13.クールダウン
ゲイングの振り下ろした拳が、テーブルを粉砕していた。
一枚岩で作られたテーブルが砕け散っていた。
ゲイングの拳からは血が流れ、床に垂れている。
「あらあら、このテーブルを素手で壊すだなんて、人間業じゃないわ。凄い馬鹿力ね。でもその義憤に免じて、テーブルの弁償には目を瞑ってあげる。人が人らしさを見失ったら、獣と変わらないもの。そういう意味で、あなたたちは私好みよ? ――ねぇお嬢ちゃん、ウェンディといったかしら? この人の拳を癒してあげて。拳が砕けて骨が突き出てる。このままでは一生使い物にならないわ」
デルカが真っ青になってウェンディを見る。
ウェンディは静かにゲイングを見つめ、ゆっくりと近づいていった。
その血に塗れた拳に手をのせ、神に祈りを捧げ始める。
ウェンディの身体が白く輝き、その光がゲイングの身体も包み込む――光が拳に収束し、次第に光は消えていった。
ウェンディが手をどけると、そこには綺麗なゲイングの拳があった。
ゲイングは、その間ずっと黙ってウェンディを見つめていた。その眼差しは己の無力感に苛まれ、打ちひしがれたものだ。
ウェンディは祈りを終え、ゲイングを見上げた。
「……ゲイングさん。気にしないでください。私の心は常に創世神様のお傍に在る。それで私は満たされています」
それは今まで聞いてきた言葉と変わらない、篤い信仰心に溢れた言葉だった。
だが真実を知ってしまった今、聞いた者の心を寒々しい風が吹き抜けていった。
ここまで神を信じなければ、心が砕け散って死んでしまう――だから頑なに信じているのだ。信仰心という強固な糊で、壊れて砕け散りそうな心を修繕している憐れな少女――それがウェンディだった。
その原因が周囲の大人たちに在ったのだともマリンダは告げた。生贄にされた憐れな子山羊がウェンディの正体なのだと。
ゲイングはただ、やり場を失った怒りの矛先を探すしかなかった。ウェンディをこんな体にした張本人たちは、既にゲイングが切り殺している。怒りを叩きつける相手が見つからないのだ。
アインもやはり、固く拳を握りしめ耐えていた。その怒りの苛烈さは、ゲイングに引けを取らない。鋼の理性が必死に怒りを抑え込んでいるだけだ。
リティも、ミディアも、デルカも、泣きたいのを必死に堪えていた。ウェンディを案じ、心を痛めていた。
クインも内心で、静かに義憤の炎を滾らせている。どんなに静かでも、瞳に灯る炎は隠せていない。己の矜持が、取り乱すことを許していないだけだ。
ルインは一人、周囲の変化に戸惑い、黙っていた――彼の頭では、話についていけなかったのだ。
全員の様子を見渡したマリンダが、大きく溜息をついた。
「――ふぅ。みんな、そろそろ冷静になって? 今すぐは無理でも、快癒する可能性は残っている。全てを今諦める必要はないのよ? それに今は強欲の神を封印するために、ウェンディちゃんの持つ創世神の力が必要なの。その子の将来は、その後で考えてね。話が進まなくなるから、もうサービスタイムはおしまいよ。落ち着く時間をあげるから、私が戻ってくるまでに立ち直っておいて頂戴」
そう言うとマリンダは立ち上がり、奥の部屋に姿を消した。
リティが、せきを切ったようにウェンディに駆け寄り、背後から抱き締めた。
そのまま泣き出してしまったリティが回した腕を、ウェンディは眉をひそめて抱き止めていた。泣き出してしまった友に、なんと言葉をかけていいのかわからないのだろう。
デルカがウェンディの顔を呆然と見ながら、ぽつりと呟く。
「ウェンディがあんなにハッキリと感情を表情に出してる……」
――そう、驚くべきことに、心を壊されて感情を奪われたはずのウェンディが、他の人間と同じように感情を表しているのだ。
たった今、大人たちは彼女の背負わされた境遇を知らされ、絶望しかけていた。
しかし目の前のウェンディは今確かに、自分を思い、泣いている友に対して、困惑するという感情を表に出していた。どうか泣き止んで欲しいという思いが全身から伝わってきていた。それを表情に出していた。
今まで見てきた姿でも、信仰の言葉以外でここまで感情を表したことはなかった。
目の前に起こっている状況が理解できず、ほとんどの人間が呆然とウェンディとリティを見つめていた。
クインが冷静に状況を判断し、ゲイングに尋ねる。
「ゲイングさんの言う通り、ウェンディには快癒に向かう兆候があります。おそらく、以前はここまで感情を表さなかったのではないですか? 変化があったのはいつ頃ですか? 船旅がきっかけではありませんか?」
「……そうだ。船旅より前は、ウェンディはいつものセリフで浮かべる微笑み以外に感情を見せたことはない。その瞳に、感情を感じた瞬間はあったがな」
ゲイングが静かに応えた。彼もまた、ウェンディの変化に戸惑い彼女を見つめていた。
クインはその答えに頷き、穏やかな顔で応える。
