06_フラッシュバック
聖女にとって祈りとはすなわち呼吸のようなもので、力の行使に欠かせないことである。
手帳に記された文字を確認しながら、エリスは確信をもってそう言ってのけた。
「ここまでくれば大丈夫だと思う。城に入った異端審問官たちを狙って、フィジカルブラスターを発射できるはず」
そういって田中に笑いかけ、エリスはゆっくりと祈祷場の中心へと歩いていく。
その背中を田中は黙って見ている。そして入院服に身を包んだ少女の姿を幻視した。
「あ、ねえ、ロイ君」
そこでふと思い立ったようにエリスは立ち止った。
そして、振り返って彼女は両手を、ぱっ、と広げた。
すると、田中の手に紐でくくられた手帳が表れていた。
それはずっとエリスの首に掛けられていた手帳だった。
使い込まれたそれには、彼女の行動が逐一刻まれている。
「それは私の記憶そのもの。とぉぉぉぉぉてっても大事なもの!」
言いながら、エリスは少し顔を赤らめ、
「私が祈りをささげている間、読んでてもいいよ」
そう告げた。
「いいのか? だって、俺はまだ」
「いいの、なんでかわからないけど、ロイ君に読んでもらいたくなったの。
あとで返してね。あと感想もお願い!」
そう溌溂と言って、彼女は祈祷場の中心、幾多の文字が交差する場所へと座り込んだ。
田中は呆気に取られつつも、手に現れた手帳とエリスを交互に見てしまう。
「私はここで毎日、毎日、祈りをささげる。それが私であり、聖女エリスである」
エリスはそうして言葉を紡ぎ始めた。
穏やかによどみない口調だった。まるで物語の朗読役のように、彼女は語りだす。
田中がぱらり、と手に持った手帳をめくると、そこにもまた全く同じ文言が書かれていた。
「地には澄み渡る青、空には肥沃なる土。流れる時の中に、孤独なる城は立つ」
田中は――強烈な既視感にとらわれていた。
「あの現実の街を守るべく、私は虚構の空に立つ“さかしまの城”でたった一人で祈っている」
その言葉を聞いていると一つの情景が思い浮かんでくる。
子供が元気に走り回り、鳥が陽気に鳴き、妖精がささやく幻想的な街。
その頭上に、逆さに立った城がある。うっすらとしか見えないそこに、一人の聖女が立っている。
彼女は人を救っている。誰にも顧みられず、誰にも気づかれず、誰よりも人を救っている。
それは、あの病室で弥生の書いた物語を読んでいたのと同じ感覚だった。
それが意味することはわからない。
だが、田中の中で一つの考えが浮かんでいた。
だからやはり――彼女は弥生なのではないだろうか。
エリスは自らの記憶をこの本を読んで確認していると語った。
つまり、この本に書かれていないことは、すべて忘れてしまっていると考えてもいい。
彼女の容姿はどう見たって弥生そのものだ。
他人の空似を超えている。
だが彼女は弥生の名前を知らなかった。
でもそれは、ただ彼女が忘れてしまっているのだとしたら。
「私はエリス。それは記された言語を纏った時からの、名前」
エリスは祈りをささげている。
聖女としての彼女の力はこれまでも何度も見てきた。
そして、大きな力の発露には必ず記憶の欠損を伴うとも語った。
ではこういう可能性はないだろうか。
弥生もまた田中と同じくこの世界に転移した。
そこでどういう訳か、聖女の力を身に着けた。
しかしその力を使っていくうちに弥生としての記憶を喪ってしまった。
そしてもしかすると、現実の東京における弥生の消失の原因もまた、そこにある。
「ここはきっと――弥生が書いていた小説の世界」
弥生という名はこの手帳には書かれていない。
だからエリスの中には存在しないことになる。
しかし実際はどうかわからない。
1ページ目からして、すでにエリスはエリスとなっている。
だが、物語ではない、現実は1ページ目より前も存在しているはずなのだ。
「……この世界を知っているのは俺と弥生だけ」
そしてロイは昨夜見た悪夢。
弥生が弥生を刺すという異様な夢。あれがなんの意味も持たないとは思えない。
「私はエリス。エリス。エリス。エリスエリスエリス……」
所詮すべては予想に過ぎない。仮説に仮説を重ねた、希望的観測だ。
だけど、確かめなくてはいけないだろう。
エリスがもしかすると弥生なのかもしれない。
ここがどこなのか、帰ることはできるのか、なんのために呼ばれたのか
思うことは無数にあるが、それでもしばらくはエリスとともに過ごすべきだ。
彼女が弥生であるのならば――共にいなければ。
そのときだった。
尖塔の上に、影がゆらめいた。
ぼう、と曖昧な影は瞬く間に明確な形を得た。
それは仮面の男であった。
抜き身の剣を持った異端審問官である。
「お前はっ!」
外の階段で遭遇した奴だ。
その出現にロイの身体が思わず震えあがる。
しかしその恐怖をはねのけるべく、田中は声を張った。
何故このタイミングで、という想いが胸から湧き上がる。
異端審問官は塔の上から踏み出し、そして依然と同じく空間を跳躍してやってくる。
その剣はまっすぐにエリスへと向いており、田中は思わず叫びを上げていた。
「弥生!」
フラッシュバックする幼馴染の姿。
思わずその名を叫んだとき、田中の身体もまた動いていた。
エリスと異端審問官の剣の間に身体を挟み込む。一瞬でいいから、その剣を止めたかった。
そうして剣先が田中の身体へと吸い込まれ――
「何度も言わせるな。■■■■れるぞ」
――る直前、男の異端審問官が怒号を上げ、剣を止めていた。
「え」と田中の口から声が漏れる。その声は明らかに敵に向けるものではなかった。
まるでこちらを気遣うような色さえ含まれた声で、彼は田中の胸倉を掴んでこう言った。
「巻き込まれるぞ!」
と。
「本当に危険なものが何かぐらい、で己で考えろ」
その瞬間、背後から奇妙な光が漏れた。
祈祷場に刻まれていた言語が発光していた。
構築された式を伝って幻想が収束していく。
その中心にいるのは、ほかでもない、聖女エリスである。
「――ありがとう、ロイ君」
彼女は微笑みを浮かべていた。
碧の色の瞳が、妖しく光っている――




