201_設定だけ
【14】
【待ち焦がれる彼女の物語:前編】
【感傷】
……湖は、静かだった。
そよ風が木の葉を撫でる。
歌うように揺れる木々の下、湖の水面には波紋が浮かんでは消えていく。
ボートに腰掛けたカーバンクルはその様子をぼんやりと眺めていた。
「あたたかい場所だね、まったく。
久々にこういうところに来た気がするぜ」
男性口調交じりでカーバンクルは言う。
彼女が立ち入った舞台はひどく穏やかで、それ故不思議な場所だった。
何も不思議な言語が働いているとか、そういうわけではない。
“冬”の風は乾いていて、何時だって命を奪うものだった。
だがこの湖に吹くそよ風は、命は運ぶもので、そんなものがこの時代にあること自体、カーバンクルには虚構に感じられてしまうのだった。
何なら先日までいた“東京”以上に。
「──それで、君が主人公なのかい?」
カーバンクルは不意にボートの同乗者へと呼びかけていた。
それは当然というべきか人形であった。
さんさんと降り注ぐ陽光の中で、大きな麦わら帽子を被っている。
「……ごめんなさい、うとうと、していました」
派手ではないが、品の良い衣装に身に纏った少女──を演じる人形は呼びかけられると同時に、動き出した。
帽子のつばから垣間見えるその顔は、あどけない少女でありながら、どこか疲弊した雰囲気を漂わせていた。
「ここ、何もないでしょう? ごめんなさい、わざわざ来ていただいたのに」
台本によって定められた個性に従い、人形εは喋り出す。
「いや、いいよ。むしろ私が無理を言って船まで出させてしまったんだから」
カーバンクルはこの少女のカタチをした人形が、そういうものであることを把握しているからこそ、話を合わせる。
そうして物語を進めることが、聖女へ行きつく最短経路となるのだ。
「いえ、私も、たまには何かしないといけませんから」
そういって人形εは微笑んだ。
柔らかな笑みの中に、どこか重苦しいものを滲ませた、絶妙な演技であった。
「君はなんでこんなところにいるんだい?
世界にはもっと楽しい場所だってあるだろうに。
わざわざこんな辺鄙な場所にさ」
「そう、ですね。
でも、私はここにいないといけないんです」
「と、いうと?」
ボートがほんの少しだけ揺れた。
ぐらいと視界の揺れる感覚は、酩酊にも似ていた。
「……待っていないといけないんです」
「待つ? 誰を」
「あの人を、私を救ってくれた、私を引き上げてくれたあの人に」
人形εは言った。
「これまでの百年も、これからの百年も、私は待たなくてはならないんです」
世界の果ての湖畔。
打ち捨てられた小さな小屋と、錆びついたボートの上。
ここは何もない場所。
決定的な嵐はすでに過ぎ去ってしまい、
残されたのは凪のような時が止まった静寂だけ。
そんな場所に、誰一人訪れる者はいないだろう。
そう、もはや誰も……
──そんな舞台であった。
カーバンクルは人形εに微笑みかける。
そういう台本だろうと、察したからだ。
「君はそれでいいのかい?
これからのすべてを、こんなところでただ待つだけに使うなんて」
「……いいんです。私には、この記憶が、思い出があるんですから」
この物語は、波乱万丈な冒険譚ではない。
もっとミクロな、小さな感傷の物語なのだろう。
世界の果ての湖で、もう戻ってはこない少女の物語。
時と共に薄れゆく記憶を抱えながら、ずっと彼女はここにいる、といったような。
「思い出があるから、生きていないといけないと思えるから、私は大丈夫なんです」
人形εは気丈にも笑うのだった。
それを見たカーバンクルは無言に彼女を見返してしまった。
彼女は言う。思い出があるから大丈夫なのだと。
それほど大切で、きらめきを持っているはずの思い出も──実のところ存在していないのだ。
少女を救った“あの人”とやらも、設定だけの存在だ。
与えられた台本に記された、舞台装置の一種に過ぎない。
あるいはこのあと登場するのかもしれないが、それはその瞬間生まれたというべきだろう。
この人形εはだから、ほんとうは存在しない人のことをずっと大切に想い、待ち続けているのだ。
「……そうかい、ま、頑張ってくれよ」
その事実に対し、カーバンクルはどうしても共感に似た想いを抱かずにはいられなかったが、あえてそれを前に出すことはしなかった。
あの聖女──よりにもよってフリーダを名乗った──への相対こそが、結局のところ、ここでは唯一にして最大の“現実”だったからだ。
それ以外のことは、些末な問題だろう。




