その1 襲われる村
異世界アルダ。そこに住む人類は滅びの寸前にあった。
それはここ、王都から離れた小さなペリヤ村とて変わりはなかった。
「エタン、私を置いてお逃げなさい!」
「お母さん?!」
今、小さな村が一つ、魔獣によってなすすべなく蹂躙されようとしている。
あちこちからエタンの見知った村人の悲鳴が聞こえる。
「エタン、こっちよ!」
「リゼット・・・」
村の少年エタンは、幼馴染の少女リゼットに手を引かれて走り出した。
家に閉じ込められた母親を後に残して。
「どうしてこんなことに・・・」
今朝までは平和な村だった。
エタンは突如この村を襲った悲劇を思い返すのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
ペリヤ村は、小さく貧しい村である。
だが村人全員で助け合う事で、ささやかながら平和な日常を過ごしていた。
エタンは先月十五歳になったばかりの少年だ。年齢のわりには小柄でやせっぽち。中性的な容姿の、どちらかと言えば「可愛い」系の少年である。
そんなエタンだが、日頃から大人に混じって何不自由なく農作業を手伝っている。
そう、魔法が存在するこの世界では、農作業のような体を酷使する仕事にも便利な”生活魔法”が使われているためである。
魔法は大昔の大賢者と呼ばれる人物によって、その基礎理論がまとめられたと言われている。
その偉大な賢者が残した理論のおかげで、それまでは生まれ持っての才能のある者にしか使えなかった魔法が、今ではエタンのような村の少年ですら使うことが出来るようになったのである。
それらは生活魔法と呼ばれている。
この魔法の存在によって、文明レベルの低いこの異世界アルダでも、人々は我々の地球と比べてもさほど見劣りのない便利な生活を送っていた。
我々の地球で科学が日々の生活を豊かにしたように、魔法の存在する異世界アルダでは魔法が科学の代わりに人々の生活を豊かにしているのである。
「エタン、そろそろ畑に行くわよ」
「リゼットちゃん、いつもわざわざありがとう」
「いいんですよおばさん。どうせ隣の家なんですから」
リゼットはエタンの隣の家に住む一つ年上の少女だ。
肩まで届く茶色い髪をおさげにしている、目のパッチリした元気な少女だ。
大人しく引っ込み思案なエタンとは違い、リゼットは村の少女達のリーダー的な存在でもある。
そんな彼女は、幼いころからエタンを本当の弟より弟のように面倒を見ていた。(ちなみに彼女には本当の弟もいる)
お年頃なのか、最近はこっそりそばかすを気にしているようだ。
そばかすなんて気にしなくてもリゼットは十分に可愛いのに。
奥手なエタンは、面と向かって女の子にそんな事が言える訳はない。
逆にいつもモジモジしては、リゼットに「男の子なんだからシャキッとしなさい!」と怒られる始末であった。
エタンは畑に行く支度をしながら、母親と話すリゼットの後ろ姿を見つめた。
僕の身長がリゼットより高くなったら告白しよう。
それはこの数年、エタンが密かに心に決めている決意であった。
もっとも村の少年の中でも小柄なエタンが、村の少女の中でも一番背の高いリゼットに追い付くのはいつになるのか分からない。
ひょっとしたら一生追いつけないかもしれない。
息子の気持ちに気が付いている母親は、やきもきしながら二人の仲を見守っていた。
そして、エタンの母親から相談を受けた村の女性達も全員知っている。
田舎の奥様方の情報網をあなどってはいけない。
エタンがこの事実を知れば、羞恥のあまり村を飛び出すかもしれなかった。
そんないつもと同じ平穏な日常は、突如村を襲った喧騒によって破られる事となる。
「魔王軍だ! みんな逃げろ!!」
村の誰かの叫び声が響いた。
驚いたリゼットが窓から身を乗り出す。
彼女の目に映ったのは必死に走ってくる村の男と、その後ろに見える――
「魔獣だわ!!」
リゼットが恐怖の悲鳴を上げた。
男の後ろには体長2mもある、見た事もない大きな黒い生き物が迫っていたのだ。
この大陸は今、魔王軍の侵攻を受けている。
つい先日には隣の国が魔王軍に滅ぼされ、この村のあるローラン王国も遠からず魔王軍の侵攻にあうだろうと噂されていた。
魔獣とは魔王軍の最下級兵で、魔人の手足となって働く使い魔のような魔法生物である。
色は黒く、形は不安定だ。
太いミミズが寄り集まったような見た目をしている。
その性質上、主である魔人から離れては生きていけない。
つまりこの近くには魔人が迫っている――魔王軍がいるということだ。
「お父さん! お母さん! 魔王軍よ!」
リゼットは慌てて自分の家に駆けこんだ。
残されたエタンは母親と顔を見合わせた。
「私達も逃げないと!」
「あっ! お母さん危ない!」
母親の背後、家の裏庭に面した小窓にサッと黒い影がさした。
エタンの心臓が恐怖でドキリと跳ね上がった。
次の瞬間――
バリン!
