78_“正義”の聖女
あなたに送る言葉なんて
ないよ
(炎と海のトリエ)
◇
聖女トリエが一人で本を読んでいると、竜のアランが何時ものようにしわがれた声で話しかけてきた。
「今日もお前は一人か。一人で部屋の隅で縮こまって何を見ているのだ?」
「“冬の女王”」
「なんだって?」
「だから“冬の女王”よ」
トリエは分厚く古めかしい装丁の本から顔を上げずに答えた。
「“冬の女王 第二篇 光の森”女王とル=リグの出会いと、ル=リグがいかに彼女に忠誠を誓うかが描かれているわ。のちのちの活躍から高潔な武人というイメージのあるル=リグだけど、この頃はどうも定まっていなかったのか、えらく砕けた物言いをしているの」
「人は人だ。時が経てば考えも口調も変わるのだろう。それが虚構の存在ならなおのこと」
「でもこれは史実を基に描かれているから、どうなのかしら?
その点で、やっぱりナポレオンとかビスマルクみたいなファンタジックな空想上の人たちとは違うわ。
どちらのル=リグが本当だったのかしら?
本当にこんな風に口調が変わったの?
それとも本当は別々の人間だったのが統合された?」
「さて、本当はル=リグなんて人間はいなかったのかもしれないぞ?」
悪戯っぽくアランが言うと、トリエは不満そうな顔になって、
「それを貴方が言うの? 竜なんて、それこそ何百年も前に消えてなくったハズじゃない。
貴方こそおとぎ話の存在よ」
「さて、手ひどいことを言う。気にしているのだぞ、それは」
そこで、ごうん、と部屋の壁が震えてた。
鈍い音に引き続いて、甲高い悲鳴のようなものが部屋の外から聞こえてくる。
トリエは大きく息を吐いた。そして再び眼で活字を追い始めた。
「さて」とアランはまたそう言った。
彼だか彼女だかトリエは知らないが、アランは「さて」という言葉が口癖なのだ。
とりあえず「さて」と言えば自分の好きな話題に転換できると思っている節がある。
「さて、トリエよ。何時までお前はこの部屋に閉じこもっているつもりだ?」
「閉じこもっているんじゃないの。私は閉じ込められているの」
「そうか? きっとお前が言えば、奴らは従うのではないか?
どちらの立場が上なのか、お前も奴らもわかっているだろう?」
トリエは「厭なの」と返した。
「ほ?」
「厭なの。愛とか、恋とか、“正義”とか、そういうの。
だから、私もあんまり気が乗らない。
嫌ってるものにヌケヌケと頼るのは、さすがに厚かましいわ」
「こだわりという奴だな。気丈なことだ?」
「変かしら?」
「いや、それでこそ、という心地だ。
我は知っているぞ、聖女というのはそういうものであると」
その声を聴いて、トリエは変な顔をした。
彼女は聖女であったが、他の聖女に出会ったことはない。
同じ顔・同じ容姿をした人間がいるといわれても、ピンとこない。
顔が似てる人なんか聖女でなくともいると思うし、奇蹟と言われても、トリエは己の力を奇蹟だと肯定的に認識したことがなかった。
「……それに私、行きたいところなんてないし」
トリエの小さい声を拾って、アランはすかさず言ってきた。
「じゃあ、海に行くといい?」
「海? また」
「ああ、海だ。この世界のすべてはそこから生まれ、そこに還っていく」
竜のアランはどういう訳か、トリエをよく海に連れていこうとする。
トリエ自身は海など興味はないし、特に縁もない。
海を通じて世界の“果て”に行ったところで、己のカタチを保てなくなり想念に還るだけだ。
「私を海に連れていって、何をしようっていうの? おとぎ話の竜?」
「ふふふ……行けば、わかるさ」
「あやしい。いやらしい。そして、女々しい感じがするわ」
トリエが目を細めて返す。
と、そこでコンコンとノックがされ、そのまま扉が大きな音を立てて開かれた。
「大変だ! 極刑騎士団の連中がもう」
入ってきたのは黒髪の青年で、額には玉のような汗が浮かんでいる。
その手袋と鞘にはどす黒い汚れが付着しており、今の今まで彼が何をしていたのかを示していた。
「トリエ! 早く逃げるんだ、俺たちが時間を稼ぐ」
「あら、そんなに」
トリエは努めて平坦な、しかし内心ではうんざりした心地でそう述べた。
どうやらここから出るときが来たらしい。
分厚い壁に、最低限ながらも整えられた調度品、並べられた本棚。
人一人が生きていくのにギリギリの狭さ、という点を除けば、それなりに居心地のいい場所だった。
