博麗の呪い〜止まった時間の巫女〜
博麗神社に春が訪れた。桃色の花が舞い、風が枝をくぐり抜け、空は青く澄んでいる。
けれど、その景色の中でただ一人だけ、春に触れない存在がいた。
縁側に腰を下ろし、湯を注ぐ少女、博麗霊夢。
彼女は、いつもと同じように茶を淹れ、空を見上げていた。その表情に、驚きも期待も、喜びもない。ただ、静けさだけがあった。
紫は、少しだけ距離を置いてその姿を見つめていた。
「あぁ....今年も、春になったのね」
そう呟いた自分の声が、どこか虚ろに響いた。
霊夢は、気づかぬふりをしていた。それとも本当に、気づいていないのかもしれない。
紫の胸を、かすかな痛みが走った。
この姿を、何度見ただろう。
十年、二十年、三十年。時は流れ、幻想郷の景色も、人々も、妖たちでさえ変わっていく。
けれど霊夢だけは、変わらなかった。
髪の長さも、背の高さも、声の調子も、そして"その目に浮かぶ何もなさ"も。
紫は、あの日の記録を思い出す。
かつての巫女たちは、傷つき、朽ち、そして果てていった。
串刺しにされようとも、腕を切り落とされようとも、博麗の巫女は立ち上がる。
そう書かれていた。
その言葉は、誇りであり、呪いだった。
紫はその“痛みの記録”を読みながら、考えた。
「それなら、痛まない巫女を作ればいい」と。
霊夢はその願いの、完成形だった。
傷つかず、老いず、朽ちない。記憶も保ち、死すら許されず、ただ淡々と“異変を解決する巫女”としての役割を果たし続ける。
紫は、かつてそれを“完全”と呼んだ。
だが、今では。
その姿を見ているだけで、喉の奥が締めつけられるような息苦しさを覚えるのだ。
霊夢がふと、湯呑を差し出した。
「お茶、飲む?」
声色に変わりはなかった。穏やかで、淡々としていて、何も失われていないように見えた。
けれど、何も得てこなかった少女の声音だった。
紫は、微笑みを作った。
「ええ、ありがとう。....今年の茶葉はいい香りね」
「そう。いつもと同じお茶屋さんで買っているのだけど、ちょっとだけ香りが違う気がする」
「違いがわかるなんて、すごいわね」
「....そう?」
霊夢は、また淡く笑った。その笑みも、紫の記憶にあるものと“まったく同じ”だった。
十年、二十年前と変わらぬ少女の、変わらぬ笑顔。
紫は、湯呑を手にしながらそっと目を伏せた。
心の奥底で、声にならない言葉が渦を巻いていた。
あなたに、歳を取ってほしかった。
恋をして、悩んで、怒って、泣いて、笑って。
普通の時間を、生きてほしかった。
けれどその願いは、彼女自身が奪ったものだった。
紫はただ、春風の中で、少女の横顔を見つめていた。
その横顔が、どこまでも、痛ましく、美しかった。
霧雨魔理沙は、春の陽射しの中を歩いていた。
彼女の歩き方は、昔よりも静かだった。ブーツの音は控えめで、よく使っていたほうきは、もう滅多に使われない。ロングコートの裾が風に揺れ、日焼けした鞄が肩に食い込んでいる。
歳月が、彼女に“重み”を与えていた。
博麗神社の鳥居をくぐった瞬間、懐かしい香りが鼻をくすぐった。
お香と、土と、どこか寂しげな空気
変わらない風景。
変わっていないのは、神社そのものではない。あの中にいる、たった一人の巫女のせいだ。
「おーい、霊夢。いるかー?」
縁側から声をかけると、奥からゆっくりと巫女が現れた。
髪の結い方も、装束の着こなしも、笑顔の作り方も....
「あら、魔理沙。久しぶりね」
「....ほんとに、変わらねぇな。お前は」
魔理沙は、思わずそう呟いた。
霊夢は、ただ静かに笑った。
「そんなに変わらない?」
「変わってたら安心できたんだけどな」
魔理沙は、縁側に腰を下ろす。
霊夢は隣に座り、お茶を差し出した。湯呑は陶器のくせに、掌の中でどこか“冷たかった”。
「私な、最近白髪が一本出てきたんだ」
魔理沙が言うと、霊夢は小さく目を見張った。
「そう....それは、びっくり」
「だろ?でも、年齢相応ってやつさ。いい加減、子ども扱いされる年でもないしな」
「ふふっ。....似合ってると思う」
その笑顔が、“演技”でないことくらい、魔理沙には分かっていた。霊夢は、何も悪気はない。ただ、本当に何も変わっていないのだ。
魔理沙はふと、霊夢の手に目をやった。
白く、小さく、血の気の薄い指先。この手が、何度斬られ、砕かれ、再生されたのだろう。
「なあ、霊夢」
「うん?」
「お前さ、いつから“止まった”んだ?」
霊夢は、一瞬だけ、言葉を探すように目を伏せた。
そして答えた。
「....止まった覚えはないの。でも、“進んでいない”気はする」
「そっか」
それだけで、魔理沙の胸には十分すぎた。
自分は老い、変わり、選んできた。けれど霊夢は、何も変えず、何も選べない。
「なあ、霊夢」
「なに?」
「お前ってさ、恋したことあるか?」
霊夢は、わずかに首をかしげた。
「恋....それって、どんな感じ?」
魔理沙は、笑ってしまった。そして、それが泣きたいほどに切なかった。
「そうか。....やっぱり、お前は変わらないんだな」
魔理沙の笑顔は、優しくて、悔しくて、少しだけ老けていた。
その横で、霊夢はまた、春の空を見上げていた。
変わらぬままに。
少女の姿のままに。
紫は、過去を夢に見る。
白装束の巫女が、山道を歩いていた。肩で息をしている。右腕が血に濡れている。足取りはふらついているのに、それでも前に進もうとしている。
“串刺しにされようとも、腕を切り落とされようとも、博麗の巫女は立ち上がる”
紫がかつて読んだ、巫女の記録の一節だ。
神話ではない。伝説でもない。それはただ、人間として生き、命を懸けて異変を鎮めた巫女たちの、厳然たる現実だった。
その姿に、紫は“美しさ”を見た。
ただひたすらに理不尽と向き合い、誰にも知られず、命を代償に、幻想郷を守ってきた少女たち。
「この美しさを、永遠に」
紫は、最もしてはならない願いを、してしまった。
霊夢が生まれたとき、紫は理解していた。
この少女は、他の誰よりも“適合していた”。感情の波が浅く、規則に従順で、現実に曖昧さを許容できる。
そこに、“少しの改変”を施した。
老いないように。死なないように。傷が残らぬように。恋をしないように。
そして何より
“心が揺れないように”。
「その方が、きっと楽だから」
紫はそう言い訳した。自分の願いを、霊夢のためだと。
だが....
