ハナミズキを探して ―春―
ある晩のことです。
真白に咲いたハナミズキが何を悲しく思ったのか、夜露を溜めて溢れさせました。溢れてこぼれた夜露はみるみるうちに水たまりを作ります。動物たちは心配そうに樹を眺めながらもその清らかな夜露を飲みに集まりました。
本当に何を悲しく思ったのでしょう。夜露はどんどんこぼれて湖になり、とうとう海になってしまいました。あたたかな晩でしたので、動物たちはそのハナミズキの海を気に入って小さなウスバカゲロウはもちろん、大きなゾウでさえ水浴びを楽しんだのでした。
このお話はそんなあたたかな晩に始まります。
あぁ腹がへったなぁ。
1匹の小さなウワバミは木の上から、ぼんやりと海を眺めました。
目が覚めると、地面は果てのない海になっていました。木に登って寝ていたので気づかなかったのでしょう。
眠る前に何を呑んだかはもう覚えていませんが、きっとかなりの大物だったのです。
だってそうでなきゃ、海が出来上がるまで眠りこけることなんてないや、とウワバミはしる、と舌を出し入れしました。
沖の方で動物たちが楽しそうに水浴びしているようです。
ボクは海に入れないけど、水浴びってそんなに楽しいのかしらん。
ウワバミは枝を伝って森の端っこまで這いました。船の舳先から海を眺めるように、遠くの水平線を見つめます。
波が静かに立って時折色が変わるので、まるで水面に花びらを散らしたみたいだなあ、とウワバミは思いました。波の音を聞きながらウワバミはいつの間にかまた眠ってしまいました。
目が覚めたら朝でした。薄曇りの遠くに朝虹が霞む朝でした。
海は静かに波が寄せては返し、塩っ辛い風が吹いています。さあっと柔らかな糸のような雨が降った後、雲間から帯のような光が海に差し込んで、まぁるく優しい色に照らしていました。
ウワバミは空腹に項垂れながらそれを見ていました。そしてその、あたたかそうなまぁるい光がウワバミにはとても美味しそうに見えたのです。
あぁ、あれを食べてみたいなぁ。あったかくてきっとふかふかしてる。
ですがウワバミは海を泳げませんから、雲が晴れてきらきらと青く白く水面が輝き出すまで、じっとりとそれを眺めることしかできませんでした。
そのうち、少し海に興味が湧きしるしる、と舌を出し入れしてみました。塩っ辛い風が吹いてウワバミの舌をヒリヒリさせます。ウワバミは鱗がひっくり返るかと思うくらいぶるっと震えると舌を引っ込めました。
やっぱりボクは海には入れないや! あぁどこかに美味しそうなものはないかなぁ。舌が塩っ辛いや。
そんな風に海を見ていると、海面からクラゲがぷかりと浮き上がり、揺れながらウワバミに話し掛けました。
ウワバミさん。いい朝ね!
いい朝なもんか! お腹は減ってるしそこら中が海だなんて何を食べたらいいのか分からないだろ!
あら、とクラゲは波に揺られながらウワバミの下を行ったり来たりしました。
仕方ないわよ、だってハナミズキがずうっと泣いているんですもの。
何だって? ハナミズキのせいってのか?
ウワバミは晩に見た白い波を思い出しました。
ま、わたし達にとっては住む場所が広くなって最高だけど。
何が最高だ、とウワバミは枝にぶら下がりしる、と舌を伸ばして威嚇しました。
仕方ないわよ、じゃない! そのハナミズキはどこにいるんだ。文句を言ってやる!
ウワバミは空腹だったことも手伝って苛々と声を上げました。今にも水面に舌が届きそうです。む、と潮の香りがウワバミに張りつきました。
クラゲは波にひらひらと揺られるだけで黙り込みました。そして、ウワバミをじっと見つめると、ぷかりと言いました。
ハナミズキはこの森の反対側よ。こっちは北だから南の方ね。
こいつは見かけによらず博識なのだな、とウワバミは思いました。北や南、なんて知りません。でも、反対側と聞いてそれなら分かったぞ、と、しるしる舌を出し入れしました。
真白に揺れるクラゲに別れを告げて、ウワバミは森の反対側へハナミズキを探しに行くことにしました。
ウワバミは1本1本枝を伝って這います。小さなウワバミだからです。どこまで行っても森で木々は緑にざわめいていました。ですが地面だけは海です。空腹で堪らないウワバミは苛立ちを募らせました。
ハナミズキめ!
