アジア編1
「マヘシュ!夜、ビール飲みたいから買ってきておいてくれよ」
「ヒロ……また飲むの?ホントに毎日毎日よく飽きないなぁ。あんまり体に良くないから、やめておきなよ。それに店のオッさんもいい顔しないんだよ」
「売っておいていい顔しないってのも、そりゃどういう了見なんだって話しだよ。黙って売ってくれりゃいいんだよ。こっちは外国人なんだしさ」
「色々あるんだよ、こっちもさ、宗教的なことだけじゃなく世間体とかさ。今日はとにかく10本買えたら良い方だね。そしたら2週間分だと思って、大事に飲みなよ」
「マヘシュ、そりゃないだろ。2週間で10本て。まぁ、いいや。こっちも何とかするよ。今日は少し遠出するから、帰りは夜になるから。今日も朝食、美味しかったよ。ごちそうさま」
「ヒロは毎朝、生玉ねぎと漬物食べてるけど飽きないの?これで喜んでもらえるなら、こっちも気が楽だけど。じゃ、晩御飯は適当に用意しておくから。今日はどこまで?」
「北の方。ついでに酒も仕入れてくる。もう少しゆっくりしたら出かけるから、この辺も下げてくれるかな」
ヒロがそう言うと、マヘシュはテーブルの上にある皿とチャイの入っていたカップをトレイに乗せ、裏手の階段から階下へ降りていった。
ヒロと呼ばれていた日本人、雨木 宏はインドの西方の都市ジャイプールで、ここ数ヶ月のんびりと同じような朝を過ごしていた。時折、数日帰って来ないこともあったが、ゲストハウスの屋上にあるテラスで朝食をゆっくり採っては、どこかに出かけていくのを繰り返している。彼はこの街の乾いた空気と茶色の山に囲まれた景色が無性に気に入っていた。
ヒロは一度部屋に戻って外出の準備を済ませると、近くに借りた小屋に向かった。
「トリ、おはよう。今日も元気か?」
彼は小屋の中にいたワイバーンにそう呼びかけると、持参した野菜をあげながら鼻の上あたりを撫でてやった。トリは彼によく懐いていて、気持ち良さそうに目を細めた。
「そろそろ行こうか。今日は少し遠出をするからな。ヒマラヤを見に行こう」
ヒロはトリが食べ終わるのを待った。少ししてトリに鞍を付け、自分自身もゴーグルとヘッドギアを装着すると小屋を出た。彼はゆっくりとした動作でトリにまたがると、トリの首筋に手を伸ばし2回叩いて合図した。
その合図でトリは大きな翼を広げ、3度羽ばたくと宙に浮いた。
周辺住人はそれを見ると最初のうちこそ驚いていたものの、もうすっかり慣れてしまっていて、大した興味を示さない。今は子供たちだけが手を振り、彼らを送り出してくれる。
トリはあっという間に数千メートルの高さまで上昇すると北に向かって飛び始めた。途中、東寄りに進路を変えながら、晴れ渡った空の中を飛行機以上の速さで進んだ。
大地の色彩が茶色から緑を中心としたものに変わってくる頃、遠くに巨大な山脈がはっきりと見えてきた。
「確かこの辺だったな」
ヒロはつぶやくとトリに高度をぐっと落とさせて、周りを見渡した。さっきまで居たジャイプールと違い緑の濃いこの辺りは、地上の目標物を見つけるには条件が悪かった。彼はチッと1つ舌打ちをすると、左手を掲げた。掲げた左手の前に半透明の魔法陣が4つ重なって浮かぶ。
−−魔力感知
彼が呟くと景色を透かして、いくつもの獣のような形の赤く縁取られた輪郭が浮かび上がった。
「あそこだ、トリ」
彼は右手で手綱を操ってトリの進む方向を調整すると、左手を中空に差し出し、握った拳を開いた。すると開いた掌の中に突然弓が現れた。赤い輪郭との距離が大分縮まったことを確認すると、鞍に付けていた矢筒から矢を1本引き抜くとそれをつがえた。狙いを定めると大して力を入れて引き絞った様子も見せずに矢を放つ。
そんな動作とは裏腹に、矢は真っ直ぐに飛んで森の中に消えて行った。その先にあった赤い輪郭は少し跳ねて動かなくなった。
彼は頷くと今度は矢筒から3本の矢を引き抜き、立て続けに放った。それを3度繰り返して、視界に入っている赤い輪郭が移動しなくなったのを確認すると、森の開けた場所に降りていった。
「トリはここで待ってろ」
そう言って、ヒロはトリから降りると動かなくなった赤い輪郭の獣に近寄っては刺さった矢を抜いて回った。近寄ってみると、それはサイ程もある大きな黒い狼だった。矢を回収しながら、彼は携帯端末でどこかへ連絡をした。
「はい、ディエゴ」
ヘッドギアに付属したインカムから聞こえた声は明るく親しげにそう名乗った。
「よう、ディエゴ。ヒロだけど。今日はダイアウルフが10匹。あいつら、勝手に繁殖しやがって。場所はインドっていうか、ネパールに少し入ったところあたりだと思う。あとは、そっちで探知してくれ」
「ヒロ、お疲れ。えぇと、その辺りには住人はいないと思うけど、念のため見張っておいてくれるかな。すぐに回収に向かわせるから、少しだけ待ってて」
「いいけど、変な奴に来させるなよ。それと瓶のビール、大量に持って来させてくれよ。近所の店のオッさんが酒売るの渋りやがるんだよ、最近」
「あんまり飲み過ぎるからだろ。体調管理には気を付けてよ。カヤも心配してたよ、兄さん」
「やめろよ、気持ち悪い」
「ハハ、こっちのみんなは元気だから安心して。あとワインも良いのが手に入ったから少し届けさせるよ」
「お、そんな高級品、ずいぶん気が利くな。じゃ、待っててやるから、早く来させてくれ」
「うん、じゃあよろしく。」
通話が終わるとヒロの表情は少しだけ明るくなっていた。矢を全て回収すると血を綺麗に拭いて矢筒にしまった。何本かは折れてしまっていたが、鏃は貴重品なのでそれも回収した。
引き取りに来る部隊が見つけやすいようにヒロは先程降りてきた場所までダイアウルフの死骸を1体引き摺ってくると、どさりと置いた。そして、すぐに手近な木の根元に寝転んだ。
太陽が大分真上に登ってきたようで木の葉の隙間から陽の光が射し込み、ヒロの顔を照らした。彼は何かに気が付くと、起き上がった。
人が乗ったワイバーンの一団が近付いて来るのが見えた。先頭の一人が後から着いて来た部下達に指示を出すと単身、彼のそばに降下してきた。