さ迷うのは誰だ
「牛を殺してでも、あの世に行きたがる霊がいる。気をつけろ」
お盆も終わりがになる頃、正雄おじさんが俺に忠告した。
俺からしたら、明日から家に帰って夏休みの宿題でも手を付けようかなんて思っている所だ。なんてことを言うんだよ。物騒な事を言うおじさんからは、いつもの人の良さそうな笑顔はない。
「なんで牛なのさ」
絞り出したのはそんな言葉だ。
おじさんが経営している厩舎の中が、糞尿と藁以外の臭いで満たされる。俺の放つ緊張の香りが、俺自身でも分かった。
「けいすけ君は知らんか。昔、お盆の時にきゅうりとナスに箸のきれっぱしを四つつけて、乗り物にしたこと」
「ああ、うん」
知っているのニュアンスで俺は声で頷く。
父母の家ではしないが、正雄おじさんの家では毎年仏壇に飾ってある置物のことだと、俺はすぐに合点した。
「馬で早くやってきて、牛でゆっくり帰るんだよ。その模型を夏野菜で作ってんだ」
「へえ」
「だから、成仏したい亡霊は意地でもあの世に向かおうとする」
父の実家の長男、正雄おじさんの手伝いは毎年している。俺は、この時間がなんとなくすきだった。普通科の高校生活では得られない、生き物の生々しい匂いを直で感じられるこの数日間が。勿論毎日やるとなると心境の変化もあるだろうが、問題はそこじゃない。
俺は、正雄おじさんの距離感が好きだった。
こんなことを、初めて言われてしまって俺は少し動揺している。
心地よさが瓦解するような危うさ。
「あの世に行くってことは、成仏するってことだろ」
だったらいいじゃん、なんて気軽に返す。
おじさんは難しそうな顔を俺に向けたが、何も言わなかった。黙って手拭いで頬を拭い、藁掻きの手を止める。
押しつぶされた悲鳴のような声が聞こえた。
「どうした」
正雄おじさんは鳴き声のした牛の方に、落ち着いた足取りで近づく。
俺は既に整理し終えた藁を、不必要に箒ではいた。手持無沙汰だったのだ。心の奥底では、なんだかいつもと違う正雄おじさんに怯えている。お盆ぐらいしか帰省できないのだから、少しでも長閑で居たかったのに。
「なんだろな、さち」
俺の作業用のズボンを噛もうとする仔牛に声をかける。
この厩舎でなんとなく愛着の湧いている一頭の牛だった。名前はさち。正雄おじさんが名付けたそうだ。なんとイギリスの大学の研究結果では名前をつけて貰った牛は、つけて貰っていない牛より牛乳の出が良いらしい。
そんな知識、ネットでの拾い物だ。
厩舎にいる三十頭の牛は、牛乳を出すために生かされている。昨日もおとといも、食卓に出た牛乳はこの牛たちから摂取したものだ。
生きる意味が牛にはある。なのに。
「今日、埼玉に戻るんだろ」
いつの間にか作業を終えていた正雄おじさんが、俺の傍に寄って来ていた。
「ああ、うん」
少したじろぐ俺の足を、仔牛が懸命に食んでいる。
「変なことがあったら、電話しろ。番号はわかるよな」
「おじさんが変だよ」
和ませようと笑ってみても、空気は重いままだ。
「ちゃんと、帰るんだぞ」
今年の正雄おじさんは、なんだか変だ。
でも、もっと彼の言葉を用心深く聞いていたら、なんて。今更ながら思ってしまう。
※
その後、どうやって帰ったかは覚えていない。記憶にないのだから、ちゃんと帰ったかどうかは判断できなかった。
兎も角、母さんが運転する車に俺と弟のゆうすけが乗って、埼玉の家には到着した。それから数日後、夏休みが明けてしまい俺は高校に行くしかないくなった。
蝉はうるさいが、俺の夏は終了した。
「気をつけて、帰ってくるのよ」
母の言葉に曖昧に返事をして、俺は茹で上がるアスファルトの上を歩いた。熱さのせいか、俺は同じ制服の生徒がどれだけいるかなんて気にも留めなかった。
頭の中には、母の言葉がのし掛かる。
帰ってくるのよ。
俺は父親とは違う、そんな言葉が口から出そうになった。漏れ出たのはため息だけだった。こうも暑いとうんざりしてしまう。文句も出てこない。
