76_堕落のエピローグ③
「第二聖女。聖痕は“堕落”、その奇蹟の歌を聞くと、なんだか元気が出て癒される。
観測された例としては、戦場で歌を聞いた人々が戦いを止めた、なんて話もあるわ」
歌響き渡る空の下、カーバンクルは説明したがりの彼女は、おさらい、とでも言わんばかりに語り出していた。
「でもね、私が思うに、これはただの結果に過ぎないのよ」
「結果?」
「ええ、元気が出るのも、癒されるのも、戦いたくなくなるのも、副次的な効果。
だって、この“たまご”には歌がずっと響いてたわけだけど、私たちバリバリに殺し合ってたじゃない」
田中は鞘を抑える。
『エリス』と『アマネ』を使い、自分はヴァレンティンや盗賊を斬り捨てた。
そこに一切の迷いはなかった。あれだけ歌を聴いていたというのに。
「この歌の本質はね──だから、満足感にあるのよ」
「満足感?」
「ええ、この歌を聴くと、人々は今の自分に充足感を覚える。
人は普通は今の自分に満足しないもの。
だから理想を抱いたり、何かを犠牲にしてでも進もうとする。」
「…………」
「だけど、この歌を聴いていると、なんだかそれもどうでもよくなって来ない?
“ま、いいか”とか“もうこれで満足”と思わせる。それがたぶん、この歌の正体」
“無血”を標榜していたマルガリーテは、相手の言葉を聴くことをあえて無視してしまった。
決闘にこだわっていた筈のヴァレンティンは、敗北を重ねた闇討ちによる勝利を選んでいた。
霊鳥のリューがこの場での死を受け入れていたこと。そしてキョウがあの場で去ることを選んだのもあるいは──
「あのヨハンとかいう魔術師も、たぶんそうね」
「あの男もか?」
「ええ、気づいていた? 彼、完全に妖精に主導権を奪われていたわよ。
聖女をあきらめたのだって、妖精からの言葉だったようだし」
ヨハンという男のことを、田中はよく知らない。
しかし、会うたびに彼は多くの妖精にまとまりつかれていた。
知識も、知恵も、行動も、言動も、すべて妖精に言われるがままだったのかもしれない。
事実、去り際には、聖女でなく妖精を求めるようにさえなっていた。
「妖精は想念寄りの存在だから、たぶんこの歌の影響をモロに受けている。
知識を与えて満足させること。道をないとあきらめさせること。
そのどちらも、あの妖精がやっていたのかもね」
少なくともヨハンの道は順調だったはずだった。
障害物をするすると避けていき、もっとも先を進んでいた。
にも拘わらず、彼はあっさりと歩くのをやめていた。
「……私たちも近々そうなるかもしれないけど」
田中は肯定も否定もできなかった。
ただ歩き続けた。まっすぐ続く空の回廊を、ただただ奥へと進む。
◇
それからヨハン・DD・ゲシュテンベルキシュトネーンの消息は途絶えた。
“たまご”よりのち、彼がどこに行ったのかを知る者はいない。
才ある者として今後を期待され、事実能力もあった。
しかし、そんな彼が独立後に遺したのは、妖精符丁にまつわるささやかな論文のみだという。
“僕はこれを完成させるために生まれた”そんな言葉が、論文の最後には記されている。
中枢魔術工房有数の天才として持てはやされた彼の名は、次第に忘れられることになる。
◇
「もしかしたら、もう辿り着いていたのかしらね」
カーバンクルがそう言うと「へぇ」と田中は適当な返しをした。
そんな応対を、しかしカーバンクルは特に気にも止めた様子はない。
ずっとそんな調子だったからだ。
二人のうちどちらかが話したいことを話し、もう一方が適当に返す。
それで話終わったら沈黙し、またふと会話が始まる。
ずっとそんなことを続けながら、二人は並んで歩き続けていた。
「かつての冒険者たちは結局、何の宝も名誉も得られず、ただ死体が積み重なった」
「そして失望された」
「ああ、だが、中心に辿り着いた者もいないとも聞くわ。
そのわずかな謎が、ここをギリギリで秘境たらしめていた訳だが──もしかすると、もう冒険者たちは辿り着いていたのかもしれない」
「へぇ」と田中はもう一度漏らした。
「中心に値するフロアに来ていた。
しかしそこには何もなかった。だからそこは中心とは思われなかった。
そうして冒険者たちはその近辺を行ったり来たり、なにかある筈だ。ここまでの苦労に値するものがあるはずだ、と探して回った。
自分たちがもう辿り着いているとも知らずに、ふらふらとしていた。
ただ、それだけのこと。
それが、数百年経っても踏破されなかった迷宮のカラクリって訳」
「あるいは、初めに来た者がもう持ち出していたのかもしれない」
「その可能性もあるわ……まぁつまるところ、別に冒険者たちは志半ばで倒れた訳ではない。
ただ、目指した場所に意味がなかっただけ」
そのころになると、二人は会話中にも視線を交わすことはなかった。
ただ黙々と歩き続けていた。
「そんな場所だとしても、行く?」
「行くさ」
「もしかすると、もう辿り着いてるのかもしれないわよ?」
「それを決めるのは俺だよ」
「あら、私も決める権利はあるわ」
歌を聴くたびに足が止まりそうになる。
しかしその歌が続いているからこそ、足を止める訳にはいかない。
それにまだ歌がきれいには聴こえないのだ。
外殻に比べればずっと明瞭になっているが、しかしやはり何枚も壁を隔てているようにも聞こえる。
だからまだここは“終わり”ではない。
確かに意味はないかもしれない。
この歩みを続けたところで、報われることもなく、無意味だったと後で悔いるかもしれない。
しかし、目指すべき場所に行くためには、これ以外の方法はない。
少なくとも、今のロイ田中にとっては、これが唯一の道であり、そこに迷いが生まれる余地はないのだ。
「足を止めたら、いよいよ俺は何のために生きているのかわからなくなる」
「……やっぱり似ているじゃない、私と貴方」
「へぇ」
◇
そんな言葉を交わしてから、さらにもう一日ほど経った頃だろうか。
ずっと続いていた青空の向こうに、碧色の光が見えた。
──おお、来てくれたのか。
そう口にしたのは、幼い少女であった。
「……でも知らない人じゃわい。
まったくヘイの奴、何やってるんだか」
少女はむくれるように頬を含まらせたのち、
「──我が名はミノルフェン・オルトミナココノフェーノマタクス。聖女である」
そう名乗りを上げた。
「言いにくいじゃろう?
そう思って愛称が用意してある。我が名を物質言語で発音しやすいように言うとな」
──ミオだ。
“堕落”の聖女ミオは反響する歌声の中、そう言い放ち、田中とカーバンクルを迎えた。
……“堕落”の時がきたのだ。




