180_私だけのお兄ちゃん
光だ。
幻想が渦巻く新宿の街に吹き荒れる風を、一筋の閃光が切り裂いていた。
一筋の駆け抜ける言語が、混沌とした空を一閃している。
「────」
その光を、クリスは混濁する意識の中、見上げていた。
無理して聖別の力を使った反動だった。
手足がしびれ、身体は鉛のように重くなっている。
『ルゥン』はすでにカタチを喪い、視界もまたひどく不安定だった。
少しでも気を抜けば、完全に意識を手放すことになるだろう。
それでも彼女は、何かを求めるように空を仰いでいた。
「碧の──」
崩壊していく街。猛然と燃え上がる炎。
さまざまな悲劇が駆け巡る戦場において、迸るその色彩をクリスは覚えている。
「聖女様の、光」
……そう忘れるわけがないのだ。
それは■■■■■が死んだあの日、雪降る村の記憶において、唯一はっきりと覚えている光景だった。
あの時降臨した奇蹟の光は、今でも目蓋に焼き付いて離れていない。
「────」
その瞬間、彼女は聖女の姿を幻視した。
碧の色彩をまとい、戦場にて剣を振るう彼女が、クリスの目の前にいた。
あの時と同じ力強さに、彼女は自然と手を伸ばしていた。
「あ──」
──しかしそこに、ふっ、と別の光景が立ち現れていた。
力強い聖女の姿と加算るように、代わりに一人の少年がそこにはいた。
同じように碧の色彩を纏い、同じように剣を振るってはいる。
だが、その表情はまるで違うものだった。
翅広げる聖女と対称的に、その少年はひどく小さく、弱々しく見えた。
目元は赤く腫れており、涙こそ流れていないものの、しかし寧ろそれが必死にやせ我慢しているようにも見えて──
──その時、彼女は知らない自分を見た。
それは幼く、未だ自分で立つことすらままならない頃の自分だった。
まだ自分が誰かに守られていることに気づいていない。
安全で暖かい家の中だけが世界であり、無邪気に笑って、泣いて、眠っていた頃の自分。
もうずっと忘れていた。
そうだ。
確かに自分は、こんな家の中で生まれてたのだ。
お母さんと、お父さん。
そしてもう一人いる。
彼は両親が不在の間、彼女の守りを任されている。
彼は、よく彼女と遊んでくれた。
ある日は積み木のおもちゃを広げたし、剣に見立てて棒を振り回したこともある。
もちろんお伽話だって読んでくれた。具体的にどんな話だったかは思い出せないけれど、その時確かに自分は笑っていたように思う。
そして彼は──あの日だって。
「……手、手を」
クリスはどこか、誰かに向かってに手を伸ばしていた。
もはや重なる光景のどちらが現実で、どちらが過去なのか、うまく判別がつかない。
ただずっと胸の奥で堰き止められていた何かが、溢れ出ようとしている。
そうだ、確かにあの日──手を伸ばしたんだ。
雪降る街が炎に包まれたあの日、ずっと彼女はずっと泣いていた。
自分の足で歩くことのできない彼女は、何も理解できないまま泣きわめくことしかできなかった。
そんな彼女の手を──彼はずっと握っていたんだ。
──待ってて、絶対に、守るから。
誰かの声が、忘れていた過去の声がした。
──ここに隠れていれば大丈夫。あとは僕が闘うから安心して。
その声はかすれていたことを覚えている。
彼は煤にまみれていて、服だってボロボロ。額には玉のような汗が浮かんでいた。
でもそんな彼は、決して弱々しくは見えなかった。
むしろそう、あの時の聖女様と同じくらいに強く、頼もしかった。
その声が聞こえたから、あの日も安心していられた。
恐怖に心が歪むことなく、不安と飢えを苦しむことなく、聖女様を待っていられたのだ。
「──ごめんなさい、■■■■■。お兄ちゃんは、君を守ることができなかった」
過去と現在が入り乱れる視界の中、その少年はそう口にした。
その瞳からはずっと我慢していたであろう涙が流れていた。
本当に、寂しそうな表情を浮かべながら──
「あ、ああ──」
その時、クリスは声を上げていた。
──お兄ちゃん、と。
伸ばした手の先に、かつて確かにあったぬくもりの感触が、蘇っていた
まだ歩けなかったこの手を引いてくれた誰かがいた。
ずっと忘れていた。
当たり前すぎて思い出すことができなかったもの。
「違うの。確かにあの時、お兄ちゃんは私を守ってくれたの」
声を上げると同時に、少年がこちらを振り向いた。
その瞬間、少女は彼の名前を呼んだ。
それはこの十年の間、誰にも口にされたことない音だった。
もはや覚えているものは二人以外誰もいない。
少年はその名をもう使ってはいなかったし、少女はその名を頑なに拒絶していた。
だけど──忘れてはいなかった。
「ずっとずっと前、とっくの昔に! もうお兄ちゃんは私を守ってる!」
そうだ、彼がいたから、クリスとしてもう一度生まれることができた。
新たな名を手に入れてたからこそ、目を向けることができなかった思い出。
それを、彼女は今取り戻していた。
「だから、もうそんな顔しなくていいの。
お兄ちゃんはもう、十分、■■■■■を守ったん、だから」
「──君は」
聖女の色彩たる碧の奔流の中、少年と少女は言葉を交わしていた。
「君は──何?
僕は君がわからない。
何よりも大切だと頭の中で声がするのに、でも、わからないんです。
どんどん曖昧になっていく。僕にとって、君が、なんだったのか──」
「あ──」
彼は今、何を喪い、何を取り戻そうとしているのか。
自分は今、何を取り戻し、何を喪おうとしているのか。
「────」
光の中で突きつけられた現実に対し、彼女は精一杯の微笑みで返した。
「大丈夫。
もう、私に謝らなくていいから。
忘れちゃっても、大丈夫だよ。
だって私はもう一人で歩けるようになったから。
あなたが守ってくれたおかげで、大切な人たちと会うことができたから」
そう、微笑みだ。
苦しそうに、寂しそうな顔を浮かべる彼に対し、笑ってみせた。
「私も、あなたのことを許さなくていい。
そして憎まなくても、いいんだ」
たとえ涙で視界が覆われようとも──
「──さようなら、お兄ちゃん」
きっとその呼び方は、これ最後になるだろう。
そう思いながら、クリスティアーネ・ブランミッシェルは彼へ別れを告げた。
……最後に、少年もまた笑い返してくれたように思う。
あの時とは何もかも変わってしまったけど、でも、もう一度だけ──