俺の足が止まった。固く閉ざされた校門の前にして、俺は鉄格子に触れた。
「あちっ!」
灼熱の温度を纏った鉄に触れたのだから当然だった。しかし、こんな調子だと誰も学校に入れないぞ。
「なにやってんだ金本」
鉄格子の向こう側、学校から体格の良い男性がやってくる。眼鏡をかけているが、人の良さそうな顔立ちの体育教師だった。
「今日、始業式だから」
「なに言ってんだ。始業式は9月1日からだぞ」
頬を汗が流れる。
「そう、でしたっけ」
「おかしな奴だ。夏休みボケを治してから登校してくるんだぞ」
「あれ、おかしいな」
照れ臭くなってしまい頬をかく。目をそらした時、俺は校内に見覚えのないものがあるのに気づいた。暑い蜃気楼の中で、白い光を受けながら学校の庭に置いてあるそれは、妙に俺の視界を奪う。
「じゃあ、先生学校で仕事あるから」
「先生」
帰ろうとした教師を呼び止めると、機嫌を損ねず彼は振り返ってくれた。
「どうした」
「あんなところに、お墓なんてありましたっけ」
白い光を受けて尚、黒く淀んだ空気を纏う石。しかし、異様な光景はそれこそ幻のように消えてしまっていた。
「なんだ、本当に大丈夫か」
「え、いや」
「保健室使うか」
教師が校門の鉄格子のカギを開けようと屈む。その手が死体に群がる蛆のように見えた。なにか、得体のしれない不気味なにかに。
「い、行きます。俺」
真夏の白い光の中を、俺は走って去って行った。
蝉が頭の上から覆いかぶさってくる。夜に訪れる不安の波を思い起こさせた。
※
通学路から家まで十分もかからない。しかし、そのまま家に帰るのは気が引けた。頭上を押し付ける熱波に当てられながら外出できるのは、せいぜい三十分ぐらいだろう。
家にいると居た堪れない。そんなことを思うようになったのは。父が消えてからだ。
「よろしくおねがいします」
家から一駅分離れた小さな商店街で、俺は時間を潰そうと考えていた。女性からティッシュを貰い、差し込まれた広告をじっと見る。金融会社のものだ。
父が突如姿を消してから、はや一年。どこで何をしているんだろうあの男は。おかしなもので、家の食卓に膳が三つしか並ばなくなっても違和感を持たなくなってしまった。
「すいません」
よそ見していたせいで通行人と肩がぶつかる。相手はこちらに目もくれていなかったが、俺はその顔をチラと見た。真っ白なシャツの第一ボタンを外しただけのラフな格好の男。目尻のしわと良く焼けた肌が、俺の思考を現実に引き戻した。
「父さん」
自分で思った以上に大きな声を発し、数秒俺の鼓動だけが聞こえた。
通行人は誰も止まらない。
一瞬だけ見えた確かな父の姿は、群衆の中に忽然と消えた。
「よろしくおねがいしまーす」
元気な女性の声が、再び背後でした。今度は少し間延びしており、俺の空っぽの心に潜り込む。蝉の声が徐々に大きくなっていって、俺は意識をはっきりさせることが出来た。
気づいてはいけないことに、目を追ってしまう。
去ろうとした足が動かなかった。逃げるように動き始めたのは、どこよりも遅い数秒後。
雑踏の隙間を縫って町から出る、情けない俺。
俺の足元を縋るように影が追いかけてくる。それだけでいい。この日差しで真っ白なアスファルトから逃げなければ。
※
歩いたのは数歩で、俺の足はそのまま止まることはなかった。速度を落として、誰かの足元を、見たくない。幸いにも誰ともすれ違うことはなかった。
日差しはこんなにも暑いのに、蝉だけは耳障りだ。
「変なことがあったら、電話しろ」
正雄おじさんの言葉が頭の中で木霊する。
俺は学校カバンの中にしまっていた折り畳み財布から、一枚の皺くちゃの紙を取り出した。「0767」から始まる10桁の番号が滲んでいる。
視界が澱み、俺は早く家の中に入ろうとした。
早く、正雄おじさんに電話しないと。
家の横に、墓が一基。