何十年が過ぎても、霊夢の姿は変わらなかった。
桜が咲いても、紅葉が舞っても、雪が積もっても。人里の子が育ち、村の長が代わり、魔理沙が大人になっても。
霊夢だけは、ずっと、“あの時のまま”だった。
笑顔も、言葉も、仕草も。
すべてが、変わらないままだった。
「....気づくのが、遅すぎたのよね」
紫は、夜の神社で一人、そう呟いた。
霊夢は、境内の灯を整えている。その姿は、あまりに自然で、あまりに静かで....
あまりに、“彼岸”に近すぎる。
紫の心に、ようやく生まれた感情。
それは“後悔”だった。
人間として生きること、歳を重ねること、誰かを好きになること、嫉妬すること、間違うこと、謝ること、許すこと。
そういうものを、霊夢からすべて奪ったのは、他でもない自分だった。
紫は、震える声で呟いた。
「あなたに....恋をしてほしかったのよ。失っても、叶わなくても、それでも“心を動かす”誰かを、見てほしかった」
霊夢は振り返らない。
風が吹く音だけが、返事のように空を渡っていった。
春が、またやってきた。
紫は、神社の石段をゆっくりと上っていた。膝の調子が、昔より少し悪くなった。目の焦点も甘くなってきた。けれど、それもまた生きている証だと思えるようになった。
桜が咲き、風が吹き、どこかで子供の笑い声がする。幻想郷は今日も平穏で、変わらずそこにあった。
....ただ、一つだけ。
そこに立つ巫女だけが、季節を抱かず、時を知らず、微笑を絶やさないままだった。
「紫。お茶、飲む?」
縁側に腰かける霊夢は、変わらぬ声で言った。その手には湯呑み、笑みは柔らかく、指先の所作も整っていた。
紫は少し笑って、隣に座った。
「ええ、いただくわ。....今年も、香りがいいわね」
「いつもと同じお茶屋さんよ」
その手の動きも、視線の動きも、何もかもが、“霊夢のまま”だった。
でも、それは紫にとって、今や美しさではなかった。
恐ろしいほどに“変わらなさすぎる”美だった。
「霊夢。....あなた、夢は見る?」
「....見ない、かな。ずっと起きているような気がする」
「そう....」
「紫は?」
「私は、よく見るわ。....あなたが歳を重ねていく夢をね」
霊夢は、少しだけ眉を寄せた。けれどすぐに、それを“理解しない”表情で打ち消した。
「夢の中の私は、どんなだった?」
「少し背が伸びてね。髪も、肩までになってたわ。....お酒を呑んで、魔理沙に愚痴こぼしたりしてた」
「ふふ....それは、なんだか想像つかない」
「ええ。私も、最近ようやく“夢”と割り切れるようになったわ」
紫は、湯呑みを見つめながら小さく微笑んだ。
そして、まるで誰にも届かないような小さな声で、そっと呟いた。
「....ごめんなさいね、霊夢。本当はね....あなたに、春を生きてほしかったのよ」
霊夢は、何も言わなかった。
ただ、微笑んでいた。それが“今の霊夢”にできる、唯一の返事だった。
紫は立ち上がり、空を仰いだ。
春の風が吹き抜ける。花が舞い、空は透き通っている。
霊夢は、変わらずそこにいた。時間が止まったまま、巫女として微笑みながら。
けれど
それでも、春は来る。
紫の時間が、魔理沙の時間が、子どもたちの時間が、すべて彼女の横を通り過ぎていっても。
それでも。
「また来るわね、霊夢。....来年も、その次も。 私は、あなたを忘れない。誰よりも近くで、見てきたから」
風が、紫の髪を揺らした。
そして、霊夢のリボンもまた、まったく同じように揺れていた。
まるで“そこに時間があった”ことを、ほんの一瞬だけ証明するように。