49_フェアリアン
扉をくぐり抜けた先は、空の上であった。
一歩踏み出した際、田中は思わず眉を動かしていた。
足元で、澄み渡る青と絡み合う雲の陰影が広がっていたからだ。
堕ちる──そう思ったときには、既に彼は空を踏みつけていた。
そこは空であるが、しかし堕ちることはない。確かにそこに地面がある。
奇妙な感覚だったが、歩くことに支障はなさそうだった。
「地面が透けて見えるみたいだね、この層」
4《フィア》は足元を見ながら言った。
その口調は取り乱している様子はなかった、珍しがってはいた。
高層タワーにありがちな、ガラス張りの地面のようなものなのだろうか。
「透けて見える、というより床に何も描写を被せてないのかもしれませんわね。
このフロアを創った人にとって、大事なのは頭上にあったのでしょうから」
マルガリーテはそう言って頭上に浮かぶ、太陽──のようなものを示した。
空の果てで碧色の淡い色彩を放つその光球から、聴く者を安堵させる美しい歌が響いてくる。
「あそこで聖女は歌い続けている、という訳か」
「無論、物理的に近づけはしないもの。象徴的なものでしょう。
近づくためには、このフロアのどこかに創られた扉を探さないと」
マルガリーテはそのままずんずんと先に言ってしまう。
その態度に田中と4《フィア》は一瞬顔を見合わせたのち、共にやれやれとその後ろに着いていった。
「さてさて、ここは“たまご”の低層に位置する森ですわ」
その言葉通り、辺りには木々が生えていた。
しかし当然というべきか、ただの木ではなかった。
地面は存在しないというのに、空そのものに根付く形で太い幹の木が生えている。
葉はその色濃い緑を存分に見せつけているのに対し、地面に近づくにつれ色は薄くなっていき、根に至っては絵画のような輪郭線だけが地面に埋まっている。
デタラメな造りだと思わざるを得ない。これではもうシュールレアリスムの域だ。
「見た目こそ奇抜ですが、別段妙な法則が働いている訳ではありません。
ただどこかにある扉を探せばいい。そんな森ですわ」
マルガリーテはニッコリと笑って言ってのける。
そこで田中の後ろに隠れるように立つ4《フィア》が口を開いた。
「そ、その扉はどこにあるの?」
「さぁ? どこかでしょう」
「案内してくれるんじゃないのか」
平坦な口調で問い詰めるも、マルガリーテは素知らぬ顔で、
「いえいえ、この森、物理的な構造はかなり曖昧なので、案内できないんですの。
でも大丈夫ですわ。逆にいえば適当に探してもなんとかなります」
堂々とそう言ってのけた。
田中は「そうかい」と短く言って、彼女を追い越して扉を探そうとした。
「ああ、この森、とても特殊な住人がいるんですの。
私も初めて来たとき、珍しくって驚いてしまいましたわ。まぁあまり好ましくはないのですが」
マルガリーテの言葉と同時に、田中の前に妙なものが躍り出た。
その小さな影を、始めは蝶かと思った。
掌ほどの大きさであり、燐光を纏った翅を広げ、くるりくるりと彼らは空を舞っていた。
「よ、よ、妖精?」
声を上げたのは4《フィア》であった。
彼女は前髪をかきわけ目をこすっている。余程珍しいものをみた、とでもいうように。
「ええ、私も驚きました。
地上の数十倍の高密度で幻想が舞っているこの“たまご”が居心地がいいのでしょうね。
ここを根城にしている妖精たちは結構多いらしいですわ」
「う、うん。そうなんだ……へえ」
驚きを隠さずに4《フィア》は現れた妖精たちを見ている。
一方で田中は自由に飛び回る妖精たちを見て、思わず鞘を抑えていた。
特に意味はない。意味はないが、ここでその衝動を我慢する必要もない。
「あ、殺さない方が良いよ、8《アハト》君」
その様子を見て4《フィア》が声を上げた。
「妖精って、物質よりも想念に近い存在だから、下手な殺し方だとヘンな死に方をするの」
その時、田中は思い出していた。
