189_虚構都市“東京”
何度やってもすり抜けてしまう手。
ふんふん、とキョウは力を入れて触れようとするが、できない。
「うん? 私、想念になってません?」
「そうだよ。私も君もそう」
カーバンクルは呆れたように言った。
「どうやらあの時と同じみたいだ。
こちらの世界に転移してきた時と同じように、幻想の奔流によってこの層から弾かれようとしている」
空を見れば、花に包まれたもの──“虚構”のモノが、徐々に物質としてのカタチを喪っていった。
兵士たちも、異形も、言語船もすべてその結合が緩んでいる。
ああ──帰るのだ。
あのひどく、荒れ果てた世界。
カーバンクルにとっての“現実”へと、帰るしかない。
「と、いうわけで私と君の契約もここまでのようだ。
いや、微妙にまだ貸しがある気がするんで申し訳ない」
「え……?」
そのことを告げると、雪乃は当惑の声を漏らした。
彼女は目をぱちくりとさせたあと、カーバンクルを見て、キョウを見て、空を見て、田中を見た。
これでもうおしまい。
そう告げられたことが、まったく実感できないようだった。
「田中さん……も?」
そしてしばらく逡巡したのち、彼女は座り込んだ田中へと声をかけた。
田中は自虐的に笑って見せたのち、近くに転がる石を拾おうとして──すり抜けた。
「どうやら、俺はもう“虚構”の住人扱いらしいよ」
「何を言うのよ。ずっと前、あの時8《アハト》に“転生”してからずっとそうだろう?」
カーバンクルがそう告げると、彼は「それもそうだな」と言って立ち上がった。
「ずっとそうだったのに、忘れていた」
「ふふん、いや、むしろ私が実はこっち側に残るとか、そういう展開を期待してたのよ。
んで、偽剣の技術だけ残ってて、それを米軍あたりに売り込んで、一挙に権力を得るってわけ」
「そんなことしたら、すぐにこの世界もあっちと同じになるさ」
「うーん、そうかも……」
田中とカーバンクルの軽口を前に、雪乃はどこか呆然としているようだった。
「え、じゃあ──元に、戻っちゃうんですか?」
「さあ、そう簡単にはいかないと思うけど。結構な被害でしょう、これ」
「でも、でも、ダメです。これくらいじゃまだ駄目です。
たぶん戻ってきてしまいます! “現実”が、また、そのうち……」
雪乃は弱々しくそう漏らしたのち、田中へと迫っていった。
「ダメです! 行かないでください!」
「…………」
「ああ、いや違います!」
私を、私も連れていってください!」
そう叫びながら、彼女は田中の手を握ろうとする。
だが……無理だった。すでに物質としての属性を喪いつつあった田中の手を、雪乃は握ることができなかった。
「なんで! ずるい……ずるいです!
なんで貴方だけ、貴方だけ──こんな“現実”から逃げることが許されるの!」
「…………」
「私と貴方はだって──同じじゃないですか!
同じように、この世界が嫌で、同じようにここから出ようとしている。
いや、現に今だって、逃げようとしているじゃないですか!」
「……ああ、そうかもな」
田中はそこで雪乃に瞳を見た。
すでに触れ合うことはできなくとも、言葉を交わすことはまだできるようだったから。
「俺と君は確かに同じだったよ。
だからあの公園で、君は俺に色々話してくれたんだろう。
だから──たぶん、行ったところで一緒だよ」
「え……?」
「今はあちらの世界が、君にとっては“虚構”だろうさ。
だけどまぁ、あっちに行けば結局そこが“現実”になる。
逃げようがなんだろうが、同じだ。同じように、世界が待っている」」
「そんなの──」
「そんなの、だよ。現に俺はそうだった。
というか俺はあっちに行ったせいで、もっとひどいものと闘うことになった」
そう言って彼は肩をすくめた。
その様子はかつての8《アハト》と近いようでもあり、遠いようでもあった。
「だから、お互い、やっていこう。
たぶん上手くは行かないけど、何かの間違いで、いい未来に行きついてしまうかもしれないし」
そう言って彼は手を差し出した。
別れの挨拶、という訳らしかった。
「あ……」
差し出された手を、雪乃はしばらく戸惑ったように見ていた。
だが、その手が徐々にカタチを喪っていくことに気づくと──手に取ろうとした。
もちろん、つかみ取ることはできない。
だが重なった手は、握り返すように動いた。
「ありがとう。まぁその、三月とも仲良くしてあげてくれ。
昔、何が会ったのかは知らないけど、そんなに悪い奴じゃないから」
「……知ってます。みっちゃんは、私といつも遊んでくれたから。
でも昔──ひどいこと言っちゃって、そのことを謝る機会がないまま、別の学校に行っちゃって、それで、それで──」
「はは、大丈夫だ。アイツ、たぶんもうそれ忘れてるから」
「え……」
「何を言われたのか、たぶん忘れてるよ。
雪乃さんのこと、何にも悪く言ってなかった。
ただまた会いたいっていうだけだった。
ま、アイツの中だと、とっくの昔に解決してたのかもね」
告げられた雪乃は、ぽかんとした顔を浮かべている。
彼女の中でずっと引っかかっていた何かが、実はもう、過去のものになっていた。
そのことをうまく理解できないらしかった。
そうしているうちに、ふと、時間が訪れた。
幻想の花々が── 一斉に光を放出した。
視界が、まばゆい碧の色彩に塗りつぶされていく。
新宿が、東京の空が、クリスマス・イヴの装飾が、すべて溶けていく。
さよなら虚構の都市“東京”。
カーバンクルは心の中でそう告げた。
ここは暖かくて、闘いもなくても、それなりに良い場所に思えた。
しかしそんな世界でも嫌っている奴はたくさんいた。
だから実際住みだしたら、田中の言うようにつらい場所なのかもしれない。
──まぁだから、サイコロを振る気分でいられたんだけどね。
こちらに留まる偽よ、またあの世界に戻るにせよ、どう転がってもなるようにはなる。
それくらい彼女はこの一か月間、割り切っていられた。
昔の自分だったらこうはいかなかっただろう。
なんといっても、向こうの世界に残した大きな宿題があるのだから──
「やっぱり、ずるいですよ。田中さん。キョウさん。
そして、何より──カーバンクルさん」
最後にそんな声が聞こえた気がした。
「……私はもう会えないのに。
貴方は、ずっと……この人の隣にいられるんだから」
──ずっと、か。そう行けば、いいんだけどね。
……そうして、彼らは“現実”から去っていった。