51_フェアリイノート
踏みしめる地面は空そのもの、広がるは半透明の森。
あの方眼のフロアを抜けたキョウたちがやってきたのは、そのフロアであった。
「うーん、ここはあんまり来たことないですねぇ」
まるで空の上に立っているかような光景に、ぎょっとしたキョウであったが、それも最初だけ。
既に何度かこの“たまご”への立ち入っていた彼女にとって、中が異様な空間になっていること自体は慣れていた。
「しかし、歌は少し大きくなっている。若干だがな」
肩に乗ったリューはその黒い翼を広げて言う。
確かに響き渡る歌声は心なしか大きくなっているように思える。
目下のところ、その歌だけが自分たちが前に進んでいるかどうかを確かめる手段なのだった。
物理的なつながりというものがメチャクチャになっている“たまご”において、扉と扉のつながりも一対一ではない。
仮に今から先ほどの扉に引き返したとしても、方眼のフロアに戻ることができるかは怪しい。
こうした構造ゆえ、かつてここに挑んだ多くの冒険者たちは帰ることも叶わなかったのかもしれない。
キョウは“たまご”の外殻に立つおびただしい数の墓標のことを思い出していた。
「ふむふむ、なるほどなるほど」
と、空の中の森を進む最中、同行者のヨハンが立ち止り、誰かと会話を交わしている。
キョウは首を傾げつつ、足を止め、
「どうしたんですか?」
「いやいや、この娘が色々教えてくれるんですよ」
ヨハンはそこで柔和に笑って見せる。
そして彼が話していた相手に気づき、キョウは大きく目を見開いた。
それは妖精であった。
この世界において、特段に珍しい人間であるそれが、この森では多く舞っていた。
小さな翅を広げる彼女は、ニッコリと笑ってヨハンに耳打ちしている。
「i@ogagibhauo@gbllbxjo」
その言葉はキョウにもわからない言葉であった。
物質言語でも、音声言語でもなく彼女にも聞き取ることができない。
しかしヨハンは眼鏡を、くい、と上げて、
「なるほど、少し前にも来た。でも無視されて、厭だったと」
「io@abhonw0t8hs[0tbh[0i」
「それはそれは。でもね、世の中わかる人とわからない人がいるんです。
何事にもね、どうしようもない人というのがいる」
「in9! isgn! igadgtb!」
ヨハンが語ると妖精は、くるくると嬉しそうにその場で舞っている。
それを見たキョウが目を丸くしている。
「すごいです、ヨハンさん、妖精の言葉がわかるんですか?」
「え? ああ、まぁ、魔術師時代に趣味でやっていましてね」
「妖精符丁か」
笑うヨハンを前に、リューが低い声で漏らした。
「妖精符丁は厳密には言語ではない。
物質言語や音声言語など、特定の言語に乗せる形で付与するリズムだ」
「ええ、そうです。物知りなんですね、リューさん」
「君ほどではない。私は妖精どもとわざわざ言葉を交わそうとは思わないからな」
それきりリューは黙ってしまった。
霊鳥である彼は妖精と近いものである筈だが、どこか妖精を遠ざけるような口ぶりだった。
「kgabqbta[-obosogpbs[n09bnozpjbj[0sphi」
「あーなるほど。このフロアは割と意地が悪い、と」
一方のヨハンはそれからも妖精と言葉を交わしていた。
最初にいた妖精のほかにも、ぞろぞろと何人かの妖精が集まってくる。
ヨハンの言葉の方は伝わってくるのだが、妖精のささやきは理解できないキョウはぼうっとそれを見ることしかできなかった。
なので仕方なしに聖女の歌に耳を傾ける。
歌は外殻よりも鮮明に聞こえ、やはり聞くと心が落ち着いていく。
同じ歌がずっと続いているというのに、飽きるということも一切なかった。
この歌の噂を聞けば、あのロイ田中もこの“たまご”にやってくるはずだ。
その想いを胸に、彼女はここで彼を待ち構えていたのだ。
「まったく、早く来てくださいよう」
……ほんの少し前に田中たちがこの妖精の森を訪れていたことを、キョウは知る由もなかった。
「わかりました、ありがとうございます」
妖精と言葉を交わしたヨハンは、得心した様子で頷いた。
袖をまくり、手首に巻かれた鞘を露出させた。
「ええと、どうしたんですか?」
戸惑いつつキョウが問いかけると、ヨハンはにっこりと笑って言う。
その肩には二人の妖精がちょこんと座り込んでいる。
「どうやらね、このフロア、扉自体はたくさんあるんだが、正解のものは一つしかないらしい」
「正解?」
「ああ、そうだ。知らずにいると、進んだつもりでも中心には近づけない。
頭を使えばわかるんだ。言語の構成がおかしいって。
ま、僕は妖精さんたちのおかげで答えを教えてもらったようなものだけど」
言いながら彼はその手に偽剣を出現させていた。
肉厚の両刃の剣であり、ネイビーブルーの深い色合いが目を引く。
鞘の部分に二つの月の紋章が刻まれており、その鋳造元を示していた。
「その剣って、もしかして……とても高価なものじゃありません?」
またもびっくりした様子でキョウは尋ねていた。
「ああ『フェイゼン・トラッカー』か。こいつは次の売り出し製品だから非売品だよ。
僕がかかわった最後の一品になるのかな」
さらりと述べつつ、ヨハンはその偽剣を地面──青い空へと突き立てた。
途端、足元の空には剣身を中心に亀裂が入っていく。
「単純な仕掛けだが、こんな地面を壊そうとする人はまぁいないだろうね」
そうして空が割れた先に、ぼう、光る扉が見えていた。
「誰だって墜ちることは怖がるものだよ。勝手に墜ちるくせにね」




