2.ウェンディという少女
「私にも、何が何だかわからないわ……」
デルカも戸惑ったように、包帯を取り外して自分の腹部を確認している。
そこには確かに、深く抉られた跡が服に残っていた。大きく切り裂かれ、血の跡も生々しい。
だがその裂かれた服から覗く肌に、傷は一切残っていなかった。
「デルカ、どこか痛みや苦しい所はあるか?」
「……ないわね。むしろ体力も回復して、疲れがないわ」
ゲイングは戸惑う様に、デルカの傍らに膝をついたままの少女を見た。
「なぁ嬢ちゃん、一体何をしたんだ?」
「創世神様に、その方の助命を祈っただけです」
ウェンディは淡々と、当たり前の様に口にした。
――創世神。聞いたことがないが、邪教が崇めているという神だろう。
ゲイングがおそるおそるデルカに尋ね直す。
「なぁデルカ、本当に身体に変調はないんだな?」
「さっきも言った通りよ。すこぶる調子がいいわ」
デルカは立ち上がり、自分の身体を動かして確認していく。だが特に異変を感じていないようだった。
ゲイングが静かに思案を始める。
――助かる訳がない傷だった。それは手当てをした俺が、一番よく理解している。ましてや、あの出血で意識が戻るなどありえない。一体何がおこった……?
思案を続けるゲイングに、少女が告げる。
「私はあなたと約束しました。その人を私が助けたのですから、あなたは私のことを助けてください」
ゲイングはデルカと顔を見合わせた。
「ゲイング、そんな約束をしたの?」
「あ、ああ……つい、その場の勢いでな」
ゲイングの瞳が、再び少女の瞳を捕らえた。少女は変わらず無表情に、ただ真っ直ぐ瞳を向けてくる。
少女の直向きな視線が、ゲイングの心を射抜くように注がれていた。
ゲイングは頭を激しく掻きむしった。
――筋は通さなきゃならない。こんな稼業で生きる人間としての、せめてもの人間らしさだ。それが俺の信条だ。
「ああそうだよ! 約束した! ……仕方ねぇ。約束は約束。依頼は返上だ――なぁ嬢ちゃん。あんたは俺たちに、何をしてほしいんだ?」
「私を北の大陸に連れて行ってください」
****
ゲイングは呆気に取られたが、すぐに尋ね返した。
「北の大陸って……リュークヴィスト大陸の事か?」
少女は黙って頷いた。
――確かに、北の大陸は異教徒に対しても寛容だと聞く。大小さまざまな宗教があるとも。ならば、この少女が逃亡する先として間違ってはいないだろう。
ゲイングは溜息をついた後、少女を見て口を開く。
「これから大陸に送り出すまで、連れ立つことになるんだ。自己紹介をしておこう――俺がゲイング、こいつがデルカだ」
「ウェンディです」
少女は静かに応えた。
「じゃあウェンディ、ここを出る。付いてきてくれ」
三人は上層、迷宮の入り口を目指し出発した。
警戒をしつつデルカが先行し、その後ろをゲイングとウェンディが並んで歩いていた。
「嬢ちゃん、あんたのその力はなんなんだ?」
「創世神様の奇跡です。祈りを捧げる事で、創世神様は私に力を貸してくださいます」
ウェンディの瞳には迷いがない。嘘をついている様子は見られない。彼女は心からそう信じ、祈りを捧げているのだ。
神を信じないゲイングには、理解できない心境だった。だが話に聞いたことがある狂信者というのは、きっとこういう者を言うのだろう、と思っていた。
ウェンディと狂信者は紙一重だ。しかし、実際に神の奇跡としか思えない力を振るう事ができる。それだけが唯一の違いだった。ならば、創世神とやらは実在するのかもしれない。
「ゲイングが他人に興味を持つだなんて、珍しいこともあるものね」
すっかり元気になったデルカが、周囲を警戒しつつ、顔も向けずに声だけを投げかけた。
ゲイング自身、珍しい事だと思っていた。そのままウェンディに次の質問を投げかける。
「嬢ちゃんの生まれはどこだ?」
だがウェンディは何も応えない。ただ黙って、前を向いて歩いている。
「……リュークヴィスト大陸で、何をするんだ?」
やはり沈黙が返ってきた。どうやらウェンディは、ゲイングたちにも余計なことを告げる気はないらしい。
「……俺たちは嬢ちゃんを、北の大陸へ連れて行くだけでいい。嬢ちゃんだけを大陸に向かう船に乗せるつもりだ。それであってるか?」
「はい、それで構いません」
今度は明瞭な返答をウェンディは口にした。
やはり、余計なことを知られたくないようだった。
