29-番外最終章・風の名を持たぬ者として。モールの物語
――――――誰もいなくなった塔の裏庭に、春が訪れていた。
かつて投げ捨てた名前。
かつて閉じた扉。
かつて結べなかった指。
――でも、今は、風が吹いている。
かつての「番制度の落伍者」モールは、今や王都を離れ、郊外の古書庫を間借りして暮らしている。
正式な職名も、身分もない。
けれど、静かに誰かが訪れ、風のような問いを投げかけていく。
「番になれなかった者は、これからどう生きればいいのでしょうか」
「制度に従わない愛は、本当に“本物”と呼べるのでしょうか」
モールは答えない。
答えの代わりに、本を手渡す。
物語の中にある“ほころび”や“結び目”を、静かに差し出す。
ある日、一人の青年が訪ねてきた。
彼もまた“契約に傷を負った者”だった。
「誰も僕の愛を、証明してくれませんでした」
モールは言った。
「証明なんてしなくていい。
愛は、証になる前に、風になってるものだよ。
君がここに来たのが、その証拠だ」
青年は泣いた。
そして、ふたりの間を小さな風が通った。
夜、灯を落としたあと。
モールはふと、かつてのふたり――レイとカイルのことを思い出す。
あの風花の丘。
あの手を伸ばす姿。
あのためらわずに選んだまなざし。
「僕は、風にはなれなかったかもしれないけれど、
君たちが起こした風を、忘れない者ではいられる」
古書の隙間に、小さな風花のしおりが一枚。
誰かが置いていったものか、それとも――
モールは微笑んで、それをそっと胸にしまった。
「風の名を持たずとも、風の記憶を灯す者でいられたなら――
僕の物語も、きっとそれでいいんだ」




