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髭面オネエとちぐはぐな交渉

 ああ、全然気づかなかったけど今夜は月が綺麗だわ。




 満月が近いのね。とっても丸くて大きいお月様。




 こんな日にはバルコニーで月見酒なんて洒落込みたいものよね。




 地元の酒造から取り寄せたお気に入りを、とっておきの酒器に入れて月に乾杯、なんてキザなことやっちゃうのもいいわね。




「お願いです! 私、今とっても困っているんです。助けてください!」




 マンションの廊下から見える月に空想を繰り広げていたあたしは、その甲高い声で現実に引き戻された。




「あなたの、あなたの下着姿を! お願いします。見せてもらえるんだったら何でもしますから!」




 一体なんなの。なんて日なのよ。




 いつも通りに平和に過ぎていくはずの一日が波乱万丈になりすぎて、もうあたしは白目をむきそうになっている。




 とりあえずこの状況を何とかしなきゃいけないわ。




 ようやく冷静になってきて、胸にすがりついているお隣さんを引き剥がそうと彼女の肩に手を置くと、廊下の向こうでご近所さんのドアが開いた。




 あら、やばい。




 ドアからこちらを覗いたご近所さんが、明らかに不機嫌そうにあたしたちを睨む。




「お願いします! したぎ……」




 なおも懇願するお隣さんを咄嗟に抱きすくめて口をふさぎ、彼女の耳元で「黙って」と囁く。




 こちらを睨み続けるご近所さんに「お騒がせしましたー」と愛想笑いを投げて、あたしはそのまままっすぐお隣さんの玄関へと進んだ。




 ドアを閉めてほっと一息。勢いで入ってきちゃったけど、曲がりなりにも女性のお部屋。この状況どうしようかしら。




 考えながらお隣さんを解放すると、彼女は真っ赤になった顔をうつむかせた。




 それにしてもこの子、一体なんだってあたしの下着姿が見たいのかしら? 初心そうに見えて大胆というか、よくわからない子ね。そりゃああたしはちょっと他に見ないぐらい良い体してるけど……。やっぱりそういう性癖なのかしら?




 ごちゃごちゃと頭で考えていると、彼女がぱっと顔を上げた。




「ふ、ふ……」




 躊躇うように何度か口を開け閉めする彼女に小首をかしげると、大きく息を吸った彼女が腹を決めたようにキッとあたしを睨みつける。




「不法侵入です!」




「ええ!」




 予想外の言葉にガンッと後頭部をドアにぶつけたあたしに彼女がびっくりしたように少しだけ身を引く。




「あ……あの……頭……」




 おどおどとあたしを見る彼女はあたしの後頭部を気にしているようだ。




「大丈夫よ。そんなに痛くないから」




 告げると彼女はあからさまに安堵してからもう一度息を吸い込む。




「あの、その、ふ、不法侵入なので、警察を呼ばれたくなかったら下着姿を見せてください!」




 なんじゃそりゃ!




 思わず突っ込みそうになってから、自分を落ち着かせようとゆっくり深呼吸。




「ねえ、とりあえず事情を聞かせてくれないかしら? 困ってるって言ってたわよね? 困ってる状態で何であたしの下着姿を見たいの?」




 落ち着きを取り戻してから考えると彼女の発言は一貫性がない。




「あの、それは……」




 あたしの疑問に彼女は少し口ごもると、自室の奥を指ししめした。




「すみません。ご、ご説明しますので、とりあえず上がってください」




 先ほどまでの勢いはどこへやら、彼女は意気消沈したようにまた静かになってしまう。




 何かのトラップかしら。ちょっと躊躇われるわね。




 部屋の奥と彼女の顔とを見比べると、彼女は上目遣いであたしを見上げた。なんだかとっても不安そう。




 ええい。ままよ! 今さら怖気づいたって仕方ないわ。




 覚悟を決めて靴を脱ぐと彼女に促されるまま部屋の奥へと進む。玄関から伸びる短い廊下の先に扉で仕切られた客間。間取りはあたしの部屋と同じね。




「どうぞ。適当におかけください」




 客間へと通されて、あたしはそこに広がる光景に立ち尽くした。




 下着下着下着、下着の山! ランジェリータイプからおばちゃんの肌着のような地味なものまで、床に落ちていたりマネキンに着せられていたり。おまけに下着の広告の切り抜きも壁一面を埋め尽くしている。




 なにこれ……。




 呆然と周囲を見回すと、数は少ないけれど男性物の下着もそこかしこに散らばっている。




 つまり、あれかしら。下着マニアってことかしら……。




 部屋を見回すあたしの視線が恥ずかしそうに立つ彼女に行きあたる。




「お、驚かせてすみません。改めまして、わ、私、こういう者です」




 差し出された名刺を両手で受け取る。と、そこにはあたしでも聞き覚えのある有名メーカーの名前。




「あら、これってあれよね。CMでもよくやってる……」




 確か女性物の下着ブランドのメーカーね。




「は、はい。そこの企画部に所属しています」




 なるほど、それでこの部屋のあり様も合点がいくわ。まあいくら仕事のためとはいえここまで下着漬けの部屋もどうかと思うけれど。




 彼女に再度促されて部屋の中央にある座卓の前に座り、出されたお茶に口をつける。




「それで、あたしの下着姿が見たいっていうのはもしかして仕事がらみで?」




 目の前に座ってもじもじと切り出しにくそうにしている彼女に水を向けると、彼女はぱっと顔を上げて「はい」と何度もうなずいた。




「実は最近弊社で新しい男性下着ブランドの立ち上げ企画が出まして、そのプロジェクトチームに私も入ることになったんです。でも私は今まで女性の下着しか企画した経験がなくて、いろいろと行き詰っていまして……」




