43_“たまご”の大迷宮
私は透き通る空の上に立っている。
吹きすさぶ風は私の髪を軽やかにたなびかせる。
眼下に広がる雲海はわずかな汚れすらなく、まるで純白の絨毯のよう。
たまごのなか、両手いっぱいに空の青を抱えて、私は歌っている。
私が見つけた旋律。私がつづった詞。響き渡る私という存在。
でも伝えたかったのは、本当に些細なこと。
私はここで待っています。
そんな、どこまでも健やかなる想いと共に私は歌い続けていた。
ああ、ただ、実を言うと──
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◇
ヨハン・DD・ゲシュテンベルキシュトネーンは言葉というものが好きだった。
言葉とは、我々が異物ではなく、人間の一員であることを示す証であり、この世界を貫く大法則である。
ヨハンはその概念を識った時、自らが言葉というものを知ったことを感謝し、誇りに想った。
そして同時に疑問にも思った。
何故、この世界は言葉で語られているのだろうか、と。
おそらくは、それがヨハンの自我の目覚めであった。
最初にその疑問を抱いたのは、まだ子鬼ほどの背丈しかない頃だったのだから
“秋”の技術都市にてその生を受けたヨハンの幼少期は、魔術の万物理論たる物質言語を叩き込まれるところから始まった。
彼は魔術師の家計の家系であり、そうした英才教育を受けたのは当然のことでもあった。
遡れば王朝時代のジャベリン研の魔術師を先祖に持つヨハンが、その系譜に恥じない才覚を表すのにそう時間はかからなかった。
彼は歩くのと同じ速さで言葉を学び、言語を習熟した。
技術都市にて彼が就学でなく、研究を始めたのは齢にして九歳の頃であった。
穏やかな心根と少年らしい貪欲な好奇心を兼ね備えた彼を、都市の魔術師たちは歓迎した。
裏では嫉妬の声もあったのかもしれないが、彼の血筋には神童として生まれるに足るきちんとした説得力と、それに伴う権威があったからだろう、決して排斥されるということはなかった。
だからヨハンは言葉による知の世界にて、その才覚の翼をのびのびと広げることができた。
環境、才能、好奇心、すべてが揃った幸運の後押しにより、ヨハンは魔術師として異様なペースで成長したのだ。
だが、恵まれた者に得てしてありがちなこととして、彼は一つ壮大なる目標を持つことになる。
この荒廃した時代の中、技術都市の中枢魔術工房は魔術師により防護され安全を保たれている。
そこで魔術師が行っていることは、もっぱら各国家から要請されての兵器開発であった。
王朝崩壊の混乱を経て、独自での開発機関を設けることのできる勢力はそう多くなく、現在、新型兵器として世に出回るものの多くは彼らの手によるものだ。
各勢力に対して兵器を売買することで、中枢魔術工房はその中立性・閉鎖性を保つことができたのだ。
そしてこの時代において、兵器開発は実質的な偽剣の鋳造ということを意味する。
人間時代12世紀現在、神剣を造り上げる技術は既に喪われてひさしい。
神話時代の言語を発掘し、どう再現すればかつての技術を再現できるのかという観点で研究が進められていた。
こうした状況下において、しかし、ヨハンは新たなるものを創造することを目標として掲げることとなる。
神剣は濃密な幻想に溢れていた神話時代だから創造できた。
だから、新たに神剣を創造することは今となっては不可能に近い。
当然ヨハンにもそのことはわかっていた。だが、こうも思っていた。
神剣を一から創ろうとすること自体が、既に過去の焼きまわしなのである。
全く新しい概念、神剣でも偽剣でもない、完全なる新機軸の兵器ならば、今この世でも創造できるのではないか。
そうした発送を基にヨハンは、目標に向かって邁進していくことになる。
着想自体は十代の前半には得ていたものであったが、経歴のない段階では、反発を受けることもわかっていた。
そのため、既存の偽剣開発に従事しつつも、人知れず趣味としての研究を続けていた。
そうして二十歳になり、彼が高精度な模倣品を独力で造り上げることが可能になったと証明できた段階で、彼は中枢魔術工房を離脱することになる。
偽剣開発に無縁でいられない中枢魔術工房での研究に限界を感じたが故の行動だった。
とはいえ数年がかりでの根回しが効いた。
何度か遠征という名目で彼は地区を出ており、またその度に外部への関係強化の必要性を唱えてきたが結実した形になる。
摩擦がない訳でなかったが、彼はあくまで穏便に、自らを育て上げた揺りかごから出たのだった。
「……いや、そういう訳でね」
言語船に揺れながら、ヨハンは語っていた。
「僕は興味があるんですよ、あの聖女って娘たちに。
あの現象は神話時代の言語を受信したものとか言われてるじゃないですか。
その信憑性はともかくとして、あんなヘンテコな発狂の仕方は早々ない」
語られた男の方は、無言で彼のことを見つめていた。
鋭い眼光をした剣士である。
“夏”の意匠を多大に含んだ薄い布地の着物を羽織り、その手首にはこれ見よがしに鞘が巻かれている。
「ということで、僕はあの“たまご”に挑戦しようと思っているんですが、提案なんですが、僕の護衛になってくれませんかね?
ほら、貴方、見るからに強そうだから、それくらいできるんじゃないかと思って。
あ、もちろん渡すものは渡しますよ」
ヨハンの言葉を受け、男はその眼光を崩さぬまま、
「拙者の力が必要なほど、そちらも非力な存在とも思わないが」
するとヨハンは鳶色の髪をかきながら「いやぁ」と眼鏡を上げ、
「外注できるものは外注した方がいいじゃないですか?
あ、そういえば、人狼剣士さん、お名前は?」
「ヴァレンティン」
「そう! ヴァレンティンさん。どうです?」
どこか軽薄な態度を見せるヨハンに対し、ヴァレンティンと名乗った男は沈黙を保ったまま、銀色の毛並みを撫でた。
とそこで不意に、言語船の外から聞こえてくるものがあった。
それは、歌なのだった。
遠く離れてしまっているがゆえに歌詞こそ聞き取れないが、この空を反響するその歌声の美しさ、心地よさ、激しさは無二のものであった。
「ほら、聞こえてきましたよ。これが噂の、終わらない歌です」
船の窓を覗きながら、ヨハンはどこか楽しそうに言った。
「この歌、聖女が歌っているって噂があるんですよ。
僕が生まれる前から、あの“たまご”では歌が続いているんだとか。
半世紀近く同じ歌。飽きもしないんでしょうか」
「拙者はな」
ヨハンの言葉を遮るように、ヴァレンティンは口を開いた。
「聖女とやらの興味はない。ただ、あの“たまご”の方に用がある」
窓の向こう、真っ白な雲海が続く中、その白い球体は存在している。
濃い幻想の流れに押し上げられる形で、大地より抉り取られた地平が空に浮かび上がっている。
それらは引力を発生させる言語を核として集積し、いつしか球のような外観を形成するに至っていた。
何時かからか“たまご”と称されるようになったその秘境は、かつて冒険者たちがこぞって挑戦した迷宮であったという。
けれども、もはやそこは迷宮とは呼ばれはしない。
ずっとずっと昔、聖女がやってくるずっと前から、冒険者たちはその“たまご”に失望していた。
待ち受ける試練を退け、仲間の屍を乗り越え、それでも足を止めなかったその先に、それを労う財物など待ってはいない。
そう、わかってしまったから。
だから、そこは墓標なのだ。
数百年前より見放したその“たまご”の中では、かつて夢に敗れた冒険者たちの墓標だけが立っていて──




