ベイルート編1
ヒロは夕方になってようやく目を覚ました。ベッドと机と小さなクローゼットがあるだけの殺風景な独身寮の一室だが、自分の部屋はやはりどこか落ち着いた。簡単に身支度をすると実家に帰ることにした。スクールエリア内に住むことができるのは、ヒロたち魔法を使えるガードと呼ばれる者たちだけだったから、ヒロの実家はスクールエリア外の一般住民の居住区域にあった。
と言っても、居住ができないだけで一般の人たちも働いたり日中遊びに来たりすることは可能で、エリア内には普通の大学のような研究施設や体育館、売店や食堂、そして教会があった。
教会は正式には降臨教会と呼ばれていて、こちらだけは一般住民は普段、立ち入りが禁止されていた。教主と呼ばれるアルディオンの首長が普段そこで執務し、時には神との対話をしているとされている建物だった。降臨教会と呼ばれるのは、そこで教主が実際に神と出会い、魔法の力や数々の啓示を受けたからだと言われている。
神を見たのは教主ただ1人だったからその真偽は不明である。だがその出会い以降、現実に魔法を使う人類が現れた。そして、その新たな力を得た人類、ガードは魔獣が現れる事を神の預言によって知らされ脅威を次々に排除していた。
奇跡を目の当たりにして人類が神の存在を確信しかけていた矢先、魔獣を相手に善戦していたガード達の前に魔人が現れた。魔人たちの圧倒的な力を前に、神が遣わした人類の庇護者、だったはずのガードは敗れた。神の力は絶対ではなかったという事実は多くの人の価値観を覆し、現在の世界に大きな混乱を招いていた。
そんな混乱する世界とは無縁なような顔をして、アルディオンの街を人々は今日もゆったりと歩いていた。
実家に着くとヒロの母 春子がいて、晩御飯の支度をしてくれていた。
久しぶりに嗅ぐ米の炊ける匂いだ。鳥の唐揚げ、切り干し大根、味噌汁というのがたまにヒロが帰国した際の定番メニューだ。半年以上も食べていなかった和食は大いに食欲をそそった。ヒロは春子と一緒に食卓を囲んだ。
「店休んでまで作ってくれてありがとう」
「遅れて行くからいいのよ。トリーが上手くやってくれるわよ」
「店は上手くいってるの?」
「もちろん。私とトリーの2人で上手くいかないわけがないでしょ」
ヒロたちが日本からアルディオンに来て10年以上が経っている。父を幼い頃に事故で亡くしてから春子は1人で子供2人を育ててきた。元々共働きで商社でバリバリに仕事をしていた春子は収入面では困ることはなく、忙しいながらも平和な毎日を送っていた。
それがある日突然、息子が大事件に巻き込まれた。
魔法の才能がある。そんな荒唐無稽なことを謎の新興宗教団体(当時は国家として承認されていなかった)の担当官に一方的に告げられた挙句、息子を連れ去られた。それからしばらくして、魔法や世界に迫り来る危機というものについて様々な資料と共に説明された。俄かには信じられなかったが、何度も目の前で実演される怪現象を見た後、とうとう日本政府からも息子の国籍離脱の通知を正式に渡されるに至って、その不条理で滑稽な現実を絶望と共に受け入れざるを得なかった。
国籍離脱の通知と合わせて、息子と同じ国に住むことができると伝えられた時、春子は家族を失うという絶望から解放され、即座に今までのキャリアを捨て移住を決意した。不安がないわけではなかったが、大切な家族を再び失うこととは比べるべくもなかった。
そして、移住後は似たような境遇のアメリカ人のトリーと一緒に食堂を始め、今では食品の輸入や農業法人の運営なども手掛けるようになっていた。
「相変わらず2人は元気だね。カヤは?ディエゴと付き合ってるみたいだけど、元気にやってるの?」
「ええ。あの子も一生懸命やってるわよ。ヒロシみたいに戦うことはできないけど、やれることをやって役に立つんだって。兄さんだけに大変な思いはさせられないって言ってたわよ」
「え、そうなの?あいつ意外と可愛いところあるんだね。いつもぶすっとしてるのに」
「ディエゴにも色々聞いてるみたいだから、ヒロシの大変さがよく分かってるんじゃないの」
「あいつ、変なこと言ってないといいんだけど」
「なに変なことって。何か疚しいことしてるんじゃないでしょうね」
ヒロは少し詰まってから何もしてないよと答えて、2人で笑い合った。
