241_みんなのための物語
◇
ふう、と桜見弥生は息を吐き、その勢いのままベッドに倒れ込む。
疲れた。
そんなことを思いながら、彼女は白いベッドのなかで伸びをした。
病室の窓から見える新宿の街並みは、相変わらず灰色だった。
春を迎え、新たな生活・体制が始まった人間たちも多そうだが、自分はそのなかから弾かれている。
結局、彼女はまた進級できていなかったし、このあと、どうなるのかもわからない。
そんな立場に、桜見弥生はある。
「……まったく、厭になっちゃう」
そう苦笑しながら言いつつ、とはいえこういう時間があったからこそ──書き終えることもできたな、と思う。
ちら、と一瞥すると机の上には原稿用紙が散乱している。
それは、今の今までずっと彼女が書き続けてきた物語だった。
そこに書かれているのは一人の少年の物語である。
聖女と呼ばれた特殊な力を持つ少女を、少年が殺して回っていかなければならないという、血まみれな物語。
少し多くの人に見せるのには迷ってしまう内容で、まぁ、その、いろいろ鬱憤が溜まっていたのだと思う。
でも、書き始めてるうちに、落ち着いたのか、少しだけ前向きにもなった。
時間があるのだから、いくらでも小説が書ける。
それはきっと恵まれた立場なのだ。合法引きこもりである。
そんなネガティブなのかポジティブなのか曖昧な考えを抱きつつ、弥生はここ数か月小説を書き続けた。
書いて、書いて、書き続けてその結果として、ついに書きあがったのだった。
「本当に疲れた。全然プロット通りにはいかないし、主人公もなんか変わっちゃうし……」
一人彼女は書き上げた物語についてぼやく。
書くことができるのはうれしいが、それはそうと書くということは、つらく厳しい時もある。
何故こんなことをしないといけないのか──時おり、孤独と葛藤で手が止まりそうになった時もあった。
それでも──書き上げることができた。
その事実だけで、なんとなく感動的なものを抱いてしまう。
とはいえ、それで満足しちゃダメだ、と弥生は思う。
ちら、と彼女は病室の時計を確認する。
約束の時間はもうすぐ。
弥生がつらいと思いつつも書き上げることができたのは──読んでくれる人がいたからだった。
それは完成からここまで、ずっと読んでもらっていた、一人の幼馴染だ。
もしかすると彼のために、自分は物語を書いているのかもしれない。
そんなことを思う程度には、執筆の支えにはなってくれたと思う。
彼の、存在そのものが、である。
「…………」
彼のことを思うと、少し胸の動悸が早まり、頬が紅潮するのがわかる。
原因は、机の上に置かれた原稿たちである。
完成した今、弥生はこの小説はそれはもうスマッシュヒットな快作だと思っている。
しかしそれをいざ、読者に──幼馴染の彼に読ませることを思うと、どうにも緊張してしまう。
彼は、別にそう厳しい批評はしないが、ダメなところは案外ハッキリ言うのだ。
我が子の評価は何時だって気になるもの。弥生は母になった心地で散乱した原稿を見つめた。
──でも、どうしようかな。
緊張しつつも、弥生は考えていた。
果たして彼に読ませた後、この小説はどうしたものかな、と。
正直なところ、書いている間は彼に読ませて、面白い、と思われたらそれでいいと考えていた。
というかその先のことは考えていなかった。
だが──こうして完成してみると、少し迷う。
彼以外にも、読ませてしまった方がいいのではないか、と。
身を起こし原稿用紙を整えながら、弥生は少し迷い続けていた。
彼に見せてそれで終わり。
それでは──この物語が少しかわいそうではないかと。
「新人賞か、それか……ネットか。
──いや、その前に家族か」
母や妹の顔を浮かべながら、弥生は思う。
妹は案外ライトノベルを呼んでいたはずだし、母は母で職業柄こうしたクリエイティブな内容については茶化さずに真面目に向き合ってくれるはずだ。
彼らに見てもらうこと。
そんなことを、ぼんやりとだが、弥生は考え始めていた。
物語は、書き終えた。
だがじゃあ、次はどうしようか。
弥生は、自然とそんなことを考えはじめていた。
そう、書いている間はいろいろと目を背けていたが、考えないといけないことは無数にある。
将来のこと、今の環境をどうするか、どういう風に、この現実を生きていくか。
「……目の色が、変になっちゃったのもね」
言いながら、少しだけ笑う。
窓をみると、そこにはうっすらと自分の姿が映っている。
瞳の色が薄いグリーンに変わってしまった。
およそ理解できない現象、と医者は言っていたし、何かの病気じゃないかと少々怖い。
とはいえまぁ、見た目は割といいので、そこは結構気に入っている。
この色彩にインスパイアされて、小説に持ち込んだ要素も結構あったりする。
使えるものはとりあえず使わねえば。
「……あ」
そういうことを考えていると、外から足音が聞こえてくるのがわかった。
時間的には──もうそろそろ来てもいいころだった。
彼が、桜見弥生の大切な幼馴染が。
いろいろ、考えることはあった。
でも、まずはそうだな──彼に面白いといってもらえなきゃ。
弥生は少しだけ緊張しながら、扉が開かれるのを待った。
自ら書き上げた物語を、大切に握りしめ、どこか晴れ晴れとした笑みを浮かべながら。
……そうして、桜見弥生は自分の書いた小説を見せた。
その時の彼の反応をみて、ひとまずはこの物語が終わったことを感じていたのだ。
でも、それだけで終わるわけでもなくて──