『物質と想念。その二つがこの世界を貫く大属性なの。
カタチあるものか、散逸する空想に依っているものなのか……』
かつて病院で聞いた言葉と重なるようにして、4《フィア》は捕捉するように説明してくれる。
「妖精とか霊鳥みたいな想念寄りの人間は、他者のイメージによってカタチを変えちゃうの。それぐらい、不安定。
でも、カタチを無理やり壊しちゃうと、その幻想が変質して、死体が異形になるって……」
「殺すと、面倒な怪物に成り下がるということか」
田中は微笑みながら空を舞う妖精たちを見た。
彼らは田中たちのことなど意にも介していない。
「ganboifan@bion」
「aoboa@ 9ono@ilda @n:soi」
「bo@nniao@biaos」
聞き取れない言葉で彼らは囁きあっている。
物質言語、日本語ではないそれを当然田中は聞き取ることができなかった。
「妖精は言葉を介す人間ですが、気難しく閉鎖的なので、今の時代にあっても固有の言語しか使いません。
全く、そんなのだから人々から忘れ去られ、存在としての輪郭も維持できなくなるのです。
まぁ、こちらが何もしなければ無害ですが……」
何故かマルガリーテは憤慨する様子で見ている。無視されるのが厭なのかもしれなかった。
それを余所に、4《フィア》は田中を見上げて口を開いた。
「でも、妖精を知らないって面白いね、ろ、ろ、ろ、ろ」
「ろ?」
突然呂律が回らなくなった4《フィア》に対し、田中は聴き返す。
彼女は頬を紅潮させて、言った
「ロイ君……って呼んでもいいかな」
そういえば先ほどマルガリーテには本名を告げていた。
それを4《フィア》もきいていたはずだった。
「……もちろん、別に問題はないが」
「よ、よかった。わ、私のことも、オドレイって呼んでも良いよ」
「オドレイ、オドレイ、なるほど了解した」
どうやらそれが4《フィア》の本当の名のようだった。
これは実際呼べということだろう。田中はそう解釈した。
しかし、4《フィア》はぶんぶんと頭を振って、
「あ、やっぱりダメ! オドレイ……さんって呼んで、一応、せ、せ、せ、先輩だから」
「そうか、オドレイさん」
顔を俯かせてしまった4《フィア》を短くそう呼び直した。
どことなく騒がしい雰囲気だ。そう思いながら、田中たちは森の中の探索を続けた。
そのさなか幾度となく妖精たちとすれ違ったが、その言葉のわからない田中たちは彼らと交流を取ることもなかった。
幸いマルガリーテの言葉通り、扉自体はさして時間もかからずに見つけることができた。
◇
同じ頃、カーバンクルと6《ゼクス》はまた別のフロアへと足を踏み入れていた。
青空の中心にて碧色の太陽が浮かんでいる。
石で出来た円状の闘技場においても、聖女の歌は響き渡っていた。
「ご丁寧に観客席まで創ってあるとはね」
6《ゼクス》はその造形を見ながら言った。
しかも四季女神の像が四方に祀られている。
このフロアを創った先人はきっと凝り性だったのだろう。
そんなことを彼は考えていた。
「でもまぁ法則もわかりやすいじゃない。
闘技場にはふさわしいわ」
カーバンクルが舞台に刻まれた言語を読み上げる。
そこにはこんなことが書かれている。
“一騎打ちの果てに、向かう先は別れる”
「ここで戦えば扉が現れるということね」
「ふむ、そういうことであれば、私が戦いましょうか!」
6《ゼクス》はそう声を張って、もう一人、この闘技場へとやってきていた剣士へと呼びかける。
彼は、鋭い眼光で6《ゼクス》たちを見返しながら言う。
「“教会”の手のものか。貴様たちも聖女の歌に釣られたと見える」
人狼の剣士、ヴァレンティンは獰猛な犬歯を見せつけながら、その偽剣を抜いていた。
「相手に取って、不足はなし。
この闘技場で、二度と拙者に敗けはない」
『ルーン・アサルト』。
月を舞台とした壮大なる叙事詩の剣をもってして、彼は異端審問官たる6《ゼクス》と相対した。