「では、リティという歳の近い少女に出会い、友愛を感じ始めたのではないでしょうか。彼女の心に友愛の発露があったのです。ならば、他の感情の発露も期待できるでしょう。わずかな発露かもしれません。他の人間より些細なものかもしれません。ですが、彼女に人らしい心が残っていて、育っている。今はそう考えましょう。見守るのが最善だと――あのマリンダが、対価もなしにあそこまで助言を与えるのはとても珍しい事です。彼女もウェンディの事を見過ごせなかったのでしょう。その彼女の結論が、取り外さずにウェンディの強さに託すことだった。ですから彼女の助言を受け止めて、周囲の我々も見守りましょう」
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空気が落ち着き、男たちも怒りの矛を納め、冷静になりつつあった。
女たちもまた、しんみりとした空気を拭い去り、ウェンディを笑顔で囲んでいる――たとえわずかでも、感情を表に出せるようになったことを祝福したのだ。
ゲイングが落ち着いた声で語る。
「ウェンディをこんな風にしちまった創世神を、ウェンディが心から信仰しているってのは忌々しいが、俺たちが創世神に敵意を向ければウェンディが悲しむ。今は確かに、すべてを飲み込んで見守るしかない、か」
「それは違います」
ウェンディが静かに否定した。
「私がこうなる事を、創世神様も望んではおられませんでした」
「望んでいなかった? だが、ウェンディの心から感情が消えたのは、埋め込まれた古代遺物によって神とウェンディが強く結びついたからじゃないのか? その結び付いた神の力が強すぎて、感情が失われたんだろう?」
「私はこうなる前の自分を覚えていません。私の最も古い記憶は、薄く朧げな、形を持たない自分の意識と、そんな私の事を嘆き悲しむ大きな意識の存在です。強い悔恨の念をその存在から感じていたのを覚えています。ですが私の意識が確かな形を持ち、私が私であると思える状態になると、その大きな存在は強い歓喜に包まれたのです。私はその存在に尋ねました。なぜそんなに喜んでいるのかと。あなたは誰なのかと。その存在は応えました。私を救うことができたからだと。自分は創世神であると――これが、私と創世神様との出会いです」
ゲイングが呆気に取られた後、頭を掻いてウェンディに尋ね始める。
「……俺は頭が悪い。少し整理させてくれ。まず、ウェンディは古代遺物を埋め込まれた事で、記憶を失い、自我も破壊されかけていた。ここまでは正しいか?」
ウェンディが静かに頷いた。
「そして創世神は、そんな状態のお前を嘆き悲しみ、悔いていた――つまり、ウェンディに古代遺物が埋め込まれること自体が、創世神に取って不本意だったということになる。これも正しいか?」
ウェンディが静かに頷いた。
「ウェンディの自我が持ち直し、今のウェンディになった。ウェンディの心が助かった事を、創世神は喜んだ。そういうことなのか?」
ウェンディは頷き、口を開いた。
「創世神様を忌々しいと感じないで欲しいのです。常に私の身を案じてくださる慈悲深い神です。そのことを皆さんにも、どうか理解しておいて欲しいのです」
ウェンディがここまで饒舌に自分の事を語る姿を見せるのは、ゲイングにとっても初めてだった。
必死に、自分と創世神の関係を説明し、皆に理解して欲しいと言葉を尽くし、心から訴えていた。
今まで必要最低限の言葉すら、ろくに口にしてこなかった少女が、そうまでして願っているのだと、強く感じていた。
このこと自体が、ウェンディの心が感情を取り戻しつつある証左ではないだろうか。見ている者たちには、そう思えたのだ。
ゲイングが再びウェンディに尋ねる。
「……じゃあ、悪いのは全て、周囲の大人たちだったという事か? 記憶を奪い去り、自我を破壊するような事をウェンディに対して行った大人が悪いのか?」
ウェンディは首を横に振った後、口を開く。
「信徒たちはただ、創世神様に救いを求めた。その結果何が起こるのか、知らなかったのだと思います。唯の生贄を、命に代えてまでして守ろうとするでしょうか? 私には彼らが、私を通して創世神様を見て、救いを求めていただけに思えます」
ゲイングはウェンディと出会った時のことを思い返していた。
どの信徒たちも、己の命よりもウェンディを守る事を優先していた。
姫と呼び、敬っていた――例えそれが、創世神の依り代に対する敬愛だったとしても、その心に偽りはなかった。
”知らなかった”は免罪符にならない。その言葉では、ウェンディが生贄にされた事実を覆せない。
だが彼らは、ウェンディを庇って命を落とした。その事で贖罪を済ませたとも考えられる。ならば、死んでしまった者たちの罪をこれ以上問う真似は、するべきではないように思えた。
ならば創世神の罪も、周りの大人たちの罪も、これ以上問うべきではないのだ。”誰も悪くない”とウェンディが納得しているのであれば、それを受け入れるべきなのだろう。
