんなりと読めた。
窓辺の石は七つ。外套は俺の体にぴったり。
長い間ここに住んでいたらしい。一人で。
鏡を覗く。何の変哲もない自分の顔。誰かに成り代わったというわけではなさそうだった。
夢ならそろそろ覚めてもいい頃だ。
まあいい。明日になれば何か変わるだろう。夢なら覚めるし、夢じゃないならその時考える。
今日はもう眠い。
瞼が重くなり、意識が溶けていく。
広い部屋に、俺の寝息だけが響く。
*
「カイシュー様、おはようございます。明日はいよいよ百日祭ですね!」
昨日と同じ少女が部屋にやってきて俺はまた目が覚めた。
「明日? 昨日もう散々やっただろうに」
「え?」
「うん?」
少女がきょとんとしている。俺もきょとんとしている。
百日祭は昨日だったはずだ。豪華な花のアーチがあり、街中がお祭り気分だった。
「百日祭は明日ですよ? 今日はまだ九十九日目です」
九十九日目。
昨日は百日目だった。なのに今日は九十九日目。
街に出た。街の中心に飾ってあった花のアーチが、まだ骨組みだった。昨日完成していたはずなのに。
果物売りのおっさんに会った。
「おう、勇者様! 明日の百日祭、楽しみだなあ!」
「おっさん、昨日は林檎ありがとう」
「昨日? 昨日はあんたに梨をやっただろ。林檎は明日仕入れるんだよ」
昨日の林檎は、おっさんにとっての明日の林檎だった。
夢にしてはやけにリアルだ。
部屋に戻って鏡を覗く。昨日よりほんの少しだけ――疲れた顔になっている気がした。
*
「カイシュー様、おはようございます! 百日祭まであと二日ですね!」
九十八日目。
「勇者様、百日祭まであと三日だ!」
九十七日目。
「あと四日ですね!」
九十六日目。
毎晩、目を閉じると一日戻る。世界が巻き戻っていく。花のアーチの骨組みが消え、祭りの準備がどんどん初期段階に戻っていく。
これはどうやら夢じゃないらしい。
一週間が経った頃――世界では魔王が倒されてから九十三日目――ようやく冷静に状況を整理できた。
俺は時間を逆向きに生きている。
この世界の人々は明日に向かって歩いている。俺だけが昨日に向かって歩いている。
このまま過去に戻り続ければ、やがてたどり着く。
魔王討伐のその日に。
あの石像の四人が、まだ生きていた日に。
逆行する日々の中で、俺は少しずつ四人のことを知った。街の人々がぽつぽつと語る断片を拾い集めた。
剣士の名はルシアン。豪快で人懐っこくて、誰よりも仲間想いだったと。
聖女はセラフィーヌ。セラと呼ばれていた。王女でありながら旅に出た、芯の強い娘だったと。
魔法使いはヴァロワ。皮肉屋の男だが天才で、誰にも弱みを見せなかったと。
弓使いはティエル。小柄で、誰より先に気配を読む少女だったと。
四人とも、もういない。
でも、過去に行けば会える。
ルシアンに。セラに。ヴァロワに。ティエルに。
生きている彼らに。
ただし、俺がそこにたどり着いた時――彼らにとっての俺は、ずっと一緒に旅をしてきた仲間だ。俺にとっての彼らは、石像と伝聞でしか知らない他人だ。
それでも。
今夜も世界が軋んだ。
四人が待つ過去へ向かって、俺は昨日へ落ちていく。