「次は、どこにいくのかしら」
もう戻ることのない部屋を見て、ぼそりと彼女は漏らした。
◇
ごぉん、とに鈍い鐘の音が街中に響いていた。
街の中心を突き破るように立つ銀色の時計塔は、街のシンボルであると同時に、見上げることを畏怖させる存在でもあった。
この街を王朝自由自治軍を名乗る武装同盟が占拠してから半年が経つ。
かつての王朝の名を掲げるだけあって、その出自がどうあれ、自由軍は人々に横暴に振舞うことはなかった。
部隊は統率され民に暴力をふるうことなく、税と称して金品や食糧を巻き上げることもなかった。
この時代、それだけでも相当にマシな部類であることは間違いないだろう。
それだけでなく、外敵から街を守る、と称して異形退治まで請け負っていたのだ。
しかし自由軍は、この一帯を統治する権力との対立するものであった。
“新王国”を名乗るそれは、王朝崩壊以降、“冬”の地に数多く生まれた小国の一つであり、未だ旧王朝の名を掲げる自由軍とは相いれないものであった。
それ故に極刑騎士団という軍事力を持って、自由軍を討伐せしめんとしていた。
結果、この時計塔の街は自由軍と極刑騎士団の抗争の舞台になっていた。
この半年、騎士団の偽剣隊とのジリジリとした攻防がずっと継続していたのだ。
自由軍は確かに外敵から街を守っていたが、しかし、その敵の大多数は自由軍が連れてきたに等しい。
そんな経緯があるが故、自由軍が接収し、基地として運用している時計塔は、民から恐れられていたのである。
「……火が上りましたね」
街の片隅、乾いた風が吹き続ける屋根の上で、二人の男女が会話を交わしている。
“教会”の灰色のカソックを纏った彼らは、共に剣の紋章が刻まれた仮面を被っている。
「自由自治軍と極刑騎士団との抗争。
長きにわたりましたが、おそらくこれは騎士団の勝利ですね」
長い金髪を垂らす、ひょろりと痩せた男であった。
その異様な長身と合わせて針金のような体型をした男は、名を、7《ジーベン》といった。
「時計塔は既に包囲されていますし、自由軍の逗留部隊が全滅するのも間違いない。
近くに高速旅団がいることから、何騎かの部隊と彼らの“正義”たる聖女を連れ出そうとはするでしょう」
7《ジーベン》は時計塔より立ち上った火を見つめながら、淡々と分析を述べる。
対する女の方は、無言で座り込み、足をぶらぶらとさせていた。
「5《シュンフ》、今回の任務ですが、わかっていますね」
7《ジーベン》は釘を刺すように言った。
「我々の目標は8《アハト》、新たな偽剣使いの到着まで、聖女を生かすことです。
それで第四聖女の“転生”を止めることが可能になります。終わりにできるのです」
「……わかっている」
「すでに第二、第五、第六は討伐されたとのこと。新たな8《アハト》がどのような人間かまだ私も知りませんが、能力は確かでしょう」
「だから、わかってる」
5《シュンフ》と呼ばれた女は、不貞腐れたような口調で言った。
「……わかってるって」
そして燃え盛る時計塔を、ただ見上げた。
「火、穢れを清める炎は変わらない、あたしを燃やしたときと……」
少しだけ、彼女の声は震えていた。
◇
トリエは青年に手を引かれ、時計塔より離脱しようとしていた。
「前は固めたか!? クソッ、ヴィクトルの奴はこんなときにどこいった」
「あんな無頼を当てにするんじゃない。それよりも聖女様を」
「了解だ、裏から一気に離脱をする」
時計塔の中を怒号がこだまする。
狭い通路を武装した剣士や魔術師たちが駆け抜けていた。
聞けば街の防衛線が破られたらしく、既に時計塔の周りでは極刑騎士団の偽剣隊が展開しているらしい。
入り口を固める形で応戦しているが、どうもそう長くは持たないようだった。
「さて、こんなところだろう。所詮は烏合の衆というところか」
わちゃわちゃと騒ぎ続ける自由軍の面々を見て、竜のアランはつまらなさそうに言った。
「この状況、敗けは恐らく確定しているぞ? それでもこやつらについていくのか?」
トリエは声を無視した。そんなことは言われるまでもなくわかっていた。
ただ今さら生きることに必死になったところで何の意味のないと、トリエは知っていた。
「早くこちらに!」
だから何も言わず、強引に手を引かれるがままに、自由軍の青年についていった。
どうも話がついたらしい。