地面は塩辛い海でも、ウワバミのいる枝の上は変わらない森でした。うらうらと光の差す木陰を渡ってウワバミは進みました。
本当に腹ペコでした。
──途中、弱ったチョウに出会いました。
ウワバミはチョウに何の興味もありませんでしたが、一瞬、黄色の翅脈の美しさに一瞬目を奪われました。視線に気づいたのでしょう、チョウのモザイクのような大きな瞳がこちらを見ました。いくつものウワバミがチョウの瞳に映ってこちらを見ていました。
ウワバミさん、どこへ行くのですか。
あぁハナミズキにここらを海にした文句を言いに行くんだ。
ウワバミは苛立ちを滲ませて、舌をしるしる、と早く出し入れしました。
ウワバミさん、私を食べてくれませんか。
チョウは弱ってもう幹に縋ることもできないようでした。チョウは海で覆われたせいで蜜を吸える花が沈んでしまったと言います。羽が小刻みに震えていて、ウワバミはチョウの死期が近いことを知りました。
チョウはどうか、と言い、ウワバミは酷い空腹でしたので、君がいいならね、とチョウをごくりと丸呑みしました。舌に鱗粉が絡みついてパサパサしましたが、何度か舌を出し入れすると気にならなくなりました。
ウワバミは満腹ではないものの、少し満たされて眠り、また南へ這い出しました。
ウワバミは少し大きくなったようでした。森の反対側とは、どのくらい先のことなのでしょう。クラゲにもう少し詳しく聞けば良かった、とウワバミは体をうねらせました。
行く先から明るい陽射しが差し込んでいます。チョウにあった場所より少し南に近づいたのでしょうか。木々の緑が少なくなったようです。木々の隙間から差し込む光がてらてら、と水面に反射して眩しいほどでした。ウワバミは目が眩んでしまい、疲れを感じて近くの木の洞に入りました。
──そこはリスの巣でした。
子リスが2匹と親リスが1匹、洞の中でくっついて静かに丸まっていました。
リスは尻尾を少しずらしてウワバミを見ました。小さなウワバミだったからでしょうか、親リスは驚く様子はありません。
ウワバミも自分の体より随分大きく見えるリス達に、おっと休んでるとこ悪いね、と話し掛けました。
いいんです、ウワバミさん。こんな海の中、どこに行くんですか。
ハナミズキに文句を言ってやるんだ。
親リスはそれを聞くと、掠れた声で言いました。子リスはピクリとも動きません。
わたし達はもう長くありません。秋の間に隠した実が探せなくなってしまったのです。
弱々しい声にウワバミはしるしる、と舌を出しました。3匹とも本当に弱っているようでした。尻尾の間から黒々とした丸い瞳がじ、とウワバミを見つめました。洞の中は薄暗いのに、その瞳の黒さはウワバミを吸い込むようでした。
ウワバミさん、わたし達を食べてくれませんか。
ウワバミはどんどん大きくなりました。もう小さなウワバミではありませんでした。
そして、大きくなるにつれ、ハナミズキに近づくにつれ、空腹ではなくなりました。ハナミズキへの苛立ちも少しずつ消えて行きました。その代わりに、ウワバミは会ったこともないハナミズキのことを考えるようになりました。
ハナミズキの悲しみは、一体どれ程なのだろう。
ず、ず、とウワバミは南を目指します。さっき目覚める前に岩の上のオオカミがもうすぐ森の外れだ、と教えてくれたのです。確かに、地面の水は塩っ気が少なく、清々しい夜露の匂いがしました。ハナミズキは近いぞ、とウワバミは夜露の匂いを辿って這いました。
ウワバミがとうとうそこに着いた晩は、冷え冷えとして月もなく、動物たちは水浴びすることもなく身を寄せ合って暖をとっていました。ウワバミも夜になるにつれて体が冷たくて動かなくなってきたのを感じていましたが、ハナミズキの匂いも感じられる程の場所まで辿り着きました。ず、ず、と真っすぐ這いました。
どうしてそんなに泣き続けているのか。
さっき食べた老いたオオカミの青い瞳をなぜか思い出しました。
ハナミズキは小高い丘のてっぺんにいました。
夜露はほたほた、とこの間にも白い花びらから止めどなく溢れています。
もう満開とは言えず、散ってしまった白い花が木の根元に絨毯みたいに敷き詰められていました。枝に残った花たちは静かにさざめいて風にひとつひとつ、散らされていきます。
そしてハナミズキが根を張る少し小高くなっているその場所も、花達が落とす夜露の涙でひたひたと海が迫っていました。遠くに飛ばされた花びらは波打ち際でゆらゆらと水に浮かんでいます。
花たちのさざめきの他は、何も聞こえないとても静かな晩でした。
ウワバミはほとんど真水の海に飛び込んで、あぷあぷ舌を出しながらその丘に辿り着きました。そうしてハナミズキを見上げました。
おい、もう泣くのは止めてくれ。
ウワバミは静かにナミズキに話し掛けました。もうこれっぽっちも苛立ってはいませんでした。
ひらり、ひとつ花びらが落ちました。
ごめんなさい、ウワバミさん。分かっています。でも私達も悲しくて溢れる夜露を止められないの。
ほたほた、と上から夜露が落ちてきてウワバミにも雫が飛び散りました。
どうしてそんなに悲しいんだ。どうしてそんなに泣いているんだ。
ウワバミはずっと疑問に思っていたことを尋ねました。花びらが落ちました。
……最初は、私達のお友だちのミツバチさんがいなくなってしまったのが悲しかったの。
クマバチさんも。
テントウムシさんも。
花達がそれぞれに言葉をしゃべるのでウワバミは聞きづらくて顔をしかめました。花はしゃべるごとに1枚ずつひらりと花びらを落とします。
へぇそれでこんなに泣いたってのかい? そりゃ迷惑な話だ!
