179_2~そして、生まれ変わる~
「……“犠牲”は僕が差し出します」
そう言って、ハイネは顔を上げた。
「道を切り開くために、必要なのでしょう? ならば、僕がそれを肩代わりします」
田中はしばし彼と向き合ったのち、
「“犠牲”の奇蹟のこと、説明する必要はないな」
「ええ。以前言ったでしょう。僕は前の代の第六聖女と交戦したことがある、と」
そう、聖女戦線にてハイネは確かにそう言っていた。
『アマネ』や『ミオ』の奇蹟はフィジカル・ブラスターとして開放するのに、何故『エリス』は使わないのか、と彼は問いかけてきた覚えがある。
……思えばその時から、彼は『エリス』の“犠牲”の奇蹟について、思うところがあったのかもしれなかった。
「貴方が顕現させた『エリス』を僕がふるう。
そうすればあの聖女の下に行けるでしょう」
「お前は、聖女の右腕だったんじゃないのか?」
「……そちらも、もう廃業ですよ。やる意味がなくなった」
そう言って彼は視線を下げた。
「安心してください。僕が後ろから貴方たちを討つなんで、そんなこともしません。
する意味が……もう、なくなってしまったから」
そう語る彼の表情には、深く刻まれた疲労と憔悴の色が見えた。
その平坦な言動は、感情を爆発させていたクリスとは対照的なものを感じさせる。
田中は一瞬背後を振り返った。
カーバンクルは少しだけ笑ったのち、「どうぞお好きに」と肩をすくめていった。
どこか投げやりな響きが含まれる言動であった。
田中はほんの一瞬逡巡したのち、鞘より抜いた『エリス』を渡していた。
「好きにしろ」
「……ありがとう、ございます」
ハイネはそう小さく礼を口にした。
それで、彼との会話は終わりだった。
田中としてはそれは、勝手に因縁に割り込んだことへの埋め合わせのようなものでもあったし、ハイネも、きっとこちらを助けようとしての行いではない。
互いが互いを利用しているだけだ。
ハイネに背中を向けた田中は、キョウへ「行こう」と告げた。
「……いいんですか?」
キョウは田中を見上げて問うた。
誰へ向けた、どういう意図の言葉だったのか、いかようにも取れる言葉だったが、田中は「いいんだ」と答えた。
そう言葉を聞いたキョウは、それ以上問いかけを重ねることはしなかった。
一つ、カーバンクルへ向けて「クリスさんをお願いします」といったのち、彼女はその白い翼を広げた。
そして、キョウは田中の手をつかみ取り──羽ばたいた。
途端、力強い浮遊感が田中の身を包んだ。
そして羽ばたく翼は、幻想に後押しされ── 一気に加速していった。
「本当はずっと、こうしたかったんです」
……地上が急激に遠ざかっていく中、最後にそんな声が聞こえた気がした。
◇
思えば、最初から全部気が付いていたのだろう。
あの時、生き残って、異端審問官になった時にはもう、諦めていた。
みんな死んでしまっただろうと、母も、父も、■■■■■も、すでにいないと思っていたのだ。
聖女戦線に赴いたのだって、感傷に過ぎなかった。
本当にかつての誰かが見つかるなんて、思ってもいなかったハズなのだ。
なのに──見つけてしまった。
戻ってきた戦場で、あるはずのない再会をしてしまった。
それは確かに奇蹟だったと思う。
だが、その奇蹟が起こったことと、それが本当に救いであったかは、また別の話なのだ。
もう、諦めていたはずなのに、希望を抱いてしまった。
はるかな昔に、どうしようもなく終わってしまった物語が、あたかもまだ続いているかのように、錯覚してしまった。
そのことを自覚していたにも関わらず、一度見えた希望を忘れることもできなかった。
「本当はずっと、こうしたかったんです」
東京は街は、いま猛然と風が吹いていた。
びゅうびゅうと音を立て吹き荒れる様は猛々しい。
空に鎮座する聖女の光を中心に、渦巻く風が幻想を東京へと押し付けている。
「──碧の光」
核たる聖女の光。
十年前にも見た色だった。ハイネがすべてを喪ったあの日、最後に見た光と全く同じ色をしている。
あの色が脳裏に焼き付いて離れなかったからこそ、彼はまたあの雪降る戦場に来てしまったのかもしれない。
諦めていたのに、希望を抱いてしまったのか──
「だから、その“希望”を、僕は“犠牲”にします」
後ろに立つカーバンクルに向けて、ハイネは告げた。
彼女がどんな顔をしているのか、ハイネにはわからなかった。
あの戦場で拾われてからここまでの闘いを、唯一すべて知る彼女は、果たしてハイネのことを愚かと笑っているのだろうか。
いや、きっとそれはないだろう。
寧ろ彼女が浮かべているとすれば、やはりこうなったか、という諦めに近い想いに違いない。
そうは思ったが、あえて彼は振り返りはしなかった。
間違っても優しい言葉でもかけられた時には──せっかくの決意が鈍ってしまいそうだったから。
“犠牲”の第六聖女の奇蹟。
己の中にある大切なもの、守りたいものを差し出すことで、それは行使される。
彼は倒れる少女を一瞥した。
目をつぶる彼女は、時折うなされるように声を漏らす。
駆け寄りたいと思った。今すぐにその身を助け起こしたかった。
だが、その役目は、もう自分には許されないのだ。
「……全部、全部、最初から間違っていたのは知っている。
とっくの昔に終わってしまったものに、往生際悪くしがみついていたことにも」
だけど──大切なものだった。
「これ以上ないほど、大切で、暖かくて、大事なものだった。
この想いを、記憶を、思い出を、僕が僕であったすべてを差し出す!」
その言葉と共に、ハイネは『エリス』の言語を稼働させる。
ぼう、と光が刀身へと灯った。
幾多もの物質言語が空間を走り、ハイネの身を包んでいく。
迸る光が視界をすべてを覆いつくしていく中、彼はかつて言うことができなかった言葉を口にした。
「──ごめんなさい、■■■■■。お兄ちゃんは、君を守ることができなかった」
……幻想は碧の光となり、“犠牲”の奇蹟が巻き起こった。