妹のカヤはどうやら国の食料関係の部署に勤めていて、食料や農業に関する様々なことを手掛けているらしい。もちろん母のコネもフルに使っているそうだ。アルディオンは小さな国なので、若くてもしっかり働く人間には責任ある仕事を任される。カヤはそれが大変ながらも嬉しいらしい。
夕食を食べ終わるとヒロが後片付けをする。その間に春子は外出の支度を整え、2人して店に向かった。店は住宅街と官庁街の中間あたりの小さな繁華街にあり、仕事帰りの人々を集めて賑わいを見せていた。ヒロは店で忙しく働いていたトリーに挨拶だけすると春子と別れ、再びスクールエリアの自分の部屋に戻っていった。
部屋に戻るとヒロは報告書の作成に取り掛かった。ブルードレスの事を中心に、今後の展望、取るべき行動を自分なりに提案した。それが取り入れられるとも思わなかったが、言うべき事は言っておきたかった。なんだかんだで翌日も1日使ってようやく仕上がった。
その後はキムたちの空いている時間に合わせて残りの魔法の研究をしたり、鍛冶屋に行ってスピネージ親子に刀を見せたり、ワイバーンの騎乗技術の伝達をしたりして過ごすと瞬く間に5日間が過ぎた。
急ぎ足でやるべき事を片付け、最低限の準備を済ませるとヒロは早々にエスペランサのいるベイルートに向うことにした。
出発の前日にヒロは別れの挨拶を済ませてしまっていたので、見送りはディエゴだけだった。彼との挨拶もそこそこに愛竜のトリに跨り、すぐに飛び立つことにした。
カスピ海を越え、黒海を見つけると南に進路を変えて地中海を目指した。ヒロが目指すベイルートはアルディオンの数少ない同盟国の1つ、アラブ連合が治める地域に属していた。その勢力圏はアラビア半島のほぼ全域と広大だったが、ベイルートだけは元ガードが組織する傭兵団が治める自治都市となっていた。ベイルートはこれまでも人間同士の争いに巻き込まれること数度、ようやく復興しかけていたが、前回の帝国侵攻時に魔人とアルディオン軍が衝突した地点と近かったために人口が激減、再び無人の都市になりかけた。しかし、その後アルディオンから独立したガード達が結成した傭兵団の自治都市となり、周辺地域の治安も回復した現在ではかなりの賑わいを見せていた。
高度を下げ、地中海の落ち着いた海の色を右手に見下ろしながら、ヒロがワイバーンで飛んでいると、くたびれた感じの初老の男性が迎えに来てくれているのが見えた。ヒロにはそれがアンセルモだと一目で分かった。
アンセルモは本当に人の良さそうな風態で、いつも少しおどおどしている。ヒロは昔から何故だか彼と妙に馬が合った。特別親しいわけではないけれど時折会うと長々と話し込んでしまうという間柄だった。
そんなアンセルモが今日はいつにも増して目を泳がせている。
「アンセルモ、久しぶり。そんな顔してどうかしたの」
「あぁ、ヒロ。久しぶりに会えて嬉しいよ」
「全然嬉しそうじゃないけど」
ヒロが笑いながら言うと、本当に済まなそうに下を向いてアンセルモが言った。
「久しぶりに会ったのに申し訳ない」
「申し訳ないって、何が?まさか入国できないとか」
「いや、入国は大歓迎だよ。みんな、もう集まって君を待ってる」
「わざわざ集まってくれなくても良いのに」
「本当にな」
気の毒そうにアンセルモは言う。歓迎する為に集まらなくても良いというのは、いかにも失礼な物言いだったが、アンセルモの口調には同情の気持ちだけが篭められているのがヒロにも分かった。
「え、嘘でしょ?まだ、やってるのあれ」
ヒロは何かに気付いたのかアンセルモに問うというよりも、独り言のようにそう言った。
「あぁ。普段はやらないんだけどな。ヒロが来るから、特別にやるらしいんだ」
最後の方は消え入りそうな声でアンセルモが答えた。
ヒロは大きくため息をつくと首を振り諦めた素振りを見せる。そして、アンセルモに自治都市までの案内を頼んだ。しばらくアンセルモに着いて飛んでいると、海に突き出してごちゃごちゃと建物が地表を埋め尽くした街が見えてきた。
「海沿いの広場があそこにあるだろ。そこでみんなが待ってる」
アンセルモが嫌そうに指差す先を見ると、たしかに人だかりができているのが見えた。ヒロ達はゆっくりと近づいて行くと、渋々その人の輪の中に降りることにした。
輪の中心には、大柄な女性をはじめとしてヒロの見知った顔が何人か立っていた。ヒロがトリから降りようとすると、大柄な女性が近付いてきて手を差し出してきた。
ヒロは仕方ないという顔をしてその手を取り、トリから飛び降りた。
