予感
偶然の再会なんて実際におこりうるのだろうか、少なくとも僕達がこのように出会う確率は限りなくゼロに近かったのではないかと思う。
初めて降り立った駅のホームで乗り換えの電車を待っていると大隈満里奈が僕に気付いて話しかけてきた。「もしかして岩上くんだよね」
僕はあまりに突然のできごとだったので動揺して危うく線路側に転落してしまうところだった。「そうですけど。あなたは」落ち着きを取り戻そうと努めたが彼女の顔をはっきりと確認するやいなや、僕の心臓は早鐘を打ち鳴らし始めた。「大隈さん……」
「いやだなぁ、大隈さんだなんて。昔みたいに満里奈でいいよ」彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべながら僕の二の腕に触れた。
「今は埼玉にいるのかい」僕は反射的に触れられた腕を引っ込めた。彼女が嬉しそうにしていることが奇妙に思えて仕方がなかった。
「まぁ、そんなところね。愛媛のマンションは随分前に引き払ってしまったわ」
「そうか」理由を尋ねようとしている自分を制して会話を終わらせようとした。「元気そうだな」
「あなたは仕事の関係でこっちに来たの?」
「転勤だよ。これから浦和支店へ初出社ってところ」僕は無意識に口を滑らせてしまった自分を責めた。
転勤という言葉に反応してか彼女の唇が僅かに痙攣するのが見て取れた。「あなたって転勤が多くて大変ね。またどこかで女が泣いてるんじゃないかしら。
じつは私もちょっとした用事があって今から浦和へ行くところなの。これって偶然ね」またしても彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべた。相変わらずだと僕は思った。彼女の笑顔にはそこはかとなく危険な香りがする。それが彼女の魅力のひとつだと思っていた時期もあったし、僕を除けば今でも効力は健在なのかもしれない。
「僕、お手洗いへ行ってくるよ」
「電車もう来るわよ」
「時間には余裕があるんだ」
「そう」
もちろん手洗いへ行くというのは、彼女から解放されるにためについた真っ赤な嘘だったので、彼女の死角になる場所を見つけてそこで電車を待った。僕の嘘を彼女は見破っているかもしれない。僕にもう少し嘘つきの才能がありさえすれば、あの五年前も今このときも気まずい思いをせずに済んだだろうに……。
実際はそこまで時間に余裕などなかったので、可能な限り満里奈から離れた車両に乗り込むことにした。しばらくしてホームに電車が滑り込んできた。
これまではとくべつ大隈満里奈に苦手意識を持っていたことはない。むしろ彼女のほうが僕と関わりたくないと思うのが自然ではないだろうか。しかしさっきの彼女の態度は僕を漠然と不安にさせた。
さいわい僕は浦和駅で彼女と鉢合わせずに出社することができた。もう二度とあんな偶然はごめんだ。大隈満里奈といまさら関わり合うべきではない。別れて五年の歳月が流れようとも、僕たちは交際していた当時のように再び愛し合うことなど有り得ないのだから……たとえこの先、何年経ったとしても。
僕は新しい職場で形式的な挨拶を済ませてから、自分のデスクでいくつかの特に重要な資料に目を通していた。
勤務先は大手不動産チェーンの浦和支店で五年前までは愛媛県の松山支店にいた。大隈満里奈と交際していたのは松山支店にいた頃のことで、転勤が契機で別れることになった。彼女は僕の新たな勤務先へ一緒に着いていくと言ってきかなかったのだが僕が却下した。理由は様々だったが彼女との愛が自分にとってそれほど重要なものでなくなっていたというのが大きかった。若かった僕はそれをそのまま彼女へ打ち明けてしまった。当然、彼女は見るに堪えないほどに打ちひしがれていた。
昼休憩がちょうど終わるころ、支店長の上村に呼ばれた。上村は四十代前半くらいだろうか……実際はもっと歳上なのかもしれないが、引き締まった体型にフィットしたグレーのスーツが彼に若々しい印象を与えていた。
「なにか?」あまりいい予感はしていなかった。
「君にお客さんが来ている。物件を探しているそうだ」
「僕に……ですか」
「君の知り合いだとかで、なかなかの美人だったぞ。
案内のことでわからないことがあったら他の誰かに訊ねるといい。どこの支店も手順に大差ないことくらい君なら知っているだろうがね」
嫌な予感は見事に的中した。大隈満里奈が例によっていたずらっぽい笑みを浮かべながら僕に小さく手を振って合図をした。
「どういうつもりなんだ」僕は出来るだけ声を潜めて満里奈に言った。「なにか目的でもあるのか」
「もちろん」彼女は相変わらず笑顔を浮かべたままだった。「部屋を探しに来たの」