――こんな少女一人をリュークヴィスト大陸に一人放り出す。それは、見殺しにするに等しい行為ではないか? こんな幼い少女が、安全に旅をできる場所とも聞いていない。
「大陸に身寄りが居るのか?」
「身寄りは居ません。父も、そして母も死にました」
デルカも口を挟んだ。
「ウェンディあなた、一人で大陸を旅するつもり? 正気の沙汰じゃないわ」
「創世神様のお導きがあります。何も恐れるものはありません」
――狂ってる。紙一重なんかじゃない。この子は狂信者そのものだ。
ゲイングは背筋に寒いものを感じた。
ウェンディの真っ直ぐな瞳には、今まで一切の迷いがなかった。周りで信徒たちが切り殺されようとも、一切の怯えを見せなかった。その理由がこれだ。既に正気ではないのだ。
だがそこでゲイングは思い直した。
ウェンディは若い――いや幼い。世の道理が理解できなくても、仕方がないだろう。
周囲の大人たちに”これが真実だ”と物心つく前から吹き込まれて育てば、それが彼女に取って唯一の真実になる。それ以外の世界を知らないのだ。
ただ、それだけのことなのだろう。それが偶々、狂信者の姿に映るだけなのだ。
彼女がいつか大人になり、世の中を知れば普通の人間になることもできるのではないだろうか。
しかし、今の頑ななウェンディの心を解きほぐすのは難しそうだ。その役目は、いつか別の誰かが担うだろう。
デルカも同じように考えたのか、それ以上ウェンディに余計な詮索をする事はしなくなった。
****
「――やっと地上だな」
ゲイングの両足が地上の地面を踏みしめた。
心地よい新鮮な外気を胸に吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
「ゲイング!」
先に地上に出ていたデルカが声を張り上げてゲイングを呼んだ。
すぐにゲイングも、自分たちに向けられる殺気を感じ取って気を張り詰める。
長剣を抜き放ち、ウェンディを背後に隠した。
そのまま周囲の気配を探っていく。
この迷宮の入り口は森の中だった。周囲は木に囲まれ、身を隠す茂みも多くある。姿は見えないが、どこかに潜んでいる。
――気配は五つ、五人か。
「気付かれちまったか――なぁ、旦那、取引だ。そこの嬢ちゃんを今すぐ引き渡せば、旦那方の命を奪う真似まではしないぜ?」
どこからか響いてくる男の下卑た声に、ゲイングが応える。
「獲物を横から掻っ攫おうってのか? 雑魚の考えそうなことだな!」
男の笑い声が響いた。
「ひゃはは! ”賢い”と言って欲しいなぁ。わざわざ危険な迷宮に潜る必要なんかねぇんだ。誰かが必死な思いをして連れて来たところを、俺たちは無傷で受け取る。実に賢いやり方だ」
「欲しければ、力ずくで奪ってみろ――もっとも、この程度の迷宮にも潜れない雑魚には、無理な話だがな!」
そのゲイングの挑発に応じるように、周囲の殺気が強まっていった。
男の叫びが森に響いた。
「――やれ! 身の程を思い知らせてやれ!」
その声に呼応して、あちこちの木陰や藪の中から四人の男たちが現れた。
――出て来たのは四人、声の主はまだ身を潜めてるな。
四人とも長剣を抜き放ち、一直線にウェンディを狙っていた。誰かがウェンディを攫ってしまえばそれでよい、という事だろう。
――ならば残る一人も隙を伺い、ウェンディを攫おうとしているはずだ。
「デルカ! 嬢ちゃんを!」
弾かれるようにデルカがウェンディの元へ走り、入れ替わるようにゲイングが前へ出る。
そのまま近寄ってくる男たち目掛け、ゲイングは疾走を続けた。
瞬く間に一人、二人と首を跳ね、切りかかってきた三人目も袈裟斬りに切り捨てた。
――なるほど。この腕じゃあこの迷宮は荷が重いだろう。上層すら踏破できまい。
恐怖におびえ、足を止めた四人目も、防ごうとした長剣ごとその首を跳ね飛ばしていた。
あたりに血の臭いが満ちる。
この下衆共の死体は、森の獣か魔物が処理するだろう。
ウェンディの傍で周囲の気配を探っていたデルカがゲイングに告げる。
「逃げられたみたいね」
「ああ、そうだな」
既に周囲には殺気も敵意も気配もない。逃げ足だけは一人前らしかった。
デルカが呆れたように死体になった男たちを睥睨した。
「こんな雑魚が、”剛剣のゲイング”に喧嘩を売るとか……馬鹿じゃないかしら」