これまで会ったチョウやリス、ハクビシン、フクロウ、オオカミは食べ物がなくてみんな死にかけていました。それなのにこのハナミズキときたら、お友達が来なくなったせいで海をこしらえたなんて! ウワバミはしるしる、と舌を出してハナミズキを睨みつけました。
えぇ、本当にごめんなさい、ウワバミさん、分かっています。でも続きがあるのです。
ミツバチやクマバチやテントウムシがいなくなって、ハナミズキは悲しくなりました。ですが次の朝にはその悲しみはなくなって真白な花達は喜びの声を上げました。見たこともない黒くて丸いお友達が幹に住み始めたからです。最初の黒くて丸いお友達はハナミズキに礼儀正しく挨拶をしました。
どうかここに住まわせてください。僕達が住んでいた木が枯れてしまったんです。
えぇもちろんです。あなたの名前は何というの?
僕はカイガラムシです。
まぁ、なんて素敵な名前でしょう。まるで海から来たみたいね。
そうしてカイガラムシはハナミズキの幹に住み始めました。カイガラムシはハナミズキの樹液を吸って生きているようでした。もちろんハナミズキだって虫達が自分の体から樹液を吸うなんて当たり前のことと知っていましたから、怒ったりはしません。
ですが気づけば、カイガラムシは幹をびっしりと覆う程増えていました。
そうして私達は痛くて痛くて泣き続けてしまったのです。
また、はらりと花びらが落ちました。
ウワバミはじっとハナミズキの幹を見つめました。どこかにそのカイガラムシがくっついてないか確かめようとしたのです。
ですがいくら見つめても、幹を覆う黒くて丸いカイガラムシは見当たりませんでした。
いないじゃないか。
えぇ、もう1匹もいません。
どうして? なら良かったじゃないか。
えぇ、私達にはもう彼らが吸える樹液はなくなってしまったから。
じゃぁもう泣き止めばいいじゃないか。
ハナミズキはほたり、とまた夜露を溢しました。ウワバミは気づきました。もう花はほとんど残っておらず、溢れる露も僅かだということに。
私達は次のあたたかい季節になっても、もう咲けません。
気づけばウワバミの足元は白い花びらで覆われていました。まるで雪が降ったように真白でした。ざざ、と波が時々寄せては返します。
ただのひとひらも、咲かせることができません。
ウワバミは最後に残った花を見上げました。花もウワバミをじっと見ているようでした。
お前が泣いたせいで海ができて、森の動物が何も食べられない。お陰で俺は腹ぺこじゃないけど。
えぇ、分かっています。でもそれも今晩限り。きっと海は消えるでしょう。ウワバミさん、お願いです。
ウワバミは最後のハナミズキの花が何と言いたいか分かりました。みんな、同じ事をウワバミに言ったからです。
そしてウワバミはいつも同じ言葉を返してきました。
ハナミズキは風もないのに枝を揺らしました。その音は、幹に水分がひと雫も無いように乾いていました。
それでもウワバミはずずず、と幹を伝い、枝を這い、その花の元へ辿り着きました。
夜の闇でもはっきりと分かる、真っ白でチョウのあの美しい翅脈のような筋が走った花びらでした。そして、真ん中の緑の可愛らしい丸い粒はまるでリスの瞳のようでした。その間にもウワバミの重さにも耐えられぬ、と幹が悲鳴を上げました。
──ウワバミさん、どうか。
君がいいなら。
それは、ハナミズキの花びらが夜の波に揺れて白く光る、とても冷える晩のことでした。
お読みいただきありがとうございます!
ハナミズキの所謂『花びら』は、総苞と呼ばれる葉が変形した部分なのだそうです。ですがこのお話では、モノ知らぬウワバミが主人公ですので、『花びら』とさせて頂きます。ご容赦くださいませ。