17-ただいまとおかえり
夜は深まっていた。
外では虫の声が遠く鳴き、風が木々の葉をかすかに揺らしていた。
小屋の中には灯りを絞ったランタンだけ。
その橙色の光の中で、レイは静かに布を湯に浸し、カイルの腕の傷を拭っていた。
そのとき。
「……くすぐったい」
かすかな声がした。
レイはびくりと手を止める。
「……カイル?」
カイルの瞼が、ゆっくりと持ち上がる。
焦点の合わない目が、やがて少しずつレイを映しはじめた。
「……やっぱり……君、か……」
「無理しないで。……今、手当てしてるから」
カイルは微かにうなずく。
けれど、目を閉じず、じっとレイの顔を見つめていた。
「……夢じゃないんだよね?」
レイは布を置き、少しだけ頬を緩めた。
「夢だったら……もう少し、綺麗に笑ってるかもしれない。
今の僕は、ちょっとだけ怒ってるよ」
「怒ってる?」
「血だらけで、満身創痍で……そんな姿で、ようやく帰ってくるなんて。
ねえ、もう少し……無傷で、来るわけにはいかなかった?」
カイルはかすかに笑った。
「……そうしたかった。……でも……どうしても、できなくて……
隣国の王子と、政略結婚させられそうになって、逃げてきたんだ……」
レイはその言葉に、そっとカイルの指を握った。
「もう言い訳は聞かないよ。
ここに来てくれた。それだけで……本当に、うれしいから」
カイルの目に、じわりと光がにじんだ。
でも、涙はこぼれなかった。
代わりに、震える声でひとことだけ。
「……ただいま」
レイの唇が震えた。
その言葉を、何度想像してきたことだろう。
けれど実際に聞くと、それは想像よりもずっと、柔らかくて、切なくて、あたたかかった。
「……おかえり、カイル」
そう言って、そっとカイルの髪を撫でた。
かつての少年の髪よりも、少しだけ硬くなっていた。
沈黙が、ふたりを包む。
でもその静けさは、気まずさでも寂しさでもない。
「ようやく呼吸が合った者同士」の静けさ。
カイルは、またまぶたを閉じる。
レイの手の温度を感じながら、もう一度深い眠りに落ちていく。
レイはそっと囁いた。
「おやすみ。……今度こそ、朝まで、ちゃんと待ってるから」
――――――風が、静かに窓を揺らした。
その音はまるで、『よく眠って、また話そう』と、誰かが言っているようだった。