安田家、新築マンションを買う
安田家は妻、夫、子の三人暮らしである。
いわゆる中流階級。安田夫は平凡なサラリーマンであり、その妻も子も同様平々凡々。
ただ、安田妻にはある志があった。尤もそれも平凡な願望ではあったが、そのかける情熱は他のものよりもはるかに抜きん出ていた。
新築マンションに住みたい。
ただそれだけのこと。新築マンション。新築マンション。新築新築新築。と、安田妻はまるで魔法の言葉のように口にし、ことあるごとに夫に対し提案をしていた。中古は駄目。配管が古いと添えるのを忘れずに。
洗濯カゴの中。もう何年もベージュ色の下着しか見ていない。自分も古いくせに新築新築などと……とは安田夫、口が裂けても言えず。ただただ、給料が……と漏らし、妻から軽蔑した眼差しと溜息を浴びせられる。
無論、安田妻も無理なことはわかっている。それでも情報を集めずにはいられない。ネットサイトを巡るのはもちろんの事、ローンの計算や時に内見。気に入ったマンションの周囲のスーパーなど、店のリサーチまで行った。
もはやそれが趣味。癒し。現実逃避……に本人は収めたくなかったが、やはり現実の壁は高く、日々、滾る想いをどうにか噛み殺していた。
そんなある時、安田夫の母親が死去した。大往生である。
と、それが所有していた庭付き一軒家。その古い建物に価値はないが土地が丸々、安田夫のものになるとくれば、これはもう夢を叶える時でしかない。
降って湧いた幸運。天に召した義母に感謝。いや、地の底か。生前、意地悪された。高齢出産なんて大丈夫? と自分だってあの人を産んだ時は結構、歳いって……いやいやそれは今はいい。
と、再三の交渉の末、安田夫は安田妻の意見を呑み、新築マンション購入に至ったのである。
その時の安田夫の胸中は、これで家族がいい方向に向かうなら……。
尤も安田夫当人も新築マンションの購入を頑なに嫌がったわけではない。宝くじ当選者同様、大金が転がり込み少々心が浮き立っていた。
それゆえの決断。因みに安田息子は何も言えず、扶養扶養。権利もない身であることは重々承知。
そして引っ越し当日の朝。ご近所総出で見送りに。この数日前に安田妻がタオルとお菓子を配っていたその成果であろう。双方、義理堅い。涙ぐみ、別れの挨拶をかわす。
寂しくなるわぁ。
元気でね。
頑張ってね。
新築なんですってね、羨ましいわぁ。
その光景を前に安田夫はゾッとする想いであった。社交辞令の数々に船酔いのような感覚がしたのであるが何よりも、妻のあの顔。
よくもまあ、毎日仕事に行く前と帰ってきたあとに散々、俺にご近所の悪口を聞かせてきたくせに、ほろりほろりと涙を流せるものだな、と。
勝手に庭に入ってくることもあった変わり者の隣人に対しても長生きしてくださいね、などと言っている。内心は違うはずだ。実際、あのジジイさっさと死なないかしらと何度も口にしていた。と、なるとあれは嬉し泣きかもしれない、と安田夫はそう咀嚼した。
その夜。引っ越しは無事完了したものの安田夫。痛みはしないが胃の中がゴロゴロ言っている。
引っ越し業者の手際の悪さに、むせ返るような皮肉たっぷりのクレーム電話をかけた安田妻のせいかもしれない。傍で聞くんじゃなかったと後悔。
が、なんやかんや、安田妻の機嫌は良い。新築マンション新築マンション。そう、まるでご神体のように崇め、壁に頬を摺り寄せ撫でつける。と、壁の傷に触れると、一転目を吊り上げ、歯茎を剥き出しにする。前述の引っ越し業者の手際の悪さ、それである。
再び機嫌が悪くなる前に安田夫は自室に避難。設計上、壁に出っ張りがあり、前の家のよりも狭いが文句は言えず。
安田息子はとっくに自室に引きこもっている。そう、引きこもっている。彼は中学生。しかし不登校。そしてこれを機に転校。