表の部隊が全戦力を投入した囮として大きな花火を上げる。
一瞬の間隙を作り、その間にトリエ一人を逃がす。高速旅団に合流できれば、なんとか生き延びることができるかもしれない。
……つまり自由軍はその身すべてと引き換えにトリエを守ろうというのだ。
「落ち延びましょう。貴方さえいれば、我々は再起できるのです」
ただ部屋で本を読んでいただけのトリエに対して、青年は確信を持った口ぶりで言った。
時計塔の裏へと通じる階段をあわただしく降りていく。トリエが転ばないように、彼がかなりを気を付けているのがわかった。
「たとえ人が入れ替わったのだとしても、芯として貴方様がいるのであれば、それは王朝自由自治軍なのです!」
「熱っぽく、よく言うものだ」
竜のアランが面白がって言った。
こら、とたしなめるようにトリエは口を小さく漏らす。
が、彼は特に気にした様子もなく、叫ぶように言った。
「僕が貴方を守ります。守りますから! 生きていてください」
そう力強く叫びを上げ、彼はトリエの手を引いて駆け抜けた。
そうして時計塔の外に出ると、熱い風が押し寄せ、トリエは思わず顔を覆った。
街の象徴たる時計塔周辺は既に炎に呑まれ、四季女神をかたどった像は無造作に破壊されている。
ダダダ、と幻想がはじけ飛ぶ音がこだまする。
生き残るためにはこの街を駆け抜ける必要がある。
青年は、ぐっ、とトリエの小さな掌を握りしめた。その力強さは、彼の覚悟を示しているかのようだった。
「行きますよ、トリエ様」
爆音が響き、表部隊が再攻撃を始めたことが伝わってくると、自らを鼓舞するように言った。
そして駆けだそうとするが、
「そこまでだ」
その場に、ダ、と偽剣士たちが跳躍してやってきた。
数は五騎。全員が赤と白の装飾で彩られた甲冑を身に着け、偽剣『ルーン・ガード』で武装している。
極刑騎士団、である。
「悲しいことだ。決死の作戦も、こんな簡単に看破されてしまうとは」
竜のアランは全く悲しくなさそうに言った。
「くっ! 下がっていてください」
自由軍の青年は鞘より『ウイッカ』を抜き、トリエの前に出た。
『ウイッカ』は青年の覚悟と呼応するように青くゆらめく炎を纏う。
「四対一! それでなお抵抗するか」
「無論、それが僕の戦う理由だからだ!」
騎士団からの揶揄に青年は迷うことなく答えた。
「覚悟は褒めてやる。しかし、我々とて敗けられない理由があるのだ!」
騎士団のうち一騎はそう叫び返すと、トリエを見た。
「トリエ様! 我々が今救出してみせますぞ。自由軍に奪われた貴方を助けるため、私は戦い続けてきたのです!」
と、
高潔な響きを持って彼は言い、そして『ルーン・ガード』と『ウイッカ』が激突した。
青年は四対一の絶望的な状況ながら奮戦する。
一方の騎士団もその覚悟を正面から受け止めるように、高い士気を持って相対していた。
「トリエのために! 聖女のために!」
「再びトリエ様を取り戻すために!」
それを片隅でトリエはただぼうっと眺めていると、頭上から、どん、とまた大きな音が響くのがわかった。
「逃げろ! 塔の中だぞ」
何事か把握する前に、竜のアランの声がした。
トリエは考えるより先に彼の声に従った。時計塔の裏口に隠れ、その次の瞬間に爆音が轟いた。
「流れ弾か? 表の方も相当な激戦のようだな」
アランのことを聞きつつ、ゆっくりと顔を出すと、そこには誰もいなくなっていた。
騎士団の甲冑は焼けただれ、折れた『ルーン・ガード』が転がっていた。
青年の姿は見えなかった。もしかすると溶けたのかもしれない、などとトリエは考えた。
「逃げた方がいいのではないかね?」
竜のアランが珍しく真面目な口調で言った。
「自由軍と騎士団は、このままぐちゃぐちゃに戦い続ける。
君を守ろうとする自由軍も、君を取り戻そうとする騎士団も、もはや戦場をコントロールなどできない。
何にせよ、ここから出た方がいいと思うぞ、我は」
「……ん、まぁそうだね」
トリエはこくりと頷いて、燃え盛る街へと歩き出した。
炎の熱に顔をしかめながら、同時にこうも思う。
手を引いてくれた青年も、さっきの騎士団の人も、どこかで前に会ったことがだろうか、と。
もしかしたら、名前ぐらい聞いていたかもしれない。
少しだけ疑問に思いつつ、彼女は駆けていた。
“正義”の第四聖女、トリエ。
彼女は、聖女の中において最も弱く、しかし最も危険な存在だとされており──