「わあ」
今日は、一週間続く猛暑日の中でも特に熱波が強い。朝のニュースで言っていた。それを母さんが得意げに俺に話し、弟はまだ寝ていて挨拶も出来なかった。
俺の肺から、奇妙な酸素が噴き出る。
「けいちゃん、どうしたの」
ホースを手に玄関から出てきたのは、エプロン姿の母だった。花壇に水を撒くタイミングと被ったのだろう。
母の天然の巻髪が今日も元気に跳ねている。いつも通りの姿だ。それだけで肩の力が抜ける。
「今日は登校日じゃなくて」
誤魔化さず正直に話すのは、随分久しぶりだった・
「あら、そうなの。ごめんなさいね、私もうっかりしてて。正雄さんから頂いたヨーグルトとチーズあるわよ。好きに食べて」
母が俺の前を通り、ホースのグリップを握って水を撒くと体温が下がっていくのを感じた。シャワー状の水が空気に触れて、微かな虹が見える。
盆過ぎの処暑。まだ日は高い。
「花が枯れるよ」
日が高く気温が高い時に水分をやるのは花にとって良くない。小学生の時、園芸の手伝いをしていた俺に母自身が言った言葉だった。
母は水を撒きながら、顔の表情は伺えない。
「水をもっとあげないと」
ボソリ、と呟く。
俺に伝えたい訳ではないのだろう。
水を吐き出すホースの口から、最近水荒れのひどい母の手に目が移る。いつも器用に土の加減を見定めていた筈なのに、見境もなく一気に水流を流し込んでいた。
母は、左利きだったろうか。
「先に上がっとくよ」
背後で母の間延びした返事が聞こえる。
リビングにいる弟の足が見えたが、俺は構わず廊下に置かれた固定電話に向かった。スマートフォンばかり使うので、俺は珍しく使う機械に多少戸惑った。
おかしな現状のせい、というのもある。
正雄おじさんが書いてくれた電話番号と、自分の右手を何度も見る。ボタンを押しても、音が鳴らなかったり正しく押せなかったりして、10桁を正しく押すことも出来なかった。
そういえば、俺は再配達の電話も出来ない。
今日はスマートフォンを一回も触っていない。そっちで電話したほうがいいかな。
ゆるゆると俺は耳に当てた受話器を戻した時。
廊下に喧しい叫び声が聞こえた。
「あ、あ、はい」
固定電話の受信音に慄きながら、俺は再び受話器を耳の位置に戻す。
「もしもし」
正雄おじさんだ。
「良かった。俺から連絡しようと思ってて」
咄嗟に出た声音に、俺の緊張具合が分かる。肺から出た酸素を皮切りに、俺の全身を汗が吹き出る。弟は呑気にゲームをしているだろうし、母は悠長に花に水やりをしている。
この異様な町はなんだ。俺の住んでいた町か。
「落ち着きなさい」
「おじさん言ってただろ。変なことがあったら、電話してこいって。あったんだよ」
息もつかずに一気に捲し立てる。
隣町で目撃した光景のことや、形容しがたい違和感を誰かと共有したかった。
「さちが死んだんだ」
止まらぬ勢いの俺の心情に、おじさんは小石を撒いて転ばせる。
「誰のことだよ」
「厩舎で今年春に生まれた仔牛だよ。けいすけ君、可愛いがってたから」
それは覚えている。しかし、今はそれどころではない。非情に思われようが構わない。おじさんには申し訳ないが、正常ではいられなかった。
「父さんに会ったんだ!」
母に聞かれたかもしれない。
「なにっ。康太にか」
「そう。何も喋れなかったけど、確かに父さんだった。それと、町で変なもの見て。町、俺の隣の町なんだけど」
どもる俺に、正雄おじさんは頷いてくれる。およそ430キロの距離からでもだ。
「何があった」
「影が、ないんだ」
あの光景は、時間が経つにつれて俺の脳裏に焼き付いていった。最初は、単なる見間違いかと思ったが、あの何もないアスファルトは奇妙そのものだ。見間違えるわけがない。
無数の通行人は、澄ました顔で地面を歩く。なにも引きずらず。
「疲れているんじゃないのか」
乾いた笑いが漏れた。