これでいい方向に向かうのなら……。
妻と息子は夫のその胸の内を知っているかどうか。
それは関係ない。いずれにせよ、思い通りにはいかないのが人生。
中には思い通りにいく者がいるが、その皺寄せを誰かがきっと食らっている。そしてそれが平凡な者の宿命か。
安田妻はマンション生活に馴染めなかった。
踏み込みすぎたご近所付き合い。年齢のせいか年代のせいか人の領域にズカズカ踏み入る愚挙。元々、ガサツな性格。多分そのせい。窓、ドアの開け閉めが豪快。あくびは大きい。かつてのあの町内に染まり切っていたのかもしれない。
再び始まる安田妻のトークショー。お題はご近所の悪口。毎晩聞かせられる夫はげんなり。
あの人は挨拶を返さなかった。あの人は若いくせに無理してここに住んでいる。あの人は態度が悪かった。あの人はだらしのない格好で共用廊下を歩いている。何号室のあの人は。あの人あの人あの人。
せっかくの新築マンションなのに住んでいる人が……ああ、新築マンション新築マンション。
まるで狂戦士の如く、崇め目を血走らせる。その刀はどこに向かうか。さすがに人に対して抜かず、しかしそれであれば傷つくのは鞘の中。安田家の家庭はズタボロである。
安田夫は大抵、妻の話を聞き流すことにしているが、人には誰しも限界というものがある。
魔法の言葉のように縋り吐くのは『お前が欲しいと言ったから買ったんだ』
それに対し、安田妻も『新築マンションが悪いわけじゃないの。それに何よ。不満も漏らしちゃいけないわけ? 大体ねぇ、あなたがもっと頑張っていてくれてたらもう少しレベルの高いマンションだって買えたのよ? それかもっと上の階に住めたのに』と、吐き散らす。
安田息子は自室で耳を塞ぐが、ある夕食時、ついに言った。
「分不相応だ」
安田妻は息を呑み、リビングは静まり返ったが、それが嵐の前の静けさ、大津波の前であることは明らか。
ならばこれをしてもしなくとも同じこと。だったらしてやろう。と考えたかはわからないが安田息子は海に飛び込んだ。
固く握り、放った拳は壁に穴を。その穴を目にし、幾分か心が楽になり思ったことは「これがお似合い」次いで、夕食を床や壁にぶちまけた。
安田夫もまた、その光景を前に幾分か心が和らいだ。
壁や床に傷をつけるな汚すなと毎日毎日、妻に言われていた分、そのストレスがあの穴からフワッーと外に出た。そんな感覚がしていた。
また、安田息子の笑顔を久しぶりに見られたことも、嬉しかった。
一方、安田妻はただただ閉口、否、口はあんぐりと開けていたが黙っていた。
全身の震えにより頭部へと送られた血液はその場で押し留まり、顔を紅潮、さらにそれを越え青くさせ、そして脳内で蠢く虫の群れが作り出す音のように繰り返されていた言葉はフッ、と消えた。
新築マンション新築マンション新築マ――
そして、その口から出たのは、純粋なる叫びであった。
しかし、それは言葉じゃなければ声とも認識できないものであった。
音。それも暴力的かつ破壊的な。
それを受け、安田夫はふとグラスが割れたのは前か後かどちらだろうかと思った。
安田妻が放ったその音は手で塞いだ耳の鼓膜を、部屋のガラスをいともたやすく破壊した。
やがて、その音の中で新たに音が加わる。
まるで沈みゆく潜水艦、圧力および浸水によりそのボルトが艦内で弾け飛ぶように、左右上下、四方から壁を叩く音。
それは水中マジックショーに失敗したマジシャンが必死に水槽を叩く音か、それともガス室の扉を叩く音か。
いずれにせよ苦しみを訴えるその音はそう長生きすることはなかった。
安田家が購入した新築マンションはその夜、崩落した。
耐震偽装があったことが知られたのは後の話。