30_子供たち
実のところ──田中はその奇蹟のことを知っていた。
「第五聖女“理想”の奇蹟は、パッと見で治癒の力に見える。
触れるだけでみるみるうちに傷を治す、目に見えてわかりやすい奇蹟だ。
それ故に、過去の第五聖女もまた多くの仲間を作っていた」
アマネの部屋にて、カーバンクルは滔々と語ってくれた。
今この街の中心に居座っている聖女の力の正体と、その奇蹟の本質を。
「でも実際には“理想”の言葉通り、触れたものが最も望むありようにその身を変質させることにある。
聖女が語りかける言葉に従い、人は元の姿を捨てる。
仮に人間であることを捨て、鳥になりたいという“理想”を抱く者がいれば、その通りに姿を変えてくれるだろう」
聖女エリスの奇蹟が、彼女個人が抱いた虚構を現実とするものならば、
聖女アマネの奇蹟は、他の人間の虚構を実現するものなのだという。
「この奇蹟は基本的に直接触れる必要あるのだけど、
この第五聖女は雨を媒介とすることで、街全体を奇蹟を循環させている。
この街は彼女の力を最大限発揮するためにこの場所に造られていた」
こんな延々と雨が降る場所をわざわざ選んで街を創った理屈が、それだという。
「そして恐らくこの街に妙に子供が多いのも、警備の戦力一つ置いてないのも、要は聖女の力なのさ。
誰かを傷つける輩から、その傷を、生きている間に積み重ねた月日そのものを、すべて洗い流してしまう」
生きる限り傷は絶えない。
誰かを傷つけ、傷つけられ、そうして何とかギリギリで生きているのが、この虚構の世界の今だ。
そうして生きることに疲れた人間の“理想”は得てして──
「──すべてを忘れて笑う子供、という訳だ。
よく考えたものだ。これほど強力な奇蹟の発露のシステムを組むなんて、第五聖女史上初めての観測例ね」
そこでカーバンクルは少しだけ、声のトーンを変えた。
田中をの顔を覗き込み、まるで忠告するかのように言った。
「ロイ君。君は一体これからどうしたい? どうやって、この現実で生きていきたい?
その答え如何で、きっとこの奇蹟との向き合い方が変わると思うね」
◇
……だから、本当は田中は迷ってもいた。
このままアマネの奇蹟を受け入れてもいいのではないかと。
甘美なる光が雨を介して貫いてくことがわかる。
ざざざ──その心地よい調べに身を任せれば、きっともう、すべての傷を忘れてしまうことができるだろう。
弥生を喪ったことも、
エリスをこの手で突き刺したことも、
見知らぬ者たちを衝動のままに切り裂き、返り血に笑ったことも。
キョウの厚意を裏切ってしまったことも。
それは傷だった。
未だにその傷は断続的に彼を苦しめていた。
それを奇蹟によって、すべて消してしまうことは、一つの選択だろうとも思っていた。
「──何をバカなこと言ってるの」
最初に口を開いたのは、フュリアだった。
彼は目の前で弱々しき涙を浮かべる“父”と向かい合い、叫びをあげた。
「それが貴方の“理想”だって言うの? 父上」
彼女はうっとうしそうに雨を振り払った。
延々と降りしきる雨。しかしそれをすべて拒絶するかのように、彼女は叫びをあげた。
「私にとっての理想の父上は、そんなのじゃないっ!」
震える手でフュリアは乱暴に子供の、ゲオルクの肩を握りしめた。
明らかに彼女は怒りに震えていた。
許せない。そう言外ににじませながら、言葉を続ける。
「父上……父さんにとっては、本当は、それがよかったのかもしれないけど。
それは──父さんの理想であって、私の理想じゃないの。
私は乱暴で、粗暴で、そっけなくて、その実ひどく女々しい父さんが好きだったの!」
その言葉にゲオルクはどこかぼんやりとした様子で、フュリアを見上げていた。
「でも僕は……そんな僕が大っ嫌いだったんだ、本当は」
「その嫌いな自分のためにずっと頑張らせておいて、今更それ?」