おかしなことを最初に言い出したのは、あんたじゃないか。そのことが気になって、今日の出来事を必死になって伝えようとしているのに。
大人はいつも寸でのところで手を離す。
父さんも、母さんも、おじさんも。正雄おじさんがいっそのこと父さんだったらなんて、俺は思っていたのに。
「そうかも」
「だいじょうぶか」
俺の心はもう焦ることも、波風が立つこともなかった。
身勝手なことに、暗闇で眠る仔牛のさちが思い起こされる。
「さちは体調が悪くなって、亡くなったんですか」
家畜は好きでもなかったが、さちは好きだった。あどけない、母の元から離れてフラフラする様が可愛かった。少し前の弟にはあった、純粋な眼差しが俺は好きだった。
もうどうなってもいい。せめて、さちのことは知りたかった。
しばしの沈黙のあと、正雄おじさんが告げた。
「首を切られていた」
「事故で、死んだってこと」
「そんなんじゃないんだ。ひでえ。刃物で切ったみたいに。辛かったろうになあ」
「兄ちゃん」
驚いて足元を見る。
正雄おじさんの嗚咽を遮るように、弟のゆうすけが俺の傍にやってきて不思議そうに尋ねてきただけだった。ゲーム機を片手に、俺のズボンを掴んでいる。
「どうした」
「ぼくのこと、可愛くなくなったの」
愛想笑いが引きつる。
「リビングでゲームしてろよ。廊下は暑いから」
ゆうすけの黒くて大きな瞳は俺を逃がさない。
「さちみたいじゃなくなったから、好きじゃなくなったの」
「何言ってんだ」
年下の弟に感じてはいけないはずの嫌悪感が、腹の底から這いあがってくる。蝉のやかましい声も、もう聞こえない。熱気も、焦燥も。
受話器を握り締めている手が、汗で滑りそうだ。
激しい落下音が、受話器から聞こえて反射的に耳に当てる。
「おじさん、どうした」
「帰ってこい」
なんて言ったのか聞こえなかった。いや、聞かなかったことにした。
「なに」
「帰ってこい」
「家には帰ってるよ」
受話器の雑音の波に乗って、生暖かい息が鼓膜を舐めた。
「ちゃんと、帰ってこい」
俺は足に痛みを感じ、受話器を落とす。床に当たり、力なく伏した機械をじっと見てしまった。足を見れば、ゆうすけが俺の足を小さな手で掴んでいる。万力のような力に、俺は小学生の弟を突き飛ばした。
「こら、何しているの」
遠くから母が駆け寄ってくる。当然、力なく蹲る弟の方にだ。
底意地の悪い、程度の低い苛立ちが俺の腹で煮え滾る。
「そいつが悪いんだ」
「痛かったねえ、ゆうすけ」
母の手がゆうすけの手を撫でさする。
ゆうすけは、子供さながら母の腕の中で静かに守られていた。先ほどまでの邪悪さは微塵も感じられない。当然だ。小学生が万力を持てるものか。
なら、俺の痛みはどう説明する。
「俺の話を聞けよ」
「さちも痛かったろうにねえ」
慣れ親しんだ名前のように、さらりと母の口から出てくるその名前。
正雄おじさんの家で、母さんは厩舎の手伝いは一切していない。俺が目掛けている仔牛の話も、一言もしなかった。
違和感だけが、果て無く俺を問い詰める。
「なんで知ってんの」
「なにが」
「さちのこと。聞こえてたの」
「首無し牛に乗って、帰ってこい」
おどろおどろしい言葉が、ゆうすけの小さな歯の隙間から出てくる。
「ゆうすけ」
名を呼んでも、目は真っ黒で俺なんか映っちゃいない。
「帰ってこい」
今度は母が、俺に投げかけた。正雄おじさんのような、ゆうすけのような、全く知らない誰かのような。
「俺の、い、いえ、は、ここだろ」
逃げようにも玄関に二人がいる。俺は足がすくんで、骨を抜かれてしまったみたいに床にしゃがみ込んだ。
母は、ゆうすけは、正雄おじさんは、一体どんな人だったろうか。
目の前で俺をじっと見つめてくる二人は、俺と暮らしてきた人なのか。もしかして、何かに気づいた父さんは、早々にこの家から消えてしまったのか。それとも、この世界から消えてしまったのか。
群衆に紛れ、存在を消して。
