71_マケイヌ
……少し前、一人の人狼がこんなことを呟いていた。
「拙者は勝たなければならぬ。
勝つことで拙者は拙者であることを維持してきた。
折れてしまえば、それはもう拙者ではない。
そのために必要なのは勝利だった。
しかし拙者は二度、いや三度敗けた。
敗け続けた。言い訳もできぬ無様な敗北だ」
誰かに向けた言葉ではなかった。
ただ一人で彼は言葉を紡いでいる。
「だが、認めぬ。まだ道はある。そうだ忘れてしまえばいい。なかったこととしてしまえばいい。
そのためには、とりあえず終わらせる必要がある。
忌まわしい因縁を、自らの恥部を、虚無的な挑戦を、とにかく清算してしまえばいい。
拙者はオオカミだ、マケイヌではない」
それは、再び立ち上がるために己を鼓舞するためのものであり……
「そのためには──多少のことは目につぶろうではないか
拙者のための闘いである以上、拙者が拙者を許せればそれでいい」
他でもない彼自身に対する、ただの言い訳でもあった。
◇
突如として現れた人狼の剣士、ヴァレンティンは獰猛な眼差しで田中たちを見た。
……その手には偽剣『フェイゼン・トラッカー』が握られている。
中枢魔術工房による最新型の偽剣。
盗賊の神trkの物語をベースにした『トラッカー』の発展騎種である。
その最大の特徴は、脱出装置を搭載していることだった。
その魔術は偽剣使いが致命打を受けた瞬間に、自動的に起動する。
辺り一帯の幻想を収集し、偽剣使いに酷似した即席のダミー死体を作り出すのである。
さらに発動の瞬間には、隠蔽魔術と数十メトラ規模の跳躍がやはり自動的に作動。
それによって、安全に戦場から離脱できるという騎種であった。
その新技術の数々は流石に中枢魔術工房の最新モデルといったところであった。
そうした機能を持っていたからこそ、ヴァレンティンは6《ゼクス》との再戦を生き延びることができた。
同じように『フェイゼン』を持っていたからこそ、ヨハンは4《フィア》の拷問を抜け出せたのだった。
──しかし、そんなことはもはやどうでもよかった。
ただ一つ重要なことは、6《ゼクス》は凶刃に倒れたということだった。
隠蔽魔術によって、背後から迫ってきたヴァレンティンにより、呆気なく彼は殺された。
『フェイゼン』の性能に気づいていれば、もしくは異形によって場の幻想が乱れていなければ、察知することもできたかもしれない。
しかし、そうはならなかった。
ただ、それだけの話であった。
「フフフ……さて、こうか、こう使うべき剣なのだな、これは」
ヴァレンティンは血走った眼で何やらブツブツと呟いている。
どこか精神的な均衡を欠いたその物言いは、カーバンクルが以前接触した時には見られなかったものだ。
跳躍し、距離を取った彼は瓦礫の上に立ち、田中とカーバンクルを見下ろしているのだった。
「…………」
カーバンクルは倒れ伏す6《ゼクス》を一瞥した。
血を流し続ける彼が起き上がることはもうないだろう。
死ぬときなどこんなものだ。故に今更彼に対して投げかける言葉を彼女は持たなかった。
「さて、と人狼君」
だから彼女は平坦な口調で、突如として現れた敵へと言葉を投げかけた。
「私が思うに、君は一戦・二戦目とどうにも正々堂々だとか、一騎討ちにこだわっていたのだと思うんだけど」
「……フン、まぁそれは否定はせんさ」
尋ねるとヴァレンティンは己を鼓舞するように叫びを上げた。
耳をつんざくような騒音に「うるさい」とカーバンクルは顔をしかめた。
「しかして、拙者はこんなところで止まる訳にはいかないのでな。
ここは手軽な形で清算させてもらった」
「へぇ、妥協をしたということね」
「なんとでも言うがいいさ。結局のところ、これは拙者の問題だ。
拙者が納得できれば、それでいいのだ!」
ヴァレンティンの叫びに対し、カーバンクルは呆れたように息を吐いた。
もはや言葉を交わす気にもなれなかった。