「きっと、もっと良い生き方がお前には、お前たちにはあるだろう?」
「善人ぶらないで。そんなこと本当はどうでもいい癖に」
フュリアはそこで彼のことを抱きしめた。
強く強く抱きしめて、雨音に負けない大きな声で父に告げた。
「私の理想はね、一人じゃ実現できないの。
父上の娘になること、妻になること、お母さんになること。
それを実現するためにはね、邪魔なの──私の理想に、貴方の理想は邪魔なの!」
少年はそこで、泣いているのか、それとも悲しんでいるのか、奇妙な表情を浮かべた。
「そんな、我儘な……こと言うなよ。俺はもう、実は生きるのが厭になっているんだぜ」
「だからって子供に戻るとか、子供をなめてるの?」
「……ははっ、確かによく考えたら、俺に無垢だった時代とか、そもそもねえよな」
何時しか口調が少年のものではなくなっていた。
依然として姿は変わってはいない。先のようなグロテスクな成長は起きず、さりとて少年から姿が変わる訳でもない。
ただ彼にとっての“理想”が、揺らぎ始めているようだった。
「……ん、やっぱり。これでよかったんですね」
キョウはその光景を見て、そうこぼしていた。
「本当は迷っていたんです。
あの娘、フュリアのために、ゲオルクさんを助けていいのか。
きっとそれはまた、誰かを傷つける道だって」
彼女は既に雨を振り払っていた。目に迷いはなく、雨を弾くコートを纏い、その手に剣を握りしめている。
「でもやっぱりこれで良いんですよ。
……ちゃんと話した方がいいんです。どんな形であれ、親と子は」
「キョウ、君の方こそ大丈夫なのか?」
彼女の衣装から顔を出したリューが尋ねた。
「私なら大丈夫です。
だって……私にしてみれば、こうして生きている今が理想なんです。
つらくもあるけど、泣きたくもなるけど、でもリューがいて、なんなら今は隣にロイ君がいる。
それ以上に望むことって、実はあんまりないんです。私、想像力がないから……」
そう言ってキョウは笑っていた。
それはともすれば、とても寂しい笑い方のようにも、思えた。
「……“理想”を拒絶するというのですね。貴方たちは」
アマネは変わらず、平坦な口調でそう言った。
「それでは、ロイ様はどうでしょうか?」
「一緒だよ」
田中はゆっくりと顔を上げた。
彼は手首に巻いた鞘より『イヴィーネイル』を出現させ、その手に握りしめていた。
「俺、やっぱりまた会いたいらしいんだ」
正直なところ、最後の最後まで迷ってはいた。
ここでずっと過ごしてしまった方が楽だとも、わかってはいた。
でもそれでは、とても大切なものまでこぼしてしまうような気がした。
「弥生さんに、もう一度会って話さないと気が済まない。
一緒に創ったこの世界のことを話すんだ。二人でさ」
フュリアも言っていたことだ。
確かにこの街の住人たちは、それぞれ“理想”の姿を得ているのだろう。
それは多くは無垢なる子供の姿だし、もしかすると別の姿で街にとどまっている者もいたのかもしれない。
しかし本当の意味での“理想”を求めれば求めるほど、それは一人では、どうしようもなかった。
「……所詮は虚構だよ、こんな街は」
そう言い切った田中をアマネはじっと見ていた。
奇蹟を拒絶した者たちは、それぞれの面持ちで聖女と相対する。
そして──次の瞬間、アマネの身体が斬り裂かれていた。
「え」とキョウが声を漏らしていた。
飛び散る鮮血と、その向こうから現れた人間に気づいたからだろう。
「よく言ったわ、ロイ君。それでこそ8《アハト》の後継者だ。
それに残り二人も、よくもまぁ自分を保てたものだわ」
現れたカーバンクルは、はじめに会った時と同じく、剣の紋章が刻まれた仮面を被っていた。
異端審審問官“十一席”の1《アイン》。
“聖女狩り”の使徒として、彼女はアマネを斬り裂いていた。