異名を口にされ、ゲイングの顔に苦笑が浮かんだ。
誰が最初に呼んだかは知らないが、ゲイングの二つ名はそういう名前になっていた。いつの間にかそう呼ばれ、今では冒険者の間ですっかり定着していた。
否定してまわるのも面倒で、好きに呼ばせることにしたのだ。
ゲイングとデルカの二人組は、この島で上位に位置する熟練の冒険者だった。
ゲイングも気疲れしたように応える。
「馬鹿だから俺の顔も知らなかったんだろう。そもそも、自分じゃ潜る事も出来ない迷宮を踏破してくる奴らを相手に、あの人数で勝てると思える、幸福な頭の持ち主だ」
ゲイングは剣を腰に納め、改めて自分、そしてデルカとウェンディを見た。
全員血塗れで、これでは目立ってしょうがない。
「――よし、まず近くの村を目指そう。そこでどうにかして身なりを整えなきゃならん」
****
――数日後、一人の痩せた男が、冒険者ギルドへ足を運んだ。そのまま窓口へ行き、窮状を訴えた。
「おい聞いてくれよ! この手配書にある子供を他の冒険者に掻っ攫われた! 横取りされたんだ!」
やる気のなさそうな受付の男が、胡乱気に話を聞いていく。
「その冒険者の風体は? どんな男だ?」
「体がでかくて、一振りでこっちの剣ごと首を跳ね飛ばすバケモンだ。仲間はみんなやられちまった!」
「……その男の傍に、金髪の女が居なかったか?」
「あ? ああ、そういえば居たな」
「”剛剣のゲイング”が獲物を横取り、ねぇ……ふーん」
受付の男が、痩せた男の全身を舐めるように見て告げる。
「あいつはそんなことをする男じゃない。お前が手下と横取りしようとして、返り討ちに遭ったんだろう?」
「ぐっ! だがよぉ! 実際に横取りされたんだって! 嘘じゃねえ! 俺たちが確保したこの手配書のガキを奪われてるんだよ!」
受付の男は猜疑の眼差しで痩せた男を見ている。
「ふーん……まぁ一度だけ信じてやろう。一応手配書を出す。本当なら大事だ。あいつらからも、事情を聴く必要がある。お前が嘘をついているなら、お前の首をゲイングが切り落とす。それだけだからな――おい! この手配書にゲイングとデルカも追加して配ってくれ」
やる気のない受付の男は、事務所の中にそれだけ伝えると、痩せた男を鬱陶しそうに手で追い払った。
****
――痩せた男が冒険者ギルドを訪れる数日前。
三人が着用できる衣服を村で調達する事は難しかった。
デルカは女性として魅力的すぎる身体が災いし、ゲイングの体躯で着用できる衣服もない。ウェンディは血で汚れていようと”信仰の証だから”と法衣を脱ぐことを拒んだ。
頭を抱えたゲイングに、デルカが妥協案として提示したのが三人分の外套だった。全身を覆い、頭巾も目深に被れば顔も隠せる。ゲイングは寸足らずになるが、そこは諦めた。
ゲイングもデルカも、ギルドの依頼を受けつつ、それに反してウェンディを逃そうとしている。ウェンディも含めて三人とも、顔を見られるわけにはいかなかった。
ウェンディを大陸に逃した後、二人で何食わぬ顔で”手配書の少女は見つからなかった”と告げるつもりだった。
「北の大陸となると、北の港町から連絡船が出ているはずだ。それに乗せよう。だがウェンディの姿をなるだけ隠した方が良い。街道を歩くのは諦めて、森を突っ切るぞ」
村で調達した食料と持ち込んだ糧食に加え、森の中で獲物を狩りながら、三人は北の港町を目指した。
途中の川でウェンディを説得し、少しの間だけ法衣を脱いでもらい何度か洗い流すうちに、ウェンディの法衣から血は綺麗に流れ落ちて行った。
デルカは呆気に取られながら真っ白な法衣を眺めている。
「なんであの血が落ちるの? どういう仕掛けなの? ねぇウェンディ、知ってる?」
ウェンディは静かに首を横に振った。
ふぅ、と溜息をついたデルカは、考える事を諦めた――瀕死の自分を助ける神様だ、衣服の血糊を洗い落とす奇跡ぐらいは見せるだろう。
理解できないものを、無理に理解しようとするのは頭の無駄遣いだ。それはもう、そのまま受け止めるしかない。
血糊が落ちて真っ白な法衣になっても、やはりそれはそれで手配書に示されているので目立つ。再びウェンディは外套を羽織り、先へ急いだ。
港町が見えてからは街道に戻り、三人は先を急いだ。
港町に入り、ゲイングとデルカの服を新調した後、念のために冒険者ギルド支部の外にある掲示板を確認に行った――逃がした男が余計なことをしていないか、胸騒ぎがしたのだ。