四つの手が俺に伸びてくる。小さな手、母の荒れた手が俺の視界を遮る。少しでも家族を気にかけていたら違う結末だったんじゃないか、なんて。
「帰ってこい」
受話器の奥から、声がした。
※
「帰ってきたッ」
目を覚ますと、そこは布団の中だった。寝そべる俺の顔を、母とゆうすけ、正雄おじさんが覗き込んでいる。
目を瞬かせて辺りを見渡す前に、ゆうすけが俺の体に抱き着いてきた。
「兄ちゃん」
潤んだ瞳のおかげで、俺の逸る鼓動は治まっていく。
「急に倒れたのよ。心配したわ」
柔和な母の顔に、俺は思わず顔を俯かせて目尻を拭った。誤魔化すように弟の形の良い頭を撫でる。
「くすぐったい」
「夜遅くまで、ごめんな」
ここは正雄おじさんの家だった。金沢の父の酪農を営む実家で、立派な平屋がある。そこの一室で、ある日倒れた俺は寝かされて周囲に心配をかけたのだろう。
よく考えなくても、あんな日常あるはずがない。
ホッと安堵したタイミングが、正雄おじさんと重なった。
「まあでも、良かったよ。さあ皆、晩御飯を食べようか」
「そんなに寝てたの」
「夕方から四、五時間な」
正雄おじさんの手が俺の肩を叩く。
「痛って」
「元気そうね」
母がまだ緊張を残した顔で俺を見る。安心させないと、と心のどこかが俺に働きかける。
「父さんみたいに消えたりしないよ」
質の悪い冗句みたいな、自分でもセンスのない言葉選びだったと言ってから反省した。しかし、母も抱きつくゆうすけも正雄おじさんもキョトンとしている。
「まだ治っていないんじゃないか」
俺の背後の襖から出てきたのは、あろうことか夢の中で会った先生だった。大きな体躯の眼鏡をかけた体育教師が、ジャージ姿でやってきた。
「貴方、息子が心配じゃないの」
母は何事もなく、背後の教師に語り掛けた。怒った言い方でも、語尾が上がるのでまったく怖くない。いつもの母の怒り方だ。それが余計に混乱する。
「俺の息子は丈夫だからな。でも心配だから、スポーツドリンク買ってきた」
「お前は相変わらずだな、康太」
正雄おじさんですら、まるで自分の親族のように彼に接する。
「調子はどうだ。けいすけ」
真っ直ぐに教師は俺を見据えた。
父が息子を心配する。ごく自然な光景だ。だが、俺は呆然として何も言えずにいる。やがて痺れを切らしたのか、教師は2リットルのペットボトルを俺の横に置いた。俺の背中を荒く叩いて、去って行く。
「晩御飯持ってくるからね、ケイちゃん」
母は言い残し、ゆうすけを連れて去って行った。
処暑の頃、夜は松虫の声が夜に響く。
立ち上がろうとする正雄おじさんの腕を、俺は掴んだ。
「俺の父さんって、あの人で合ってんの」
「なんだ」
合点がいかないのだろう。俺もそうだった。
「牛を殺してあの世に行く幽霊の話、知ってる?」
俺の目を見て、正雄おじさんはからかいの類ではないと察したのだろう。俺は、正雄おじさんのそういうところが好きだからわかる。
居直り、俺の目を真っ直ぐ見てくれる。
「初めて聞いた話だ」
頭を金づちで殴られたような衝撃に耐え、言葉を続けた。
なにかを証明しなければ、俺はここで消えてしまうかもしれない。
「じゃあ」
「もう寝てなさい」
「さちは、どうしてる」
「誰だ」
「今年生まれた仔牛」
怪訝そうな正雄おじさんの顔が、俺の首をゆっくりと絞めていく。
「今年は、仔牛は生まれてないぞ」
お盆の夢だと言えば聞こえがいいのかもしれない。しかし、そんな規模の話じゃなかった。父が、蒸発していなくて。さちが、生まれていない。あの悪夢も、それまでの俺の人生すら、暗闇に溶けて判別できない。
俺のいるここは、本当にここにいるべき場所なのか。或いは、俺はいるべきなのか。なんの証明もできないのに。
狂ったように周囲を見渡し、俺は和室から見える庭にあるオブジェを指した。
「あれは、誰の墓」
庭の真ん中に、一基の墓。
「お前の墓だよ」