「坊や、よく来たね。少しは大人になったのかい?」
「坊やはもう止してくれよエスペランサ。何はともあれ入国させてくれて、ありがとう」
「ちゃんとお礼ができるようになったのかい。少しは成長したみたいだね」
「調子狂うな。それにしても、こんなに大歓迎してくれるとは思わなかったよ」
ヒロが周りを見渡すと人相が悪いのやら胡散臭いのやら、およそ堅気とは言えない風態の人間ばかりに取り囲まれていた。
「まぁウチの隊恒例の催しだよ。坊やも知ってのとおりのね」
「やっぱり俺がやるの?」
「そりゃそうさ。最近は平和でね。あんたは久しぶりのお客さんだ。歓迎会をみんなが楽しみにしてるんだ」
「で、相手は誰?まさかエスペランサ、あんたじゃないよね」
エスペランサがその大きな口を閉じると口角を片方だけ上げてにやりと笑う。それからゆっくり首を振る。長く癖の強い赤毛が揺れる。
「アタシに何かあるとみんながうるさいんでね。うちの切込隊長でどうだい」
真後ろに向けた親指の先には、少し小柄な浅黒い肌の女性が立っていた。女性は無表情のまま、右手を軽く挙げた。
「グリヤ……。チェンジで」
ヒロが言うと、エスペランサは再び首を横に振った。
「グリヤ、おいで。坊やに稽古を付けてあげな。ちったぁ骨のある男になったか、あんたが確かめてやりな」
グリヤと呼ばれた女性がヒロに向かって歩き始める。右手を中空に掲げると、その身長に似つかわしくない程の長刀がその手の中に現れた。
「ヒロ、やるぞ。構えろ」
グリヤはボソりと短くそう言うと、長刀を真っ直ぐヒロに向けた。
ヒロも刀を取り出すと、グリヤはその刀の色を見て、おやという顔をした。
「じゃあ、こちらから行かせてもらいますよ」
ヒロは地面を蹴るとグリヤとの距離を一気に縮め、刀を思い切り横に薙いだ。殺す気は無いまでも当たればただでは済まない、それくらいの意気込みで斬りつけたのだが、すんでのところで躱される。
今のは第3位階の身体強化魔法を事前にこっそりとかけてからの攻撃だった。いくらグリヤの身体能力が高くても、躱されるのは予想外だった。
反撃はすぐにきた。近接戦では分が悪い、そう判断したヒロは距離を取り何度も魔法を放つ。最近改良を加えたばかりの攻撃魔法は相手は知らないはずだ。それを使用することで動揺を誘えると思っていたが、グリヤはそんな様子を少しも見せない。
それからは、ヒロの防戦一方だった。グリヤの斬撃を必死に防ぎつつ魔法で攻撃し距離を取ろうとするが、距離は少しも開かない。剣術だけでなく体術も使いこなすグリヤの多彩な攻撃をヒロはなんとか耐え忍ぶものの、少しずつ蓄積するダメージに身体が悲鳴を上げ始める。堪らずヒロは目の前に氷刃を放つ。
グリヤは後ろに飛び退る。と、その前に4層の魔法陣が浮かびあがり、途端に彼女の動きが加速する。
「嘘だろ。間に合え、障壁!」
ヒロは魔法のバリアを展開したが、黒い影が眼前に迫った一瞬の後、防御魔法を突き破って重い衝撃が腹部に加わる。ヒロは弾き飛ばされるように後退すると膝を着いた。なんとか立ち上がろうとするが、首筋にヒヤリとするものを当てられ身動きがとれなくなった。
勝負が着いたのを見て、エスペランサの大きな笑い声が響く。
「なんだいなんだい、アンセルモも気付いてなかったみたいだけど、いつ身体強化なんて仕込んだんだい?それで奇襲なんてやるじゃないか、坊や」
ヒロは首筋に刀を当てられているのと腹の痛みで返事もできなかった。
「グリヤ、あんたの勝ちだ。もう、刀はしまってやんな」
グリヤは無表情のまま、長刀をしまう。
「魔法のレベルにもっと差があると思ってたけど、ほとんどなかったのが意外だったね。あのケチくさい神様が急に教育熱心にでもなったのかい?」
「いや、これはその……」
「なんだい、違うのかい」
「えぇ、まあ。それより、グリヤだって」
「驚いただろう。あたしたちもいつまでも後進国じゃいられないからね、足りない頭でしっかりお勉強してんのさ」
「それって、どういう……」
ヒロは腹部をさすりながら呻くように言った。
あとは酒を飲みながら話そうじゃないか、エスペランサはそう言うと周りを取り囲む連中を解散させて歩き出した。
取り囲んでいた連中はヒロのそばにやってくると代わる代わるヒロの背中をバンバン叩いていく。どうやら連中のお眼鏡に叶うくらいの戦いはできたようだった。
こうして、ヒロはベイルートの自治都市に暑苦しく迎え入れられることになった。