65_鳥の声
世界に貫かれる一つの普遍的な倫理観がある。
それは人間とは言葉を識るものである、ということである。
カタチでは人間を定義づけることができない。
妖精がいる。鬼がいる。霊鳥がいる。巨人がいる。
それ以外にもあまたの種族がいて、それぞれがこの社会に所属している。
であるからこそ、線引きとして選ばれたのは言葉であった。
たとえ喋れなくともいい。
こちらが投げかけた言葉に反応して、解することができるのであれば、それは人間である。
そして解さないものは総じて、異形あるいは異物と呼ばれる。
決して分かり合えない人間の敵、排斥されるべき存在である。
少なくともこの時代において、それは生きているとも死んでいるともされないモノであり、人間の絶対敵である。
その時、リューの身体が変貌する瞬間を、田中は見ていた。
前提として、まず間違いなく彼は死んでいた。
マルガリーテの『リリークィン0』──何故彼女がこんな聞き覚えのある銘の剣を持っているのかはわかならい──のフィジカルブラスター撃たれた。
生身でそのような一撃を喰らい、身体の半分をぶちまけたのだ。
その死は疑いようのないことだった。
だが、残った半分の肉が瞬く間に溶けていった。
カタチとしての輪郭を喪い、ドス黒く澱んだ想念へとその身を堕していく。
その光景を見たとき、田中は思い出していた。
“妖精とか霊鳥みたいな想念寄りの人間は、他者のイメージによってカタチを変えちゃうの。それぐらい、不安定。
でも、カタチを無理やり壊しちゃうと、その幻想が変質して、死体が異形になるって……”
それはここに至るまでの道中、4《フィア》から受けた警告であった。
ふと妖精に対して湧いた殺人衝動をいさめるように、彼女はそう言った。
妖精を不用意に傷つければ、彼らの死は異形として残るのだという。
そしてリュー自身が何度も述べていたように、霊鳥と妖精は近しい存在なのだ。
だから──死が災厄を引き起こす。
リューの死に際して現れたその現象を、田中はそう解釈していた。
「mabmait@iq:bsaaaaaaaaaaaaaaaa」
ぶくぶくと膨れ上がり、見上げるほどの巨躯へ変貌したリューの死体は悲鳴に似た、しかし決定的に違う雑音を響かせた。
聖女の清らかな歌は覆い隠させ、甲高く不愉快な音がその身を震わせる。
それは皮肉なことに、というべきか鳥に似ていた。
胴体こそ異様に膨れ上がってはいたが、広げられた真っ黒な翼にはリューの面影があるように思えた。
しかし、彼を感じることのできる部位はそこだけであった。
膨れ上がった胴体はぶよぶよと醜い肉が垂れ下がり、時節タールのような粘着性のある液体が潰した膿のごとくこぼれてくる。
脚は逆に異様なまでに細くなり、その表面はびっしりと鱗で覆われていた。
極めつけに、それには頭に当たる部分が存在しなかった。
代わりに、腕のようなものが、首から何十本も生えていた。
そう、それは人間の腕なのだ。
細い腕たちは、何かを求めるかのようにその掌を開いては閉じている。
知識に頼らずとも、それが敵であることは明らかであった。
それに言葉など通じはしまい。
決して受け入れられない異形として、リューの死体だったものはそこにいる。
「……霊鳥、そんな私」
その巨躯を見上げ、マルガリーテが愕然とした様子で呟いた。
自らが犯したミスに気付いたのだろう。
霊鳥は妖精と同じく不用意に傷つけてはいけないということを、彼女が知らないはずがなかった。
しかしそのうえで、彼女は殺してしまった。
「,soiogbs@nongow@bjg」
異形は、何の意味も雑音を響かせながら、嵐のような風を巻き起こす。
そこに意志などありはしまい。
遺されていた石造りの家も、かつての冒険者が捨てていったのであろう剣も、ほうぼうに生えていた雑草も、無差別にそれは破壊していく。
田中やマルガリーテ、そしてキョウもまたその破壊に巻き込まれる。
舞い上がる土と瓦礫の嵐。
田中は未だ痛み残る身に鞭を打ち、跳躍によって何とか距離を取る。
そうして破壊の風から引いたのち、朽ちた街がわずかに残していた生活の残り香は、呆気なく消えてしまっていた。
百年以上の間遺されていたものは、一瞬にして吹き飛ばされたのである。
その災厄の中心に立つ異形は、あまりにも巨大だった。