裏庭に面したドアを軽々と突き破り、黒い塊が家に飛び込んで来た。
黒い塊は一瞬のうちにエタンの母を押しつぶした。
「お、お母さん!」
黒い塊は魔獣だった。
どうやら先程とは別の魔獣が、他の道から村に侵入していたようだ。
エタンの叫び声に反応したのだろう。魔獣の目がキョロリとエタンを見つめる。
邪悪な視線に射すくめられ、エタンの体が硬直する。
圧倒的な暴力の気配。
姿を見られた。それだけでエタンは恐怖に歯の根が合わなくなった。
膝がガクガクと笑い、足元はふわふわと綿の上を踏んでいるような気分になる。
「エタン、私を置いてお逃げなさい!」
「お母さん?! 大丈夫だったの?!」
どうやら母親は偶然後ろに倒れこんだことにより、奇跡的に魔獣の攻撃を避けられたようだ。
魔獣の背後を伺うと、半地下になった食糧庫の奥に母の姿が見えた。
丁度朝食の後、食材をしまうために扉を開けていた所に転がり落ちてしまったらしい。
今は少し顔を出してこちらに叫んでいる。
エタンは迷った。
魔獣は恐ろしい。だが母親を置いて逃げる事なんて出来ない。
しかし、エタンの知っている生活魔法程度では魔獣には歯が立たない。
そもそも、たかが村の子供の魔法で魔獣と戦えるのなら、隣の国が滅んでいるわけがない。
魔獣とは本来、完全武装した魔法兵達が命を懸けて戦うべき相手なのだ。
「エタン、こっちよ!」
「リ、リゼット・・・」
家の外に幼馴染の少女リゼットが立っていた。
リゼットは家の中の魔獣の姿に一瞬怯んだが、勇敢にもエタンに手を伸ばすと彼を捕まえ、外へと引っ張り出した。
その直後、エタンに襲い掛かった魔獣が家の壁を吹き飛ばして外に転がり出た。
正に間一髪のタイミングだった。
後一瞬でもリゼットの判断が遅れていれば、今頃は二人そろって魔獣の餌食になっていただろう。
エタンは、リゼットに手を引かれて走り出した。
閉じ込められた母親を家に残して。
エタンはリゼットの家族と合流して村の中心へと走った。
あちこちから村人が悲鳴を上げながら逃げてくる。
逃げている? ・・・いや違う。これは明らかに追い立てられているのだ。
どうやら狩人は獲物を一匹も逃すつもりはないらしい。
だがそうと分かったところで、村人達が他に取り得る選択肢は無かった。
破滅の時は――逃れようのない最後の時は、刻一刻と近づいていた。
「あっ!」
その時、リゼットの幼い弟が何かにつまずいて転倒した。
リゼットはエタンから手を離すと、慌てて弟に駆け寄った。
彼女は弟を助け起こすと、すぐさまエタンに振り返ったが・・・
「エタン?」
喧騒の中、ついさっきまで彼女が手をつないでいた隣の家の幼馴染の姿は、どこにも見当たらなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「ここは・・・どこだろう?」
エタンは途方に暮れていた。
ついさっきまで、自分はリゼットに手を引かれて魔獣から逃げ回っていた。
しかし今、彼の周囲は真っ暗で、外にいるのか建物の中にいるのかも分からない。
そんな暗闇の中にポツンと一つ。緑色の台が浮かび上がっていた。
プロレスのリングだ。
新緑を思わせる鮮やかなエメラルドグリーンのマット。
おそらく「プロレスリング・エメラルドグリーン」のリングであろう。
しかし、プロレスを知らないエタンには、当然それが何なのか分からない。
ただぼんやりと闇の中に浮かぶプロレスのリングを見つめていた。
遠くから多くの人の声が聞こえる。何かの掛け声だろうか?
何を言っているようだが、上手く聞き取れない。
声は力強く、一定のリズムを刻んでいる。
――力が欲しいか?――
その時、頭の中に不思議な「声」が響いた。
男の声だ。
現代人なら思わず失笑しそうなほどベタな台詞である。
だが異世界の村人であるエタンには当然そんな常識はない。
驚き、うろたえるエタンの姿に声の主は再度尋ねた。
――力が欲しいか?――
「声」の問いかけに、やはりエタンは戸惑うばかりで返事も出来ずにいた。
次回「蘇る伝説」