187_希望の花々に結末を ⑦
……田中は、『ニケア』を握りしめていた。
血と光が舞う中、彼は太母へ剣を突き立てる感触が指先から伝わってきた。
これは──彼が自分の意志でやったことだ。
この手に握られているのは確かに『ニケア』だ。
しかし、それはあくまで剣に過ぎない。
剣を振るい、誰かを傷つけているのは、まぎれもない自分だった。
「……ねぇ、田中君。どうしたの?」
剣を突き立てられた太母は、ぎこちなく顔を上げ、問いかけてきた。
その口元には赤い血がこぼれている。
ただの剣ではなく、『ニケア』という最高の偽剣を突き立てられたのだ。
彼女の死は、もはや決定的であった。
「私を、殺しちゃったら、駄目じゃない。下の、世界が、“現実”が救われちゃうよ?」
「…………」
「嫌い、だったんじゃないの? あそこにいる人たちが、貴方は、ずっと、ずっと前から……」
「嫌いだよ」
太母の問いかけに、田中はついに応えることができた。
「あんな街、燃えてしまえ。なくなってしまえって、何度も思ったと思う。
たぶん、今でも好きになれたわけじゃない」
「なら、なんで……」
そこで田中は、ふふっ、とひどく自嘲的に笑ってみせた。
「なんでかなって自分でも思ってた。
でも、たぶんあれだな。あそこに俺がいたからだ」
「……え?」
彼ではない“ロイ田中”が、この下の街にはいた。
それと向き合った時は、何が自分で、何が自分でないかわからなくなった。
だが結局あれは──
「──たぶん、あれは確かに俺なんだろうよ。
ちゃんと他の人たちと向き合って、多くの偶然にも恵まれて、幸福にたどり着いた“ロイ田中”。
どうすればそんな風になれたのか、俺には見当もつかない。
でもアイツは頑張ったんだろう。俺にはできなかったことを、“ロイ田中”はちゃんとやってのけたんだ。
そういう──そういう“現実”もあったかもしれないんだ」
だから──ほんの少しだけ、守りたくなった。
全部燃やしてしまえ、なんて言えなくなった。
「今がうまく行かないからって、どうしようもなく見えるからって、全部終わりになんてしたくない。
あそこにはきっといるんだ。
俺と違って、苦しくてもちゃんと希望を抱いて、それぞれの生きている奴らがさ。
それを勝手にぶち破って終わりになんてさせたくはなかった」
ニケアのためではなかった。
自分が捨ててしまった“現実”のために、彼はこの剣を抜いたのだ。
そうだ──自分たちは利用し、利用される関係なのだから。
「ふ、ふふ──」
田中の言葉を聞いた太母は、乾いた笑い声を漏らしていた。
仮面に入った罅が大きくなっていく。
竜の仮面には亀裂が入り、ゆっくりと崩れていった。
「強いのね。貴方も、あのフュリアって小さな娘も──同じようなことを言っていたわ。
あの戦場で、こっちの世界に来ないかって勧誘してあげたのに」
“ここでないどこか。誰もかれもが殺し合う、こんなクソみたいな現実を捨てて、違う場所に行こうと思わない?”
太母は、言った。
そう小さな“子”に向かって手を差し出したのだと。
でも──彼女は拒絶したのだという。
「“何言ってんだアンタ。クソだろうとなんだろうと、私には父上がいる場所が結局私の現実になんだよ”って
ああ、本当──ニケアが気に入るのも、わかる、わ」
その言葉と同時に、仮面は崩れ去り、その向こうから太母の素顔が見えた。
桜見夕香とうり二つの外見をした彼女は、それまでの不敵な表情でなく──
「この剣、『ニケア』……でしょう」
「ああ、そうだよ」
「ふふふ……すぐわかったわ。こんなまっすぐないい剣は、あの娘ぐらいだろうって……」
──寂しさと、嬉しさが同居した、不思議な表情を浮かべたまま、彼女は倒れていった。
途端、ばらばらと花々が舞い上がっていく。
咲き誇る碧の花々が、太母の身体へと積み重なった。
その流れる血をぬぐい、穏やかな眠りを祝福するように──
「──救っちゃったなぁ……世界」