それを見上げながら、田中はどう動くべきかを思案していた。
「……うぅ」
見れば隣では同じく跳躍してきたらしいマルガリーテが蹲っていた。
彼女は痛みに耐えるように顔を歪めながら、膝をついている。
4《フィア》の拷問を受けていた彼女はもとより肉体的に限界だったのだろう。
加えて精神的にも、折れかけている。
当初の傲岸な様子からは信じられないほど、今の彼女は弱々しく見えた。
4《フィア》の姿は見えなかった。
破壊の風に巻き込まれていれば、その命が危うい。
何とかして探しておきたいが、しかし彼女は田中よりも一発多く閃光を喰らっている以上、傷も深いだろう。
となれば、少なくともこの場で戦力としては当てにできそうもなかった。
そしてキョウは──
「────」
無言で、異形を見上げていた。
この場で唯一傷らしい傷を負っていなかった彼女は、理性なき攻撃を難なく避けることに成功したようだ。
荒れ狂う暴風のさなか、キョウは瓦礫の上に立っている。
ばさばさと舞うその長い髪に隠れ、表情までは窺えなかった。
「……嘘か」
その姿を見て、田中は思わず声を漏らしてた。
……リューが死に向かう直前、彼は田中に対して言葉を遺していた。
マルガリーテとキョウが相対する中、彼は倒れていた田中の前まで飛んできていたのだ。
“さて、ロイ田中君。ここで一つ教えてあげよう。君が、自分自身に対して吐いた嘘を”
そしてそんなことを彼は言った。
対する田中は、閃光を受けた痛みに顔を歪めながらも返答した。
“嘘? 何の話だ?”
“君とキョウが再会した時、君の言葉を嘘だと断定しただろう。アレの話だ”
確かにそんなやり取りをしていちた。
キョウを殺したはずだ、という田中の言葉を、リューは意地悪く嘘だと指摘したのである。
“アレの意味を教えておこうと思ってね”
“何故だ、親切心はもう品切れだと言っただろう?”
“ふふふ、だからこれは親切じゃないということだ。
どちらかというと嫌がらせに近い”
そう言ってリューはどこか楽しそうに笑った。
何時もの落ち着きを払っていた彼の意外な様子に、田中は少々面を喰らっていた。
“君は明らかに嘘を吐いている。
だって君は、あの雨の街でキョウが生きていたことを、知っていただろう?”
“…………”
確かに田中はキョウを斬り捨てた。
しかしあの街は聖女のアマネの力の下にあった。
だから治癒されていくキョウのことを見逃すはずがない。
少なくともあの場に残っていたリューは、田中があえて彼女を見逃したことを知っているのだった。
“殺す必要がなかったからだ”
“そうか、じゃあ何故君は嘘を吐いた。キョウが生きていることに驚く振りなんかして”
“…………”
“君は聖女を殺すという目的と、食い違う行動をしてしまった自分に戸惑っているんだよ”
碧色の太陽を背に立つリューは、田中へと語り続ける。
“聖女を殺す。それ以外の想いはすべて切り捨てる。
そういう仮面を被ろうとしたがね、結局君は変わり切れていない。
そんなものだ。人は心のどこかに不純物を抱えている。
それを見て見ぬふりをして、影として封じ込める”
“だからどうした。今更道を変える気はない”
今この世界に生きている聖女をすべて狩る。
そのために今自分は戦っている。
その目的があるからこそ、田中は自分を田中だと思うことができる。
その想いに偽りはない筈だったが、しかしリューは最後にこんなことを言い残していった。
“さて、それが何時まで続くかな?
やはり君はまだまだ混ざりものだよ──ロイ田中君”
そしてリューは飛び去り、マルガリーテの前に立ち、そして命を落とした。
あのタイミングでそんなこと言ったということは、もしかすると彼は既に悟っていたのかもしれなかった。
自分がここで命を落とすことを。
「…………」
田中はしばし無言だった。
この異形の存在は、“聖女狩り”の目的にとっては、別に倒す必要のない敵だ。
ただの障害物に等しく、4《フィア》だけ救出したら、とっとと次のフロアを目指すべきかもしれない。
そう思いつつも、それはひどく気乗りしない選択肢のように思えた。
遠くで立つキョウの小さな姿を見ていると、より一層そう思えてしまった。
だから、田中は異形を討つべく跳躍していた。
一度だけ、苛立たし気に舌打ちをして。




