その1 赤クワガタ
その異形の熊はこの森の王だった。
生まれつき頭部に二本の角――魔力増幅器官を生やした彼は、小熊のころから頭ひとつ抜けた魔力を持ち、その狂暴性と暴力性で森の生態系の頂点に君臨していた。
やがて彼は人間を襲ったことで味をしめ、森のそばの小さな集落を一つ壊滅させた。
事態を重く見た国は討伐のために魔法騎士団を送り込んだが、なんと彼は騎士団の土の魔法を何十発も受けた体でそれを返り討ちにしたのだった。
その際、同行した老狩人に右頭部を撃たれて右目を失ったが、そのことで彼の力が衰えるようなことは無かった。
今ではそのころから体も成長し、通常の熊のざっと3倍以上、体長10mを超える巨体となり、さらに力を増した化け物となっている。
彼の事を近隣の村々では、その特徴的な二本の角から「赤クワガタ」と呼び、恐れていた。
赤クワガタが縄張りに入った人間の存在に気が付いたのは今朝のことだった。
先日、彼を執拗に狙う野犬の群れを返り討ちにした直後ということもあり、現在の彼は気が立っていた。
彼は不機嫌そうに巨体を揺すりながら不運な侵入者へと近づいて行った。
なにせ10mを超える巨体だ。
赤クワガタはバキバキと若木や藪をなぎ倒しながら、人間の匂いのする方へと足を進めた。
彼がたどり着いた先にいたのは、小柄な人間――メスの人間一匹だけだった。
赤クワガタが見た事もない銀色の髪をしている。瞳は金色、肌の色は紫色。
そう。彼女は人間ではない。人類の敵、魔人である。
だが、一度も森から出た事の無い赤クワガタは、魔人の存在を知らなかった。
彼にとっては魔人も多少毛色の違う人間としか思えなかった。
いや、彼の狂った脳ではそんな判断も出来たかどうか怪しいモノである。
狩猟本能の命じるままにただ目の前の生き物を狩り、たまたま腹が減っていたらその屍を喰らう。
赤クワガタはもう何年もそうやって生きてきたのである。
「なんか化け物みたいな熊が出てきたし!」
流石の魔人も、10mを超える赤クワガタの巨躯を前にして驚いたようだ。
しかし、それは純粋な驚きでしかなく、その表情や態度からは恐怖は全く感じられない。
いつもの獲物にない反応に、初めて赤クワガタがわずかにだが警戒する。
だが生まれながらの強者である赤クワガタは、その感情が警戒心だということにすら気が付かなかった。
赤クワガタは自らに生まれた不愉快な感情を消すために、無造作に獲物へと近づいて行った。
「何? 熊さんアタシとヤル気だし?」
魔人は、「たかが熊ごときになめられたモンだし」と言うと、ゴテゴテと色とりどりにデコレーションされた服のポーチから、ピンク色の大きなメガネを取り出して顔に掛けた。
「だったら相手してやるし。アタシの最強魔獣、出てくるしー!」
魔人の呼びかけに応じて、地面から黒いブヨブヨした蛇のようなものがにじみ出て来た。
驚くほど大量に出てきた黒い蛇は、赤クワガタの目の前でうねうねと絡み合う。
やがて黒い塊は赤クワガタに匹敵する黒い人型の姿へと変貌した。
魔王軍の最下級兵、魔獣である。
魔獣はその名の通り、通常は四つ足の獣の姿を取る事がほとんどだ。
人のようなシルエットを取るものは珍しい。
しかも普通、魔獣は大きくても体長2mほど。魔力の弱い魔人が使役する魔獣だと1mを切ることも珍しくない。
よもや10m近い魔獣が存在していたとは驚きだ。
「アタシのオリジナル魔法、最強魔獣だし」
赤クワガタは目の前に立ちふさがった魔獣の威容に一歩後ずさる。
魔獣は口の端からダラダラと体液を滴らせている。
赤クワガタは生まれて初めて自分が捕食対象に見られていることに気付き、一度として感じたことのない激しい感情を覚えた。
それは”恐怖”の感情だ。
「グワオオオオオウ!」
赤クワガタは後ろ足で立ち上がると、心に芽生えた恐怖を振り払うように魔獣へと襲い掛かった。
恐怖や危機感を感じたら逃げる。そんな当たり前のことさえ赤クワガタは知らずに生きて来たのである。
赤クワガタの前足が魔獣に振り下ろされる。
体長10mを超える赤クワガタだ。前足に生えた鋭い爪はまるで大型ナイフ並みだ。
ガシッ!