なんともまぁつまらない人間だと、彼女はひどく萎えた心地だった。
「──お前」
一方で、田中は既に一歩前に出ていた。
彼は鞘に触れながら、カーバンクルと同じくひどく平坦な口調で問いかける。
「……昔、会ったことがあろうだろう?」
と。
「何──?」
「ああ、そうだ。確かそう……まさに、この“たまご”だ。
闘技場で戦った覚えがある」
田中は頭を抑えながら、本来、彼が知らないであろう記憶を淡々と述べている。
ヴァレンティンはその様子を訝し気に見ていた。
「そうだ、確か本当に取るに足らない……情けない相手だったんだ。
その癖、生き残った。殺せなかった。ああ、だから次は、会った瞬間に殺そうとか思っていたんだ」
「お前、その物言い──まるで、あの人斬魔の」
田中に対してうろたえるヴァレンティンを見て、カーバンクルは合点が行った。
ああ、なるほど。そんな声が出る。
そして思う。本当にこれはまた──傑作だと。
「ああ! 私も思い出した。君、何年か前に8《アハト》に敗けた奴か!」
そしてカーバンクルは哄笑する。
人狼の剣士を侮蔑し、嘲笑うかのように大きな声で彼女は笑ってみせる。
「小物だったんで、私もすっかり忘れてた。
8《アハト》に一騎討ちとか言って喧嘩を売って完敗したんだ。
あの時、8《アハト》は仮面を被ってはいなかったから、異端審問官と気づいてなかったって訳ね」
「な、何を──」
「いやいや、何で君がここに来ていたのか、とか6《ゼクス》に執着してたのかもわかったよ。
君、自分が強いということを自我の寄り処にしていたんだな。
だがそれを打ち砕かれた。だからこそ、因縁のこの場所で自尊心を回復させようとした」
カーバンクルはそこで大きな声で言い放つ。
だとしたら──これは運命的な話だと。
「断言しようじゃないか。ヴァレンティン君!
そこにいる少年は、姿形こそ変わっているが、紛れもなく8《アハト》を継ぐ人間なんだよ」
「そんな……馬鹿な。拙者が今になって“たまご”に戻ってきたのは、気まぐれだぞ。
そんな日に、幸運にもあのブレードハッピーがまた、ここに現れるなど」
「だからさ、ホントにホントに! 君は運がよかったのさ!
君は自分でも知らない間に、トビっきりの幸運を掴んでいたんだ。
君の逆恨みが昇華されうる、絶好の機会だったって訳だな」
そこでカーバンクルは自分で言ったことが面白くてたまらない、とでも言うように笑ってみせる。
対照的にヴァレンティンはどこか愕然とした様子で、近づいてくる田中を見つめていた。
そう、それは彼が敗北してから、ずっと、ずっと待ち望んでいた筈の好機だった。
まさに運命のいたずらだった。
他の強者に打ち勝つことで代用するしかないと思っていた喪失感を、ピッタリと埋める相手がこの場にいたのだ。
しかし──
「いいよ、一騎討ちがご所望なら、乗ってやる」
何かに逡巡している様子を見せるヴァレンティンに対し、田中はそう言い放った。
「な、にを……」
「ほら、ほかにも条件があるなら言えばいいさ。
お前が満足したい戦い方に合わせてやる──お前が胸を張って戦えるやり方でだ」
破壊されきった街を足蹴にしながら、田中はそうしてヴァレンティンと向き合った。
共に既に剣は抜いている。
ヴァレンティンは『フェイゼン・トラッカー』をぎこちなく構えた。
一方で田中が手にしていたのは『エリス』ではなかった。
それは長い柄の先に反り返った灰色の刃が据えられている。
その薙刀型騎種は初めて彼が見せる偽剣だった。
──クォード『アマネ』
それは田中が“雨の街”で手に入れた聖女の剣だった。
それが、田中が異形との戦いにおいて、切り札として用意をしていたものだった。
仮にカーバンクルたちが援軍が来なかったら、これを投入することで生き延びるつもりだった。
瞬間彼は──フィジカル・ブラスターを起動させた。
空間を言語が走り、収束した幻想が刀身へと集まっていく。