そこにはウェンディの手配書に、ゲイングとデルカの名前も併記されていた。
「あたしたち、ウェンディを横取りした疑惑を持たれてるわね」
「俺たちは信用が高いが、一応は両者の言い分を聞いておきたい、という所だろう。だがこうなると、ウェンディをどこで逃し、どこへ向かったのか、詳しく打ち合わせる必要がある。俺たち程の冒険者が取り逃がすとも、思ってはくれないかもしれないな」
少なくとも、ゲイングとデルカが揃った状態でなら、どんな小賢しい子供だろうと逃がさない自信があった。
ギルドもそれはわかっているだろう。根掘り葉掘り聞かれるはずだ。
「……めんどくせぇな。俺たちもほとぼりが冷めるまで、北の大陸に行くか」
ゲイングの提案に少し驚いたデルカが、すぐに思案を巡らし頷いた。
「そうね。隠し通せる気がしないもの。ウェンディがこの島で見つからなくなって、最初に疑われるのは私たち。結局逃げる事になるなら、今逃げても一緒ね」
ゲイングは三人分の乗船券を購入し、三人はリュークヴィスト大陸への連絡船へ乗り込んだ――手配中の自分たちが無事に乗り込めたことに、ゲイングとデルカは胸を撫で下ろした。
個室に入り、その場に外套を脱ぎ捨てて、ゲイングは木の椅子に腰を下ろした。
デルカとウェンディも外套を脱ぎ、荷物へしまい込んだ――もう不要な品だが、この場に捨てても仕方がないだろう。船旅の間に海にでも捨てようか、という事で落ち着いた。
荷物を整理し終わったデルカとウェンディがソファに腰を下ろし、一息ついた。乗船券で確保したのは四人部屋の二等船室だ。ウェンディを匿わねばならないので個室の必要があった。少なくない所持金がほとんど消えたが、仕方がないと諦めた。
ゲイングが人一倍体格が大きいとはいえ、一人は子供のウェンディだ。三人で使うにはやや広い部屋といえた。
「なぁデルカ、お前はこれからどうする?」
ゲイングにも特に深い考えがある訳ではなかった。あのまま、あの島に居る訳にいかなくなっただけだ。
デルカは微笑んで返す。
「私は、ゲイングに付いて行くだけよ」
ゲイングは椅子に座りながら天井を見上げ、目を瞑った。
――昔からの腐れ縁、一蓮托生か。
目を開け、ウェンディの様子を伺った。
彼女は海を見るのが初めてなのか、窓の外に映る風景を珍しそうに眺めていた。水面の波が楽しいらしく、無表情がわずかに緩んでいる気さえする――もちろんそれは気のせいなのだろうが、瞳がどこか楽しそうな気配を漂わせるのだ。
その様子を見ながら、ゲイングは考える。
――こんな年端も行かぬ少女を、一人で大陸に放り出していいのだろうか。
大陸にこんな子供が一人で放り出されても、すぐに身ぐるみ剥がされて、人売りの手に渡るだけだろう。その後は悲惨な末路だ。
それを黙って見過ごすのは、ウェンディを見殺しにするのと同じではないのか。
大切な相棒であるデルカの命を救った恩人だ。そんな義理を欠いた真似をしたくなかった。そんなことでは筋を通したとは言えない。
しばらく悩み、思案した後、ゲイングは決意を固めてウェンディを見た。
「なぁ嬢ちゃん。大陸に行っても、俺たちが嬢ちゃんに付いて行っても構わないか?」
ウェンディはゲイングに振り向き、花開くように微笑んだ――それは、彼女が見せる、初めての人間らしい感情だった。
「創世神様のお導きがありました。よろしくお願いします」
その金色の瞳は、最初からこうなる事を見透かしていたようで、ゲイングは身体から力が抜けて行った。乾いた笑いが口から漏れる。
「ははは……こちらこそな。愛想が尽きるまでは、付き合ってやるよ」
「あら、ゲイングが愛想をつかすような子には、とても思えないけどね」
ゲイングが横目で見ると、デルカも微笑んでゲイングを見つめていた。
その青い瞳もまた、ゲイングの心を見透かすような眼差しだ。
「――はぁ。なんでこう、女ってのは男の心を見透かすのかね」
三人を乗せた船はリンデゴード島を出航し、リュークヴィスト大陸の港町ウェスティンを目指して進んでいった。
ここまでがハイファンタジー短編「邪教の姫と剛腕の男」の再構成です。
ここまでは三人称になった事と、描写が詳細になった事以外はあまり変わりません。
この次の話から長い物語になります。裏設定や途中からの恋愛路線変更などが待って居ます。