だがその前足は魔獣に容易く受け止められた。
しかしその時、赤クワガタの片方だけ残った左目が不敵にすがめられた。
赤クワガタの前足に魔力が集まり、爪の先からいくつもの石の弾丸が発射される。
かつて赤クワガタは魔法騎士団にこの土の魔法を何十発も食らったことがある。
身をもって体験したことで、彼はこの魔法の使い方を会得していたのである。
致死の弾丸が避けようもない距離から魔獣に襲い掛かる!
ババババッ!
まるで散弾銃のような攻撃に、苦痛にうめき声を上げる魔獣。
だが、赤クワガタの前足を掴んだ手は離さない。
赤クワガタとしても、まさか自分の攻撃を耐えられるとは思わなかったのだろう。焦り、うろたえた。
「アタシの最強魔獣にそんなもの通用しないし!」
うひひひと笑う魔人。
・・・結構効いているように見えるのだが?
魔人と魔獣とは視覚は共有するが痛みは共有しない。
どうやら彼女は他人の痛みに無頓着な性格のようだ。
「今度はこっちの攻撃の番だし!」
魔人の言葉に魔獣の腕が盛り上がった。
「グワオオオオオウ!」
森に赤クワガタの咆哮が響き渡る。
苦痛の叫びだ。
かつて赤クワガタが何度も耳にした、そして初めて自らが口にする血を吐くような叫び声だ。
そして巨体が大地に投げ出される音と振動、それから木々がなぎ倒される音が続く。
全てに片が付き、森が静寂を取り戻したのはそれから三十分ほどたった後の事である。
辺り一面草木がなぎ倒されている。まるで竜巻が発生したかのような有様である。
その中心に転がっているのは体長10mの熊の死骸。
赤クワガタの成れの果てである。
片方だけ残った目は極限まで見開かれ、口の端からは血泡を吹き、舌がだらりと零れ落ちている。
体のあちこちに流れる血が彼の死闘を彷彿とさせる。
その体は胸元から下腹部まで抉られたようにグズグズに溶かされている。
彼の命を奪った魔獣のしわざである。
魔獣はこうやって奪った命のはらわたを溶かしてから貪り食うのだ。
しやがみ込んで赤クワガタの断末魔の表情を興味深そうにのぞき込んでいるのは魔人の少女。
ポップな色柄の服を可愛く着こんだ、いわゆる甘めガーリーだ。
この異世界アルダのファッションをそう呼んで良いのかは分からないが。
やがて魔人は死体に興味を失くしたのか、立ち上がると細い顎に指をあてて考え込んだ。
全体的に仕草がどこか芝居がかっている――というよりは、ぶりっ子と言った方が伝わりやすいかもしれない。
時折服装や髪の乱れを整える辺り、かなりのナルシストなのだろう。
実際、本人が己惚れる気持ちも分からないではないほど、人目を引きつける可愛いらしい容貌の持ち主だった。
最もその性格の方は魔人そのもの、といった所ではあるが。
「エルガルガルのヤツ、森に向かうって言って出かけたまま行方不明だしー」
行方不明の魔人、ナナナイタを捜しに出たエルガルガルが、同じく行方不明になったのは数日前のことである。
彼女はエルガルガルの最後に残した言葉を頼りにこの森までやって来たのだ。
「でもどこの森だか分かんないし。どうせならちゃんと行き先を言ってから行方不明になって欲しかったしー」
森に入った途端にこの熊に襲われたことから考えて、恐らくエルガルガルが向かった森はここではないのだろう。
もし彼女の前にエルガルガルがこの森を訪れていたのなら、この熊はこうして無事でいるはずはないのだから。
「道を間違えたかなぁ。もー、メンドクサイしー」
魔人はブツブツ文句を言いながら森を出て行った。
彼女がエルガルガルが滅ぼしたと思われる町を見つけるのはそれから数日後。
その町から森へは一本しか道が伸びていなかった。
その小道の向かう先はペリヤ村。
この物語の主人公、エタンの住む村である。
次回「一度あることは二度ある」