 途端に滑らかに話し出した彼女に面食らいながらも、なるほど、と納得。




「とりあえずチームの一人一人が男性下着の草案というか、機能を含めたデザイン案みたいなものを出すことになったんですけど。その……、私自身、女ですし、男性の下着姿ってそもそも父のゴムの伸びきったダルダルのトランクスぐらいしか見たことなくて。売られている下着や広告なんかも参考に見てみたんですけど、うまくイメージができなくて。それでアイデア出せって言われても思い浮かばないんですよね……」




 ゴムの伸びきったって……。いやに生々しいわ。




「今までの彼氏のは? 見たことないの?」




 尋ねてから、しまった、と口をふさいでももう遅い。彼女は顔をまた真っ赤にしてうつむいてしまった。




「あ、あの、私、こんなんで今まで彼氏がいたことなくて……」




 ああ、だめね。女性に恥をかかせちゃうなんて。




「それで参考にあたしの下着姿を見たいってこと? でもなんであたし? 仕事なら同僚とかに頼めるんじゃない? その方が下着のことも事情もよくわかってる相手でやりやすいんじゃないかしら?」




 申し訳なく思いながら誤魔化すようにそう続けると、彼女はまた困ったように首をひねった。




「そ、それが、みなさんお忙しくて……。それに、あの、お、同じチームに山口さんていう方がいて、と、とっても美人なんですけど、その……。だ、男性陣は山口さんの頼みなら何でも聞くんですけど、私はその、相手にされていないというか……」




 沈み込むようにそう言った彼女にさらに申し訳なくなる。




「あー、えっと、そう……」




 フォローしようにも何も出てこず、あたしはただそう呟いて黙り込む。




 ああ、どうしようかしら。この状況すごく断りづらいわ。




「あ、あの、でも、一人手伝ってくれた同僚はいたんです」




 思い出したように顔を明るくさせた彼女に思わず「あら、良かったじゃない。それで?」と身を乗り出す。




「で、でも、その、下着についての意見聞き取りのあとに実際に見せてもらったときに……、その、か、彼のあ、あれが、たち上がってしまって……」




 それ以来お互いに気まずくて話せていません、とがっくり肩を落とした彼女。気の毒すぎてもう言葉も出ない。




「あのね、男のそれって、なんていうか、生理現象というか、たまに自分でもコントロールきかないことがあるのよ。全然変なこと考えてなくてもいきなり、とかあるしね。その、だから、あんまり変に思わないであげて」




 誰のための何のフォローしてんのかしら。自問自答しながらも落ち込む彼女を見ていられない。




 どうすればいいのよ、これ! 帰りたい! 帰ってお風呂に浸かりたい!




 そのまま気まずく落ちた沈黙に耐えられず、あたしは心の中で絶叫した。




「えっと、続きなんですけど」




 ぶつぶつと頭の中でつぶやいていたあたしとは対照的に、何かを切り替えたように彼女はどこからか出した資料を座卓の上に広げる。




「今回企画に上がっている新しい男性下着ブランドは『男性のセクシーを引き出す』というコンセプトでして、いわゆる男性の勝負下着みたいな方向性を目指しています。でも見た目だけではなく機能性も充実させて、普段使いの下着で勝負できる、『いつでも戦闘態勢』というのが基本的な考え方です」




 広げられた資料を淡々と読む彼女は、さっきまでの自信のなさそうな素振りをまったく見せない。きっと仕事のときと素のときで性格が切り替わるのね。




 ある意味二重人格。おもしろいわ。




 彼女の説明を聞き流していると資料から視線を上げた彼女と目が合う。前髪の向こうに隠れた彼女の目が怯むことなくあたしの目をまっすぐに射貫くのに、あたしは知らず生唾を飲み込んだ。




 ああ、またあの目だわ。あたしを値踏みするような視線。




「私は男性のセクシーっていうのがあまり理解できなくて、この企画もすごく苦しんでるんですが、早瀬さんとお会いして少しだけわかった気がするんです」




 その視線に若干の緊張を覚えながらも、あたしは彼女から目が離せない。




「私、男性のセクシーさについて勉強したいんです。早瀬さんの下着姿を見れば何か思いつく気がするんです。もちろん謝礼は払います」




 座卓の向こうから前のめりにあたしの顔をのぞきこむ彼女の真剣な眼差しが、あたしを捉えて離さない。




「ご協力していただけませんか?」




 前髪越しの彼女の目に吸い込まれそうになりながら、あたしは無意識にゆっくりと口を開いた。

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