「埼玉にもう住んでるんじゃないのかい」
「私は愛媛のマンションを引き払ったと言ったのよ」
「なぜよりによって僕のところで」
「あら、いけない?それがあなたの仕事でしょう。
私はしばらくホテルで生活しているの。今朝偶然あなたと再会したから、岩上くんの勤めるここで物件を探してみようと思っただけよ」そう言われたら追い返すわけにもいかない。彼女の言う通りそれが仕事なのだから。
「どんな物件をご希望ですか」
「なつかしいわね。出会ったときも、私が部屋を探していたのよね」
「そうですね……」
「3LDK」
「えっ」
「間取りよ。そんなに驚かないで、本当に偶然浦和に用事があったからここへ寄ったの。いい部屋が見つからなければ二度とあなたの前に現れたりしないから安心して」
「そうじゃないんだ。ひとりで3LDKは少し広くないかい」
「勝手にひとりって決めないでよ。まぁ恋人なんかいないんだけどね」
「場所はどこら辺に探してるの」
「あなたも指輪をしてないってことは独身なんだ。そうね、駅から近ければ問題ないわ」
僕は何も着けていない左手の薬指を擦りながらパソコンの画面に表示された物件を睨んだ。確かに僕は独身だが、彼女には関係の無いことだ。
彼女が提示した条件でいくつかの賃貸マンションがヒットした。どれも一人で暮らすには広すぎるような部屋だ。だがそれも今の僕には関係のないことだった。以前のようにライターの仕事を続けているのなら場所は本当にどこでも構わないのだろうし、僕には言わないだけで恋人と住むのかもしれない。でも、恋人と暮らす部屋を元恋人に探してもらうだろうか。
僕は勤務先の軽自動車の後部座席のドアを開けて、満里奈を乗せてから静かに閉めた。彼女が是非とも自分の目でいくつかの気に入った物件を見てまわりたいと言い出したからだ。
僕はチラと時計を見た。本当に全て見てまわるのなら、ここでの勤務初日は彼女とのドライブで終わりを迎えるだろう。物件を案内するあいだ実に複雑な気持ちだったし、彼女が一戸ずつ細部まで慎重にチェックしているときも何度となく腕時計の時間を確認した。結局、僕の懸念は現実となった。支店へ帰る頃には終業時間の一時間前で、その時間は彼女の入居手続きで消化するハメになった。
「まさか本当に住むとはな」
「あなたも見たでしょう。素敵な部屋だったじゃない。これで私が冷やかしでないことは証明できたわね」
「でも、どうして」
「知りたい?」
「そりゃあ……」好奇心からだろうか、彼女の動機が解せないからなのか、僕は今や知りたくて仕方がなかった。彼女の口から真相を聞かなければ、今夜は寝れないかもしれない。「知りたい」
「ここでは話せないようなことだから、このあと時間つくれるかしら」
「少しくらいなら」このときばかりは嫌な予感めいたものは湧き上がらなかった。僕の嫌な予感というのはいやというほどに当たるのだ。
「五年ぶりの再会に乾杯」彼女は例の笑みを浮かべて生ジョッキを掲げた。僕もそれに倣った。
「説明してくれないか。なにか事情があるんだろう」
「まぁね」彼女はビールを半分ほど一気に煽った。「あなたに言っておきたいことがあるの」
「そのために僕を探したのか」僕はジョッキが空になるまで煽った。まだどんな感情をいだけばいいのかわからなかった。僕はハイボールを注文した。
「五年前に言えなかったことがあったの」いつしか彼女の目が赤らんでいることに気がついた。「まだお互いに若かったから、どう伝えるべきかわからなくて」彼女の頬を涙が伝った。
「……」僕は未だにどういうことか理解出来ずにいた。とても居心地がいいとは言い難かった。
「最近ね、娘にパパはどんな人なのかって訊かれるのよ」
僕はハッとして俯き気味だった顔を上げた。「娘って、まさか……」
「ごめんなさい。勝手に産んでしまったりして」
「僕の子供なのか」僕は五年前の自分を振り返った。何度もなんども転勤先へ一緒に行きたいとせがむ彼女から、逃げるように去った自分に彼女が妊娠の事実を伝えることが出来るはずはなかった。
「あなたが既に家庭を築いていたら、きっとこんな真似はしなかったわ」彼女は精一杯笑顔を作ろうとしていた。自分が泣いていたのでは僕がどんな気持ちになるか配慮してのことだろう。「私があなたに愛されなくとも、娘には父親を知る権利があると思ったの」
「少し時間をもらってもいいかな」ハイボールは早くも空になっていた。
「いくらでも待てるわ。五年間ひとりで頑張ったんだもの」
「大変だったな」
「娘と二人でも3LDKはやっぱり少し広いわね」
「どうかな。案外ちょうどいい間取りになるかもしれないよ」僕は自然と微笑んでいた。