2本の糸
【二度目の春】
春の光が街をやわらかく包む午後。僕は、十年ぶりに彼女と再会した。
仕事の打ち合わせで訪れたギャラリーのオーナー、それが彼女だった。名刺を差し出したとき、彼女は一瞬驚いたような顔をして、すぐに柔らかく笑った。
「まさか、浩一くん……? 変わらないね、声だけは」
「真理子……。いや、白石さん、か。お久しぶりです」
別れてから、僕らは一度も連絡を取らなかった。若さゆえの衝突、仕事と夢のすれ違い、どれも避けられなかった。でもその時間が、それぞれを別の大人に変えた。
「コーヒーでも飲んでいく? あの頃みたいに、真面目な顔して、くだらない話してさ」
僕はうなずいた。変わらない笑顔。でも、あの頃よりずっと綺麗だった。
コーヒーを啜りながら、僕らは少しずつ、失った時間を言葉で埋めていった。彼女はアートの世界で地道にキャリアを築き、僕は転職を繰り返しながらようやく落ち着いた場所を見つけた。
「……ねえ、もしもって、考えることある? あのとき別れなかったらって」
彼女がぽつりと呟く。
「あるよ。だけど、あのとき別れたから、今の俺たちがあるんだとも思う」
沈黙。でも、気まずくはなかった。心地よくて、懐かしい沈黙。
彼女が窓の外を見て言った。
「桜、咲いてるね。……また一緒に、見てみる?」
僕は小さく笑った。
「今度は、ちゃんと隣で」
【二度目の春】—再び、隣で
あの日から、僕らは少しずつ連絡を取るようになった。週末に美術展を見に行ったり、夜に気まぐれなLINEを送り合ったり。ただの「再会」だったはずが、気づけば、彼女のことを一日一回は思い出すようになっていた。
「浩一くん、相変わらずコーヒーはブラック派?」
「真理子はミルク多めだったな」
「よく覚えてるね」
「忘れられるわけないよ。君のこと、あの頃からずっと」
その言葉を言ったとき、彼女はグラスを持つ手を止めた。そして、ゆっくりと微笑んだ。
「私、あの頃よりも、今の浩一くんのほうが好きかもしれない」
不意打ちだった。心臓が跳ねた。
その日、帰り道をふたりで歩いた。彼女の肩に、そっと手を添える。それだけで、胸が満たされる感覚があった。過去の後悔も、時間の距離も、今はもう怖くない気がした。
「真理子。……もう一度、俺と向き合ってくれないか?」
彼女は歩みを止めた。そして、少しだけ潤んだ目で僕を見上げた。
「また傷つくかもしれないよ?」
「それでもいい。君となら、ちゃんと愛して、傷ついて、また立ち上がれる気がする」
風が吹いた。桜の花びらが、ふたりの間をすり抜けて舞い上がる。
「……なら、もう一度だけ。最初からじゃなくて、続きから始めよう」
その瞬間、彼女の手が僕の手にそっと重なった。
十年前の僕らにはできなかったことが、今ならできる気がした。過去に背を向けるんじゃなく、しっかり目を見て、未来を選ぶ。
再び、僕らは恋に落ちた。ただ、今度の恋は静かで、確かで、あたたかかった。
【二度目の春】—そして、それぞれ道
再び始まったふたりの時間は、まるで静かな小川のようだった。
喧騒のない優しさ。焦らず、求めすぎず、ただ「いま」の隣にいる安心感。
週末は彼女のギャラリーで過ごすことが多くなった。彼女が絵の配置を変える横で、僕はコーヒーを淹れていた。
「浩一くんが来ると、仕事にならないよ」
そう言いながらも、彼女は楽しそうだった。
でも、ふたりの流れは少しずつ、見えない分かれ道に近づいていた。
ある晩、彼女はぽつりとつぶやいた。
「ねえ、私、ニューヨークの企画展に招待されたの。半年間、現地で作品と向き合う話……決まりそうなの」
「……すごいな。よかったな」
そう言いながら、心のどこかで何かが静かに崩れる音がした。
「行っていい? いや、許可がほしいわけじゃないんだけど……」
「真理子が進みたい道なら、俺は止めないよ」
言葉にすると、思っていたよりも冷静に聞こえた。でも、心は騒がしかった。
数日後、彼女は旅立った。桜はまだ満開だった。ふたりで歩いた並木道を、今は僕ひとりが歩いている。
連絡は、最初のうちはあった。写真と短いメッセージ。でも、それも次第に間隔が空いていった。
ある日、彼女から届いた一通のメッセージ。
> 「浩一くん、本当にありがとう。あの時間があったから、私はここに来られたと思う。……でも、きっと私たちは、それぞれ違う春を選ぶんだと思う」
返信はしなかった。できなかった。
ふたりの糸は、再び重なって、温もりを確かめ合った。そして今、ゆっくりと、互いの未来へとほぐれていく。
けれど、僕は後悔していない。
出会って、愛して、見送った。そのすべてが、今の僕をつくっているから。
今年の桜も、きっと彼女の空の下で咲いている。
【二度目の春】—最終回:すれ違い
春の夕暮れ、駅前の交差点。
ビルの谷間から、柔らかな光が差し込んでいた。風に揺れる桜の花びらが、空から降るように舞っていた。
浩一は、仕事帰りだった。イヤホンから流れるラジオの声を聞きながら、信号待ちで立ち止まる。少し疲れた表情。けれど、どこか落ち着いた静けさをまとっていた。
同じタイミングで、反対側の歩道に彼女が立っていた。真理子。
髪は少し短くなり、コートの襟を立てている。手には海外の美術誌が一冊。歩き方は変わらない。けれど、彼女の目は、今や誰か遠くを見る人のように静かだった。
信号が青に変わる。
人の波がふたりを押し出すように交差点へ導く。
ふたりは向かい合うように歩き出す。
数メートルの距離。
あと一歩。あと一秒。
ふたりの目は、一瞬だけ、同じ方向を見た。
でも、それは風が吹いた瞬間で、視線はすぐにすれ違いの群れに飲まれた。
――気づかない。
彼らはそのまま、互いを見ずに歩き過ぎる。
言葉も、微笑みも、振り返ることもない。ただ、風がふたりの間を通り抜けて、桜の花びらを散らしていった。
交差点を抜けたあと、浩一はふと足を止める。
なぜか心にかすかな波紋が広がる。理由はわからない。ただ春の匂いが胸を締めつけた。
真理子も、ほんの一瞬、後ろを振り返りかけた。
でも、振り向く前にスマホが鳴った。
「……はい、今向かっています」
彼女は再び前を向いて歩き出す。もう迷いはない。
ふたりの糸は、もう交わらない。けれど、確かに一度は結ばれていた。
それでいい。
あの春が、ふたりの人生にちゃんと存在したことは、変わらない。
そして今年も、駅前の桜は満開だった。