04_東京語
「このお城はね、本当は存在しないの」
頭上に広がる街を見上げ、エリスは言った。
「ここはただの虚構の空。
私の役目はあの街に幻想を送り届けて、守ってあげることなんだっ」
その言葉は、もう何度も何度も口にしたかのように、よどみない口調で紡がれていた。
「それが聖女の役目、私、聖女エリスはそういう人」
ニッ、と笑って言って見せる。
空にはりついた“さかしまの城”。
田中は思わず息をついた。こんなものを見せられれば――そろそろ信用するしかない。
どうやら本当に、妙な世界に転移してしまった、と。
田中はそう確信をもって、エリスの手を引いた。
外壁に据えられた移動用の通路は細く、しかもところどころ欄干がひび割れていた。
気を抜けば“空に落ちる”なんて事態になりかねない。
「エリスさん、守るっていうのはどういうこと?」
「え?」
「さっき言っただろう? あの街を守っているって」
田中はエリスの手を引きながら声をかけた。
細長い一本道だ。行き先を単純で迷うことはない。
ただ壊れかけた欄干の向こうに、どこまでも広がるあわくも深い青い色彩がある。
それはどう見ても空なのだった。
代わりに頭上に目を向ければ、そこには地表に張り付いた街が見える。
「あれを守っているって、言っただろう。空にあるアレ」
「違うよ、空はこっち。地面はあっちほう」
「言葉の綾だ。気にしないでくれ」
あは、とエリスは笑った。
「なんてことないよ。私はこの城で祈りをささげる。
そうしたら私を通して出た幻想があの街を包み込んで、守ってくれる」
「いったい何から?」
「人間から、妖精から、鬼から、霊鳥から、巨人から、竜から、異形から」
すらすらと彼女は読み上げていく。
「私はあの人たちを守るのっ。それが聖女の役目だから」
「たった一人で、みんなのために城に残って祈りをささげる聖女、ね」
そういう物語が好きだった奴のことを田中は知っていた。
きっとおそらくその事実は、今の状況に無関係ではない。
ひゅう、と肌寒い風が吹いた。田中は思わず羽織っていた服の袖を抑える。
一方で隣を行くエリスは肩を露出させた軽装ながら、寒さなど一切感じないとでもいうようにあっけらかんとしていた。
「私も一個聞いていい?」
「なんだ?」
「ロイくんって、物質言語がペラペラだね」
「物質言語? 知らないな、それは」
田中は聞き返した。
「え? 今めちゃくちゃ話してるじゃない」
きょとんとした顔でエリスは言い、首から下げた手帳を、ずい、と田中に見せた。
そこには「今日の祈りもつつがなく進んだ。ただ城から見えるオーロラは記述にあるよりも濃くなっていてーー」と見覚えのある文字が記されていた。
「これが物質言語。私、聖女になってから超勉強したんだからねっ」
ひらがな、カタカナ、漢字で構成されたその文章は、非常に見覚えのあるものだった。
「日本語じゃないか」
「あは、物質言語を日本語なんて言う人、今時いないよ」
エリスは首をひねったのち、
「確かにこの言葉は、日本の東京から来たっていう勇者の言葉だけど――」
「待て、エリスさん。東京を知っているのか?」
ロイは言葉を遮って尋ねた。
「え、うん。赤い塔のある灰色の街だよね? 神話にある」
エリスが語るには、今から千年ほど前、空にある物質世界からやってきた青年が、四季女神と契約して世界を救ったのだという。
その彼の力の源は、話す言語にあった
言語、東京語で構築した魔術は非常に強力な力を持ったらしかった。
そうして魔術の水準は飛躍的に向上し、言語革命、というべき事態が起こったのだという。
以来、この世界において物質言語は魔術師や軍人を中心に習得されているのだ。
「俺からしたら、ただの母語だ」
こんな名前だけどな、と田中は付け加える。
父は確かに外国籍であるし、名前も妙なものであるが、彼は日本語しか扱うことができない。
思わず拳を握った。その事実を思うと、どうしても母の存在を思い出さざるを得ない。
「物質言語が母語って? そんな人いる?」