ゲイングが大きく息を吸い込み、ゆっくりと大きな溜息をついた――その、身体を振り絞って吐いた息に、己の怒りを全て込めて、心の外に追い出した。
顔を上げたゲイングは、爽やかな笑顔を浮かべていた。
「……ウェンディがそれで納得しているなら、俺もそれで納得しよう」
デルカが微笑んだ。
「ゲイングが納得するなら、私も納得できるわ」
アインとミディアが顔を見合わせた。
「あいつらが納得したんだ。俺たちが四の五の言う問題じゃないな」
「そうね……今は、見守りましょうか」
リティが微笑みながら断言する。
「私は信じています。ウェンディならきっと、心の問題を克服できます!」
ゲイングは皆の様子に微笑みを浮かべた――皆がウェンディや自分の為に心を砕いてくれていた。その事に感謝したのだ。
そしてウェンディに尋ねる。
「……ウェンディ、最後にいくつか聞かせてくれ。ウェンディ自身は、今自分が創世神への信仰を失ったらどうなると思っているんだ?」
「自分の傍に在る創世神様の存在の大きさに怯え、恐怖で押しつぶされ、心が砕けて死んでしまうでしょう。そのことは創世神様も常に気にかけてくださっています。その為にも、私の信仰心が揺らいではならないのです」
「そんなに強い信仰心を、記憶のないウェンディがどうやって獲得したんだ? 最初は何も分からなかったんだろう?」
「創世神様から最初に”神である自分を強く信じて欲しい”とお願いされました。まっさらだった私は、素直にそれに従いました――存在の大きさに気付くより先に、信仰心を身に着けたのです。次第に創世神様の偉大さを強く感じるようになりましたが、創世神様から常に言い含められていたので、それで耐える事が出来ました。今では耐えている自覚すらありません。傍に在る事が当たり前になったのです」
「その信仰心と同じくらい大きな心の拠所が生まれれば、心が押しつぶされる危険は回避できる。そんな拠り所があれば、創世神を失っても立ち直れる。これは変わらないんだな?」
ウェンディは静かに頷いた。
つまり、古代遺物をウェンディから取り外すにしても、まず新しい拠り所の発露を待つべきなのだ。今の様子を見る限り、その望みは捨てなくても良いと思えた。
古代遺物を取り付けた状態でそんな拠り所を持てたのであれば、危険を冒してまで取り外す必要もないかもしれない。そこは、ウェンディの心の成長次第だろう。
ゲイングは軽く溜息をついた。
「――ふぅ、なるほど。結局結論はどう考えても『ウェンディを信じて見守れ』か。言葉は違うが、現状を維持しろという魔女の助言通りだな。あのわずかな時間で、ここまで全部見抜いていたのか。とんでもない慧眼だ。俺たちにも分かりやすく伝えてくれてりゃもっと良かったんだが、信頼関係のない魔女の言葉で”信じろ”などと言われても、俺には信じる事が出来なかった。だから、あんな”諦めろ”なんて言葉になったんだな」
クインが微笑んだ。
「マリンダは古代の神について、我々より遥かに多くの知識を持ちます。そんな彼女であれば、短時間でもこのくらい見抜く事はしますよ――それに、頭が悪いと自分を卑下する割に、マリンダの事まで含めて状況をよく理解できています。ゲイングさんは自分が思っているほど、頭の悪い人ではありません。知識が不足しているだけです」
ウェンディがゲイングに近付き、その手を両手で握り、目を見つめた。
「私の為に、常に冷静なゲイングさんが、あれほど激しい怒りを見せてくれた。アインさんも、同じような怒りを必死に噛み殺していた。他のみなさんの気持ちも含めて、私は嬉しいと感じています。ありがとうございます」
ウェンディは小さく微笑んだ。それは微かだが、確かに喜びの発露だった。
あのウェンディが、信仰以外の事に喜びを覚えたと口にし、表情に出したのだ。
その微笑みは直ぐに去ってしまったが、その場にいる全員がその表情を見ていた。
「はは……ははは。ウェンディが笑ったぞ。今、確かに――俺は見た。確かに見たんだ」
喜ぶゲイングに、ウェンディが無表情のまま応える。
「あの……あまり大袈裟に喜ばれても……その……いたたまれなくなります。できれば、控えめにお願いします」
「……今度は照れたぞ。表情にこそ出なかったが、ウェンディが照れた。俺はウェンディが照れるところを初めて見たんだ!」
ウェンディはさらに居心地が悪そうに、落ち着かない素振りを見せた――さらに照れたのだ。
クインが意見を述べる。
「我々が思っている以上に、ウェンディの状態は良い。心が強い証拠かもしれません。もっと、未来に希望を持っても良いと思います。今のままでも、年相応の少女らしい心を持てるかもしれない。その希望を持てるくらいには、良い材料です」
「気持ちを立て直せた様ね。もう大丈夫かしら?」
全員が声に振り返ると、そこには微笑むマリンダの姿があった。




