2-風が通いはじめる午後
風花を渡したあの日から、カイルは毎日のように屋敷の裏庭にやって来た。
最初は“偶然”を装っていたけれど、三日目にはもう普通に座り込んでいた。
剣の稽古が終わると、まっすぐにこの場所に来て、風の丘の端に腰を下ろす。
「稽古、めっちゃきつかった! 腕、上がんねぇ〜……」
「……いつも、ちゃんと来るんだね」
「だって、君に会いたいもん」
カイルは子どもらしく屈託なく笑った。
その素直さに、レイは何度も言葉を詰まらせた。
だって、こんなふうに誰かに「会いたい」なんて言われたことがなかったのだ。
オメガで風が読めないというだけで、家族の中で居場所を失っていたレイにとって、そんな言葉は魔法のようだった。
ある日、風の丘の木陰でカイルは土の上に枝で線を引いて、戦士同士が剣を交える図を描いていた。
対するレイは、小枝でその隣にそっと風花の絵を描いた。
「俺、大人になったら王都の騎士団に入るんだ。
で、王様を守る。絶対に一番になるって決めてるんだ」
「……すごいね。ちゃんと“なりたい”があるんだね」
「君は?」
「僕は……なりたくないものなら、たくさんあるよ」
「なりたくない?」
「母みたいに誰かを傷つける人にはなりたくない。
姉たちみたいに、風が読めるだけで僕に意地悪する人にも」
「それでいいじゃん。
なりたいものじゃなくて、なりたくないものをちゃんと知ってる人って、強いと思うよ」
「……そんなふうに思ったこと、なかった」
「大人になる前には、なりたいものが浮かんでると思うよ」
「そうだといいなぁ……」
カイルの言葉は、まっすぐで、どこまでも暖かかった。
その日から、レイは夜寝る前になりたくないものをそっと心の中で数えるようになった。
すると、だんだんと――なりたいものの形が、ぼんやりと浮かんできた。
*
風花の丘の奥にある、苔むした物置小屋。
雨の日、稽古を終えたカイルがずぶ濡れでそこに入ってきた。
「やっば、雷きてた! 風がビリビリしてたー!」
「来なくてもよかったのに」
「でも、約束してたじゃん。今日も、ここで会うって」
カイルはぬれた髪を手でぐしゃぐしゃにしながら、笑った。
「風、読めないんだよね? 君って」
「うん」
「でも、君は『風を止めない』んだよね」
「え……?」
「なんか……ほら、誰かと一緒にいると、変に気を遣っちゃうことってあるじゃん?
でも君といると、風が自由に通る感じ。止まらない。
そういう人、俺、好きだな」
小屋の中で、雨の音が静かに響く。
レイは、そのとき思った。
――自分は、何にも持っていない。風も、力も、未来も。
でも、この場所と、この時間だけは、『大切なもの』だと感じていいのかもしれないと。
ある日の別れ際
丘を離れるカイルの背中に、レイは思わず声をかけた。
「ねえ、カイル」
「ん?」
「……僕、君に会えてよかった」
カイルは立ち止まって、レイの方を振り返った。
「俺は、ずっと思ってるよ。
君に会えたこと――たぶん、人生で一番、風がいい日だったって」
その言葉に、レイの胸の奥で、まだ名前のない風が、そっと吹いた。