「ああ、そりゃ、俺は東京の調布に一人住まいだからね」
そう言うと、エリスは目を丸くした。
「えーと、もしかしてロイ君って東京人?」
「東京人って……まぁこんな名前だけど、日本人だよ」
もう一回田中は告げた。
彼にしてみれば単なる事実だったのだが、エリスにとっては何やら重大なことだったらしく、
「ええっ! 物質層からやってきたの?」
エリスの様子を見るに、やはりというか、現代日本からこの世界に来ることは珍しい事態だったようだ。
弥生の小説でも似たような場面を見たことがあった気がする。
「本当に、本当?」
「嘘は言わない」
少し投げやりな気分でそう言った。
話していて現実味とは正反対の、虚構味というものが感じられてきていた。
「……本当だとしたら、そう――」
エリスはそこで言葉を切った。
声のトーンが少し落ち、何やら考えるそぶりを見せた。
「私、たぶんわかるよ。なんでロイ君がこの城にやってきたのか」
「え?」
「それはね。たぶん――」
――と、そこでまたあの音がした。
剣と石がこすれる嫌な音。心臓の鼓動が高まり、会話はそこで途切れた。
はっ、として田中とエリスは顔を上げる。それは頭上から響いてきた。
「…………」
そこには見覚えのある仮面をかぶった、男がいた。
隅塔の上に立ち、吹きすさぶ風にカソックの裾が揺れている。
そして先の女と同様に――異様な刀身の剣を持っていた。
「もう一人いたのか!」
田中は声を上げた。そしてエリスの手を引いて駆け出す。
と、同時に背後から轟音が響いた。思わず振り向くと、土煙を巻き上げる仮面の男がいた。
「…………」
仮面の男――あれも異端審問官だろう――は数メートル上から飛び降りてきた。
田中は震える身を必死に抑えて走り出す。エリスもこのときばかりは溌溂とした表情を消し、焦りを顔に浮かべていた。
とにかくまた中へいくしかない。こんな直線で捕まれば逃げ場はない。
そう思った田中を嘲笑うかのように仮面の男は――前からやってきた。
追い抜かれた訳はない。ただ何時のまにか、奴は自分たちの前に跳躍してきたのである。
クソ、と田中は吐き捨てる。思えば女の方も似たような動きをしていた。
「エリスさん、また後ろに」
振り返ってそう言おうとしたが、遅かった。
田中の右腕が、跳ね飛んでいた。
「え」と呆けたような声が漏れた。気づけば彼の右腕は鮮血とともに宙を舞っていた。
「――気をつけろ」
仮面の男は――そんな言葉とともに、目にもとまらぬ速度で剣をふるっていた。
そしてその真っ黒な刀身は田中の腕を切断したらしい。頭の中の冷静な部分がそういっていた。
「■■■■れるぞ」
聞き取れない言葉。ショックのあまり遠のく意識。そして――
「いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
――叫びをあげるエリスの姿。
その叫びは光となって視界を埋め尽くす。そこで田中の意識は一度途切れた。
◇
ゆっくりと目を開けると、入院服を着こんだ弥生の姿があった。
彼女は心配そうに自分を覗き込んでいる。ほの暗い部屋の中で碧色の瞳が薄く光っていた。
田中は混乱する心地で、髪を右手でかき分けた。
そう、右手だった。その感覚に田中は異様なまでの安堵を感じていた。
「あ、目が覚めたんだね」
弥生はそう嬉しそうに言った。
「あなた――誰だっけ?」
そして次に続いたのはそんな言葉だった。
途端、入院服に身を包んだ弥生は消え、代わりに首から手帳を吊り下げた聖女、エリスが現れていた。
「何故かチャペルに一緒に倒れてたから、たぶん私と一緒にいたんだろうけど……」
が、そこで、はっ、と顔を上げ、エリスは手帳へと目をやった。
そこに書かれた文字を食い入るように見ている。その様子は、どこか焦点の定まっていないように見えた。
「えと、助けてくれたロイくんだっ!
それも意外と頼りになるって、書いてある!」
……本から顔を上げたエリスは、溌溂とした口調で言った。