しかし同じ名であっても、『イヴィーネイル2』のそれとはまったく趣が違っていた。
外へと放出するのではなく、使用者である田中自身を覆うように、高濃度の幻想が集まっていく。
水を思わせる透き通る幻想たちは、刻まれた物語に沿って、田中とヴァレンティンに“理想”の奇蹟を再現させた。
「なんだこれは、傷が、痛みが癒える……?」
「“理想”の奇蹟の再現だ。
お互い、少なくともこの場は、これで傷が癒える筈だ」
「あは! 言い訳のつかない真剣勝負って訳ね」
楽しそうに、そして露悪的にカーバンクルは声を上げた。
「さてさて、千載一遇の機会だぞ、ヴァレンティン君。
君はこれを逃げるというのか?」
「……まさか! そんなことを、拙者がする訳がなかろう」
「そうだ。でも、果たして君は胸を張って戦いに臨めるかな!」
「外野が何を言う!」
叫び立てるヴァレンティンを無視して、カーバンクルは突き放すように言った。
無理だね、と。
「6《ゼクス》の言う通り、君は自分の道に不真面目だった。
剣を選ぶのを怠った。腕を磨くのを怠った。挙句の果てに──闇討ちで妥協しようとしたんだ」
6《ゼクス》に二度も敗けた彼は、既に心が折れていたのだろう。
だから偽剣の性能を使った手段で、自身を誤魔化そうとした。
「そんな体たらくだから、君はこの千載一遇の舞台に胸を張って立つことができないんだ。
今更、一騎討ちにこだわるなんて、どの口で言える?
言えはしまい。君はもう最悪な形の妥協をしてしまった。
わかるかい? 運命的で万に一つもないような幸運を、君はなんとドブに捨てたんだ」
嘲笑うように言うカーバンクルに対し、ヴァレンティンは獣の叫びを持って返した。
威嚇的な叫びを、しかしカーバンクルは涼しい顔で受け流した。
「もういいさ、カーバンクル。
コイツのことなんて、理解したくもない」
それに対し、田中は静かに述べた。
『アマネ』を構えながら、まっすぐとヴァレンティンを見据えている。
「要は殺し合えばいいんだろ?
俺に勝てば、お前はまた取り戻せるんじゃないか?
自分の理想という奴を」
「ぐ──ぬぅ!」
ヴァレンティンは悔し気に顔をゆがめながら『フェイゼン・トラッカー』を構えた。
そして、一瞬の空白。
二人の視線が絡み合う。
聖女の歌が響き続ける中、彼らは──跳んだ。
「……俺はあの先輩よりは、最低でも強くないといけないらしい」
ぶうん、と田中は『アマネ』を振り払った。
同時にその背後では鮮血が飛び散っていた。
「だから勝つんだ」
それは、6《ゼクス》とヴァレンティンの二戦目の繰り返しだった。
一太刀で決着はついた。
ヴァレンティンは倒れ伏し、その身は呆気なく動かなくなった。
◇
「流石にもう逃がさないわ」
決着を見た瞬間、カーバンクルは『リヘリオン』によって跳躍をしていた。
その先では二戦目と同じく脱出装置によって、離脱を測ろうとしていたヴァレンティンの姿があった。
呼びかけられたヴァレンティンは、びくりとその肩を上げる。
「その機構、大した品だけど、こういう開けた場所で使っても、すぐバレるわね。
まぁ種の割れた手品なんて、こんなものよ」
大道芸の次は手品ね。
カーバンクルはそう淡々と語りつつ、漆黒の偽剣『リヘリオン』を構える。
ヴァレンティンは血走った眼で『フェイゼン・トラッカー』を構えようとする。
「その手品、辺りの幻想をある程度濃くないと使えないと見た」
が、それよりも早くカーバンクルは剣を振り放っていた。
漆黒の刀身が、瞬間的に燃え盛るような紅の色彩を灯した。
濁った血の色ではない。苛烈なる陽の色でもない。
その色彩は、美しくも気高く散っていく花々の色である。
「だから、まるごと焼き斬るわ」
その言葉と共に、彼女は剣を一閃した。
あたりの幻想はすべて炎へと変換され、瞬間的にすべてが焼き尽くされた。
刃はヴァレンティンを捕らえ、猛烈な業火にてその存在を消滅させていた。




