05_記録と記憶
「ロイ君、ロイ君、うん、ちゃんと書いてある」
エリスは手帳の記述を満足げに読み上げていた。
そんな彼女を余所に田中は己の右腕を抑えた。
ついている。確かにそこには右腕があった。
不安になりつつも、親指から小指まで動かしてみる。
「……白昼夢だなんて、言うなよ」
ぼそりと田中は言った。
あたりを見渡すとそこには、ひときわ天井の高い場所だった。
長椅子が幾重にもつらなり、奥には朽ち果てた女神の像がある。
「ここは?」
「うん? チャペルだよ。この“さかしまの城”の!」
礼拝堂という単語を与えられていただけあって、どことなくキリスト教に通じる意匠だった。
とはいえ信じられているのが本当にあの大工の息子とは限らない。
宗教には大して詳しくもないが、天井に描かれている絵も有名どころのものではなさそうだ。
記憶をたどる。
自分たちはここを目指していた。あの狭い通路を通り、このチャペルを通って、その先にある主塔に入るはずだった。
だがその途中でまた別の異端審問官に遭遇した。
田中の記憶の連続性はそこで途切れている。
「エリスさん、何が……あったんだ?」
「ええとね」
尋ねるとエリスは困ったように目を泳がせた。
「あそこで異端審問官に襲われた。またエリスさんが助けてくれたのか?」
彼女は開かれた手帳に目を落とすも、
「ごめんなさい。載っていない」
そう答えるのみだった。
まるで忘れ物をしてきたかのような、ばつの悪い表情を浮かべて。
そこで、彼は察する。
エリスは本当に――何も覚えていないのだと。
その反応の薄さからして、おそらく彼女は異端審問官に襲われていることを“また”忘れている。
「エリスさん、もしかして記憶ができないのか?」
「あ、バレちゃった?」
苦笑しながらいう。
そして首から下げた手帳を大事そうに抱く。
「私の記憶はこれ。私にとって、聖女エリスにとって何も大事なことは全部ここに書いてあるの。
私、どうも力を使うと、思ってたこと全部忘れちゃうみたいだから」
田中はやはり、と納得していた。
ここまでの彼女の言動の、妙なつながりのなさもこれで納得が入った。
まず最初に女の異端審問官に襲われたときように、次に今しがた男の異端審問官に襲われたとき、どちらもエリスは状況を見失っていた。
おそらくそれは――力を使ったからだ。
聖女という存在がどんなものなのかはわからない。
しかし力には相応の対価が必要であることはわかる。それが彼女の短期的な記憶ということなのか。
そしてそれを補うために、彼女はメモ帳で記録を逐一取っている……
「ほら、ここに書いてあるでしょ」
そう言ってエリスは自分の手の甲を見せた。
そこに何やら文字が刻まれている。日本語ではなかったためロイには読むことができない。
「首から下げた本は私の記憶であり真実、大切なことは自分の身体に書いておくっ!
目覚めたときにまず目に入る位置にこれを書いておくの。そうすれば私の記憶は続くでしょ?」
田中は頭が痛くなりそうだった。わからないなりに状況を組み立てようとするが、仮説に仮説を乗っけるようなやり方にしかならない。
とにかく、まだ近くにあの異端審問官がいるかもしれない。
腕を見る。ちゃんとついているし、鮮血も流れてはいない。ご丁寧に学生服まで無傷だ。
とはいえロイはあのときの感覚を覚えている。激烈な痛みと、自身の身体が切り刻まれるショック。
あれは確かに現実の感覚だった。
「とにかく祈祷場に行けばいいんだろう?」
「え?」
「ここから上に行って、祈祷場とかいう場所にいけばいいって、エリスさんが、その、言ってたんだよ」
覚えていないかもしれないけど、と付け加えそうになって止めた。
エリスはすでに手帳のページをめくって、事態を確認していたからである。
「うん、そうみたいだっ。ロイ君と協力して行こうって、そう書いてある」
「じゃあ、さっさとな」
鬼門だっあの細長い道は、知らないうちに突破していた。
あの男の異端審問官がどこにいったのかはわからないが、いないうちにとにかく前に進んだ方がいい。
そう思って田中は立ち上がった。エリスもそれに倣う。
「うん、行こう!」そう快活に笑いながら、朽ちた礼拝堂を進むのだ。
その姿を見ていると――やはり弥生に似ている、という思いが田中の胸中に生まれる。
落ち着いてみれば違いがわかるかと思ったが、逆だ。
落ち着いてみればみるほど、その顔は弥生とうり二つのものなのだった。
「なあ、東京って知ってる?」
「うん?」
唐突な質問にエリスは戸惑ったように振り返る。
「東京? 知ってるよ。赤い塔の立つ、灰色の街でしょ? 物語にある」
それは先ほどやった問答だった。
やはり彼女は忘れているらしかった。
田中が“日本語”について話したことも、手を握って道を進んだことも。
「なんで俺がここに呼ばれたかってわかる?」
「え、わかんない」
彼女はあっさりと言ってのけた。
やはりか、と田中は思う。あのとき、エリスは何かを察していた様子だった。
しかし彼女はそれも忘れているのだろう。あの状況でメモができていたとは思えない。
チャペルの奥の階段から階段を上っていく。
蜘蛛の巣の張った扉の向こう側はじめっとしていて薄気味が悪い。
隠し通路のようなもの、とエリスは言っていた。あと少しで着く、とも。
とにかく自分のことは後回しだ、と田中は思っていた。
この世界のことについては、あの異端審問官とやらを排除してからゆっくりと聞くべきだ。
どうにも自分はかなり切迫した戦いの中に転移してしまったらしい。
となれば、一度それを切り抜けてから状況を確かめても遅くはない。
「第一祈祷場で、私はいつもお祈りをしてるのっ。あの街に向かって!」
楽しそうに彼女は言う。
その姿に悲痛な様子は一切なかった。
ただ田中は彼女の溌溂とした声を聴くと、少し胸が痛くなっていた。
「そうするとあの街に向かって幻想が放出され」
「街を守れるんだろう?」
エリスの言葉を引き継いで田中は言った。
「あ、さっき言ってた私」
「ああ、聞いたよ。それが聖女の役割だって」
「うんっ! それが私! 聖女エリス」
田中は何かを言おうと思ったが、言葉にならなかった。
そうして二人は階段を上り、主塔へと辿りついた。
そのだだっ広い床には奇妙な記号がびっしりと書かれており、隅ではいくつかの尖塔がまっすぐ伸びている。
そしてその先では、地面に張り付く街が一望できた。
「着いた。ここまでくれば――アイツらをみな殺しにできるよっ!」
満面の笑みを浮かべて、エリスはそう言うのだった。




